「士農工商」を知れば、江戸時代のくらしが身近に感じられる

「士農工商」って江戸時代に徳川幕府がつくった言葉でしょ。そう思ったあなた、答えはノーです。

「士農工商」というのはもともとは儒教の考え方から来ています。社会の構成要素として、役人・農民・職人・商人、つまり本来は「さまざまな職業の人」のような意味の言葉です。

ただ言葉の本来の意味はともかく、かつての日本に「士農工商」 のような区分があったことは事実です。本当に武士は威張っていたのでしょうか、身分は固定化されていたのでしょうか、農民は悲惨だったのでしょうか。「士農工商」を軸に江戸時代の社会や人々の生活をみてみましょう。

そもそも士農工商とは

そもそも士農工商とは

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士農工商それぞれにはどんな人が含まれるの

士農工商のトップ、「士」とはつまり武士、いわゆるおさむらいですね。
上は幕府のトップである征夷大将軍から下はどこかの藩の足軽まで。
時代劇などをみていると、江戸時代っておさむらいばっかりいたような気がしますが、実は「士」身分、つまり武士とその家族は、当時の全人口の7%程度にしかすぎません。
「武士」といっても江戸時代にはほとんど戦争はありませんでしたから、その仕事は官僚、つまりはお役人でした。
「遠山の金さん」も「大岡越前」も官僚だったのです。

一方、全人口の85%と圧倒的多数を占めていたのが農民。
江戸時代の日本人の圧倒的多数は農民だったのです。
こちらも広大な土地を持つ「庄屋さま」から、その日暮らしの小作人までさまざま。
「工」にあたる職人と「商」の商人を合わせた町人層は全人口の5%ほど。
時代劇の登場人物には圧倒的にこの層の人たちが多いのですが、実は少数派だったようです。
 

そのほか、これらに含まれない公家・僧侶・神官とその家族などがいましたが、さらに少数派。
以前は「士農工商」とは、身分のヒエラルキーを表す言葉とされていましたが、最近の研究では、身分内の格差はあるものの「農工商」の間に上下はなく、また「工商」は特に区別されず「町人」とされていたといわれています。

なぜ身分を固定する必要があったの

とはいえ、実際には職人仕事や商業に従事していた「農民」もいたといいます。
そりゃそうですよね。
全人口の5%のひとだけが江戸時代の「工商」をになっていたとは考えづらいです。
「農民」として分類されていたのは厳密には「農業従事者」とは限らず、「農村に籍がある人」にすぎませんでした。

ではなぜこのような分類が必要だったのでしょうか?その理由は「税」にありました。
農民の「税」はいわゆる年貢です。
一方町人は?実は江戸時代初期の町人には税がありませんでした!というのも町人の所得を把握する方法がない、というか把握するには非常に手間がかかったからです。
農民の年貢は、土地の石高(想定収穫量だと思ってください)にもとづいているので取り立てやすいのですが、職人の工賃や商人の収入を把握するのは困難でした。
とはいえ町屋の間口に応じた固定資産税のようなものや、職人の組合やさまざまな許認可権などの特権に対して運上や冥加(みょうが)という「税のようなもの」を取り立てるようになりました。
武士は基本的に「お役目」つまり税をおつとめという形で身体で払っていました。
役についていない武士は何らかのものを納める必要があったようですが、そもそも武士がお上から受け取る報酬の原資は農民が納めた年貢です。
「安定した財源」として年貢を納めてくれる農民が減ってしまうと税収減になってしまうので、財政の安定のために身分を固定化し、農民が減らないようにする必要があったと考えられます。

武士とひとことで括れない上下貧富の差

武士とひとことで括れない上下貧富の差

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直参と陪臣、お目見得以上とお目見得以下

さて、支配階級と言われつつ実は身体を張って、公のためにおつとめしていた武士。
「征夷大将軍から足軽まで」と書きましたが、まさに武士階級は階級内格差社会でした。
武士にもいろいろな階層や種類があったのです。

まず幕府直轄かどうか。
幕府の直轄とは将軍の直接の家来のことで「直参(じきさん)」といいます。
一方、各藩の大名の家臣である武士=藩士のことは「陪臣(ばいしん)」といいます。
藩のトップである大名は直参ですから、将軍から見て直接の家来ではない、ということですね。

直参には、お目見え以上の旗本(はたもと)とお目見え以下の御家人(ごけにん)がいました。
「お目見え」とは将軍に直接面会できるかできないかの違いです。
旗本の多くは 知行といわれる領地を持つ「殿様」でしたが、御家人の多くは領地を持たず、幕府から蔵米と言われる米や現金を支給される、いわばサラリーマン。
といっても武士は官僚ですから公務員だったんですけどね。

