富士山はなぜ世界遺産になれたの?富士山の歴史11の小話

世界遺産に登録された富士山。世界遺産に登録されるには、美しさだけでなく歴史的なストーリーが欠かせないのですが、富士山は「信仰の対象と芸術の源泉」として登録されています。日頃から富士山を遠くに眺めることはあれど、富士山の歴史を知らなければ、なんだか仰々しい名前が付いたと思いませんか?しかし立派な根拠が数々のストーリーにあふれているのです。なぜ「信仰」「芸術」と言われているのかがわかるストーリーを、11の小話としてまとめました。

#1 現代に活きる富士山とゲン担ぎ

現代に活きる富士山とゲン担ぎ

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ビジネスマンや政治家は、縁起を担ぐ人が多いです。
歴代の首相は、新春に伊勢神宮に参拝するのが習慣になっています。
また、新幹線で東京へ就職する人の間では、晴れた富士山を見ると運が開けるジンクスがあります。
その話を同行記者団から聞いたある首相は、お伊勢参りで富士が見られたので今年は大吉になると確信したそうです。
その後の首相や経済人も、晴れた富士山が見られるかを大変気にするようになりました。

この間、外国人が箱根で寄木細工職人に学ぶ姿をテレビで放映していましたが、箱根から晴れた富士山を見て「縁起がいいですねー」と言っているのを見て、素晴らしい風景を見ることについて日本人も外国人も関係ないのだなと改めて感じました。

俳句をたしなむある首相は、一句を即興でこうしたためました。
「今年こそは 富士と語りつ 初詣で」でした。
ちなみに、この首相はこの年に開かれた自民党総裁選で敗れ、決して大吉ではなかったようです。

このようなことで富士山は現代にも信仰として息づいています。

#2 日本誕生とともに始まった富士信仰

日本誕生とともに始まった富士信仰

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 古代から富士山そのものをご神体として崇められていました。
いつの時代からははっきりしませんが、恐らく、縄文時代から巨山、巨木、巨岩信仰など自然に対する崇拝がありましたので、日本人誕生とともに富士信仰があったとされています。

 文字がなかった時代である縄文時代や弥生時代にも富士山噴火は度々起こっていたことが、地質学の進歩により、判明しており、縄文人や弥生人の富士山への恐れと愛する気持ちは今よりも心の中にあったのでしょう。

 実際、巨山信仰と直接の関係はまだ明らかではありませんが、富士山周辺の千居遺跡(静岡県富士宮市)や牛石遺跡(山梨県都留市)など、縄文時代後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されています。
これらの遺跡にはストーンサークルを伴う特徴があり、もしストーンサークルと巨山信仰との関わり合いが明らかになれば、富士信仰は縄文時代から存在したと可能性が高くなります。

#3 富士信仰と関係のある「富士山噴火」

富士信仰と関係のある「富士山噴火」

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今でこそ富士山噴火はありませんが、記録では新富士火山の噴火は781年以後16回記録されています。

噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に10回程度ありました。
山の噴火は神々の怒りの表れと考えられ、その度に、神の怒りを静めようと祭るようになります。

ちなみに、平安時代の富士貞観大噴火は、東日本大震災に匹敵する貞観地震の5年前に起きており、今回の東日本大震災と今後の富士山噴火の可能性を考えている方もおります。

 神々は時には人々に豊かさと富をもたらす反面、噴火のような災いや試練を人々に与えるという考えがあります。
この富士山の噴火と同時に政治も不安定になりました。

平安時代の藤原氏が地位を独占していた天皇を補佐する摂関政治から、天皇を退位した上皇が政治を執る院政時代を経て、源氏と平家が戦う武士の時代の突入とちょうど重なります。

#4 「浅間神社」誕生の秘話

「浅間神社」誕生の秘話

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 全国で神社が創建されますと、富士信仰も神社として祭られ、富士山の神様として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とする「浅間神社」が誕生し、全国に広がるようになりました。

 定説はありませんが、この浅間大神とコノハナノサクヤビメは同一神とされていまして、天照大神(アマテラス)の孫であり、天の世界から地に降臨したニニギノミコトの奥さんです。
そして東日本一帯を守護する神として祭られ、山の神、火の神、水の神、安産の神様として深い信仰を集めています。

「浅間神社」の総本宮はココ!!

