なぜ起きた?古代史上最大の内乱「壬申の乱」とは?

「壬申の乱」。この歴史の一幕を知らない方も意外に多いのではないでしょうか。古代史上最大の内乱と言われており、叔父と甥による天皇の座を巡る皇位継承争いです。そして、この争いは畿内全域の民衆を巻き込んだ壮大な内乱となりました。なぜ、この内乱が起きてしまったのでしょうか?歴史の流れと主要人物について詳しく見ていきましょう。

壬申の乱とは

壬申の乱とは

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壬申の乱が起きたのは、今から1300年以上も前の672年。
第38代天智天皇の崩御後に起きた皇位後継者争いです。
天智天皇の息子と天智天皇の弟による次期天皇を巡る古代史上最大の内乱でした。

それ以前にも皇位継承を巡る争いは、幾度となく起こっていましたが、この「壬申の乱」が着目される大きな理由は、一族や皇族同士の争いの枠を超えて一般の民衆を巻き込んだ争いに発展したことにあります。
当時は、必ずしも天皇の皇子が皇太子となり天皇となる決まりはありませんでした。
そのため、皇位継承の都度争いは絶えませんでした。
しかし、この壬申の乱は、皇位継承争いが畿内全域を巻き込んだ古代史最大の合戦になってしまったのです。

この内乱が起こった経緯を主要人物を中心として詳しくみていきましょう。

壬申の乱はなぜ起きたのか?

発端者 天智天皇(てんじてんのう)

第38代天智天皇。
即位前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と言いました。
父は第35代舒明天皇(じょめいてんのう)・母は第36代皇極天皇(こうぎょくてんのう)です。
兄弟には、異母兄に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)・同母弟は大海人皇子(おおあまのおうじ)後に天武天皇(てんむてんのう)となります。
・同母妹に孝徳天皇の皇后である間人皇女(はしひとのひめみこ)がいました。

天智天皇は、中臣鎌足とともに「大化の改新」を実行。
当時の有力豪族であった蘇我氏を討ち,天皇中心の集権国家建設に尽力しました。
しかし、異母兄であった古人大兄皇子・甥であった有馬皇子・義父であった蘇我倉山田石川麻呂などを殺害したり、強引な政治政策を行ったため、豪族達の不満もありました。
そのためであったか、667年に代々続いた飛鳥にあった都を近江大津(現在の滋賀県)に遷都。
渡来人(大陸から渡ってきた外人)の登用や冠位制度の整備,近江令制定,日本で初めての戸籍である庚午年籍を作成など多くの偉業を成し遂げ増した。

この天智天皇を陰で支えたのが同母弟である大海人皇子でした。
当初、人格も血統の上でも問題がない大海人皇子が皇太弟として、次期天皇に最も近い存在でした。
しかし、天智天皇も人の親です。
我が子である秀才と評判であった大友皇子に天皇の位を譲りたいと願ってしまいました。
しかし、大友皇子の母は、宮廷で働いている女官で身分が低く、当時は母の血統が重んじられていたので、皇太子とはなれませんでした。
天智天皇は、強引に日本では同母兄弟間での皇位継承の慣例を、唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子への継承)の導入として押し進めていきました。
政治的にも強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子などの不満を高めていき、叔父である大海人皇子VS甥である大友皇子の跡目争いが始ってしまうのです。

次期天皇最有力候補 大海人皇子(おおあまのおうじ)

第40代天武天皇。
即位前は大海人皇子と言いました。
天智天皇と同母弟と言われているので、父母兄弟は天智天皇と同じ。
皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)で兄である天智天皇の娘です。
この皇女は後に持統天皇となります。

先に述べた天智天皇は、皇太子でいた期間がとても長かったので、天皇としの在位期間は短くわずか4年でした。
それを陰で支えたのは大海人皇子でした。
現在のように天皇は、必ずしもその息子がなるわけではなく、天皇の弟や叔父が次期継承者なる場合も少なくなかったのです。
天智天皇の跡継ぎも、天智天皇の同母弟である大海人皇子が最有力候補でした。
天智天皇と長い間、政治的にも行動を共にしており、天智天皇の娘を次々と4人妻としています。

また、大海人皇子の娘や息子は、天智天皇の娘と息子と多く婚姻関係を結んでいました。
668年、大海人皇子は、兄である中大兄皇子が即位して天智天皇となると、正式に皇太弟として政治を補佐し支えます。

