欧米列強に翻弄され、今日も紛争続く…インドネシアとパプアニューギニアの歴史

世界地図を見ていると、国境線が不自然な国々があることに気づきませんか?今回気になったのは、オセアニアのニューギニア島に引かれた真っ直ぐな国境です。これはインドネシアとパプアニューギニアの国境線なのですが、どうしてこうなったのでしょうか。

ニューギニア島の歴史

ニューギニア島の歴史

image by iStockphoto / 72279859

ニューギニア島は、オーストラリア大陸の北側にあります。
鳥のようなユニークな形をしていますね。
現在はちょうど島を半分に分断するような国境線が引かれており、東半分がパプアニューギニア、西半分がインドネシアとなっています。

パプアニューギニアの首都ポートモレスビーには、日本からの直行便で6時間35分ほどです。
ニューギニア島には、大航海時代にポルトガル人やスペイン人が訪れました。
1526年、ポルトガル人のメネセスがパプアと命名しています。
パプアとは、メラネシア人の縮れ毛を意味するマレー語から採ったそうです。

しかし、島は熱帯雨林に覆われ、とてもヨーロッパ人が入って行ってどうこうすることもできません。
そのため、取りあえず放置されたままになっていました。

19~20世紀にかけて、欧米列強が海外に植民地を求める植民地主義の時代が到来しました。
すると、どこの国も手をつけていなかったニューギニア島を狙って、国々が進出してきたのです。

すでにインドシナに進出していたオランダは、マラッカ海峡から西へ植民地を広げようとやって来て、1884年にニューギニア島の西半分を領土としました。

一方、南洋諸島から南下してきたのがドイツ、オーストラリアから北上してきたのがイギリスでした。
二国は島の東半分をオーエン・スタンレー山脈とビスマルク山脈で南北に分けてそれぞれ領有することにしたのです。
そして、1885年に境界線を定める協定が結ばれました。
ドイツの領有部分はニューギニアと呼ばれ、イギリスが領有した部分は1901年にイギリスから独立したオーストラリアに譲られ、パプアと呼ばれるようになりました。

太平洋戦争の舞台となる

太平洋戦争の舞台となる

image by iStockphoto / 46480562

第一次世界大戦でドイツが敗北すると、国際連盟の裁定により、ドイツ領のニューギニアはオーストラリア委任統治領となります。

太平洋戦争においては、ニューギニア島は日本とオーストラリア・アメリカ連合軍の激戦地となりました。
日本軍は島の北半分を占領し、補給基地のポートモレスビーを狙いましたが果たせず、激戦と飢え、マラリアで多数の死者を出してしまったのです。
「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」とうたわれたほどでした。

結果、日本が撤退し戦争が終結したことで、各国は植民地経営を再開し始めたのです。

インドネシアとパプア紛争

インドネシアとパプア紛争

image by iStockphoto / 85241863

それでは、戦後のニューギニア島がどうなったのか見ていくことにしましょう。
まずは島の西半分、オランダ領になっていた地域です。

オランダ支配下にあったインドネシアは、1945年からインドネシア独立戦争を戦い、1949年に独立を果たします。
しかしオランダはニューギニア島の西半分は新生インドネシアには含まれないとし、まずはオランダ領西ニューギニアとなりました。

1961年、オランダは西ニューギニアを西パプア共和国として独立を認めます。
しかしこれに異を唱えたのがインドネシアでした。
そもそも西ニューギニアはインドネシアであるとして進攻してきたのです。
これがパプア紛争の始まりでした。

調停にはアメリカのケネディ大統領や国際連合が乗り出します。
そして、1969年までにこの地のパプア人が自治権を行使することを前提に、1963年からの行政権をインドネシアに与えたのです。
結果、この地はインドネシア領となり、「偉大な東」を意味するイリアンジャヤ州となりました。

さて、1969年にパプア人の自治権行使が前提でした。
しかしインドネシア国軍は住民投票でパプア人を無視し、本来ならパプア人に帰属確定させるための投票を操作して自国領へ併合する方向に持って行ってしまったのです。
そのためイリアンジャヤ州は西イリアン州となり、インドネシアへ完全併合されてしまいました。