 その全国の「浅間神社」の総本宮が富士山麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)です。
特に、奈良時代は政治的に不安定なことと、富士山の噴火もやや活発になりましたので、それを静めるため、より深く富士山が信仰の対象になりました。

あなたの住む街にも「浅間神社」

そもそも「浅間神社」の語源は、諸説ありますが、コノハナノサクヤビメが火の神の性質を持つことから、「浅間」は荒ぶる神であり、江戸時代に活火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説がありますが、私はこの説が有力であると考えています。
「浅間大神」の心を鎮めるため、次々と各地に浅間神社が建立されました。

 富士山がご神体という地理的な要素から、静岡県および山梨県を中心として全国に約1300社の浅間神社が分布しています。
西日本はほとんどなく、東日本及び中部地方に多いのが特徴で、これは、富士信仰が東日本にかたよっているものであることが明らかになっています。

 ちなみに、浅間山も富士山と同様、度々噴火を起こし、江戸時代の田沼意次が老中をつとめていた田沼時代にも大噴火を起こしており、江戸でも10センチほど雪のように火山灰が積もった記録があります。
この噴火などにより、田沼意次の人気が下がり、後に寛政の改革を断交する松平定信が老中をつとめる時代に変遷していきます。

 余談ですが、浅間神社の中には、浅間造(せんげんづくり)という特殊な神社建築様式があります。
これは、社殿の上にさらに別の社殿が載った二階建ての建築様式で、他の神社では見ることが出来ません。
この様式は、富士山本宮浅間大社、静岡浅間神社、多摩川浅間神社、浅間神社 (横浜市西区) で見ることが出来ます。

#5 かぐや姫の正体は実は富士山だった?

かぐや姫の正体は実は富士山だった?

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「かぐや姫」は皆さんご存じでしょう。
竹の中から生まれ、竹取の翁夫婦に育まれ、5人の貴人から求婚を受け、最後は、天皇の奥さんにという話もありました。

しかし、かぐや姫は、地上はあまりにも汚れた土地であるから月に帰ることになります。
その際、不老不死の薬を養育した時の天皇にプレゼントしましたが、天皇は、家来に言いつけ富士山に捨てたという物語です。

 作者は不明ですが、物語を丁寧に読むと当時の権力者であった藤原氏に対する批判もあり、5人の貴人の1人が車持皇子であり、このモデルは藤原不比等とされ、藤原氏が支配する世の中からかぐや姫は、去ってしまうという意図もあったようです。
紫式部は、『源氏物語』で「物語の始まりは竹取物語」と執筆しており、日本最古の物語と言われています。

 ところが意外なことに富士山周辺の富士市には富士縁起という中世に成立した文献が残っており、かぐや姫は最後に月に帰ってしまうのではなく、富士山に登って忽然と消えてしまうことになっており、富士市地元では、本当は、かぐや姫の正体は富士山だったと信じられています。

#6 神仏習合としての富士信仰 富士山は大日如来でもあります

神仏習合としての富士信仰 富士山は大日如来でもあります

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富士山は神様でもあり、仏様でもあります。
といいますと驚かれると思います。
これについては若干の説明が必要です。

 この考え方は、日本独特に進化を遂げた「神仏習合」というキーワードがあります。
仏教が日本に次第に根付きますと、神様と仏様は同じという思想が奈良時代から広がります。

わかりやすく言うと、インドの仏様である菩薩などは、日本では神様として生まれ変わったとする思想であり、江戸時代までは寺院・神社が同じ場所に存在したケースが数多くありました。

 これが発展して、本地垂迹説という考え方が生まれ、「仏様」は、日本では「神様」として降り立ち、「神様」という化身で存在していますよという考え方です。
これでうまく両者が共存したように見えたのですが、今度は「神様」側から「いや本当は違うのです」と反論がありました。

 鎌倉時代には、「神様」こそが主人公で、「仏様」は「神様」の化身という「反本地垂迹説」という考え方が生まれます。

「神は仏の化身」「仏は神の化身」という対立こそはありましたがどちらも一緒という考え方が根付いたことが、仏教と神道が共存でき、深刻な宗教対立が生まれなかったことの理由です。

