戦争が造ったポーランドの負の遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ」の歴史

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光を楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチスドイツ強制絶滅収容所」をご紹介します。






アウシュヴィッツ強制収容所とは

アウシュヴィッツ強制収容所とは

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ポーランドの南部にある小さな町「オシフィエンチム」(ドイツ名:アウシュヴィッツ)に、ユダヤ人を絶滅させるために造った施設。
一度収容されたら戻ってくる人はいないといわれ、ほとんどの人が亡くなった強制収容所です。
アウシュヴィッツという、暗い歴史はここから始まりました。
最終的には3つの大規模な強制収容所が造られ、28民族の約140万人を超える人々が命を落としています。

ここに連れてこられた人々は「労働は自由への道」という言葉と共に強制的に連れてこられました。
逆にその過酷さゆえに3ヶ月も持たずに死んで行く人、ガス室などに送られ即殺される人など長く生きる人はほとんどいません。
過酷な労働だけでなく、食事はほんの少量、暴力は横行という恐ろしい場所でした。
少しでも収容者が支配者に抵抗すると、第一強制収容所にある「死の壁」の前で銃殺されたのです。
死者の数は約1万人ともいわれ、殺されたポーランドの人々は「ポーランド万歳!」と叫んで死んでいったといわれています。

この遺産は1979年に世界遺産に登録されました。
日本では「負の世界遺産」に分類されることも多いようです。

アウシュヴィッツ・ビルケナウの始まり

アウシュヴィッツ・ビルケナウの始まり

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第二次世界大戦が始まりポーランドがナチス・ドイツの支配下におかれた、1940年にアウシュヴィッツが造られました。
反ナチス運動に参加した政治犯であるポーランド人を収容することが主なこの施設の役割です。
第一収容所がいっぱいになったことで、ビルケナウ強制収容所は3km先のブジェジンカ村に第二収容所として、1941年10月に増設されています。
1942年には第三収容所がモノビッツ村に造られました。
この頃ワルシャワには、最大規模のゲットー(ユダヤ人隔離地域)が造られています。

この施設に連れてこられた人々は、ピーク時には9万人にも及んだのです。
9割がユダヤ人。
その他にはポーランド人、ロマ(ジプシー)、コミュニスト、反ナチス活動家、同性愛者などでした。
収容所の入口には看板があり、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれています。
でも、ここで行われた現実は悲しいことに大量虐殺でした。
なぜ、ナチス・ドイツはここまで酷いことを彼らにしなければならなかったのでしょう?現在でも、難民生活を送らざるを得ないシリアの人々、テロによる殺人、日本でも人が殺されたという報道が連日なされています。
なんだか言葉にならないやるせなさを感じました。

強制収容所に連れてこられた人々の最初の洗礼

強制収容所に連れてこられた人々の最初の洗礼

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列車に乗せられ死の門を潜った人々は、生死を分けるプラットホームに到着します。
到着するまでに亡くなる人がいるほど過酷な旅でした。
人々が列車を降りた途端、怒鳴り声と暴力と悲鳴が鳴り響くのです。
まず、必死の思いでかき集め、ここまで持ってきた全財産や荷物を全て奪われました。

男女、子供がいる人などを選別。
年齢や身体検査、その人たちの経歴などから強制労働に耐えられる人物かどうかという選別がされるのです。
働ける者は左、働けない者は右と分けられ、それぞれのトラックに乗せられます。
もちろん右のトラックに乗せられた人々はガス室などで殺されるという現実が待っていました。
ここでは、強制労働収容所行きと処刑所行きに分けられたのです。

左のトラックに乗せられた人々は即死を免れましたが、名前の代わりにナンバーをつけられ、ここから、人間としての扱いではなくなるのです。
髪の毛や髭が剃られ、左前椀部には登録番号が彫られました。
それから、シラミ除けの殺虫剤が吹きつけられたのです。

収容所での暮らしはどんなもの?

収容所での暮らしはどんなもの?

