「士農工商」を知れば、江戸時代のくらしが身近に感じられる

「士農工商」って江戸時代に徳川幕府がつくった言葉でしょ。そう思ったあなた、答えはノーです。

「士農工商」というのはもともとは儒教の考え方から来ています。社会の構成要素として、役人・農民・職人・商人、つまり本来は「さまざまな職業の人」のような意味の言葉です。

ただ言葉の本来の意味はともかく、かつての日本に「士農工商」 のような区分があったことは事実です。本当に武士は威張っていたのでしょうか、身分は固定化されていたのでしょうか、農民は悲惨だったのでしょうか。「士農工商」を軸に江戸時代の社会や人々の生活をみてみましょう。

そもそも士農工商とは

そもそも士農工商とは

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士農工商それぞれにはどんな人が含まれるの

士農工商のトップ、「士」とはつまり武士、いわゆるおさむらいですね。
上は幕府のトップである征夷大将軍から下はどこかの藩の足軽まで。
時代劇などをみていると、江戸時代っておさむらいばっかりいたような気がしますが、実は「士」身分、つまり武士とその家族は、当時の全人口の7%程度にしかすぎません。
「武士」といっても江戸時代にはほとんど戦争はありませんでしたから、その仕事は官僚、つまりはお役人でした。
「遠山の金さん」も「大岡越前」も官僚だったのです。

一方、全人口の85%と圧倒的多数を占めていたのが農民。
江戸時代の日本人の圧倒的多数は農民だったのです。
こちらも広大な土地を持つ「庄屋さま」から、その日暮らしの小作人までさまざま。
「工」にあたる職人と「商」の商人を合わせた町人層は全人口の5%ほど。
時代劇の登場人物には圧倒的にこの層の人たちが多いのですが、実は少数派だったようです。
 

そのほか、これらに含まれない公家・僧侶・神官とその家族などがいましたが、さらに少数派。
以前は「士農工商」とは、身分のヒエラルキーを表す言葉とされていましたが、最近の研究では、身分内の格差はあるものの「農工商」の間に上下はなく、また「工商」は特に区別されず「町人」とされていたといわれています。

なぜ身分を固定する必要があったの

とはいえ、実際には職人仕事や商業に従事していた「農民」もいたといいます。
そりゃそうですよね。
全人口の5%のひとだけが江戸時代の「工商」をになっていたとは考えづらいです。
「農民」として分類されていたのは厳密には「農業従事者」とは限らず、「農村に籍がある人」にすぎませんでした。

ではなぜこのような分類が必要だったのでしょうか?その理由は「税」にありました。
農民の「税」はいわゆる年貢です。
一方町人は?実は江戸時代初期の町人には税がありませんでした!というのも町人の所得を把握する方法がない、というか把握するには非常に手間がかかったからです。
農民の年貢は、土地の石高(想定収穫量だと思ってください)にもとづいているので取り立てやすいのですが、職人の工賃や商人の収入を把握するのは困難でした。
とはいえ町屋の間口に応じた固定資産税のようなものや、職人の組合やさまざまな許認可権などの特権に対して運上や冥加(みょうが)という「税のようなもの」を取り立てるようになりました。
武士は基本的に「お役目」つまり税をおつとめという形で身体で払っていました。
役についていない武士は何らかのものを納める必要があったようですが、そもそも武士がお上から受け取る報酬の原資は農民が納めた年貢です。
「安定した財源」として年貢を納めてくれる農民が減ってしまうと税収減になってしまうので、財政の安定のために身分を固定化し、農民が減らないようにする必要があったと考えられます。

武士とひとことで括れない上下貧富の差

武士とひとことで括れない上下貧富の差

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直参と陪臣、お目見得以上とお目見得以下

さて、支配階級と言われつつ実は身体を張って、公のためにおつとめしていた武士。
「征夷大将軍から足軽まで」と書きましたが、まさに武士階級は階級内格差社会でした。
武士にもいろいろな階層や種類があったのです。

