世界遺産「シルクロード」知れば歴史が好きになる?世界を結んだ交易ネットワーク

誰でも一度は聞いたことのある「シルクロード」。2014年には、シルクロードおよび周辺の遺跡群がまとめて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界文化遺産に登録されました。シルクロードは世界の東西交流の歴史そのもの。シルクロードを知ると、世界のダイナミックなつながりを理解できます。「歴史=暗記科目」と思っているそこのあなたにこそ、今回の記事はおすすめですよ!

「シルクロード」とは何を指すのか?

「シルクロード」とは何を指すのか?

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シルクロードのイメージは不正確?

そもそも、「シルクロード」と聞いてどのようなイメージが頭に浮かぶでしょうか?月の沙漠を優雅に歩くラクダと商人?厳しい暑さの砂漠地帯と、わずかな水辺=オアシスの周辺に設けられた町?私たちの抱くこれらのイメージは、実はシルクロードのごく一部にしか当てはまらない、と言ったら意外に思われるでしょうか。

「シルクロード=絹の道」とは、19世紀にドイツ人研究者が作り出した言葉です。
この言葉がヨーロッパの中央アジア研究者、地理学者などの間で広く使われるようになり、そのうち世界中で一般的な用語として定着していきました。
20世紀前半までは、中央アジアで古代の絹織物や絹貿易に関する文書が発見されるような遺跡は、中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス地帯に限られていました。
そのため、シルクロードと言えば「オアシスの道」という意味で定義され、使用されてきたわけです。
現在、私たちが「シルクロード」と聞いてイメージする「砂漠」の映像は、今から100年も前の不完全な研究者の中央アジア・中央ユーラシア地帯の紹介の仕方に引きずられたものと言えるでしょう。

シルクロードには三種類ある!

その後の研究で、シルクロードには主に三種類あることがわかりました。
中国西域から中央アジアまでの砂漠・オアシスを行き交う「オアシスの道」、それより北方のモンゴルやカザフスタンの草原=ステップ地帯から黒海に至る「草原の道」、中国南方から海へ出て、東南アジア~インド洋~アラビア半島に至る「海の道(海洋の道)」の三種類です。

さらに言えば、整備された三本の「道」がオアシス、草原、海に敷かれているかのようなイメージを持つのも正確ではありません。
実際のシルクロードは、砂漠や草原の道なき道ばかりであり、山道をのぞけばどこを通ってもかまいませんでした。
シルクロードは、単に東=中国と西=古代ローマ帝国やイスラム国家などが東西交易をするために使用していた道路ではなく、東西南北に網の目のように伸びた「面」です。
そして、その網の目の結び目の部分に当たる交通の要地が、中国・中央アジア・インド・東南アジア各国の大小の都市でした。
シルクロードの「三本の道」は互いに結びついてユーラシア大陸の交易ネットワークを形成していたのです。

現在の学説では、網の目のような交易ネットワークを認めながらも、都合上シルクロードを三種類に分けて考えることが一般的。
この記事でも、「草原の道」「オアシスの道」「海の道」の三種類に分けてご紹介していきたいと思います。

世界遺産としてのシルクロードの意味

世界遺産としてのシルクロードの意味

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総延長8700km!世界最大の世界遺産

2014年、シルクロードは「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録されました。
ここには、東西交易ネットワークにおけるシルクロード関連遺跡のうち、中国、カザフスタン、キルギスの参加国の33の資産が含まれています。
これまでも、ウズベキスタンのサマルカンドやブハラなどといったシルクロード関連の遺跡・景観が世界遺産に認定された例はいくつもありましたが、「シルクロード」の名前を冠した世界遺産登録は初めての例です。
それでも、シルクロードに関連した世界遺産がこれだけ多いというのは、世界史に果たしたシルクロードの役割がいかに大きかったか、ということを示しています。

今回登録されたのは、シルクロードを利用した東西交易の様相を今に伝える中国の遺産と、オアシスの道を中心としたいくつかの遺産。
中国長安(現・西安)の遺跡、西部の河西回廊にある石窟寺院や交通・防衛施設、キルギスやカザフスタンにある巨大な都市遺跡などがあります。
つまり、前述したシルクロードの定義からすれば、ごく一部が推薦・登録されたに過ぎません。
草原の道の大部分や海の道に関する遺跡群については推薦に含まれませんでした。

