オルホン渓谷の文化的景観の歴史をやさしく解説!

古くから中央ユーラシアに暮らした遊牧民族にとって、現在はモンゴル中央部となっているオルホン渓谷は重要な場所でした。ここを中心に活動した国は多く、その中にはチンギス・ハーンのモンゴル帝国もありました。彼らがオルホン渓谷に残した遺跡と、それらに関する国々の歴史についてご紹介しましょう。

平原の王者の象徴、オルホン渓谷

平原の王者の象徴、オルホン渓谷

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モンゴルのほぼ中央部、首都ウランバートルの西に約360㎞(車で6時間ほど)のところに、オルホン渓谷があります。
モンゴルで一番長い川、オルホン川の両岸に広がるこの渓谷は、流域に古代遺跡や碑文などの遊牧民の伝統が2000年以上にわたって残されており、このために「オルホン渓谷の文化的景観」として世界遺産に登録されました。

 

オルホン渓谷のある平原を統べることは、遊牧民族にとって王者の象徴でした。

これは、アジア北方の遊牧民族に広まるテングリ(天上界)信仰で神聖視されたウテュケン山がここにあり、王はこの山から力を得て民族を統率する力を与えられていると考えられていたためです。

 

1889年にオルホン河畔で発見されたオルホン碑文は、8世紀、突厥という遊牧騎馬民族の王ビルゲ・カガンを称えたものです。
彼もまたオルホン渓谷を統べた王でした。

オルホン碑文には単なる歴史を伝えるという価値以外に重要な意味がありました。
それは、これが突厥文字という彼ら独自の文字と漢字とで併記されていたことです。
すなわち、それまでわからなかった突厥文字を解読することにつながったのでした。
5世紀に登場した突厥文字は、遊牧系最古の文字だったのです。

数々の遊牧民族の足跡

数々の遊牧民族の足跡

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カル・バルガス遺跡はモンゴル語で「黒き都市/廃墟の都市」という意味で、8世紀のウイグル・カガン国のオルド・バリクの遺構です。
オルド=王(カガン)の宮殿、バリク=都城という意味があります。
ここにはその名の通り宮殿や商店、寺院の遺構があります。

当時の繁栄が偲ばれますが、ここは13世紀にはすでに廃墟だったとされています。

それは、13世紀の歴史家アラー・ウッディーン・ジュヴァイニーの「世界征服の歴史」の中で、“オルホン河畔の都市と宮殿の遺構があり、かつてオルド・バリクと呼んだが、今はマウ・バリク(悪い不幸な都市)と呼んでいる”と触れられているためです。

興亡が激しい遊牧民族の世界であったことがわかりますね。

さて、突厥についてですが、彼らは6世紀にユーラシア中央に存在したテュルク景遊牧民族国家です。
元々は同じく遊牧民族国家の柔然に従っていましたが、独立して突厥可汗国を築きました。
突厥は大規模な部族連合だったため、その勢力範囲は広く、帝国とまで呼ばれました。

しかし7世紀には東西に分裂します。
オルホン碑文のビルゲ・カガンは東突厥の王で、国情を安定させ唐とも外交した名君でした。
しかしその死後は国が乱れ、滅亡します。

西突厥はのちにウイグル(ウイグル・カガン国)に臣従します。
このウイグルのブグ・カガンによってオルド・バリクが築かれたのです。

モンゴル帝国のかつての首都・カラコルム遺跡

モンゴル帝国のかつての首都・カラコルム遺跡

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オルホン渓谷に残る遺跡の中で、最も大規模かつ有名なものは、カラコルム遺跡です。
カラコルムという都市自体は今でもハラホリンという名で残っていますが、カラコルム遺跡とはモンゴル帝国時代のものを指します。
カラコルムには「黒い砂礫」という意味があり、これは濡れるとより黒っぽくなる玄武岩や安山岩などの石が多いためです。
一説には「カラコルム山」という黒い石が採れる山があったとされています。

 