まず幕府直轄かどうか。
幕府の直轄とは将軍の直接の家来のことで「直参(じきさん)」といいます。
一方、各藩の大名の家臣である武士=藩士のことは「陪臣(ばいしん)」といいます。
藩のトップである大名は直参ですから、将軍から見て直接の家来ではない、ということですね。

直参には、お目見え以上の旗本(はたもと)とお目見え以下の御家人(ごけにん)がいました。
「お目見え」とは将軍に直接面会できるかできないかの違いです。
旗本の多くは 知行といわれる領地を持つ「殿様」でしたが、御家人の多くは領地を持たず、幕府から蔵米と言われる米や現金を支給される、いわばサラリーマン。
といっても武士は官僚ですから公務員だったんですけどね。

幕府の直参の武士が「旗本」か「御家人」かは収入や知行の有無とは関係なく「お目見え」できるかできないかのみで区別されていたので、中には裕福な知行取りの御家人も知行を持たず苦しい生活を強いられていた旗本もいたようです。
時代劇でおなじみの町奉行や、忠臣蔵で討ち入りされてしまった吉良上野介のような「高家(こうけ)」なども旗本ですが、このような役職につく旗本は守護大名の子孫など名門の家系の者がほとんどでした。

陪臣=藩士身分も、藩によってさまざまでした

知行取り、つまり領地を持つ旗本でも、その領地は200石から9,000石以上とかなり開きがありました。
1石とは、大人が1年間に食べる米の量のこと、すなわち1,000石の知行とは「大人1,000人を食べさせていける領地」という意味です。
知行の石高が1万石を超える直参の武士は、旗本ではなく大名になります。
江戸時代は全国の7割強が、大名領地でした。
いわゆる「藩」です。

藩に所属する武士を藩士といいますが、どのクラスまでを正式な藩士とみなすかは、藩の歴史や事情によりさまざまでした。

多くの藩では武士は騎士、徒士(かち)、卒の三段階に分かれていました。
騎士とは馬に乗ることを許された武士で上士ともいいます。
家老をはじめとする藩政を取り仕切る幹部で、領地を持つ知行取りでした。
一方、徒士は馬に乗ることを許されない身分で蔵米取りです。
卒とはいわゆる足軽身分で、藩によっては「士」と認められないケースもありました。

このほかに武士と農民の中間のような「郷士」という身分を設けている藩もありました。
もともとはその藩の大名でなかった土着の侍などが多く、日頃は農業に従事していましたが、武士の特権とされていた名字帯刀は許されていました。
ほかに裕福な農民や商人などが藩への献金によって士分(武士として扱われること)として取り立てられた例もありました。
郷士は格としては、一般の藩士より下に置かれることが多かったのですが、多くの藩では、徒士などよりも経済的に豊かだったようです。

武士の起源と武士階級の成立をおさらい

武士の起源と武士階級の成立をおさらい

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もともとはセレブのボディガードだった侍

武士のことを「さむらい」といいますよね。
野球の日本代表はサムライJAPAN、サッカーの日本代表のユニフォームはサムライブルー、なんだか日本人の象徴のようなこの言葉、漢字で書くと「侍」。
この文字、どこかで見たことありませんか。
そう、皇室などに仕える侍従の「侍」です。

平安時代に身分の高い貴族のそばに仕えることを「さぶらう」といいました。
「さぶらう」の名詞形としての「さぶらい」が、やがて「さむらい」に転化したと考えられています。
当時、力のある貴族は寺を建てたり、隠居後は出家して寺にいたりしたので「寺にいる(ようなランクの)貴人に仕える人」ということで、

「侍」と書いて、さむらいと読むようになりました。
「さぶらう」という言葉はもともと「守る」という意味、さむらいの起源はVIPのボディガードだったのです。

古代から兵士や衛士はいましたが、それらは貴族や豪族の家の使用人だったり、税の一種としての「期間限定のおつとめ」でした。
職業としての武士、さむらいが確立したのは平安時代中期からです。
もともとは、中央から派遣された貴族が土着化して力を持ったものと、自分で開発した土地を守る農民の自警団から成っていたと考えられます。

