当時世界最大の大国だったオーストリアから自国の統一を成し遂げた!イタリア・ドイツ統一の歴史

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光を楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「近代ヨーロッパ栄光の歴史」をご紹介します。

世界を牽引する先進国のイタリアとドイツ

世界を牽引する先進国のイタリアとドイツ

image by iStockphoto / 85140721

ブーツの形をしたイタリアとビールやソーセージ、ベルリンの壁で有名なドイツ。
ともにヨーロッパを代表する経済と政治的な主要国としても有名ですね!主導国として認識されている国なのに、両国ともに今の国としての形を形成したのはナント!19世紀に入ってから。
ちょっと驚きですね!ヨーロッパといえば古い歴史を持ち、ずっと国を治めてきたイメージがありますが、実は植民地として辛い過去を持っている国が多いことも、見逃せないヨーロッパの歴史なんです!

「他の国よりどうしてこの2国の統一が遅れたんだろう?」と不思議な気持ちになりませんか?今回は、ほぼ同じ時期に国を統一した、イタリアとドイツの統一の歴史に触れてみたいと思います。

イタリア統一とドイツ統一の違いって何?

イタリア統一とドイツ統一の違いって何?

image by iStockphoto / 87989315

どうして、イタリアとドイツの統一が遅かったのか原因を簡単に言えば、イタリアもドイツも領邦の寄せ集めといった状態で、それを一つに纏める力を持つ王がいなかったからです。
他のヨーロッパの国々と比べて、封建的な中枢が強大だったからなのかも知れません。
フランスやイギリスにとって強大な国ができることは脅威で統一者が出てくると蹴落としていた説もあり、バラバラで一つに纏まらない方が都合の良いことが多かったのです。

イタリアは、長い間分裂していました。
南はナポリ、教皇領、トスカーナ、ヴェネツィア等々。
これはドイツも同じ状態でしたが、イタリア人としての民族意識が生まれ統一への欲望と変わり一つの国へと進化していきます。
ドイツ帝国は近代の統一で初めて一つの国になりました。
これには先に統一を成し遂げたイタリアに触発され、自国も統一国家へと成立を強く望んだことが起因したようです。
統一によって強大な経済力をもち、フランスやイギリスに対抗する目論見もありました。

ウィーン体制統治下のイタリアで組織されたカルボナリとは?

ウィーン体制統治下のイタリアで組織されたカルボナリとは?

image by iStockphoto / 67075121

イタリアでは秘密結社(カルボナリ)が広まりました。
カルボナリとは、実在しない炭焼き職人の組合で存在を明らかにしない団体です。
誰がメンバーで本部がどこかもベールに包まれていました。
彼らは、「イタリア統一!」を叫び、ウィーン体制を作った一員のメッテルニヒに対抗する組織でした。

このカルボナリは、1809年ごろ南イタリアのカラブリアの山中にフランス支配に反抗する人たちにより発足しました。
1814年ごろが最盛期でナポリを本拠地として約6万人の党員がいたといわれています。
1830年に武装蜂起を最後に鎮圧されました。
カルボナリに若いころ参加していた、マッツィーニが新たな組織を設立します。
因みにイタリア統一運動のことを「リソルジメント」と呼んでいます。

青年イタリアの旗揚げと活躍

青年イタリアの旗揚げと活躍

image by iStockphoto / 70470009

この失敗を二度と繰り返さないと誓い、マッツウィーニが大衆政党の青年イタリアを設立。
南フランスに本部を置き大々的に存在をアピールしました。
1848年にヨーロッパ全体を巻き込んだ二月革命が起こります。
その余波を受け、イタリアでは1848年3月にミラノやヴェネツィアで始まった暴動が民族運動に発展しますが敗北。

ローマでも改革が起こり、ローマ市民によって教皇が追放されました。
その後、ローマ市民に迎えられたマッツィーニは、1849年2月にローマ共和国を設立したのです。







サルデーニャ王国のカヴ―ル対ローマ共和国のマッツィーニ

サルデーニャ王国のカヴ―ル対ローマ共和国のマッツィーニ

image by iStockphoto / 1427022

カヴ―ルはイタリア初の産業革命で富を得たサルデーニャ王国によるイタリア復興を進めた人物です。
フランスと同盟を組みロシアとのクリミア戦争へ参加を決めパリ講和会議に出席。
オーストリアが持っていたイタリアの領地問題を意見交換会に持ち込むなど敏腕の持ち主でした。
彼は、王国によるイタリア諸国統合の後、イタリア統一を目指します。
一方、マッツィーニはイタリア共和国の形成を狙っていました。
君主制と共和政の道は全く違う方向を向いていたのです。