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到着した時のみシャワーが与えられ、大量の冷たい水で体を綺麗にされました。
薄い生地で縞模様のシャツとズボンと靴。
女性には作業着と靴が支給されました。
しかし、寒さをしのぐためのコートはありません。
トイレも穴があけられた集団トイレのみ。
衛生状態は劣悪で、人が住むような環境ではありませんでした。
このような場所で暮らすのだから、人々はチフスなどの病気に感染する人々も多かったのです。

一応部屋らしいものは与えられました。
収容部屋には3段のベッドがずらりと並び、各段に6人が押し込まれていたのです。
1棟の宿舎には500もの人が収容されています。
ベッドといっても堅い板があるだけ。
毛布すらなく人数がいたのが救いでした。
人々は抱き合うようにお互いを温め合いながら寝ていたようです。
この堅いベッドの上で眠る時がつかの間の幸せだったのではないでしょうか?明日はいいことがあるようにと寄り添い祈りながら眠ったのではと思うと、過酷な運命を背負ってしまった彼らになんと声をかけたらいいのか…?という気持ちにさせられます。







収容所の食事とはどんなもの?

収容所の食事とはどんなもの?

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彼らはいつも空腹と戦い骨と皮の状態で強制労働に耐えました。
毎日が死と背中合わせで、生き残りをかけた戦いだったのです。
ベッドから起き上がるのは、まだ薄暗く寒い朝で体が凍りつくような時期。
食事の内容といえば、腐った野菜や肉で造られた水分の多いスープと数オンスのパン、わずかなジャムとマーガリン、コーヒーと呼ばれる苦くて黒いだし汁でした。

もちろん3度の食事が与えられるわけではなく、数オンスしかもらえないわずかなパンも、一人で全部は食べませんでした。
残したパンをトイレ係に抜擢された人に渡すと優遇措置が受けられたからです。
だからみんな、お腹が空いているのに、そのわずかなパンすらも残すありさま。
このような食事だったので、ほとんどの人が下痢になり、脱水症状や空腹で衰弱し、伝染病の犠牲になりました。
もちろん、病気になった人は即殺されていたようです。

収容所での扱いはここまで酷かった

収容所での扱いはここまで酷かった

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このビルケナウ強制収容所の人数は3つの施設の中で最大でした。
電流が流れる有刺鉄線やフェンスで9つのエリアに分別され、男性、女性、ロマ族、テレージエンシュタットのゲットーから移送されてきた家族のためのエリアがありました。
この施設の主な目的はヨーロッパのユダヤ人根絶というものでした。
1943年3~6月までに4棟の大規模な火葬場や脱衣所、大きいガス室、焼却炉の3部で構成されています。

処刑所行きの人々は、お風呂に入れるからと服を脱がされガス室へと導かれました。
天井にある穴からお湯が出ることはありません。
それどころかそこからはチクロンBという殺虫剤が投げ込まれました。
この部屋に入れられた400もの人が20分間も苦しみ窒息して死んでいったのです。
死体は隣の部屋にある焼却炉で焼かれました。
しかし、多くの人が殺されたため処理が間に合わず、野焼きまで行われたようです。

ここで、殺された女性の髪の毛は、ドイツへ送られ織物の原料とされました。
ドイツ軍は幼い子供たちまで、親と引き離しガス室へと送ったようです。
亡くなった人たちはもとより、生き残った人たちにもこの施設をつらい記憶として残してしまったのです。

アウシュヴィッツ収容所の開放

アウシュヴィッツ収容所の開放

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やっとこの辛い収容所が、ソ連軍によって解放される時がやって来ました。
ナチスが敗戦した1944年11月までずっとガス室は使われています。
1945年1月に抑留者は他の収容所へ移送されましたが、ソ連軍が到着した時には7000人もの病人が残されていたようです。

1947年には、強制収容所初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスがアウシュヴィッツにて絞首刑に処せられています。
ポーランド議会は収容所跡地をポーランドの国民と諸国民の受難の記念碑として保存することを決定しました。

現在この敷地内には収容された人たちの国の言葉で、慰霊碑が建てられています。
このビルケナウは整備されず、ガス室の残骸や人として扱われなかったことの証明となっているトイレなどが、ありのままの姿で残されました。
いくつかの施設は証拠隠滅のため爆破されたようですが、当時の悲惨な現状が今にも蘇ってくるようです。

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