しかし、天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)が成人すると、天智天皇は秀才と評判であった愛息子である大友皇子を後継者にしたいと望みます。
そして、跡継問題で両者は対立するようになってしまいます。
671年に大友皇子は、政治の中枢を担う太政大臣に任命されます。
これにより大海人皇子は次第に政治の舞台から遠ざけられるようになってしまいました。
そして、天智天皇の病がいよいよ重くなった671年、天智天皇は大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとしました。
これは、「罠かもしれない。」と警戒した大海人皇子は、天智天皇に大友皇子を皇太子として推挙しました。
そして、自らは出家して僧侶となり、わずかな兵と皇后を引き連れて吉野に去っていきました。
そして、天智天皇が亡くなると、挙兵し大友皇子との古代史最大の内戦といわれる「壬申の乱」が起こるのです。







太政大臣 大友皇子(おおとものおうじ)

大友皇子は、天智天皇の第一皇子。
母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)です。

「天皇の息子だし、大友皇子が皇太子となり次の天皇となるのでは?」と思う方も多いとはず。
しかし、当時、天皇になる資格は父が天皇というだけでなく、母の出身も大切な要素でした。

天皇を継承できる資格は、第一に皇族出身の皇后や妃を母とする皇子でした。
天皇にそのような皇子が生まれなければ、第二は、有力な大臣の娘が后や妃となり生まれた皇子でした。
大友皇子の母親はというと、そのどちらにも当てはまらず天智天皇に仕える女官だったといわれています。
そのため、慣例に従えば、大友皇子は、次期天皇になるための皇位継承の資格がありませんでした。
そのため父母が皇族出身で、なおかつ天皇であった大海人皇子が皇太弟で次期天皇最有力候補だったのです。

しかし、古代でもやはり当然親子の情はありました。
また、大友皇子は、当時の『懐風藻』(かいふうそう)という書物に”皇子博学多通 文武ノ才幹”と記載されおり、とても優秀で聡明な皇子だったようです。
聡明で優秀な我が子が可愛い!親ならば、当然の想いですよね。
晩年、天智天皇は、皇位を可愛い我が息子に継がせたくなってしまうのです。
そこで天智天皇は、大友皇子が成人すると「太政大臣」(だじょうだいじん)という地位を与え、政治の中枢に立たせます。
この時、日本史上初の「太政大臣」という官職が登場したのです。
新しいポストを作り、大友皇子を政治の中枢に迎え入れたことにより、次期天皇の最有力候補である大海人皇子は、その地位を奪わてしまい政治の中枢から孤立してしいます。
そして、大友皇子と敵対する立場になってしまい「壬申の乱」がおこることとなります。

余談ですが、大友皇子の妻は、大海人皇子と女流歌人で有名な額田王の間に生まれた十市皇女でした。
夫と父の争いに巻き込まれた皇女も、古代史の悲劇に飲み込まれた悲しい女性だったのです。

いざ壬申の乱へ

いざ壬申の乱へ

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大海人皇子 吉野での決起!

大海人皇子が天智天皇が治めていた大津の都を出て、吉野へ向かうとき,見送った人々は,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放したようなものだ」と言ったと伝えられています。

672年、出家した大海人皇子は、妻の鸕野讃良皇女・息子である草壁皇子(くさかべのおうじ)と忍壁皇子(おさかべのおうじ)数人の舎人(身辺を警護する者)を伴い70人ほどで都から吉野に隠遁しました。
そこで大海人皇子に緊急事態が知らされます。
近江の朝廷(大友皇子が中心)が天智天皇の陵(墓)を造ると言う名目で美濃と尾張の農民を集めて,武器も持たせているという知らせでした。
同時に、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りの者たちが置かれ,さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉鎖する動きも伝わってきました。
これらの情報をもとに大海人皇子は、自分の身が危ういことを悟り、大友皇子と戦うことを決意するのです。

まず、自分たちの身を安全な場所に移すため、大海人皇子は、自分の私領地がある美濃(現在の岐阜県)へ脱出を試みます。
それと当時に、舎人たちに東国(現在の三重県・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう命じ挙兵の準備を進めました。
息子である高市皇子(たけちのおうじ),大津皇子(おおつのおうじ)を都から脱出させ、東国の兵を集めることを部下たちに指示。
大海人皇子自身は妻の鸕野讃良皇女・息子である草壁皇子(くさかべのおうじ)と忍壁皇子(おさかべのおうじ)や数人の舎人や侍女らと吉野宮を出ました。
美濃に目指し、まず伊賀に向かって進んでいきました。

次のページでは『大海人皇子 吉野から行宮へ』を掲載!
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