身分を固定化させたのは秀吉だった

土着化し、武士となった貴族の代表的存在が平氏と源氏です。
源平合戦に勝利した源氏の源頼朝が鎌倉幕府を開いたことから、いわゆる武家政治が始まり、政治の中枢を占める官僚のほとんどが武士となります。
当時の武士の多くは領地を持っていましたが、戦のない時は普通に農業を営む実質「武装農民」も多かったようです。
この傾向は一部の支配層を除き、室町時代末期まで続きます。

戦国の世になると、皇族や有力貴族、一部の守護大名などを除き、それまでの身分は一変します。
天下統一をなしとげた豊臣秀吉は貴族でも武士でもなく農民の出身だったようです。

ところが、この秀吉、自分が一介の庶民から関白という天皇の代行もできる身分にのし上がったにもかかわらず、刀狩り令を出して、武士以外の身分の者が刀などの武器を持つことを禁止しました。
これにより「普段は農業をして、戦がある時は戦う」とか「自分の農地は自ら武器を持って守る」というような武装農民はいなくなり、江戸時代の「官僚としての武士階級」と「それ以外」の身分の固定化が進みました。
自分はどんどん身分が変わっていたのに、民に身分変更を禁止するなんてずいぶんな気もしますが、太平の世になったにもかかわらず、そこらじゅうの農家が武装していたら、また戦乱が起こりかねない、という懸念と、世の経済を安定させるための基本の産業として「農民は農業に専念させる」というねらいがあったのでしょう。

圧倒的多数を占めた農民

圧倒的多数を占めた農民

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土地を持たない小作農から広大な地主である豪農まで

江戸時代の日本人の大多数を占めた農民。
時代劇などに出てくる農民といえば、年貢に苦しみ食うや食わずで、冬の間は出稼ぎに、娘は女郎に、といった悲惨な生活が連想されますが、本当にそうだったのでしょうか。

確かに農業は自然環境に大きく左右されますし、ビニールハウスなどなかった時代、冬の寒さや天候不順で大変な思いをした人々がいたのは事実ですが、ひとくくりに農民といっても、その中の格差は激しかったよう です。

ベーシックな農民は自らの耕作地を持つ本百姓で、所有する土地に応じて年貢を納めていました。
本百姓の中にはかつて武士だったものの戦国の世が終わった時に武装をやめて農業に専念した者もいました。
中には有力武将や土着化した貴族の末裔も。
こういった層には広い土地を所有する地主が多く、村名主や庄屋と呼ばれる村役人を務めていました。
今でも地方の名士といわれる人の中には庄屋さんの末裔が多くいます。
あの麻生太郎氏も九州の大庄屋の末裔です。
このランクは農民とはいえ名字帯刀を許されていた家も多かったようですね。

一方、自前の土地を持たない小作人は、年貢ではなく地主に「地代」を払っていました。
時代劇に出てくる「悲惨な農民」のイメージに近いのはこの人たちかもしれません。

「慶安の御触書」が出された背景を考えてみると

江戸時代の慶安二年(1649年)に農民に向けて出された「慶安の御触書(けいあんのおふれがき)」という文書があります。
この直前に大きな飢饉などがあったため、農民に注意喚起するためのものともいえますが、内容を現代人が見てみると「よけいなお世話」のオンパレード。

「名主を親と思え」「健康に気をつけ、病気にならないようにしろ」「年老いた親を大切にしろ」はいいとして、「酒や茶を飲むな」「たばこは腹の足しにならないし、火事の原因にもなるから吸うな」「いくら美人でも夫をないがしろにして遊んでばかりいる妻は離縁しろ」なんて本当によけいなお世話です。
「百姓って考えが浅いから収穫した米、すぐに食べちゃうでしょ。
ちゃんと冬のこと考えて雑穀や大根の葉っぱやイモや小豆の葉っぱなんかも捨てずに工夫して食べなさいね」とか「年貢さえおさめれば百姓ほどラクなものはないんだからね」に至っては、お上といえど失礼にもほどがある、もっと違う書き方はなかったのかと。

