なんで真田一族はあんなに強かったの?上田城を観光する前に知っておきたい歴史

大河ドラマ「真田丸」で、真田一族の本拠地として登場し、一躍注目の観光スポットとなった長野県・上田市。ここのシンボルと言えばやはり、真田氏の居城・上田城です。あの徳川家康を2度もこてんぱんに負かした戦国武将は、真田以外にはいないんですよ。そんな彼らの強さを支えた上田城の歴史と秘密について、知ってみたくはありませんか?ぜひご覧ください。

知謀の将・真田昌幸の上田城

知謀の将・真田昌幸の上田城

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長野県の東部、今では長野市と松本市に次ぐ規模の上田市にあった上田城は、現在は上田城跡公園となっています。
というのも、元々の城は廃城となってしまったため、堀や土塁、江戸時代に造られた建物の一部のみが残されているからです。
しかし、立派な城の姿はしっかりとうかがうことができますよ。

ここでは、上田城を築城した戦国武将・真田昌幸(さなだまさゆき)とその一族の生涯をご紹介します。

真田昌幸の処世術

上田城は、天正11(1583)年、真田昌幸が築城しました。

彼が、上田城最大のキーマンとなる人物です。

真田氏は武田信玄に仕えた武士で、昌幸の父・幸隆(ゆきたか)は武田信玄の二十四将にも数えられた重臣でした。
そのため、昌幸も信玄に仕えます。
彼の才能を信玄は見抜いており、「信玄の両眼」と呼んだ逸材2人のうちのひとりが昌幸でした。

しかし、信玄の後を継いだ勝頼が織田信長によって滅ぼされると、その後は次々と主君を変えていくことになりました。

このため、昌幸は「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と呼ばれるようになります。
比興とは「卑怯」にも通じ、信用ならないくわせ者だということで通っていたのです。

しかし、これは昌幸なりの処世術でした。
真田の家を守っていくためには、時の流れを見定めて、それに合った主君に仕えていくのがいいと考えていたのです。

徳川家康を恐れさせた男

強力な戦国大名の脅威にさらされながらも、昌幸は真田の家を守りました。
徳川家康との2度の直接対決(上田合戦)に勝ち、真田の名を天下に轟かせたのです。
彼の知略と統率力は並々ならぬものでした。

彼には2人の息子がいました。
長男が信幸(のぶゆき・のちに信之)、次男が信繁(のぶしげ・のちの幸村)です。
息子2人と共に彼は戦国の世を戦いましたが、やがて別れがやって来ます。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こった時、彼らは徳川家康に従い、東北の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐しに行く途中でした。

ここで、昌幸と信繁は石田三成の西軍へ、信幸は家康の東軍へつく選択をします。
どちらについても真田の家が残る、そんな考えがあったようです。

しかし昌幸らが参戦する前に西軍は敗れ、彼らは和歌山県の九度山に流罪となってしまいました。
厳しい流刑生活の中、最後まで家康を倒すことを考え続け、昌幸はやがて亡くなります。
慶長16(1611)年のことでした。

死してなお影響力を持つ

流刑後、戦いの場に戻ることなく昌幸は亡くなりました。
しかし、彼の強さを身を持って知っていた家康は、本当に彼を恐れていたようです。
大坂の陣が起こり、信繁が大坂城に入ったという報せを聞いた家康は、「それは親(昌幸)か子(信繁)か!?」とうろたえたほどでした。
また、昌幸の葬儀をしたいという信幸の願いもはねつけたそうです。

昌幸が去った上田城は、東軍についていた信幸が受け継ぎました。
しかし、昌幸を憎んでいた家康により、結局は徹底的に壊されてしまいます。
これで、昌幸が造った上田城は姿を消すこととなってしまいました。

天下を取り、江戸幕府まで開いた徳川家康をここまで恐れさせた人物は、昌幸の他にいません。
上田城は、そんな彼の知謀のもとに造られた城だったのです。

徳川との激闘!上田合戦

徳川との激闘!上田合戦

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2度にわたり徳川家康を退けた昌幸。
その戦は「上田合戦」と言い、天正13(1585)年のものを第一次上田合戦、慶長5(1600)年のものを第二次上田合戦と言います。