幕府の直参の武士が「旗本」か「御家人」かは収入や知行の有無とは関係なく「お目見え」できるかできないかのみで区別されていたので、中には裕福な知行取りの御家人も知行を持たず苦しい生活を強いられていた旗本もいたようです。
時代劇でおなじみの町奉行や、忠臣蔵で討ち入りされてしまった吉良上野介のような「高家(こうけ)」なども旗本ですが、このような役職につく旗本は守護大名の子孫など名門の家系の者がほとんどでした。

陪臣=藩士身分も、藩によってさまざまでした

知行取り、つまり領地を持つ旗本でも、その領地は200石から9,000石以上とかなり開きがありました。
1石とは、大人が1年間に食べる米の量のこと、すなわち1,000石の知行とは「大人1,000人を食べさせていける領地」という意味です。
知行の石高が1万石を超える直参の武士は、旗本ではなく大名になります。
江戸時代は全国の7割強が、大名領地でした。
いわゆる「藩」です。

藩に所属する武士を藩士といいますが、どのクラスまでを正式な藩士とみなすかは、藩の歴史や事情によりさまざまでした。

多くの藩では武士は騎士、徒士(かち)、卒の三段階に分かれていました。
騎士とは馬に乗ることを許された武士で上士ともいいます。
家老をはじめとする藩政を取り仕切る幹部で、領地を持つ知行取りでした。
一方、徒士は馬に乗ることを許されない身分で蔵米取りです。
卒とはいわゆる足軽身分で、藩によっては「士」と認められないケースもありました。

このほかに武士と農民の中間のような「郷士」という身分を設けている藩もありました。
もともとはその藩の大名でなかった土着の侍などが多く、日頃は農業に従事していましたが、武士の特権とされていた名字帯刀は許されていました。
ほかに裕福な農民や商人などが藩への献金によって士分(武士として扱われること)として取り立てられた例もありました。
郷士は格としては、一般の藩士より下に置かれることが多かったのですが、多くの藩では、徒士などよりも経済的に豊かだったようです。

武士の起源と武士階級の成立をおさらい

武士の起源と武士階級の成立をおさらい

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もともとはセレブのボディガードだった侍

武士のことを「さむらい」といいますよね。
野球の日本代表はサムライJAPAN、サッカーの日本代表のユニフォームはサムライブルー、なんだか日本人の象徴のようなこの言葉、漢字で書くと「侍」。
この文字、どこかで見たことありませんか。
そう、皇室などに仕える侍従の「侍」です。

平安時代に身分の高い貴族のそばに仕えることを「さぶらう」といいました。
「さぶらう」の名詞形としての「さぶらい」が、やがて「さむらい」に転化したと考えられています。
当時、力のある貴族は寺を建てたり、隠居後は出家して寺にいたりしたので「寺にいる(ようなランクの)貴人に仕える人」ということで、

「侍」と書いて、さむらいと読むようになりました。
「さぶらう」という言葉はもともと「守る」という意味、さむらいの起源はVIPのボディガードだったのです。

古代から兵士や衛士はいましたが、それらは貴族や豪族の家の使用人だったり、税の一種としての「期間限定のおつとめ」でした。
職業としての武士、さむらいが確立したのは平安時代中期からです。
もともとは、中央から派遣された貴族が土着化して力を持ったものと、自分で開発した土地を守る農民の自警団から成っていたと考えられます。

身分を固定化させたのは秀吉だった

土着化し、武士となった貴族の代表的存在が平氏と源氏です。
源平合戦に勝利した源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開いたことから、いわゆる武家政治が始まり、政治の中枢を占める官僚のほとんどが武士となります。
当時の武士の多くは領地を持っていましたが、戦のない時は普通に農業を営む実質「武装農民」も多かったようです。
この傾向は一部の支配層を除き、室町時代末期まで続きます。

戦国の世になると、皇族や有力貴族、一部の守護大名などを除き、それまでの身分は一変します。
天下統一をなしとげた豊臣秀吉は貴族でも武士でもなく農民の出身だったようです。

ところが、この秀吉、自分が一介の庶民から関白という天皇の代行もできる身分にのし上がったにもかかわらず、刀狩り令を出して、武士以外の身分の者が刀などの武器を持つことを禁止しました。
これにより「普段は農業をして、戦がある時は戦う」とか「自分の農地は自ら武器を持って守る」というような武装農民はいなくなり、江戸時代の「官僚としての武士階級」と「それ以外」の身分の固定化が進みました。
自分はどんどん身分が変わっていたのに、民に身分変更を禁止するなんてずいぶんな気もしますが、太平の世になったにもかかわらず、そこらじゅうの農家が武装していたら、また戦乱が起こりかねない、という懸念と、世の経済を安定させるための基本の産業として「農民は農業に専念させる」というねらいがあったのでしょう。

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