 どちらにしても、江戸時代までは、「神様」も「仏様」は一緒ですから、喧嘩しないで仲良くしましょう、これが日本人の今でも存在する宗教観と言っても良いでしょう。

 そこで、富士信仰は浅間大神という神様でしたのが、実は、本当の姿は、大日如来という考えが広がりつつあり、富士山頂は、神と仏の世界が現実に表れた風景だと深く信じられるようになります。

 その一環として、末代上人が平安時代に大日如来を富士山の本尊とする信仰をはじめ、山頂に大日寺を建立しました。
山頂には、寺院、神社、鳥居、仏像など盛んに造られてきました。

 もはや富士山の信仰のよりどころは、浅間大神でも大日如来でもどちらでも良い。
どちらも同じだから、気にすることもないという思想は、時代が下ることに広まっていきます。

 このように、日本では、神仏習合という仏教と神道の両方が共存して、信仰されるようになりましたが、残念なことに明治時代に日本は神の国ですから、仏教は不要という考え方の廃仏毀釈運動が起こり、それまでの神仏習合から神仏は、分離されました。

こうして寺と神社が別々に存在するようになり、現在に至ります。
もし、現在まで廃仏毀釈運動が行なわなければ、お寺と神社は今でも同じ敷地にあるでしょう。
そして国宝級のお宝も現存していたに違いありません。
つくづく惜しいことです。

#7 さらに修験道という日本独特の宗教も

さらに修験道という日本独特の宗教も

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どこかで修験道という言葉を耳に入れた方もおられるかも知れません。
何となく知っている、山伏がそうでしょうと言われる方もいらっしゃいます。
よくテレビで滝に打たれ、厳しい修行している方が修験道の名残です。

 原始宗教から、神道へ確立する過程で、山々や岩に精霊や命を宿るとし、それが山岳宗教へと移行し、仏教や密教とミックスしたことで、日本独特の修験道が確立されていきました。
日本各地の山々で厳しい修行をし、超自然的な能力、今で言えば超能力でしょうか、それを得ることによって庶民を救済する宗教が修験道です。
山伏もその修行者の1人です。
この修験道も富士信仰と大いに関わってきます。

 日本各地には独特の修験道が確立されていきますが、富士での修験を文字通り、富士修験とも言いますし、最初に登山道の地帯が村山道であったことから村山修験とも言います。

厳しい修行の場所でもあった富士山

富士山修験道の基礎を築いた人は、先ほど登場した末代上人です。
この方は、山頂に寺建てただけではなく、数百度登山した記録が残り、富士登山道も開きました。
その後も次々と登山口が開拓されます、富士修験道は他の修験道と同じく滝に打たれ、護摩だきをし、身を清め、仏の道に近づくものですが、南北朝時代あたりの14世紀初めには修験者による組織的登山が広まっていきます。

 さらに時代は下るとこうした修行者が庶民に修験道を紹介し、庶民も同じく修行の道に入ることが流行します。
登山道も次々と開かれ、富士山のふもとには、修行する場所や宿もできあがり、大勢の登山者が富士山で修行し始めます。
この頃は、時代で言えば、室町時代から戦国時代までです。
そしてこの富士修験が後に庶民に爆発的に流行した富士講へとつながります。

庶民にも広がった富士での修行 富士講の確立

昔の地域には、「講」という集まりがありました。
たとえば、「無尽講」というのは、皆でお金を出し合い、返済していくシステムなのですが、それは後の信用組合の前身に当たります。

 その集まりのひとつに様々な宗教的な講がありました。
富士信仰の集まりである「富士講」がそのひとつです。

 江戸幕府が開かれ、政治が安定しますと、より救済を求め、富士山への登山が流行していきます。
長谷川角行は、江戸や関東を中心とした庶民の現世利益的な要求にこたえて、後に「富士講」と呼ばれる富士信仰の基礎をつくったとされます。

富士講信者や他の登拝者は原則として固定的・継続的関係を持った指導者の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水等で体を清め、浅間神社に参拝し、頂上に登りました。
登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの参拝者の活動を支える施設が体系的に整備されていきます。