ここでナポレオン3世が登場します。
彼はフランスの近くに強力な統一国家ができるなんて大反対!イタリア統一にもドイツ統一にも否定的でした。
彼の秀でた能力はうまく人に取り入る力で、ローマの教皇派の人々を味方につけました。
これにより、マッツィーニは共和政(下層階級)によるイタリア統一を断念。
ナポレオン3世が率いるフランス軍がローマを占領し、ローマ共和国は1年で崩壊しました。
マッツィーニ達はバラバラに逃亡し、教皇がローマに戻ります。
これから、20年もの間フランスによるローマの支配が続きました。

ナポレオン3世との同盟で統一に近づくイタリア

ナポレオン3世との同盟で統一に近づくイタリア

image by iStockphoto / 68162665

カヴールはオーストリアとの交戦の援助を求め、オーストリアに積年の恨みを持つと踏んだナポレオン3世と軍事同盟を築きました。
仏、サルデーニャの連合軍は1859年オーストリアとの開戦で、ロンバルディア(ミラノ)を奪回に成功。
しかし、ナポレオンの進軍拒否によりここまで。

カヴ―ルのやり方に不満を持っていた、ニース出身の青年イタリアの党員だったガリバルディが「千人隊」を起こし再びイタリア統一を目指します。
シチリア島の数万という農民反乱軍を仲間に引き込みナポリに上陸。
ナポリを統治していたブルボン家を追い払い、南イタリアを統一しました。
これに慌てたカヴ―ルは国王と軍を率いてナポリ郊外で、千人隊と遭遇。
一触即発かと思いきや、千人隊の隊長ガリバルディは国王に従うと宣言し引退しました。

1861年にはイタリア王国が建設され、一応イタリア統一は成立しました。
ローマにはまだフランス軍がいたのです。
カヴールが急死し、国王の頼りになるのはプロイセン王国のビスマルク(後のドイツ宰相)。
1866年の普墺戦争ではオーストリアからヴェネツィアを1870年には普仏戦争でローマ市をフランスから奪回しました。
未回収のイタリアといわれる南チロルとトリエステは、第一次世界大戦の時に統合されています。

ドイツ統一はこんな感じ

ドイツ統一はこんな感じ

image by iStockphoto / 77191289

ナポレオン戦争後の国土再編のウィーン議定書により、35の君主国と4自由都市のみを持つ「ドイツ連邦」として設立。
オーストリア帝国を盟主として発足し、統一国家としての実態はありませんでした。
1830年代にはドイツでも産業革命が起こり、ブルジョアを中心としたドイツ統一への動きが起こります。
ウィーン体制のもと不満が募り、自由主義やナショナリズム運動が強まりました。

特に経済については、ミュンヘンやベルリンまで、旅するだけでも膨大な関税がかかる始末。
ドイツ統一が急務でした。
1848年の三月革命を機にウィーン体制が崩壊し、更にドイツ統一に拍車がかかります。
フランクフルト国民会議での議題に上がるも意見がぶつかり、国民会議自体の存在価値を失いました。
これにより話し合いによる統一は消え去ってしまったのです。

次のページでは『鉄血政策を行ったビスマルクの時代』を掲載!
次のページを読む >>

関連記事を見る

イタリアの記事を見る

神戸・三宮デートでイタリアンならここ!予約推奨&記念日対応OKなイタ飯レストランランキングTOP7
イタリア観光、リピーターにおすすめのマニアックコース3選【ローマ在住15年超の筆者が伝授!】
【イタリア観光】古代も中世もルネサンスも見れるイタリアへ
イタリア在住15年の私が決める!イタリア観光スポットランキングBEST 20
毒殺に暗殺!?スキャンダラスな一族「ボルジア家」とは
日本でも話題の世界最古の薬局!イタリアフィレンツェにある「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」の歴史を調べてみた
【イタリア在住者が伝授】イタリア観光の攻め方&モデルコースを徹底解析
「ローマの休日」を辿るイタリア・ローマ観光のすすめ。観光スポット・舞台はここ!
ヨーロッパ最大の帝国となったローマ!ローマはなぜ帝国になったの?ローマ帝国への道
政府公認観光ガイドが伝授!アルベロベッロとプーリア州
ローマ在住者が伝授!ローマのおすすめの美術館20選
政府公認観光ガイドが伝授!愛の小道を歩きたいチンクエテッレ