パプア人はインドネシアからの独立を望んでいたため、抵抗活動が起こりました。
インドネシア軍はそれを弾圧し、殺されたパプア人は10万人以上にのぼると言われています。

一方、インドネシアは住民の反対を無視し、ニューギニア島の最西部を西イリアンジャヤ州として分離します。
これで独立運動はさらに高まることとなりました。
2006年には独立運動家がオーストラリアに亡命し、オーストラリア政府がビザを発給したため、二国間の関係は悪化することとなってしまったのです。
そして今もまだ、パプア紛争には終わりが見えていません。

「パプアニューギニア独立国」の成立

「パプアニューギニア独立国」の成立

image by iStockphoto / 64391279

では、ニューギニア島でオーストラリア領となっていた地域について見ていきましょう。

戦後はオーストラリアの統治が続いていましたが、1949年に南部と北部を同一の行政単位としてパプアニューギニアとします。
その後自治政府が造られ、国家や国旗、国章を採択して国家としての形を整えていきます。

1972年の自治政府選挙ではマイケル・ソマレ連立政権が誕生します。

そして、1975年9月16日、パプアニューギニアはついに独立を宣言するに至りました。
初代首相には独立の父として尽力したマイケル・ソマレが選ばれました。
彼は「チーフ」の愛称で国民に親しまれています。

その一方で、1988年には東の海上に位置するブーゲンビル島で分離独立を求めた内戦が始まり、2005年にはブーゲンビル自治領となりました。







ニューギニア島の少数民族

ニューギニア島の少数民族

image by iStockphoto / 87238311

未開の地だったニューギニアも、20世紀に入ると金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こりました。
ヨーロッパ人は資源を求めて今まで入ったことのなかった奥地に踏み込みます。
そこで様々な原住民に出会うことになりました。

彼らは同じ言語を話す「ワントーク」という少人数の部族で暮らしており、その数は数十から数百とも言われています。

それぞれの部族で言語や習慣、伝統が異なり、独特の衣装を身に付けたり顔にカラフルなペイントをほどこしたりしている部族もあります。
また、黒魔術を信仰している部族もまだいます。

現代文化に触れ、独自の文化と組み合わせて暮らす部族もいますが、その一方で、外部との接触がなく独自の生活を守っている部族もいます。
部族としての尊厳を守っていくことも、これからは必要になるのではないかと思いますね。

人食い族が存在するとセンセーショナルに伝えられることもありますが、それは植民地化する前の話だったそうです。
西洋の法律や文化が入ったことで、食文化は絶滅したのだそうですよ。

いかがでしたか。

パプアニューギニアとインドネシアの不自然な国境の理由について、おわかりいただけたでしょうか。
欧米列強の植民地主義がもたらした複雑な事情だったのですね。
インドネシアの方は今も紛争が続いており、この先どうなるか不透明な状況です。

photo by iStock

関連記事を見る

アジアの記事を見る

【タイ】パタヤ観光ならここ!グルメ・ショッピング、地元で人気のレストランも一挙に紹介
ホーチミン観光完璧ガイド!行ってわかったグルメもフォトジェも全部紹介
秀吉に「武士の鑑」と称賛された清水宗治の切腹!毛利家が惜しんだその忠義の人生
自転車で一周して決めた!台湾観光スポットランキングBEST15
戦国時代のハイスペック男子「宇喜多秀家」が八丈島で迎えた最期
世界遺産「カトマンズ」の魅力と歴史。ヒマラヤに抱かれし栄光の都
高層ビルファン必見!ニューヨーク高層建築の歴史を辿る旅
中国最大の国際都市・上海の成り立ちと歴史的スポット6選
【プーケット観光で行きたい!】タイの楽園リゾートで見られる歴史的スポット10選
インド旅行で行きたい、定番&歴史的観光スポット13選
「黄巾の乱」をざっくり把握!三国志のきっかけとなる話です
【三国志】今さら聞けない「赤壁の戦い」をざっくり把握