古代ローマ軍も破壊できなかった「世界で最も美しい廃墟」!シリア砂漠に佇むパルミラの遺跡の歴史

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光を楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「パルミラの遺跡」をご紹介します。


シルクロードのオアシス都市パルミラ遺跡とは?

シルクロードのオアシス都市パルミラ遺跡とは?

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シリアの首都ダマスカスの北東約215kmのシリア砂漠の中にある、古代ローマ帝国の都市遺跡。
シリア砂漠の周囲は、50万本ものナツメヤシのオアシスに囲まれています。
古代ローマ時代に建てられた神殿や列柱群の跡は、現在も綺麗な形で残っています。
ここを見なければシリアに来た意味がないとまでされるほどの観光地です。
2015年5月に過激派「イスラム国」がパルミラの遺跡を制圧してから、10ヶ月でシリア政府軍が2016年3月27日に奪還したと発表しています。

丘に登り夕日に照らされ真っ赤に染まる遺跡の眺めは圧巻です。
ズバリ、パルミラの遺跡の素晴らしさは、ギリシャ、メソポタミア、ローマ、古代からこの地に根付いた文化の融合による独特な様式の建物を見られることだといわれています。
1980年に世界遺産として登録されたパルミラの遺跡の歴史に触れてみたいと思います。

パルミラ遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 パルミラ遺跡
住所 Palmyra, Syria.
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

パルミラ遺跡のスポットページ

世界有数規模を誇るパルミラ遺跡の始まり

このパルミラの遺跡は約7万5千年前の旧石器時代から起こったとの説もあります。
ムンタル山の洞窟に湧出する泉水により樹林が成長し、人々が住める場所だったことが要因と思われます。
また、ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発見された、紀元前18世紀頃の2万枚をこえる粘度板。
楔形文字で書かれた文章には、パルミラのかつての呼び名と思われる「タドゥミル」という名が記されています。

B.C.41年頃にはローマ軍マルクス・アントニウスが、独立国として存在したパルミラを征服しようとしましたが、パルミラの人々はローマ軍接近の知らせを聞き、ユーフラテス川の対岸に逃げのびたため失敗に終わりました。
これは、パルミラの人々が遊牧民のような暮らしをし、定住するような都市づくりは行われていなかったことを意味しています。
しかし、バルミラ商人たちはイタリア海域に船を持ち、インド産の絹貿易を支配していたようです。

砂漠に誕生したオアシス都市パルミラ

砂漠に誕生したオアシス都市パルミラ

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パルミラはアラブ半島やメソポタミア、地中海を結ぶ土地にありました。
古くから東西交易の中継点として栄え、シルクロードでも一番古い隊商都市といわれています。
特にB.C.1世紀~A.D.3世紀にかけては特に栄えていました。
パルミラの商人たちが築いた情報網は、イギリス、トルクメニスタン、バーレーンでもその痕跡が見つかっているのです。

B.C.1世紀末頃は絶大な勢力を誇るローマとパルティアが壮絶な争いを繰り広げていたことを利用していました。
パルミラは、時にはローマ帝国の属州となっています。
この頃にローマ様式の建築物が多く建設されました。
中継都市として繁栄していたペトラが2世紀にローマ帝国に併合され衰退。
通商権をパルミラが受け継ぎ独占しました。
この頃がパルミラの最盛期です。
129年にはローマ皇帝ハドリアヌス(在位117-138年)は視察巡幸の途中にパルミラに訪れました。
この街の魅力に取りつかれた皇帝は、パルミラに自由都市としての権利を与え、パルミラ・ハドリアナと改名させています。

パルミラがシルクロードの中継点として栄えた理由

パルミラがシルクロードの中継点として栄えた理由

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このパルミラは、シリア砂漠のちょうど中心地にあり、地理的にも砂漠を縦断するのに一番最短地点だったのです。
その上ヤシの林が広がり、水が湧き出すオアシスでした。
商人にとってこの砂漠地帯を縦断するのは生死を賭けた危険な旅でした。
ここには砂漠を守る神々を祀った神殿や疲れを癒すための浴場、つかの間の時を楽しむ円形劇場まで作られていました。
この旅人に愛されたオアシス都市は、ヨーロッパ、アラブ、ペルシア、インドなどを結ぶ要衝都市として発展し栄華を極めたのです。
この繁栄は2~3世紀後半まで続き、シルクロード上最古で最大規模の隊商都市となりました。

この旅人に愛されたオアシス都市は、ヨーロッパとアラブ、ペルシア、インドを結ぶ要衝都市として発展し栄華を極めたのです。
パルミラが発展した功績もあり、この時代の、香辛料、香水、象牙、絹、ガラス製品などの交易もスムーズに行われたのではないでしょうか。
それを考えると砂漠を渡ってくる旅人たちにとって、どれほどの存在価値があったかを感じられます。


パルミラ王国の始まり

パルミラ王国の始まり

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212年にサーサーン朝(ペルシア)が、力を失いつつあるパルティアをたびたび攻撃し、チグリス川やユーフラテス川の河口を占領すると、商人たちはパルミラ経由の交易を避けるようになります。
皇帝ウァレリアヌス(在位253-260年)がシリア総督にパルミラ人のオダエナトゥスを任命しました。
皇帝がサーサーン朝との戦いで虜囚となったままビシャプールでなくなりました。
オダエナトゥスは、復讐のためペルシア領内に遠征し2度侵略しました。

内乱や外部からの侵略に悩まされていたローマの東の守りを任されたオダエナトゥスは、パルミラから半独立状態になっていました。
267年に悲劇が訪れたのです。
彼は甥に宴席で暗殺されてしまいます。
そこで頭角を現したのが、自称クレオパトラの末裔と名のる女帝ゼノビアです。
息子のウァバッラトゥスを擁立して実権を握りました。

パルミラ王国の女帝ゼノビア

パルミラ王国の女帝ゼノビア

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ローマ帝国ではガリア帝国の分裂などで国内が混乱していました。
その合間を縫うように、ゼノビアはパルミラを拡大していきました。
膨大な富を背景に、シリア、エジプト、アナトリアまで入手し、息子に皇帝アウグストゥスと名のらせるほど権力を広げました。
ここで終わればよかったものの、野心に駆られたゼノビアはローマ帝国にまで反旗を翻したのです。

272年にパルミラ軍は東方地方の城奪回に乗り出しました。
皇帝アウレリアヌスは、アラマンニ族やゴート族を破って北方のゲルマニア人の侵入を食い止めた後パルミラ奪還のため群を率いて親征。
パルミラ軍との2度の戦いに勝利し、ゼノビアはパルミラへ敗走。
息子は戦死してしまいます。
ろう城戦が長引きゼノビアはペルシアへ逃げるも捕えられ、町は徹底的に破壊されてしまいました。

交易により栄えたパルミラ王国の滅亡

後に再建されますが、ゼノビアがいなくなったパルミラは衰退の一途を辿ります。
この再建により、新たに建てられたのは教会のみでした。
5世紀には丘の上に砦が建設されています。
634年頃から次々に押し寄せるアラブ軍に占領され、アラブの支配下にくだります。
800年ごろから残った市民もパルミラを見捨てて立ち去りました。
1089年には大地震にあい廃墟と化してしまいました。

1751年には、イギリス探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年には報告書を出版。
この遺跡の発見は、ローマ建築の研究やヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えています。
現在は、ホムス県に属し、遺跡の隣には人口5万6千人のタドモルの街があります。

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