カラコルムは13~14世紀にモンゴル帝国の首都が置かれました。
始まりは、チンギス・ハーンが兵站基地を造ったことからだそうです。
1235年に2代オゴデイ・ハーンが宮殿と城壁を造って帝国の首都としての様相を整えました。
帝国の侵攻によって人の往来が活発になり、モンゴル人・中国人・イスラム教徒・ヨーロッパ人など様々な人たちが住んでいました。
しかし14世紀にモンゴル帝国が消滅に向かうと、カラコルムも荒廃していきます。

オゴデイ・ハーンが建てた宮殿のそばには、亀趺という亀のような形をした大きな石があります。
亀趺とは中国の伝説上の生き物で、石碑の土台として用いられました。

また、ここにはエルデニ・ゾー寺院というモンゴル最古のチベット仏教の寺院があります。
1585年にアブタイ・サイン・ハーンが建てたもので、カラコルムの建材を利用していました。
カラコルムの荒廃はこのためではないかとも言われています。

108の白い仏塔が400m四方の城壁に沿って並び、 境内にはさらに巨大な仏塔ソボルガン塔があります。

中国様式の伽藍もあり、ゴルバンゾーと呼ばれています。
ここには年代の異なる仏像があり、それぞれ表情や様式が異なります。
また、ラブランゾーでは子供の修行僧が今でも学んでおり、姿を見かけることがあります。

日本人として誇らしい気持ちになるのが、これらの遺跡の近くにあるハラホリン博物館です。
日本の協力によって開館した博物館で、カラコルムからの出土品や推定復元模型などが展示されており、より当時の姿に近づくことができますよ。

大陸の覇者となったモンゴル帝国

大陸の覇者となったモンゴル帝国

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オルホン渓谷の歴史を語るうえで絶対に外せないのが、モンゴル帝国です。

1206年、チンギス・ハーンが創設した遊牧民族国家ですが、その機動力を生かして領土を拡大していきました。
東は東欧やトルコ、南はアフガニスタン。
西は中国や朝鮮半島までを支配し、ユーラシア大陸の大部分を統べる大帝国となったのです。
モンゴル帝国は皇帝(大ハーン)を中心に、一族が支配する国(ウルス)が集まって形成されていました。

カラコルムに首都を造ったオゴデイ・ハーンの時にポーランドへ侵攻し、ワールシュタットの戦いでは神聖ローマ帝国やテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団まで動員された連合軍相手に大勝利を収めています。
その強さは、「ワールシュタット=死体の山」という戦いの名からも推測できます。
それほど、当時のモンゴル帝国の強さはすさまじいものだったのですね。
しかし、こうしてモンゴル帝国がヨーロッパまで到達したことで、人や物の行き来は活発になったのです。

1264年、5代フビライ・ハーンが国号を「元」とします。
この時に日本に2度攻めてきており、これが日本では「元寇」と呼ばれていますね。
モンゴル帝国(元)が侵略できずに完全退却した、数少ない戦いです。

しかし14世紀になると内紛が絶えなくなります。
それが社会不安を誘発し、やがて元は滅亡し、ウルスの連合だった帝国は徐々に解体へと向かうのです。

一時は広大な版図を持ったモンゴル帝国ですが、弱体化はあっという間でした。







世界中に散らばったチンギス・ハーンの遺伝子

世界中に散らばったチンギス・ハーンの遺伝子

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2004年、オックスフォード大学の遺伝学研究チームは、チンギス・ハーンが世界一たくさんの遺伝子を残した人物だと発表しました。

これは、チンギス・ハーンの子孫たちがユーラシア大陸中を統べる中でその土地の人々と結婚したことで、さらにその血統が広がっていったためだそうです。

世界で3200万人が彼の遺伝子を受け継いでいるという説もあるほどですよ。

もしかしたら、私たちもそのひとりかもしれませんね。

いかがでしたか?

一度、世界地図でモンゴル帝国が支配した地域を見てみて下さい。
その広さには驚かされますよ。
これだけの力を持った民族がよりどころとしたオルホン渓谷には、すごいパワーが秘められているのかもしれません。
こればかりは、訪れてみないと実感できないのかもしれませんね。
行ってみたいものです。

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