ここでは、その2回の上田合戦について、経緯や作戦を紹介していきます。
昌幸の策略の鮮やかさにご注目ください。

真田の名を高めた第一次上田合戦

第一次上田合戦は、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたことが始まりでした。

旧織田領を巡って、上杉・北条・徳川で争いが起きましたが、その中で、昌幸は関東に一大勢力を築いていた北条氏に領地を圧迫されたのです。

そこで、昌幸は徳川家康と同盟を結びました。
この時に上田城が建設されたのです。
当時、関東に北条氏、越後(新潟県)に上杉氏と強い大名がいたため、家康が城の建設を命じたのでした。
周りを強い戦国大名に囲まれた真田の領地は、常に不安定な状況にさらされていたのです。

ところが、家康との同盟も長くは続きませんでした。
領地を巡って仲が決裂し、昌幸はなんと敵だった上杉景勝と同盟します。

今度は家康が怒りました。
そして昌幸がこもる上田城に兵を差し向けてきたのです。
第一次上田合戦の始まりでした。

第一次上田合戦の推移

上田城に進撃してきた徳川軍は7,000、迎える真田軍は2,000と、兵力差は圧倒的なものでした。

しかし、ここで昌幸の知謀が本領を発揮します。
上田城の建つ地の利を生かし、まずは徳川軍を上田城下まで撤退を装っておびき寄せました。
勢いに乗った徳川軍が城の二の丸にまで攻め込むと、今度は昌幸が城下に潜ませた伏兵に徳川軍を襲わせます。
混乱した徳川軍にさらに真田軍はたたみかけ、別働隊として別の城を守っていた長男・信幸が徳川軍を急襲しました。
しかも、ちょうど増水した川のおかげもあり、徳川軍は溺死者まで出して大損害を受けることになったのです。

この戦いにおける徳川の死者が1,300だったに対し、真田の死者は40余りだったと言われています。
上田城はびくともせず、真田の勝利に大きく貢献しました。

この大勝利で、昌幸と真田の名は戦国の世に広く知られることになったのです。
おそらく、昌幸以下、真田の人々は気分爽快だったことでしょうね。







徳川との再戦!第二次上田合戦

豊臣秀吉が天下を取ると、昌幸は秀吉に仕えるようになりました。
しかし秀吉が死ぬと、家康が徐々に実権を握り、豊臣家を守ろうとする石田三成らとの溝が深まってきます。

その時、家康は上杉征伐と称して東北へ向かいます。
それをチャンスと見た三成が挙兵したのが、関ヶ原の戦いの始まりでした。

前述のように、昌幸は息子2人と家康に従っていましたが、西軍と東軍に分かれる道を選びます。
そして彼は信繁と共に、本拠地・上田城へ戻ったのでした。
上田城のそばを、関ヶ原へ向かおうとする徳川軍が通るということを想定し、迎え撃つ準備のためでした。

第二次上田合戦の推移

上田城に向かってきたのは、家康の息子・秀忠(ひでただ)が率いる38,000の徳川軍でした。
対する真田軍の数はわずか3,000…どう見ても、第一次の時よりも不利です。

ここでも昌幸は策を練ります。
まずは降伏すると見せかけますが、急にコロッと態度を変えて「いつでも攻めてきたらよろしい」と徳川軍を挑発しました。
これなら徳川方は怒りますよね。

しかし徳川方も昌幸がひとすじなわではいかないことはわかっているので、作戦を決行します。
それが苅田(かりた)戦法というもので、城の周りの稲を刈り取り、止めようと出てきた相手を迎撃する作戦でした。

徳川方が田んぼの稲を刈り始めると、上田城から真田兵が出てきます。
しめたとばかりに徳川方は真田兵に襲い掛かりますが、真田兵は蜘蛛の子を散らすように城門の方へと逃げ出しました。

それを追いかけて来た徳川方の目の前で、いったん閉じていた城門が開きます。
再び開いた時には、目の前には鉄砲を構えた真田兵がずらりと並び、次の瞬間にはそれが火を噴いたのでした。

戦には勝ったのに敗軍の将となる

昌幸の作戦により徳川方は大混乱に陥り、結局、戦は真田方の大勝利に終わりました。

ちなみに、この戦いに手こずったおかげで、秀忠は関ヶ原の戦いに遅刻してしまい、父・家康にカミナリを落とされています。

しかし、同時に進行していた関ヶ原の戦いは西軍の敗戦に終わり、昌幸と信繁は戦に勝ちながらも敗軍の将となってしまったのです。

家康の真田に対する恨みは深く、一時は死罪も免れないところでしたが、信幸の命乞いによって、昌幸と信繁は和歌山県の九度山へ配流となりました。
そして、昌幸の建てた上田城は家康によって完全に壊されてしまうこととなったのです。

