いまさらきけないアテネの歴史…成り立ちから現在まで

ギリシアの首都アテネにはたくさんの古代遺跡があって、世界中から観光客が訪れます。でも古代アテネの歴史って、学校で習ったけど忘れちゃった、それに古代のあとはどうなるの?なんて方もおおいはず。そこでこの記事では3千年以上にわたるアテネの歴史を、成り立ちから現在までわかりやすく紹介します。じつはアテネの遺跡は古代だけじゃないんです。

ギリシア文明のただなかに、古代アテネの街がうまれた

ギリシア文明のただなかに、古代アテネの街がうまれた

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クレタ文明のかたすみに誕生したアテネの街

地中海の東、エーゲ海沿岸のいわゆる「ギリシア地方」はむかしから起伏のはげしい土地で、エジプトやメソポタミアとちがって農耕には向きません。
ギリシアの人々はわずかな平原に散らばって暮らし、ブドウやオリーブを育てたり、羊を飼ったり、船で貿易をおこなったりしていました。

紀元前2000年ころ、エーゲ海の南にあるクレタ島を中心として、ギリシア地方はじめての文明が栄えました。
クレタ文明(またはミノア文明)とよばれるこの文明はとても開放的で、たとえばクレタ島にあるクノッソス宮殿には城壁がなく、イルカの絵などが描かれています。
ほかにもギリシアの各地にちいさな王国がつくられ、たがいに交易していました。
このころに、アテネの街もつくられたと言われています。

ちなみに、このクレタ文明時代の有名な神話がミノタウロス伝説です。
クノッソス宮殿に住むミノス王の后は一匹の雄牛に恋をしてしまい、雌牛の模型に入って雄牛を誘惑し、思いをとげます。
しかし産まれた子どもは頭が牛、体が人の怪物で、ミノタウロスと名付けられました。
ミノタウロスは成長するにつれて凶暴になっていき、ミノス王は彼を迷宮に閉じこめます。
そして少年少女を生贄として彼にささげていました。

そこにアテネの英雄テセウスがあらわれます。
テセウスはみずから迷宮に入ってミノタウロスと決闘、これを倒します。
その後テセウスはミノス王の娘から渡された糸をたどって、無事に迷宮を抜け出すことができました。
いまでもクノッソス宮殿には迷宮のような複雑な回路がのこされています。
訪れる際は、ミノタウロスと出会わないようにご用心。

トロイ戦争と、人間くさいギリシアの神々たち

紀元前1600年ころから、クレタ文明にかわって、ミケーネ文明がギリシア地方に栄えます。
ギリシア本土の南を中心としたこの文明はクレタ文明よりも戦闘的で、ミケーネやアテネをはじめ各地に王国が栄え、城塞も築かれました。
前1500年ころにはクレタ島も支配し、さらにその勢力はエーゲ海の対岸、いまのトルコ西岸にまで及ぶようになりました。

トルコ西岸にはトロイという都市がありました。
トロイの王子パリスはあるとき、ヘラ、アフロディテ、アテナの三人の女神で誰がいちばん美しいかと問われ、アフロディテをえらびました。
アフロディテはお返しに、人間世界でいちばん美しい女、スパルタ国の王妃をパリスに与えました。
妻をうばわれたスパルタ王はかんかんに怒り、周辺の国々に声をかけ、トロイへ大軍をさしむけます。
これが有名な「トロイ戦争」のはじまりでした。

パリスから軽視されたヘラとアテナはギリシア側につき、10年目にようやく決着をむかえます。
ギリシア軍が巨大な木馬をつくって戦場にのこしたのです。
トロイ側はラオコーンという祭司がワナだと気づきますが、アテナの放った大蛇によって殺されます。
それでトロイは城内に木馬を引き入れてしまいました。
夜半、木馬から抜けでた兵士たちの手で、トロイの街は落とされました。

