世界遺産「シルクロード」知れば歴史が好きになる?世界を結んだ交易ネットワーク

後漢と古代ローマ帝国をシルクロードが結ぶ

前漢滅亡後、いったん西域は中国王朝の支配下から抜け出します。
しかし、その後に後漢が興って中国の政治が安定に向かうと、この後漢は西域の諸王国を統合することに成功し、西域経営も復活させました。
後漢はさらに西の地域との交流を求めて、使者を現在のシリアの辺りまで送り込んだこともあるくらいです。
当時のシリア付近はローマ帝国が支配していましたから、東の後漢帝国と西の古代ローマ帝国という二大帝国が接触していたということになります。

後漢が滅びると、中国は「三国志」の時代に始まり分裂状態が数百年続きました。
それに合わせるように、オアシスの道付近にあった遊牧騎馬民族国家も分裂と統合を繰り返すようになります。
中国史には「南北朝時代」というのがありますが、この時の北朝は遊牧騎馬民族国家です。
軍事的に優位に立つ彼らが、中国の政治的分裂に乗じて侵入し、王朝を繰り返し築く状態でした。
ただ、騎馬民族ゆえに移動と分裂が激しく、部下の忠誠度も低い(すぐ撤退してしまう)ことから、国家の安定が長続きしていないのがこれら王朝の特徴です。

唐の西域経営とイスラム勢力

再び中国が統一されたのは、隋、そして唐の時代でした。
隋はたった二代37年間で滅びてしまいましたが、次の唐の時代にようやく中国は安定に向かいます。
それとともに、シルクロード(オアシスの道)を通じた西域との交易も発達していきます。
西域の商業民たちに輸送を委託したことで交易が活発化し、オアシスの道は唐の時代に全盛期を迎えます。
唐の都長安には、西域の商人たちがさかんに訪れて店を構えていました。
また、陸路では重い物資を持ち運びできませんから、当時の唐で生産されていた絹が交易品として好まれました。
絹は、使用価値を持った唐の特産品としてだけではなく、シルクロード周辺の都市国家における国際通貨としての役割も果たすようになりました。

最盛期に、唐の支配はオアシスの道の大部分に及ぶようになります。
しかし、それは同時代に勢力を急激に拡大し巨大な版図を手中に収めたイスラム勢力(アッバース朝)と国境を接することを意味していました。
751年、タラス河畔の戦いに敗れ、直後唐の内部で反乱が発生したこともあり、唐の西域での影響力は衰退していきます。
代わりにイスラム勢力が影響力を強め、中央アジアの各民族は次々とイスラム化していきました。

中央アジアのトルコ化とイスラム化

中央アジアのトルコ化とイスラム化

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トルコ系国家の進出

唐が弱体化して中央アジア地域から後退すると、中央アジアではじょじょにトルコ系民族が存在感を増していきます。
トルコというと、今ではヨーロッパとアラビア半島の中間辺りの国のことを指しますよね。
しかし、もとは中央アジア出身の民族でした。
特に、中国で「突厥(とっけつ)」と呼ばれるトルコ系国家は、6世紀から8世紀にかけて中央ユーラシアに一大帝国を築きあげます。
中国史にしばしば名前が挙がるのみならず、東ローマ帝国の資料にも「テュルク」として記録が残っています。
なお、「テュルク」と「トルコ」は学術的には若干異なる概念ではあるのですが、ひとまず同一のものとしてとらえて問題ありません。
この記事でも「トルコ」に統一します。

この「トルコ」の帝国が8世紀に崩壊するとトルコ系諸民族は分裂してさまざまな地域で王国を建国し、細分化していきます。
各種の都市国家が栄えたタリム盆地周辺にトルコ系民族が定住し、現在の中国ウイグル地区へ続いています。
彼らは、イランからアラビア半島を支配していた各種イスラム勢力に近かった(交易・戦争)ため、各種の都合からイスラム教を受容するようになっていきます。

イスラム化・トルコ化の進行

すでに8世紀頃から中央アジアにはイスラム教が広まり始めていましたが、よりトルコ系民族とイスラム勢力との結びつきを強めたのが「奴隷」の仕組みでした。
先にも述べたとおり、遊牧騎馬民族は軍事力や戦闘力の高い人々です。
イスラム勢力は、トルコ系民族と戦って捕虜とすると、奴隷の傭兵としてこれを利用します。
トルコにおけるイスラム化が進んだのはもちろん、逆にイスラム勢力におけるトルコ化が進みました。
時には、奴隷となったトルコ系民族出身者が出世し、イスラム王朝を樹立する例も各地で見られました(後のオスマン帝国も「オスマン・トルコ」と言われるようにトルコ系ですね)。
中央アジアと中国との陸路のつながりは薄れていきますが、今度は新たな世界帝国となったイスラム勢力とのつながりを強めていく結果となります。
トルコ系民族が、中央アジアから西側へ拡大していったとも見ることができます。

13世紀には、中央アジア全域はモンゴルの支配下に置かれました。
しかし、トルコ系民族の方がモンゴル人よりも多かったので、中央アジアではモンゴル人もトルコ化・イスラム化していきました。