これを取り上げて「抑圧された農民たち」とする見方もありますが、逆に御触書を出さなくてはならない状況があったということでもあります。
冬にひもじい思いをすることはあったかもしれませんが、日頃は酒や茶を楽しみ、夫を尻に敷く美人妻にへーコラしている夫、がいたのでしょうね。

手に職があって、休憩時間もたっぷり。勝ち組だったかもしれない職人さん

手に職があって、休憩時間もたっぷり。勝ち組だったかもしれない職人さん

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大工さんや武器職人から伝統工芸の担い手まで

「士農工商」の「工」にあたる職人さんが独立した職業、身分として居住していたのは城下町などの都市部だけでした。
もちろん農村にも職人の仕事をしている人はいたのですが統計上は農民としてカウントされていました。

古代から職人はいました。
代表的なのは建物などを作る大工さんと刀鍛冶などの武器職人、ほかにも日用品や工芸品を作る人はいましたが、一部を除いて貴族や有力武士のお抱えか、農業や商家が家内工業として行っていたものが、安土桃山時代に都市部に集中し、その後世の中が平和になると多様化してきます。

食器などの日用品や染色、かんざしや置物などの工芸品も装飾的になっていきました。
地元から他国へ流通するようになり、地域経済をうるおすようになったものの中には、有田焼や輪島塗、加賀友禅など現代でも伝統工芸として高く評価されいるものも多くあります。
幕府や藩が奨励し、他国へ販売したもののほかに、領内に神社仏閣などの観光名所を持つところでは「みやげもの」として売り出し、やがて地域の伝統工芸品として認知されていった例もあったようですね。
いまも残る香川県の丸亀うちわなどはこの例で、金比羅神社にお参りする人たちに向けたみやげものとして売り出したのが始まりです。

江戸時代の職人さんはホワイト職場、10時と3時はおやつの時間

「おやつ」って言葉がありますね。
この語源は江戸時代の職人の生活からきています。
当時の職人さんの稼働時間は朝7時から午後5時まで、ちょっと労働時間が長いような気がしますが、お昼休みはたっぷり1〜2時間、そのほかに午前中1回、午後1回の休憩時間がありました。
どうみても実働時間は8時間以内、下手すると4時間程度。
しかも当時は職住接近ですから1時間以上満員電車に揺られることなんかあり得ない、なんてホワイトな職場なんでしょう。

話は「おやつ」に戻ります。
この午後の休憩時間は八つ時、いまの14〜16時のあたりで、この八つ時に食べる軽食のことを「おやつ」と呼ぶようになり、現代の時間に関係なく三食以外の間食のことを「おやつ」というようになりました。

ちなみに商人の場合は、お客様相手の商売なので、職人さんほどきっちりとは休めないものの、現代に換算すると実働時間7〜8時間程度。
少なくともブラック職場ではなかったようです。

じゃあ武士はというと、こちらは基本は10時に出勤、14時に退勤、さらにその間に休憩時間もあった、という驚異の3時間勤務。
もしくは24時間連勤(ただし当然ながら休憩時間たっぷり)して、そのあとは2日間お休み、のシフト勤務。
シフトによっては月に1回くらいから出勤せず、あとの日は「自己修練」に充てていたとか。
いずれにしても士農工商いずれも長時間勤務とは無縁だったようです。

政治的安定とともに力をつけた商人たち

政治的安定とともに力をつけた商人たち

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商人は「士農工商」の一番下だった、という誤解のもとは

戦乱の世から太平の世に移り変わり、社会が安定してくるとともに、力をつけてきたのが商人たち。
ところで「力」ってなんでしょうか。
それはズバリ、経済力です。

先ほど「士農工商」の「農工商」には、実は身分の上下はなかった、といいましたが、制度上は上下の差がなかったのに「商人が下」と思われたのかというと、当時のお上、すなわち武士たちから見ると「農民は汗水たらして米を作って社会を支えている。
職人はみずから手を動かしてものづくりをしている。
ところが商人は何も生産せずモノを右から左に動かしているだけではないか」というわけです。
そういう武士こそ戦争などない世の中なのに刀を差して、1日4時間しか働かず給料をもらっていたわけですが、自分のことを棚に上げるのは人の常。
しかもそんな商人たちがどんどん豊かになって、ちまたの武士個人はもとより大名までが商人から借金するようになるに至っては、ますますムカつくことこの上なかったに違いありません。

