イギリス植民地としてヨーロッパとオセアニアの文化が交わった地、フィジー共和国「レブカ歴史的港町」の歴史

南太平洋にあるフィジー共和国とそこにある世界遺産のことを、私たちはどれだけ知っているでしょうか。2013年、富士山が世界遺産に登録された時に共に登録されたのが、フィジーの「レブカ歴史的港町」です。レブカの街に刻まれた歴史について、今回はご紹介します。






ヨーロッパ人、レブカに来る

ヨーロッパ人、レブカに来る

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フィジー共和国を形成する島のひとつ、オバラウ島の港町レブカは「レブカ歴史的港町」として世界遺産に登録されてはいるものの、日本からのアクセスはかなり大変です。
日本からフィジーへの直行便がないため、韓国や香港、オーストラリアなどを経由して行かなくてはなりません。
空港に着いてから首都スバまでバスで約5時間、スバからバスとフェリーを利用してやっとレブカに辿り着くことができます。

 

このような遠い島ではありますが、レブカはイギリス植民地としてヨーロッパとオセアニアの文化が交わる土地でした。

 

1820年頃、ヨーロッパ人が街を建設したのがレブカの始まりです。
フィジー諸島で最初の近代都市となったレブカは、港町として交易に大きな役割を果たしました。

1850年代になると、さらにヨーロッパ人が来訪します。
その中には宣教師も含まれており、教会も造られました。

当時、フィジーでは複数の国が覇権を争っており、1871年にセル・エペニサ・ザコンバウがついに統一を果たし、レブカで戴冠しました。
これをイギリスが認めたのですが、すでにこの時からイギリスの影響力が強かったことがわかります。

イギリス植民地としての時代

イギリス植民地としての時代

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1874年にザコンバウはフィジーをイギリスの保護領とすることに同意します。
すなわちイギリスの植民地となったのです。

首都はレブカに8年間置かれましたが、やがて移転することになります。
この理由は、レブカの街のすぐ後ろに山がそびえており、街となる土地がとても狭かったためでした。

1882年に首都はビティレブ島のスバへ移転します。
これがそのまま現在のフィジーの首都となります。

首都でなくなったレブカは徐々に衰退しますが、それでも存在感を放っていました。
フィジー初の新聞社フィジー・タイムスが創設され、初の公立学校ができたのもレブカでしたし、1927年に電力が供給されるようになったのは、首都レバより3日早かったそうです。

 

1960年代になると、日本の商社がレブカにマグロ加工工場を作り、これがレブカの経済を支えることになりました。
世界遺産に登録されたとはいえ、実はレブカは観光の街ではないため、こうした工場は地域にとって重要だったのです。

南太平洋上の島という土地柄、サイクロンの被害を受けることも有ります。
2016年の被害はとくに大きく、今も復興途上にあるそうです。

レブカの街が世界遺産となった理由

レブカの街が世界遺産となった理由

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レブカの街が世界遺産に登録されたのは、イギリス植民地時代の建造物が今も多く残されているためでした。
ヨーロッパ本国の建築と現地の建築が融合して独自のスタイルとなるコロニアル様式の建物を、街のあちこちで見ることができます。

そして、レブカがわずか8年しか首都でなかったことが世界遺産登録に当たってはプラスに働きました。
街の開発が止まり、当時の景観がそのまま保存されることになったからです。
一方、中心都市となったことで開発が続き、昔の姿が失われてしまった街もありました。

 

レブカの街のシンボルは、1866年に建造されたセイクリッド・ハート教会です。
隣に古めかしい石造の時計台があり、趣があります。
内部は光がたくさん入るようになっていて明るく、白壁が青く縁どられており、どことなく南国風です。

 

1874年に造られたフィジー最古の木造ホテル「ロイヤル・ホテル」は今も現役です。

19世紀末に建てられた木造のレブカ・タウン・カウンシル(旧町議会)や、1879に開校したフィジー初の公立学校レブカ・パブリック・スクールもその姿をとどめています。
公立学校は白い石造りの美しい建物で、どことなく西洋風です。

 

海岸沿いにはレブカのメインストリートのビーチ・ストリートが走っています。
カラフルな商店が軒を連ね、南国の景色といった雰囲気ですね。

その海辺近くには、レブカの歴史上重要なポイントがあります。
1874年、フィジーがイギリス領となった際の条約に調印した場所です。
今も3つの台座に載せられた石があり、それは「領土割譲の石」と呼ばれています。

ザコンバウの苦悩

ザコンバウの苦悩

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前述の通り、かつてフィジーはいくつかの国に分かれていました。

1865年、史上初の同盟政府が造られることになります。
7人の首長の中から、盟主として選ばれたのがセル・エペニサ・ザコンバウでした。
彼は盟主を2期つとめますが、次の盟主を選ぶ際に問題が起きます。
ラウ王を自称したマアフは、いち早くイギリス支配下に入ったトンガ王国からやって来た人物でした。
そのため、他の首長たちがマアフを盟主とすることに反対し、同盟政府は解体されてしまったのです。
すでに、イギリスのプレッシャーがザコンバウには感じられていたことでしょう。

 

1871年、ザコンバウはレブカで戴冠し、国王となります。
これにもイギリスの承認が必要でした。
そして彼は政府を作ろうとしますが、実権はイギリス人に握られていたのです。
ザコンバウは王とはいっても名ばかりだったのです。

加えて、アメリカからも圧力がかかっていました。
アメリカ領事ジョン・ウィリアムと地元住民の間に争いが起こり、アメリカからは事件の賠償金と、島を担保として寄越すようにと言われていたのです。
アメリカ軍艦まで現れ、無言の圧力を加えていました。

 

ザコンバウは、当初ドイツに保護を頼んでいます。
しかしこれを拒否され、首長会議によってイギリスに無償割譲することを決めました。

そして、1874年にフィジーはイギリス植民地となったのです。







連れてこられたインドの人たち

連れてこられたインドの人たち

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ところで、フィジーの住民は大まかに言うとフィジー系とインド系に分けられます。
リトル・インディアが形成されているほどです。
しかしこれはどうしてなのでしょう。

 

植民地時代、イギリス人は足りない労働力を補填するために、自分の植民地だったインドからインド人を強制的に連行してきました。
そして、サトウキビのプランテーションなどで働かせたのです。

当時、植民地を形成したヨーロッパの宗主国の間では、先住民を保護するという思想が広まっていました。
そのため、フィジーの人々ではなくインド人を使うことにしたのです。
また、ヨーロッパ人が上陸したことで持ち込まれた伝染病の流行により、フィジー人の数が激減していたこともありました。

 

現在もまだフィジー系とインド系との間で民族的なすれ違いはあります。
しかし混血も進み、昔はフィジー系しか就くことのできなかった政府の重要な役職にインド系の人物が就いていたりします。

 

しかし、元はと言えばイギリスの一方的な施策によってインド人が連れてこられたわけですから、植民地全盛時代の宗主国は明らかにやりすぎですね・・・。

いかがでしたか。

レブカの歴史にはイギリスが深く関わっていたのですね。
世界遺産としての歴史的景観が残った反面、宗主国に抑圧された人々がいたこともわかり、コロニアル様式という言葉の重みを感じました。
世界遺産と歴史について考えさせられました。

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