敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方

大坂の陣にて

大坂の陣にて

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慶長14(1619)年の大坂冬の陣では、真田信繁による「真田丸」の建設とそれを中心とした作戦により、豊臣方はかなり優勢に戦を進めました。
しかし、徳川方が放った大砲が大坂城に命中し多数の死者を出したことから、豊臣秀頼の母・淀殿(よどどの)などが震え上がり、講和が結ばれました。

しかしこれによって、大坂城は外堀を埋められ、まったくの丸裸となってしまったんです。

こうなれば、豊臣方の兵たちは城の外に出て真っ向から戦いを挑むしかなくなってしまいました。

そして、決戦の火蓋が切って落とされたのです。

道明寺(どうみょうじ)の戦いで、全登は後藤基次らに続く隊として出撃しましたが、ここで予想外の濃霧が、後藤以降の隊の進軍を阻みます。
行軍は遅れに遅れ、8時間も遅れてしまったと言われています。

後藤は、全登を含む味方の行軍が遅れ、自分が敵中に孤立したことを悟ると、ほぼ単隊で徳川方の大軍に挑み、戦死してしまいます。
全登らが戦場に着いた頃には、すでに戦況は決していましたが、全登は水野勝成(みずのかつなり)や伊達政宗などの隊と交戦し、相手に同士討ちを起こさせるなどして一矢報いました。

最後の戦いに挑み、家康の本陣を狙う

最後の戦いに挑み、家康の本陣を狙う

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後藤を失うなど痛手を負った豊臣方ですが、真田信繁などを中心に、天王寺・岡山の戦いに臨みます。
全登はそこで300名の決死隊を組織し、真田信繁と共に家康の本陣を狙うという作戦に参加しました。

しかし、そこで真田信繁が討ち取られてしまい作戦は頓挫。
あと少しで家康の首を狙えるところまでいったのですが、天は豊臣方には味方しなかったんです。

万策尽きたと悟った全登は、関ヶ原の戦いの時と同様、見事に敵の包囲網を突破します。

しかし、その後の彼の行方を知る者は、誰もいませんでした。

そして大坂城は落城し、豊臣秀頼や淀殿は自刃。
こうして豊臣家は滅び、戦国時代が本当に終結することとなったのでした。

全登の行方は?

おそらく、乱戦の中で全登は戦死したと考えるのが妥当かと思いますし、そうした見方も強いです。

しかし、大坂の陣で行方不明もしくは戦死した武将たちには、生存説も根強く残っている人物が多いんですよ。
首を取られたはずの真田信繁ですら、九州逃亡説があるほどですから…。

もちろん、行方不明の全登にも生存説があります。

真田信繁同様、九州に逃げたという説。
これは九州にキリスト教信仰が根付いていたためと考えられますね。
また、キリシタンだったからこそ、南蛮にまで逃亡したのではないかという説まであるんですよ。

もう少し現実的なのは、東北逃亡説です。

大坂の陣後、全登は伊達政宗に保護され、ついで津軽信枚(つがるのぶひら)の保護の元、弘前に匿われたとも言われています。

たしかに、上の両者は敗者を保護している実績があるんですよ。
伊達政宗の腹心・片倉重長は真田信繁の娘を保護し妻としていますし、息子もまた仙台藩士となり、仙台真田家は現在に至るまで続いています。

一方、津軽信枚もまた、石田三成の子供たちを保護しており、娘を妻としているんですよ。

東北の諸将はみな、敗者に好意的なんでしょうか。

となれば、全登の生存説も、少しは可能性があると考えていいのかもしれませんね。

全登の息子たちは、秋田県の大館(おおだて)市比内(ひない)町に隠れ住んだと言われています。
そのため、今でも明石一族という人々が住んでいるそうですよ。
元国連事務総長の明石康(あかしやすし)氏は、比内町の出身であり全登の末裔だとか。
名字が「明石」ですから、もしや…と思ってしまいますよね。







宇喜多家と共に歩み、その後は信仰のもとに突き進んだ全登

宇喜多家の家宰として、主のために尽くした全登。
結局、主君・秀家は捕らえられて八丈島に流刑となり、大名・宇喜多氏は絶えることとなってしまいました。
しかし、その後の彼が再び戦場に現れたのは、キリスト教を信じる強い心があったからなのでしょう。
勝てば豊臣家で取り立てられ、明石家のみならず宇喜多家も救うことができるかもしれない…そして、禁じられたキリスト教もまた許されるかもしれないという思いがあったのではないかと思います。
その行方はいまだ不明ですが、どこかに逃げ延びて信仰を持ち続けたまま生涯を全うしたのではないか…そう思いたくなりました。
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