また当時は国を支える基幹産業は農業でしたから「商人の方が楽だし儲かりそうだ」などと農民が農村から出て商人に鞍替えし、農業が廃れてしまえば国家の一大事。
そこで、なんとなく「商人は華やかで儲かってはいても、しょせん商人。
農民の方が上なんですよ」という空気作りをしていたようです。

現代の大企業グループの礎となった豪商も

江戸時代の豪商の中には現在まで続いている企業もあります。
大丸松坂屋の大丸と松坂屋はともに江戸時代の呉服店を起源としています。
高島屋もしかり。
鉄道系百貨店と思われている東急百貨店も起源は江戸期の呉服店である白木屋です。
中でも特筆すべきは三井物産、三井住友銀行、三井不動産などそうそうたる大企業が名を連ねる旧三井財閥、現在の三井グループの礎となった越後屋でしょう。

越後屋とは、伊勢国松坂生まれの三井高利(みついたかとし)が延宝元年(1673年)に江戸で創業した呉服店の屋号。
「店前現金売り(たなさきげんきんうり)」「現金掛け値なし(げんきんかけねなし)」「小布売り(こぎれうり)」など斬新なビジネスモデルを打ち出し一大旋風を巻き起こしました。
「店先に置いた商品をその場で現金で買うこと」「商品に定価をつけて売ること」「必要な分だけ生地を売ること」なんてあたりまえのことばかりですが、それまではまったくあたりまえではなかったのです。
それまでの呉服商は見本を持って得意先に出向き、交渉で値段を決め、代金は後日払うツケ払い。
必要なくても一反丸ごとでしか買えないのがあたりまえでした。
そのため商品知識や相場観がわからない庶民はなかなか呉服店での買い物に手が出せなかったのですが、越後屋方式なら安心して買い物ができるため、越後屋は大繁盛。
のちには両替商など次第に商売の領域を拡大していきました。

この三井さんが始めた越後屋がのちの三越に、三井さんが始めた両替商がのちの三井銀行、いまの三井住友銀行に発展したというわけです。

固定化されていたとはいえ、実は流動性もあった身分制度

固定化されていたとはいえ、実は流動性もあった身分制度

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武士から町人へ、浪人だって再仕官めざすとは限らない

ところで、上記を読んで「あれ」と思いませんでしたか。
三井グループの創業者ともいえる三井高利は商人、つまり町人なのに「三井」という苗字を名乗っている、名字帯刀は武士の特権だったはず、三井高利は武士なのに商人になったの。
答えはイエス&ノーです。
三井家は元々は武士だったのですが、高利の父である高俊(たかとし)が武士から町人に転身、三井高利は武士の家系ながら商人の子として生まれたということに。
身分が固定化されていたという印象が強い江戸時代ですが、実は結構身分の移動はあったようですね。

あととりがいなかったり不祥事を起こしたりして大名家がお取りつぶしになると、その藩の武士たちは浪人になります。
浪人は直参でも陪臣でもないので、身分は町人になってしまいます(とはいえ苗字帯刀は黙認され、周囲の町人からは「おさむらい」扱いされていたようですが)。
多くは旧大名家の親戚の大名家や自分の身内のつてをたどって再仕官をめざしたようですが、中には武士として生きることをあきらめ、職人になったり商売を始める者もいました。
またもともとが「武装農民」だった郷士のような武士は農業に専念し、農民身分になった例もあったようです。