江戸後期の文化文政時代には、庶民もしだいに農業が暇になる農閑期に観光に行く時間に余裕が出できて、富士山を目指す人々も増えてきます。

 江戸周辺には、富士山を模倣した富士塚も神社の中に建設され、そこに登ると富士山参拝と同じような効果があるとも言われました。
江戸時代後期には、富士講について「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであり、それだけ、富士講は庶民の中に息づいていたのです。

 「富士講」は衰えましたが、この富士講の精神は現在でも残り、日本人のみならず外国人も数多く参拝します。
何故、人は、富士山に引き寄せられるのか、その理由は、風景だけではなく、信仰にもあったのです。

富士信仰は日本宗教そのものなのです

いかがだったでしょうか。
これが富士信仰の4本柱の内容です。
1つ、神道、2つ目は、仏教、3つ目が「神仏習合」、4つ目が修験道です。

 庶民に愛され、そして日本の宗教を網羅した富士信仰こそが日本のすべての宗教の原点であり、そして4つの宗教が争うことなく共存できたという日本らしい宗教観を表したものです。

 日本の宗教は、神道、仏教だけにクローズアップされがちですが、実は、「神仏習合」や修験道も大切な要素です。
是非、この富士信仰をもとに、日本の宗教に大きな影響を与えた4本柱にもう一度温かい目を注いで欲しいのです。

 それこそが富士山が何故、世界遺産になった理由も改めて理解されるでしょう。
そしてもうひとつ大切な要素は芸術面です。
次の項目ではこれについても詳細に描いていきたいと思います。

#8 富士山そのものが芸術作品

富士山そのものが芸術作品

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これまで信仰面について書いてきました。
しかし、富士山の魅力は、信仰に留まらず、現在に至っても芸術面で多大な影響を及ぼしています。

信仰編でご紹介したようにある首相がお伊勢参りした中で、新幹線から富士山を題材に一句したためたように、富士山を見ると芸術のヒントや心の中でわき上がるインスプレーションを与えてくるのです。

日本人だけではなく、外国人もこの富士山に魅せられ、スケッチする風景は今日ますます盛んです。
それでは、芸術の源泉としての歴史をご紹介いたします。

富士山を詠み、描いた人々

今から約1200年前、奈良時代に富士山を題材にした歌を、当時の名門貴族の1人であった大伴家持が編纂したと言われる日本最古の歌集である「万葉集」で紹介されています。
万葉集のすばらしさは、天皇や貴族のように身分の高い人だけでは無く、誰が詠んだか不明な歌や身分の低い人の歌も紹介していることです。

さらに、「竹取物語」や平安初期に成立した歌をもとにした物語で作者不明の「伊勢物語」などの古典作品をはじめ、近代文学では、夏目漱石、現代文学でも太宰治など物語や歌に数限りない深い影響を与えてきました。

 絵画では言うまでもありません。
現在ある最も古い絵画は、平安時代に渡来人の子孫である秦到貞が描いた「聖徳太子絵伝 第三面」に富士山が描かれております。

 しかし、それ以前にも富士山を描いた絵画があったことは、想像できます。

なんと言っても、時代が下るごとにより、高名な絵師たちがダイナミックに富士山を描くようになります。

 特に、浮世絵は当初一色刷りでしたが、技術も進化し、多色刷りが主流になります。
絵画面で富士山を紹介しますと、数があまりにも多いので割愛しますが、特に、皆様に是非、これは知っておいて欲しいという江戸時代の絵師たちの富士山をご紹介します。

 1人は言うまでも無く、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」です。
もう1人は、歌川広重の「東海道五拾三次」で、3人目は皆様にとっては意外かも知れませんが、江戸時代で蘭画(西洋絵)を描いた司馬江漢の「駿州薩陀山富士遠望図」です。
それではこれから一つ一つ、歌、物語そして絵画面に与えた影響についてお話しします。

万葉集から古典文学への与えた多大な影響

万葉集というと一万の歌があると思われるかも知れませんが、実際は4500首で、その中に11首、富士山を読んだ歌があるといわれております。
しかし、なんと言っても有名なのは、当時は役人だった山部赤人が数多く詠んでいます。

 ただ、官僚といっても、当時の歴史書である「続日本紀」に記録がないことから、下級役人と言われています。
想像すると国の命令で都から東国へと派遣され、その途中で富士山を仰ぎ見つつ、歌として残したものが万葉集に収められたと思います。