このようにトロイ戦争には、古代ギリシアのいろいろな神々が登場してきます。
そして女神アテナを祭る崇拝の中心地が、アテネなのです。

ポリス国家アテネの誕生と、そこでの生活ぶり

ポリス国家アテネの誕生と、そこでの生活ぶり

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ポリスの誕生と、アテネの繁栄

紀元前1200年ころ、ミケーネ文明はとつぜん終わりをむかえます。
ギリシア各地の王国は崩壊し、人々は各地に分散し、経済もおとろえ、以後400年間ギリシア地方は暗黒時代をむかえます。
この間にアテネの街も崩壊したかどうかは、いまもわかっていません。

前800年ころから、ギリシア各地ではふたたびいくつかの集落があつまって、都市ができていきました。
アクロポリスという小高い丘に城壁を築いて神殿を祭り、丘の周囲には家屋が建てられ、その中心にはアゴラという広場ができて市や集会が開かれました。
こうした小規模の都市国家を、王国などと区別する意味で「ポリス」とよびます。

ポリスはギリシアの各地につくられていきました。
アポロン神殿で神託がおこなわれるデルフォイ。
4年にいちど競技会が開催されるオリンピア。
強力な軍国主義ときびしい教育制度のスパルタ。
社会が安定し、貿易もさかんになったので、地中海や黒海の沿岸各地にも植民都市としてのポリスがたくさんつくられました。
イタリア南部のネオポリス(現ナポリ)などもそのひとつです。
そして、こうしたポリスのなかでやがてもっとも繁栄していくのが、貿易都市国家アテネでした。

この時代の先進地域はオリエントとよばれる中近東やエジプトだったので、沿岸部にあるアテネはオリエントとの貿易で力をつけました。
またこのころにはアルファベットもつくられ、船乗りや商人たちは共通の文字のおかげで商売がスムーズになり、アテネの街はますます発展していきました。

アテネ市民たちはどんな生活をしていた?

このころのアテネ市民たちの生活を見てみましょう。

アテネ市民は少数の貴族と大多数の平民に分かれていました。
貴族は政治や祭りごとをおこない、平民は漁業や商業、そして農業をいとなんでいました。
かれらは一家に1人か2人、家内奴隷をやとい、家事や農作業をさせていました。
ちなみに奴隷制度は古代ギリシア・ローマ社会の土台で、哲学者アリストテレスも奴隷制度を肯定しています。

アテネ市民たちの暮らしのなかには、ギリシアの神々がふかく関わっていました。
とくにゼウスや、その妻ヘラ、海と大地の神ポセイドン、太陽神アポロン、そして知恵の女神アテナなどはオリンポス12神としてあがめられ、尊敬されていました。

ほかのポリスとの戦争があると、武具をもつ平民だけが歩兵として参加しました。
もちろん奴隷も一緒についていきます。
そしてそれらを指揮するのが馬にのった貴族たちでした。
ポリス間の戦争はしょっちゅう起こりましたが、4年に1度はかならず休戦して、オリンピアで祭典をひらいていました。
こうしてアテネはじめギリシアの人々は、ポリスはちがってもおなじギリシア人としての共通意識をたもちました。

前700年ころになると、平民のなかにもゆたかな者が増え、重装備の武具をもつ平民が多くなったので、アテネ軍の主力は騎兵から重装歩兵に変わりました。
戦争でおおきな役割を果たすようになった平民たちはやがて、参政権をもとめて貴族と対立していきます。

史上はじめて民主政を達成したアテネのあゆみ

史上はじめて民主政を達成したアテネのあゆみ

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貴族政治、財産政治、独裁政治を経験するアテネ

紀元前620年ころ、アテネではじめて法律が成文化されます。
それまでの法律は文書として書かれていなかったので、貴族が自由に平民を処罰したりできたのでした。
この改革に平民はよろこびましたが、しかしこれだけでは納得しませんでした。

そこで前594年から、名門貴族出身のソロンによる改革がはじまります。
ソロンはまず、平民すべての借金を帳消しにしました。
そしてこれ以降、借金が返済できなくても奴隷に落ちなくてよい、という法律をつくりました。
いままで借金返済のできない者は奴隷として売られていたので、平民たちはこれを歓迎しました。