それでも、今回登録されたのは3カ国8700キロメートルにもおよぶ範囲です。
世界遺産としては前代未聞の広大な範囲がまとめて世界遺産登録を認められたことはエポックメイキングな出来事でした。

シルクロードの多面的な魅力

シルクロードは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ人為的な道と言うよりも、ユーラシア大陸の東西南北に暮らす人々が営む交易活動そのものと言った方がよいでしょう。
人々が交流を重ねた実績が、後世になってあたかも「道」がそこにあったかのような見方をされたのです。
シルクロード関連遺跡をごく一部に絞って、それでも登録されるにはあまりに広大であったことを踏まえると、シルクロードの持つスケールの大きさは到底「世界遺産」という枠に収まりきるものではありません。
距離的・時間的なスケールの大きさこそが、シルクロードの最大の魅力と言っていいでしょう。
今回世界遺産に登録されただけでも大きなスケールですが、これですらシルクロード全体から見るとわずかな部分にすぎません。

私たちが中世までの世界史を考える際、つい中国やインド、メソポタミアなどといった農耕文明が「中心」で、シルクロードや中央アジアはその「周辺」にある脇役のような位置づけをしてしまいがちです。
しかし、実際のところはこれらの地域こそが農耕文明同士を結びつける「交易文明」であり、時には強大な軍事力(中央アジア騎馬民族の馬は長らく最強の軍事力でした)で農耕文明へ侵略・征服する「地上最強の軍事集団」であり続けました。
シルクロードを知ることは、歴史のスケールやダイナミックさに思いをはせることにもなりますよ。

「草原の道」と世界最古の遊牧民スキタイ

「草原の道」と世界最古の遊牧民スキタイ

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砂漠ではないシルクロード!最も古い交易路

ここからは、シルクロードの三種類の「道」をそれぞれ簡単にご紹介していきたいと思います。
まずは、最も北方に存在していた「草原の道」からです。

草原の道は、中国を北上してモンゴルを中心とする草原地帯(ステップ)を突っ切り、ロシア南部やカザフスタンのあるカスピ海・アラル海一帯を横目に、最後はトルコ北部の黒海周辺に至ります。
現在のウクライナ周辺に紀元前8世紀ごろ起こった「スキタイ」という民族に始まり、数多くの騎馬民族がこの草原の道の東西で大帝国を築きました。
紀元前8世紀と言えば、ヨーロッパではまだ古代ギリシャや古代ローマが歴史の教科書に出てくる前の時点です。
古代ギリシャでは「ポリス」と言われる都市国家ができはじめたころで、古代ローマでは伝説上の人物である(実在したかどうか不明)ロムルスがローマを建国した頃とされています。
「スキタイ」という民族名は、古代ギリシャ人がこの草原の道の西端にいる騎馬民族を総称したもので、特定の民族ではなく「遊牧騎馬民族」全体を指していたとも言われています。

ヨーロッパの歴史に出てくる「フン人」や中国の歴史に出てくる「匈奴」「鮮卑」「突厥」などの民族は、みなこの草原の道のある地域を本拠地としていました。
フン人と匈奴が同一である、という説すらあります。
フン人や匈奴は文字を持たなかったため、詳細については不明点も多く、ただの「侵略者」という位置づけにとどまっています。
今後新たな発見があれば古代の世界史が大きく塗り替えられるかもしれませんね。

学校で聞いたことある?草原の道を舞台とした遊牧騎馬民族の活躍

「フン人」「匈奴」「鮮卑」「突厥」など数々の遊牧騎馬民族を輩出してきた草原の道ですが、ここから最も勢力を拡げたのはご存じモンゴル民族でしょう。
モンゴルとは、単一の民族名ではなく複数部族を束ねた国のことを指しています。
由来が匈奴だろうが突厥だろうが漢民族であろうが、この国の中では「モンゴル人」です。
13世紀に、テムジンという一部族長が、遊牧騎馬民族の最高会議で君主を意味する「ハン」に推薦されて「チンギス・ハン」を名乗りました。
モンゴル民族は草原の道全域を支配して交易を支配するとともに、オアシスの道も含めた陸の東西交易路を整備・拡大しました。