 皆さんも一度は、どこかで聴いたかも知れませんが、ご紹介いたします。

 「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」

 これを現代訳にしますと、「田子の浦を通って出て見るとまっ白に富士の高嶺に雪が降っていた」というものです。
しかし、皆様にとっては小倉百人一首の方がなじみは深いでしょう。
それはちょっと若干変っています。
それがこちらです。

 「田子の浦にうち出でてみれば 白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」

 意味はほぼ同じですので割愛しますが、当時の都人にとって、こうした歌を詠まれたことは、富士山はかなり昔からあこがれの的だったことが分かります。

 竹取物語についてはすでに紹介したので、割愛しますが、様々な口承伝承を元に作成されたと想像していますが、その口承伝承のおおもとは、今の山梨県や静岡県に伝えられていたものが、都人のある教養ある貴族に伝わり、私は作成されたと想像しています。

#9 伊勢物語~貴族のアイドル

伊勢物語~貴族のアイドル

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貴族で様々な女性から愛された在原業平がモデルと言われる「伊勢物語」ですが、東国に赴任することになります。
東京では、業平という地名がありますが、これは在原業平にちなんだと言われています。

 伊勢物語の中の「東下り・駿河国」の「行き行きて、駿河の国にいたりぬ〜」の下りで富士山が登場します。
これをご紹介しましょう。
文章は長文になりますので割愛し、現代語訳のみの表現になりますがお許しください。

 「富士山を見ると、五月の下旬だというのに、雪がとても白く降り積もっています。」

「季節をわきまえない山というのは、この富士の嶺のことです。
今がいつだと思って、鹿の子のまだら模様のように雪が降るのでしょうか。」

という描写があります。
京都にいる貴族から見ると、5月という春の季節に雪が残っているというのは不思議に思い、またこうした風景も珍しいものと写ったのでしょう。

もし、この人物が在原業平だとすれば、京都から追われた身としては寂しい思いもあったのでしょう。

#10 不老不死の薬は富士山にある?

しかし、一方、富士山には不思議な伝説も残っています。
中国をはじめて統一した秦の始皇帝は、徐福に命じて、不老不死の薬を探すよう命じました。
徐福は日本に来て、富士山に来た際、これは不老不死の薬がある蓬莱山だと思い、定住しますが、結局見つからず、富士山周辺で定住したという伝説が残されています。

当時の中国人は日本のことを東夷の蓬莱と呼び、あこがれの的であり、ひょっとしたら、中国から日本に来て富士山のことを知った中国人もいたのかも知れません。

様々な伝説や物語の中で富士山は登場しますが、いずれも執筆者の中には富士山に対するあこがれやその美しさにひかれ、文学作品として残そうという意欲をかきたてられたに違いありません。

#11 近現代文学と富士山

近現代文学と富士山

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夏目漱石も作品の中でしばしば富士山について執筆し、太宰治は、短編「富嶽百景」の中で、「富士には、月見草がよく似合う」の名文を残していますが、これは竹取物語でかぐや姫が月に帰る話にちなんで、この言葉を残したのです。
古典文学に素養がある太宰ならではの名文句と言えるでしょう。

これまで、歌や古典文学、近現代文学と富士山のかかわりについて話して参りましたが、続いては、絵画編です。
こちらも是非ご覧下さい。

浮世絵と富士山

 江戸時代になり、文化文政時代に入ると農業が暇な時に、観光する余裕が生まれます。
また、信仰編でも触れましたが、「富士講」が大流行すると、富士山に対するあこがれがより強まってきました。

 このような中、浮世絵も一色刷りから多色刷りになり、様々な芸術作品が生まれます。
まず、皆さん一度は歴史や芸術関係の教科書に必ず登場する富士山の代表作とも言える葛飾北斎の「冨嶽三十六景」をご覧になった方も多いでしょう。

 「冨嶽三十六景」の完成は、ちょうど江戸時代後期の天保時代で政治を担っていたのは、老中の水野忠邦です。
徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革の模倣であり、倹約質素を強引に推し進めたため、非常に評判が悪かった改革です。
この改革が失敗に終わったことで江戸幕府の屋台骨は崩れ、黒船来航を迎え、江戸幕府の崩壊、そして明治維新へと向かっていきます。
この時代は先の見通しが見えなかった袋小路に入っていました。

