難攻不落の趣をもつ美しい城塞都市!マルタ共和国の首都ヴァレッタ市街の歴史

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光を楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「ヴァレッタ市街」をご紹介します。

マルタ共和国の都市ヴァレッタってどんな町?

マルタ共和国の都市ヴァレッタってどんな町?

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シチリア島とアフリカ大陸の間に浮かぶ5つの島から成る、マルタ共和国。
冬でも温暖な気候をもち、輝く太陽に照らされる紺青い海が素敵なリゾートとして多くの観光客が数多く訪れる国です。
リゾートの他にも美しい町並でも人気があります。

マルタでは昔から蜂蜜色に輝く、「マルタストーン」という美しい石灰岩が採れる地です。
ヴァレッタにはその蜂蜜色に輝く石灰石で造られた建築物が立ち並び、「ルネサンスの理想都市」といわれる都市です。
マルタの町を散策すると、中世のヨーロッパにタイムトリップした気分になれます。
マルタはヨーロッパの中でも治安が良いといわれ、優しくシャイなマルタ人の人柄も魅力の一つです。

本当に小さな国の首都ですが、1980年に町全体が世界遺産に登録されました。
ヴァレッタの魅力に触れる素敵な旅をしてみませんか?

聖ヨハネ騎士団が造ったヴァレッタ

聖ヨハネ騎士団が造ったヴァレッタ

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こんなにちっぽけな島国の美しい都市が、世界的に重要な過去を持つなんて信じられない!っていうのがヴァレッタの歴史上の感想です。
でも、よく考えると、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の中間点にあり、戦略の拠点として最適なスポットだったのではないか?と考えられます。

15世紀から16世紀にかけて影響が大きかったオスマン帝国の攻撃に備え聖ヨハネ騎士団が1530年に移り住み、このマルタの地に城塞を築いたのがヴァレッタの始まりです。
このヴァレッタの地を、聖ヨハネ騎士団に与えたのはスペイン国王兼神聖ローマ帝国皇帝のカルロス5世(在位スペイン王1516-1556年、神聖ローマ皇帝1519-1556年)でした。
ヴァレッタという名前はこの都市の創設者である、聖ヨハネ騎士団の団長、ジャン・パリゾ・ド・ヴァレット(在任1557-1568年)から名付けられたといわれています。

なぜ、カルロス5世が聖ヨハネ騎士団に目を付けた?

なぜ、カルロス5世が聖ヨハネ騎士団に目を付けた?

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聖ヨハネ騎士団は1113年にローマ法王により、聖地エルサレムに設立されました。
15~16世紀にかけて膨大な勢力をもったオスマン帝国に追われ、パレスチナ、キプロス島、ロードス島などヨーロッパ各地を転々とする日々を送っていたのです。
カルロス5世は、シチリア島、イタリア南部、アフリカ北岸に要塞を持っていました。
その中心にあるマルタ島に、彼らの聖地を造らせ地中海の西半分の安全を確保しようとしたからといわれています。

年に鷹一羽を納めることで、聖ヨハネ騎士団はマルタ島を譲り受けたのです。
それによりマルタ島に新しい基盤を築くことが出来ました。
彼らはここから「マルタ騎士団」とも呼ばれるようになっています。

宿敵オスマン帝国の襲撃

宿敵オスマン帝国の襲撃

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1565年にこのマルタ島にもオスマン帝国が攻撃してきたのです。
今までとは違いマルタ騎士団はオスマン帝国を撃退し名を挙げました。
当初は兵力が圧倒的に強かったオスマン帝国が勝っていたのです。
ビルグ(最初に住んだ小さな村)の戦いで抵抗を受けオスマン帝国は、半島の先にある1552年にピエトロ・パードロの設計により造られた聖エルモ砦を標的にしました。
聖エルモ砦は陥落しメチャメチャに破壊されます。
しかしここから、マルタ島民の反撃が始まったのです。

島民の協力とシチリアから援軍が来たことで、マルタ軍はオスマン帝国に初めて勝利しました。
マルタ軍は900人。
そのうち騎士団は600人。
しかし、この戦いではビルグとセングレアも攻撃されましたが、彼らの何度責められても全力で城壁を守り続けました。
この戦いはナント!4ヶ月も続いたのです。
これが、歴史上最も情け容赦ない戦いの一つとされる“オスマン帝国によるマルタ包囲戦”です。
この戦いがオスマン帝国の地中海での勢力が弱体していく原因になったとの説もあります。







時が止まったような美しい町ヴァレッタの始まり

時が止まったような美しい町ヴァレッタの始まり

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マルタ騎士団が激戦に勝利し守り抜いた騎士団には、ヨーロッパ中から膨大な寄付金が集まりました。
これによりマルタ島に城塞都市を作ることに決めたのです。
1566年からマルタの要塞都市の建築が始まりました。
当時最新技術を駆使して造られた城塞都市は、とても強固なものだったようです。
もともと、騎士団の人々はヨーロッパの裕福な貴族の次男以下の男子や子弟によって作られていました。

この要塞都市はマルサイムシェットとグランド・ハーバーの2つの港から上った岩の上に造られました。
驚くことに、要塞と砦、大聖堂などが、15年という短い間に造られヴァレッタは完成したのです。
これが現在、ヴァレッタで見られる、石灰岩で造られた蜂蜜色の建築物も細い坂道が続く碁盤の目のような美しい街並みの基礎となっています。
1571年までに都市の大半が完成し、騎士たちはビルグから移り住み始めした。

ヴァレッタの黄金期

ヴァレッタの黄金期

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騎士団の栄光ともいえる島に今でも残る建築物たちは、どれも華やかで魅力的。
騎士団が最初に建てたのは、騎士団施療院だったようです。
負傷兵たちを船から降ろしてすぐ運べるようにグランド・ハーバーに面して建てられています。
6室から成りベッド数は500。
最大で2000床あったようです。
女性専用の病室もあり、とても清潔で食事は金や銀の食器で出されていたとか。
また、病院だけでなく監獄としての役割もありました。

外観は質素ですが内部の豪華さで知られる1573~1577年の間に建てられた聖ヨハネ大聖堂。
病院を建てたジェラーロモ・カサールによって建立されました。
中央にあるバルコニーから新しい騎士団長が挨拶をした歴史ある建物です。
同じくジェラーロモ・カサールによって1547年に造られ、21代もの騎士団長が使用した騎士団長の宮殿やカラヴァッジョの傑作といわれる聖ヨハネ大聖堂美術館は特に必見です。

マルタ騎士団の安定期

マルタ騎士団の安定期

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建物がどんどん建つにつれて、城塞内は大きな都市と成りました。
安全に暮らせる場所として認知され始めたころで、諸島中から人々がやってきたのです。
ヴァレッタはこうしてなくてはならない重要な存在となったのです。
堅固な港があったことから交易や商業が盛んになり、ヴァレッタは潤いました。
そのうち経済的にも重要な役割を担うようになっていきます。

こうやってお話ししているとマルタの騎士団は雅な生活を送ったような気がしてきますが、決してそんなことはありません。
戒律は厳しく、清貧と貞淑を誓い結婚なども認められませんでした。
当時の騎士団の宿泊施設や聖ヨハネの礼拝堂に厳格な彼らの名残を見ることができます。
しかし、戦争などはなく平和に暮らしていました。

次のページでは『騎士団の解散と現在』を掲載!
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