モンゴル帝国の最大支配地域は、東は中国や朝鮮半島、西は東ヨーロッパ、南はアフガニスタンやチベットに至るまで。
広大なユーラシア大陸をまたにかけた、世界史上最大の帝国を築き上げました。
このモンゴル帝国はいきなり歴史上に登場したわけではありません。
草原の道という重要な東西交易路の存在と商業の発展、馬という当時最強の軍事力かつ最速の移動手段を使いこなしていたこと、そして匈奴や鮮卑などといった「先輩」の遊牧騎馬民族の存在など、いくつかの理由があったからこそ急激に領土を拡張することができたのです。

草原の道自体は大航海時代に入って「海」という別の東西交易路が発見されたことで徐々に廃れていきましたが、世界史に与える影響の大きさは今もなお歴史家を引きつけてやみません。

「オアシスの道」の開拓と漢王朝

過酷!生死を賭けたシルクロード旅行

過酷!生死を賭けたシルクロード旅行

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シルクロードが三種類に分かれることはご説明しましたが、オアシスの道も大きく三つに分かれます。
中国西域の天山山脈の北側を通る「天山北路」、南側を通る「天山南路」、その南にあるタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」の三つです。
天山北路は比較的難易度の低いルートではありますが、距離が長いとされています。
天山南路は砂漠の近くや標高4000~5000メートル地帯を通り抜ける必要があるため、厳しいルートです。
西域南道は同様に過酷なルートではありましたが、距離的には最短であるため利用者は多かったと言われています。

なお、草原の道を含めた陸路は紀元前から開かれていた(当時は船の技術が未熟で海は危険だった)のですが、人間と馬やラクダでは運べる荷物の量に限りがあります。
大量の物資を輸送するニーズが高まり、また羅針盤などを含めた航海技術が向上したことに伴い、徐々にオアシスの道の利用頻度は下がっていきます。
しかし、海路をイスラム商人に奪われていた中世ヨーロッパ人は、中国に行くのにこのオアシスの道を使用していました。
元に渡ったマルコ・ポーロも、オアシスの道(西域南道)を利用したと言われています。

漢と匈奴の勢力争いの舞台に

古代より、中国北方~西域(今のロシア、モンゴルの辺り)の遊牧騎馬民族と中国地域の漢民族の激しい争いが断続的に行われていました。
有名な万里の長城も、遊牧騎馬民族の侵入にあまりに手を焼いたからこそ、あれだけの長大な建築物をわざわざ造りあげたわけです。
あそこまでしてもメリットがあると思えるくらい、遊牧騎馬民族は強かったという状況証拠になります。

中国で漢王朝の始祖と言えば小説やマンガでも有名な「劉邦」ですよね。
この劉邦は、項羽を倒して中国を統一した後、西域進出を狙って「匈奴(きょうど)」と戦い、大敗北を喫しています。
これ以後、60年間はシルクロードを舞台とした東西交易を握ることはできず、むしろ匈奴に毎年絹や穀物を貢ぎ、皇女(姫ですね)を匈奴の君主に嫁がせる形で平和を維持していました。
要するに、漢王朝は匈奴の属国だったと言えるでしょう。

この属国状態から脱したのが第七代皇帝の「武帝」でした。
武帝は匈奴を破り、西域にまで領土を拡大するとともに、オアシスの道の東半分を掌握するに至りました。
この武帝の時代が漢(前漢)最盛期と言われていますが、その背景にもシルクロードが関係していたのです。

後漢・唐の西域進出

後漢・唐の西域進出

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次のページでは『後漢と古代ローマ帝国をシルクロードが結ぶ』を掲載!
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Writer:

和菓子好きの34歳男。某塾で歴史を教えていた経験があります。複雑な情報をうまく整理できたときの快感がたまらなく好きです。私の文章がそんな「快感」を共有できるものになれば・・・と思いながら、日々文章を書いています。

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