残念な結果でしたが、どれだけ家康が真田を恐れていたかがわかります。

仙石氏と上田城

仙石氏と上田城

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さて、ここからは真田氏の次の話に入ります。

壊された上田城は、領地としては昌幸の後を継いだ信之(信幸から改名)のものとなっていましたが、彼が城の再整備を江戸幕府に願い出ても認められることはありませんでした。
やはり、真田のシンボルだった上田城が再び真田のものとしてよみがえることを、幕府は警戒していたのかもしれません。

その後、元和8(1622)年になると信之は上田から少し北にある松代(まつしろ・長野市松代町)に国替えとなりました。
ちなみに、松代には武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の地が含まれています。

そして、新たに上田の主となったのが、仙石忠政(せんごくただまさ)です。

仙石氏は豊臣秀吉と徳川家康に仕えた大名で、第二次上田合戦や大坂の陣に参戦していました。
当主の忠政は大坂の陣では信繁の軍と戦ったようです。

その時の功績によって、仙石氏は上田に転封となりました。
真田を慕う領民が多い中、忠政は領内の安定につとめ、名君と呼ばれたそうです。

そして、寛永3(1626)年、ついに上田城の大改修が行われました。
櫓(やぐら)を7基、櫓門を2つ造られましたが、現在の上田城の西櫓はこの時代のものが残っています。

仙石氏の支配は忠政の次の代まで続きましたが、その後はまた新たな主を迎えることになります。

ちなみに、前藩主の真田信之と、新たな藩主となった仙石忠政との間にはわだかまりがあったという説もあります。

大坂の陣で功績を挙げた忠政が、小諸(こもろ・長野県小諸市)から上田への国替えを幕府に願い出て、幕府もこれを認めたというのです。
父が基礎を固めた上田の地を、相手が「欲しいから」という理由で渡すのは不本意だったのかもしれません。

そのため、信之は上田を出る際に藩の関係書類をすべて処分してしまったそうです。
後からやって来た忠政は、藩の内情を知るのにとても苦労したそうですよ。

仙石忠政にはそんな逸話がありましたが、次は、それ以上にインパクトある逸話の持ち主をご紹介しましょう。

仙石氏といえばこの人・「鈴なり武者」仙石秀久

上田城の新たな主となった仙石忠政には、とても有名な父がいました。
名前は秀久(ひでひさ)、豊臣秀吉が羽柴姓だった頃から仕えた、古株中の古株です。

秀久は武勇に恵まれ、早い時期に大名となりました。

しかし、九州征伐のときに大失敗をしでかしてしまいます。

秀吉が持久戦を命じたにもかかわらず、ほぼ独断で突出し戦い始め、結果として味方は大敗してしまったのでした。

秀吉の怒りを買った秀久は領地を没収され、高野山へ追放となってしまいました。

月日は流れ、秀吉が関東・小田原の北条氏を攻め始めた時のことです。

浪人となっていた秀久は、成長した息子の忠政と一緒に、わずかな手勢を率いて戦場へ駆けつけました。

その時の彼の姿は今でも語り継がれています。
派手な陣羽織を身に着け、それに無数の鈴を縫い付けていたのです。
ちょっと動けば鈴の音が鳴り響き、どこにいても目立つ姿でした。

ここに彼の決死の覚悟があったのです。
派手な姿で武功を挙げればきっと秀吉の目に留まるはず。
しかし、同時にこれだけ目立てば、敵に集中攻撃を受けるおそれがありました。
そんなリスクを覚悟した上で、秀久は戦場に馳せ参じたのです。

結果、彼は大活躍をおさめ、秀吉は彼を許しました。
そして信濃・小諸に領地を与えたのです。

箱根に仙石原という地名がありますが、この時の秀久の戦いぶりの素晴らしさからこの地名がついたという説まであるほどなんですよ。

そばの伝道師・仙石秀久

小諸を治めるようになった秀久が力を入れたことのひとつに、「そばを名産品にする」という方針がありました。
自らそば切りに参加するほどの力の入れようで、民衆は親しみを込めて彼を「仙石さん」と呼んだそうです。
そして小諸は信州そばで有名になったのでした。

国替えとなった但馬出石(たじまいずいし・兵庫県豊岡市)にも、彼はそば職人を連れていき、そこでは「出石皿そば」が名産品となりました。
いわば、彼はそばの伝道師だったのですね。

次のページでは『松平氏と上田城』を掲載!
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Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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