時代劇に出てくる浪人というと「長屋に住んで傘張りの内職」というのが定番イメージですが、浪人でなくても下級武士の生活は大変だったようで、職人さんの下請けの内職などをしていた武士も多かったといいます。
「おさむらいさん」と呼ばれてはいても、安月給で武士としての体面を保つのも窮屈で…というわけで進んで武士を廃業して町人になる人もいました。
幕府や藩に廃業届を出せば、武士身分から町人になることができたのです。

士農工商、どの階層もあととり以外は流動的

以上は、武士から他の身分への移動ですが、江戸時代の家督や家業は士農工商どの身分でも、すべてを一人のあととりに継がせるのが一般的でした。
通常は長男があととりになりましたが、娘に優秀な婿をとって継がせることも。

あととり以外の子供たちは、あととりのいない家に養子に行くか、奉公に出て自立の道を探すか、寺に入って僧侶をめざすか、これは上は皇族や大名から下は庶民まで男女を問わず共通だったようです。
女子も、特に皇族や公家などでは、実家とつりあいの取れた嫁入り先がない場合は出家して尼となったり、宮中の女官や奥女中などの、いわゆる「公務員」になったりしました。

江戸中期以降、商工業がさかんになった都会の労働力の供給源は近隣の農村のあととり以外の子供たち。
職人の徒弟や商店の丁稚となった人たちは、農民から町人に身分が移動したことになります。
また裕福な商家が武士の株を子供に買い与え「町人の息子なのに武士」になった例もありました。
勝海舟の曽祖父の米山検校は貧農出身の盲人でしたが、鍼灸師として成功して財をなし、旗本株を息子に買い与えましたし、土佐藩の豪商だった坂本龍馬の実家は、郷士株を手に入れ「商家なのに武士」でした。
新撰組で有名な土方歳三は、東京多摩の豪商に生まれ、呉服店に奉公に出たこともありますが、のちに名目上は旗本になっています。
幕末の混乱期とはいえ、農→商→士と身分が移動したわけですね。

士農工商の女性たちのくらし

士農工商の女性たちのくらし

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実は結構のびのびしていた江戸期の女性たち

「女三界に家なし」とか貝原益軒の「女大学」とか、江戸時代の女性はしきたりに縛られて、忍従を強いられていた、イメージがありますが、実際はどうだったのでしょうか? 実は庶民に関していえば、結構女性はのびのびしていたのでは、といわれています。

「女大学」には、「女の子は嫁にいくものだから過保護に育ててはいけない」「女性は顔より性格が大事」「嫁に行ったら夫の両親を大切に」「着るものは派手にするな」「あまり出歩くな」「若い妻は男性との接触を避けよ」などなど、慶安の御触書に負けないほど「よけいなお世話」が書かれていますが、逆にいえば、こんなことわざわざ書かなきゃならないほど、華やかで好き勝手に出歩く若妻や、実家の親に可愛がられすぎて結婚しても親離れできない女性がそれなりにいたのかもしれません。

また武士よりも、主人本人の才覚や技能が家業の存続に直結する町人の家では、家業に不向きな息子にあとを継がせるよりも、娘に優秀な婿を取ってあととりにした方が…という風潮もあったようです。
このような「家つき娘」が家庭内で夫にかしずくはずがありませんよね。
「家つき娘」は武士階級にも結構ありました(勝海舟の母も旗本の家つき娘で、父は婿養子)。
藤田まこと演じる中村主水が妻と姑に家庭内を仕切られていた時代劇「必殺シリーズ」は、あながちフィクションとはいえないのかもしれません。

身分の上下と経済力が真逆だった奥勤めの女性たち

街中では、いまとあまり変わらなそうな女性たち。
もちろん電子レンジも洗濯機も食洗機もなかったので家事は大変だったに違いありませんが。

しきたりが大変そうな女性がいるところといえば、そうです、大奥です。
将軍の正室である御台所は別格として、上は上﨟御年寄から下は御半下(おはした)まで、三千人の美女が住んでいたといわれる江戸城大奥。
三千人、は大げさですが、それでも多い時には1,000人ほどの女性たちが暮らしていたようです。