そしてソロンは、身分や血統でなく、財産の大小によって参政権をあたえるとしました。
こうして平民のなかでも、商人や投資家など裕福な者は政治に参加できるようになりました。
しかしソロンが引退すると、アテネの政治と社会は混乱します。
そして人々が混乱をおさめるために望むのはいつも、独裁者なのでした。

前546年、独裁者となったペイシストラトスは貴族よりも平民に支持基盤をおきます。
とくに裕福な商工業者を優遇して経済を活性化させ、また中小農民は農業に専念させて収穫を増やさせました。
こうしてペイシストラトスの治めた20年間で、アテネはふたたび繁栄します。
しかしペイシストラトスが死ぬと、彼の息子は貴族たちによって倒されてしまいます。

クレイステネスの大改革

前508年、あらたな権力者となった貴族クレイステネスは貴族制度をぶっこわしはじめます。
アテネ経済の中心はもう完全に土地から商工業に移っていたので、土地収入を基盤とする貴族たちはもうアテネの中心ではないと考えたからです。

まずクレイステネスはアテネの土地を行政区画によってこまかく分けました。
そして区画ごとの長がその土地を管理し、市民も名のるときには一族名でなく行政区画名を名のるとしました。
こうして貴族は力を失いました。
鎌倉を治める人物が源頼朝から鎌倉市長に変わり、「われは源の一門、山田太郎」と名のるのが「神奈川県鎌倉市の山田太郎です」と名のるとなったようなものです。

つぎにクレイステネスは市民集会を強化しました。
法律をきめたり戦争をはじめたりする場合、市民集会にあつまった18歳以上の市民全員が投票で決めるようにしました。
またストラテゴスという行政機関をつくり、ストラテゴスの10人メンバー、いまでいう大臣も市民集会での選挙でえらばれるとしました。
ちなみにこのストラテゴスが「ストラテジー(戦略)」の語源です。

最後にクレイステネスは「陶片追放」とよばれるシステムをつくりました。
独裁者のおそれありと思う人物の名前を陶器のカケラに書いて投票し、最多得票の者が10年間アテネから追放されるのです。
このシステムによって、アテネは二度と独裁政治にはもどりませんでした。

クレイステネスがおこなったこれらの改革によって、アテネは市民が主役となる政治、つまり民主政へと移りました。

ギリシア滅亡の危機、ペルシア戦争

ギリシア滅亡の危機、ペルシア戦争

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アテネが大帝国にまさかの勝利

さて、アテネが民主政へと移っていたころ、東方ではアケメネス朝ペルシアという強大な帝国が誕生していました。
イランを中心としたこの帝国は、東はインダス川まで、西はエジプトまでを領土におさめ、そしてトルコ西岸にもせまっていました。

トルコ西岸にもギリシア人のポリスがいくつもあって、エーゲ海の貿易で栄えていました。
アケメネス朝ペルシアはこのエーゲ海の富に目をつけ、まずトルコ西岸のギリシア諸ポリスを征服します。
征服されたポリスはすぐに反乱をおこし、同時にギリシア最強の二大ポリス、アテネとスパルタに援軍をもとめます。
これにアテネが応え、紀元前499年、ペルシア戦争がはじまりました。

反乱とアテネの援軍をけちらしたアケメネス朝ペルシアは、ギリシアの全ポリスに服従を命じます。
アテネとスパルタをのぞくほとんどのポリスがこれに従いました。
そしてペルシア王は従わないポリスを制圧するため、軍をおこします。
アテネのすぐ北にまでせまったペルシア軍を、アテネ軍はマラトンの平原で迎えうちます。
ペルシアの圧倒的軍勢に対し、アテネの重装歩兵は密集して突撃し、これをうちやぶります。
史上はじめて、ギリシアのポリスが大帝国相手に勝利をおさめたのでした。