オアシスの道の衰退

オアシスの道の衰退

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イスラム商人による海上ルートの勃興

8世紀になって、イスラム勢力がアラビア半島からイランを中心に勢力を拡大しました。
これらの地域は、中央アジアと異なり海に接していますから、後述する「海の道」を経由してイスラム商人たちがインドや東南アジア各国、中国へ向かうケースが増加していきます。
また、船の方が多くの積み荷を積み込むことが可能でした(危険であることには変わりないのですが)ので、効率的でもありました。
これ以降、東西交易路の中心はオアシスの道から海の道へ移っていきます。

ただし、中央アジアの諸民族にとっては、これ以降の時代にもオアシスの道を中心とした東西南北各地との交易が経済力の中心をなしていたことは間違いありません。
先にも述べたとおり、モンゴル帝国がユーラシア大陸の広大な領土を手中に収めた13世紀以降、極東地区(中国)と中央アジア、イスラム勢力、ヨーロッパとのつながりが盛んになります。
その際にも、オアシスの道は重要な役割を果たしました。
繰り返しになりますが、マルコ・ポーロはオアシスの道を利用して祖国ヴェネツィアから元まで渡ったのですから。

ヨーロッパ人による新航路発見

シルクロード、特にオアシスの道衰退の決定的な要因となったのが、ヨーロッパ人による「大航海時代」の幕開けです。
中世ヨーロッパでは、インド原産の香辛料需要が高まっていたものの、シルクロードを利用したくてもイスラム勢力に阻まれてしまい、なかなか交易に参加することができませんでした。

そこで彼らが目につけたのが、西から東のインドへ行くのではなく、逆に東の海から回り込むことでした。
ヨーロッパは大西洋に面していますから、「地球は丸い」のであればイスラム商人に邪魔されることなくインドへ到達できるはずです。
命知らずで野心に満ちたヨーロッパ商人・探検隊は、こぞって新航路発見へ乗り出します。

はじめて大西洋~太平洋経由でインドへ到達したのはヴァスコ・ダ・ガマの船隊でした。
これによって「地球は丸い」ということが証明されるとともに、「ついで」で発見してしまった新大陸=南北アメリカ大陸の植民地化を開始します。
シルクロードを経由しないヨーロッパ人が世界史の中心へ踊り出したことで、シルクロード(オアシスの道)は衰退していったのでした。

「海の道」と東西交流

「海の道」と東西交流

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古代ローマ人が中国まで来ていた!

最後に、第三のシルクロードである「海の道」についてご説明します。
海の道は、ヨーロッパからインド、東南アジア、中国まで至る大陸沿岸の海路を指しています。
もちろん、古代のことですから造船技術は発達していません。
三角形の帆を張った「ダウ船」という船で数千キロメートルを行き交う必要がありました。
ただ、季節風が安定して東西に吹いていましたので、危険ではありますが海路の旅も不可能ではありません。
エジプトでは、紀元前3世紀頃から海路を通じてインドと交易を行っており、その後エジプトを征服した古代ローマ帝国はこの交易をさらに拡大。
ローマ商人は、海の道経由でインドから中国にまで到達します。
つまり、草原の道よりは時代が下りますが、オアシスの道と同じくらいの長い歴史を持つ東西交易路だったのです。

古代ローマ人がインドや中国にまで到達していたことは、考古学的な発見によって証明されています。
南インドの王朝の遺跡からは、記録書や古代ローマの金貨などが発見されていますし、中国の記録にも古代ローマ人が絹を求めて船で中国を訪れたと残っています。
古代ローマ帝国だけではなく、ペルシャやインド、東南アジアの諸国もこの海の道を利用して交易に参加し、経済力の源としていました。

荒れた海と海賊の横行

海上の交易路が確立されても、沿岸にある国家が安定していない、また国家間の関係が安定していないと発展はしていきません。
各国の争いが激しくなると、海上を安全に(危害を加えられることなく)行き交うことができなくなります。
また、イスラム商人が登場する8世紀頃までは航海の技術に限界がありましたので、船が沈没して人・物資とも海の藻くずと消えてしまう可能性も高かったのです。

さらに、これは陸と同じですが、海の場合も盗賊=海賊の存在に各国とも悩まされました。
日本でも、室町時代に中国(明)との貿易が始まる頃に「倭寇」という海賊が中国沿岸を荒らし回っており、問題化していました。
これは、中国南部において海上交易が発達したことの裏返しとして、その富の強奪を狙う沿岸部族が多く存在していたからです(倭寇は日本人・朝鮮人・中国人などで構成されていたとされています)。
倭寇の活動が中国の巨大王朝=元の衰退に合わせて出てきたように、海の道の交易を国家がコントロールしきれなくなると勝手な貿易や海賊活動が活発になるのです。
こうした動きもあって、なかなか海の道はスムーズに発展していきませんでした。

イスラム商人の進出と中国王朝の覇権

イスラム商人の進出と中国王朝の覇権

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