 そういう中、庶民はささやかな娯楽を求めていきましたが、この「冨嶽三十六景」もその1つで、その中のあまりにも有名な「神奈川沖浪裏」では、富士山は大波に比べて小さく描かれていますが、その存在感は見る者の目を惹きつけます。
波がまた富士山の形をしていて、バランスを楽しんでいるようです。

 もう1つは赤富士を描いた「凱風快晴」です。
実は、私も小学生六年生の時に、この赤富士にひかれたため、美術の時間に、この赤富士を模倣した絵を描いています。
それだけ、子供心にもこの絵のすばらしさが理解できたのでしょう。

 もう1人忘れてはならない浮世絵師がおります。
それは歌川広重です。
歌川広重の「東海道五拾三次」は、文字通り、江戸の日本橋から京都までの道のりを描いた浮世絵で、娯楽に飢えていた町人にとっては、今と同じく行ったことが無い光景を写真やテレビで楽しむような感覚だったでしょう。
「東海道五拾三次」の中にも当然、富士山が描かれており、「由井 薩埵嶺」などに登場します。

その後明治維新後、様々な、外国人が日本を仕事や観光で訪問しますが、この浮世絵を絶賛します。
浮世絵版画は、遠く欧米に渡り、マネやモネ、ゴッホなどの印象派や後期印象派の画家たちに大きな影響を与えました。
彼らの描いた作品の中には、部屋の中に浮世絵が飾られているというものもあります。

一時期、明治維新により、日本人は自分たちの芸術に自信を無くした時代がありましたが、外国人の美術家たちは、「そんなことはない。
これは素晴らしい作品だ」と改めて評価したことは、覚えておいて欲しいのです。
ただこのため、日本の作品が欧米の方々に再評価されたことで多くの作品が海外に流出しましたが、それでも大切に今でも保管してくれていることに感謝の意を表したいのです。

こうして、富士山は、日本のシンボルとして欧米の人々の心にも刻み込まれましたことは、日本の美術史を学ぶ上で大切なことです。

そして最後に、これは私の個人的に取り上げたい人物ですが、司馬江漢がおります。
この人物は歴史教科書に登場しますが、非常に影は薄いです。

江戸時代の田沼時代にオランダについて研究する平賀源内がはじめての西洋画を描きますが、司馬江漢は、その平賀源内に強い影響を受け、西洋画を確立した人物です。
当時、日本が通商していた西洋国家では、オランダのみで、オランダ語や西洋技術、医術について深い学識のあった前野良沢や大槻玄沢の協力を得て、西洋風の絵を自由気ままに楽しんだ人物が司馬江漢です。

その司馬江漢は、さらにオランダ学を学ぶためにオランダとの通商窓口であった長崎に留学しますが、その途中、富士山も見て、「駿州薩陀山富士遠望図」を描き上げました。

 実は、何故、日本が封建社会からスムーズに近代国家へ移行し、他国と比べて近代化への歩みが早かったと言えば、日本がオランダと通商し、そこから西洋の学問を学んだ方が多かったからです。

 富士山というもっとも日本らしい風景ですが、西洋画と上手くマッチングさせた司馬江漢の功績は、決して少なくありません。

富士山の歴史は続く…

富士山が何故、世界遺産に登録された、その理由について駆け足で書き上げて参りました。
富士山の魅力はただ単に風景だけではなく、時として信仰の場であり、芸術の源泉でもありました。

そのことを1人でもご理解いただければ私としてはこの上ない喜びです。
最後までご覧になった方に本当に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
photo by iStock

長井 雄一朗

Writer:

旅行好きがこうじて、サラリーマンを辞めて自分のスキルを活かし、フリーライターをしています。各国を回りましたが、どの国も素晴らしい面もあります。私のモットーとしては、他国を評価するときは、絶対に「日本のモノサシ」を使わないことです。各国の文化や歴史は日本と方向性が異なったとしても優劣はなく、日本と同様に各国ごとに進化を遂げ、素晴らしい文化に昇華したと考え、どの国に対してもリスペクトが必要です。そんな各国の歴史や文化を皆様にご紹介したいと思います。

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