ちなみにこのマラトンの戦いの結果を知らせるため、一人の兵士がマラトンからアテネまで42kmを走りました。
これがマラソンの起源になっています。

強敵をまえにして、ギリシアが一致団結する

しかしアケメネス朝ペルシアは一度くらいの敗北であきらめませんでした。
100万人ともいわれる大軍をおこし、陸と海の両方からふたたびギリシアにせまります。
ここにいたってはじめて、経済大国アテネと軍事大国スパルタはたがいに手を組み、ほかのポリスも参加して、ギリシアがひとつにまとまりました。

陸で迎えうったスパルタ中心のギリシア軍は、ペルシアのあまりの軍勢にびびって後退します。
そこでスパルタの司令官はほかの兵を退却させ、スパルタ兵300人だけで、最後のひとりになるまで戦いました。
あの軍事的で閉鎖的なスパルタまでがギリシアのために死をかけて戦ったことに、アテネの人々も奮い立ちます。
そしてアテネ中心のギリシア海軍は圧倒的劣勢をくつがえしてペルシア海軍をやぶります。
船をうしなったペルシア軍はそそくさと逃げ帰りました。

1年後にふたたびペルシアは攻めてきますが、今度は陸でもスパルタ中心のギリシア軍が勝ち、海ではアテネ海軍がふたたび活躍して、ペルシア戦争はギリシア側の勝利におわります。
ギリシアは独立を守りました。
そしてこの勝利いちばんの立役者であるアテネの地位はギリシア内でますます高まります。

アテネを中心とした多くのポリスはペルシアの再攻撃にそなえて同盟をむすびます。
軍事費をまかなうために各ポリスがお金を出しあい、その金庫がエーゲ海のデロス島におかれたので、デロス同盟とよばれました。
アテネはこのデロス同盟の盟主となり、そしてここから最盛期をむかえます。

アテネの全盛期と、それを支えたペリクレスの政治力

アテネの全盛期と、それを支えたペリクレスの政治力

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民主政が完成し、アクロポリスが再建される

紀元前460年ころからの約30年間に、アテネはもっとも栄えます。

まず民主政がさらに徹底されました。
役人や裁判官といった公務員は、軍事や財務などの専門職以外はすべて抽選でえらばれるようになりました。
またそれまで無給だった公務員職に給料が支払われるようになり、貧しい人々でも役人としてアテネの政治に関わることができるようになりました。

また、ペルシア戦争で破壊されたアクロポリスも再建されました。
女神アテナを祭ったパルテノン神殿、女神アテナの勝利(ニケ)を祈ったアテナ=ニケ神殿、少女像の彫刻があるエレクテイオンなど、いまにのこるギリシア建築の数々も、この時代につくられました。

これらの建築費用は市民の負担と、そしてデロス島の金庫からこっそり流用することでまかないました。
そしてアテネは金庫の金をさらに流用して、海軍をますます拡大し、エーゲ海はじめ地中海の東を完全に支配しました。
アテネ海軍にまもられて、アテネの商人たちはいっそう交易をさかんにおこない、経済でもアテネは絶頂期をむかえました。

アテネ市民たちは平和と繁栄を謳歌し、政治参加できることに誇りと責任を感じ、たまの休みには劇場にでかけて演劇を鑑賞したり、祭りの日にはワインを飲みあかしたりしました。

そして、こうしたアテネ全盛を演出したのが、たったひとりの政治家ペリクレスでした。

アテネの民主政を支えた政治家ペリクレス

ペリクレスは30代半ばで政治の表舞台に立ってから、約30年間、ほぼ毎年ストラテゴス(アテネの最高行政機関)にえらばれ、そしてそのほとんどでストラテゴスの議長をつとめました。
上に述べたような政策をしたのもすべてペリクレスです。

ペリクレスは抜群のバランス感覚をもち、権力をもちつづける方法を知っており、決断力に富み、外交もたくみで、そして市民から支持を得る方法も知っていました。
たとえば劇場を無料開放すると決めたのもペリクレスです。
またパルテノン神殿の建設費用を一部市民の負担とすると決めた際も、反対の声にたいして「ではすべてわたしの私財でまかなう。
その代わり神殿には『ペリクレス』と彫らせるが、よいか」と言ってだまらせたのも彼です。