大奥に勤める女性たちは正規職員である御殿女中と、上級女中に雇われている「部屋子」といわれる非正規職員の二種類に大別されます。
正規職員のほとんどは旗本や御家人などの武士階級の出身でした(上級女中には公家出身も)。
つりあいの取れる嫁入り先がないから、というよりも実家を経済的に助けるために若くして大奥勤めに出た例が多かったのです。
正規職員は将軍の代替わり以外は、高齢による引退や病気など特別な事情がないのに、勝手に辞めることはできませんでした。
「結婚したいのでやめます」はダメです。
一方で、非正規職員の部屋子は裕福な町人や豪農の娘が「嫁入り前の行儀見習い」のような名目で勤めることが多く、一定期間を過ぎると実家に帰ることが可能でした。
非正規職員は無給か薄給だったのですが、実家からの持参金や仕送りがあり、経済的には恵まれていました。
身分は上だけど生活のために働き続けなくてはならない武士出身の女性たち、給料をあてにせず「元御殿勤め」という肩書きのために一定期間お勤めして、自由な外の世界に戻っていった女性たち。
こんなところにも武士の凋落が垣間見えるようですね。

ヤンキーかチーマーか、不良や遊び人は身分を問わず

ヤンキーかチーマーか、不良や遊び人は身分を問わず

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中二病をこじらせた旗本奴、水野十郎左衛門

かの織田信長は若かりし頃、女物の着物やひょう柄とトラ柄を組み合わせた半袴などのトンデモファッションで「うつけ者」と呼ばれたそうですが、江戸時代にもトンデモファッションを誇示する若者が出現、いわゆる「かぶき者」です。

武家の次男三男や奉公人を中心に、派手な女物の着物をマントみたいに羽織って異様に大きな刀を差して集団で街をねり歩く、彼らは「旗本奴」と呼ばれました。
トンデモがファッションだけならよかったのですが、酒を飲んで大さわぎ、商店での代金踏み倒し、窃盗や暴力沙汰などを繰り返し、一般の人から恐れられていました。
チーマーやカラーギャングみたいなものですが、一応「おさむらいさん」なだけに始末が悪い。

その代表が水野十郎左衛門です。
彼は初代福山藩主の孫で、れっきとした旗本のあととりなのですが、今でいう中二病を相当こじらせていたようで、その一派は真夏に「あー寒い」といって鍋をつつき、真冬に「暑い暑い」といって上半身裸でそうめんをすする…なんだかめんどくさい人たちですね。
そんな水野、たびたび幕府から注意を受けていましたが、その行動を改めることなく、というよりも注意されるとますます反発し、ついには切腹させられます。
享年35歳、名門出身なのに中二病をこじらせて、ついには切腹、信長のようにはいかなかったようです。

旗本奴の対抗勢力として出現した町奴

先ほども書いたとおり、江戸時代の町人はホワイト職場、武士に至っては、役目によってはラクすぎるお勤め。
太平の世になって「武」によって身を立てることができなくなり、官僚にもなりきれなかった武士層の不満がこのような形で噴出したという説もあります。

とはいえ「お上」側である武士に乱暴狼藉をされる町人はたまったものではありません。
そんな時に「お若えの、お待ちなせえやし」とばかりに立ち上がった対抗勢力が、町人によるかぶき者軍団である「町奴」でした。
町奴の代名詞として歌舞伎やお芝居でも有名な幡随院長兵衛は、江戸の口入屋(人材派遣&就職斡旋業)でしたが、旗本奴の水野十郎左衛門のライバルとして庶民の人気を博したようです。

町奴も派手な身なり、暴力沙汰、という点では旗本奴と大差はなかったのですが、旗本奴と違い、権威をかさにきた理不尽な行為などがなかったことと、別名「男伊達」といわれる独特の伊達男ファッション(今でいうオラオラ系?)が人気の理由でした。
そこに目をつけた歌舞伎などの当時の芸能人が町奴的風俗を取り入れ、町奴を主役に、旗本奴を敵役にした演目を上演したことから、なおさら正義の味方イメージが定着したようです。
歌舞伎の世界では人気者になった町奴、「堅気には迷惑をかけない」という侠気は、いわゆる「任侠の世界」につながったともいわれています。

幕末の主役たちはどんな身分の出身?

幕末の主役たちはどんな身分の出身?

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維新の主役に躍り出たのは公家と外様藩の下級武士

こうやってみていくと、当初は機能していた士農工商、そして幕藩体制もだんだんグズグズになり、そして明治維新に至ったのだ、ということが実感できるようです。
維新に向けて活躍した人々の中には、江戸時代なかなか報われない立場だった人々、幕藩体制の中枢にいなかった人々が多くみられます。

たとえば公家、一部を除いて江戸時代の公家のほとんどは京都で貧乏暮らしをしていました。
歌や楽器、書道などの家業がある家は家元として弟子をとることで生計を立てることもできましたが、取り立てて人に教えるような家業を持たない公家はかるたや扇子の製作などの内職で糊口をしのいでいました。
のちに明治政府の重鎮となる岩倉具視も例外ではありませんでしたが、彼のバイトはなんと闇カジノ! 賭博は禁じられていましたが、役人もいくら貧乏でもそうそう公家の私邸に家宅捜索には入れないことを利用して、博徒に賭場として自宅を貸し出してショバ代を徴収していたのです。
土佐藩出身の坂本龍馬も実家は裕福ではありましたが、商家上がりの郷士に過ぎず、上士と郷士の区別が厳しい土佐藩では、藩の重鎮からは蔑まれていたといいます。

明治政府の重鎮には薩長土肥の出身者、それも下級武士が目立ちますが、これらの藩はすべて関ヶ原の合戦時に西軍だった外様大名の藩で、藩主は老中など幕府の要職に就くことはできませんでした。
だからこそ、現体制を冷静に見ることができたのかもしれません。

倒幕派、佐幕派、そのスポンサーは?

これらの活動を経済的に支えたのは豪商や豪農でした。
武士をはるかにしのぐ経済力を持ちながら政治の表舞台に出ることが少なかったこの層が動いたことで、世の中は大きく変わりました。

長州藩の裕福な庄屋で、高杉晋作率いる奇兵隊のスポンサーだった吉富簡一はその代表的な存在です。
中級藩士だった高杉が組織した奇兵隊は藩士と藩士以外の農民や町人からなる混成軍でしたが、ゲリラ組織ではなく、藩の正規軍。
長州には当時このような武士以外の階級も武装して倒幕運動に参加する部隊がいくつか組織されました。
吉富自身も農民を中心とした鴻城隊を結成します。
彼がバックアップした高杉は結核のため若くして亡くなりますが、吉富は明治維新後も長州閥の一員として井上馨らを支え、山口県の県会議長や衆議院議員を務めました。
これらの活動には、江戸時代から連綿と続いてきた庄屋同士のネットワークが役に立ったようです。
佐幕派では新撰組の土方歳三も豪農の息子で、義兄である日野宿名主の佐藤彦五郎の支援を受けていました。

倒幕派、佐幕派いずれも大変な人数の軍隊と武器が日本各地を動き回ったわけですが、その資金を用立てたのは三井家をはじめとする豪商たちです。
一説によると倒幕派、すなわちのちの明治政府に対して130もの豪商が用立てた金額は300万両、現在の貨幣価値に換算すると100億円以上といわれています。
倒幕派に投資した商店は、賭けに勝ったともいえますが、新旧政府への融資のかなりの額が焦げつき40もの商店が破綻してしまいました。

江戸の日常の片鱗がいまに続いているのかも

いかがですか? さむらいは威張っていた、農民はかわいそうだった、商人は身分が低かった…江戸期の士農工商は、そんな通りいっぺんのものではなかったようです。
日本中が戦乱に巻き込まれた戦国時代は、確かに時代の主役は武士でしたが、200年以上太平の世が続いていたにもかかわらず、武士を上に戴いている体制には無理が生じるのはやむを得ません。
江戸から明治、そして現代へ。
政治体制が変わっても、人々のくらしは時代ごとに分断されることなくアナログで続いているのです。
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