ペリクレスは演説もたくみで、彼の演説は同時代の歴史家によって記録されています。
その一部を紹介しましょう。
「われわれの政体は他国の政体をマネするものではない。
ひとの理想を追うのではなく、ひとをして、われわれのマネをさせるものだ。
少数の独占を排除し、多数の公平を守ることを旨として、この政体の名はデモクラティアと呼ばれる」。
ちなみにこのデモクラティアが「デモクラシー(民主主義)」の語源です。

このように、アテネの民主政は影でペリクレスが支えつづけることで、全盛期をむかえることができました。
アテネの繁栄はほかのポリスにも伝えられ、哲学者や劇作家などおおくの有能な人々がアテネに集まってきました。
こうしてアテネは文化面でも最盛期をむかえます。

理性的で、人間くさい、ギリシア文化がアテネで花開く

理性的で、人間くさい、ギリシア文化がアテネで花開く

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アテネで活躍した哲学者たち

ギリシア文化は最初、トルコ西岸で花開いていました。
数学の大家ピタゴラスが活躍したのも、史上最初の歴史書を書いたヘロドトスが生まれたのも、トルコ西岸です。
しかしペルシア戦争後、アテネの民主政が全盛期となり、アテネでは言論の自由が保障されると聞くと、おおくの人々がアテネへ移り住みました。

アテネで生まれ育ったソクラテスは「無知の知」、つまり何も知らないということを自覚せよと説き、あらゆる人々と対話をくりかえすことで人間の無知をあばいていきました。
しかしソクラテスから無知を自覚させられた人々はとうぜん腹が立つので、ついにソクラテスは死刑になります。

ソクラテスの死後、弟子のプラトンは師の教えを発展させ、現実の背後にある真実(イデア)こそ実在だと説き、また人間教育のための学園アカデメイアをアテネ郊外に開きました。
これが「アカデミー」の語源です。
ちなみにアカデメイアで最初に学ぶ教科は数学で、学園の入口には「幾何学を知らぬもの、くぐるべからず」と書いてありました。

アカデメイアの学生のひとりアリストテレスはやがてすべての学問に通じ、論理、政治、歴史、宇宙、物理、生物、気象、言語、心理、演劇までありとあらゆる著作をのこしました。
アリストテレスは「知を愛する」ことこそ重要だと説き、このギリシア語「フィロソフィア」がのちに「フィロソフィー(哲学)」の語源となりました。

こんなに人間くさかった、古代ギリシア演劇

アテネではまた、おおくの劇作家も活躍しました。
これは当時のアテネでは演劇がおもな娯楽だったからです。
とくに、豊穣と酒の神ディオニソスにささげられた祭りの最後には、ディオニソス劇場においてさまざまな劇が上演されるしきたりでした。

最初は悲劇がおおく上演されました。
なかでも評判のよい劇作家は三大悲劇詩人とよばれ、もてはやされました。
そのうちのひとり、アイスキュロスの名作「アガメムノン」のあらすじを紹介しましょう。

アガメムノンはトロイ戦争時代のギリシア軍総大将です。
彼が王国からトロイへと出征しようとしたとき、大嵐がおそいました。
そこで神託をすると、娘を生贄にささげれば解決すると出たため、アガメムノンは苦悩したのちに、娘をささげました。

10年ののち、アガメムノンが戦争に勝利して帰ってくると、妻のクリュタイムネストラはアガメムノンの寝室にしのびこみ、短剣で夫を殺します。
そして周囲にこう告げます。
「トロイ戦争のとき、自分の娘を、この腹を痛めたかわいいわが子を、生贄にささげた、この人こそ、追放されるべきだ」。
そしてクリュタイムネストラは夫の代わりに、浮気相手の男を王として城に招きいれるのです。

やがて劇場では、喜劇も上演されるようになりました。
アリストファネス作「女の平和」では、戦をやめない男たちに対し、女が団結してセックス・ストライキをおこない、我慢しきれなくなった男たちがついに戦争をやめるというお話が描かれています。

あれだけ繁栄したアテネが地方の片田舎に

あれだけ繁栄したアテネが地方の片田舎に

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