色鮮やかに平安を描き出すエッセイスト清少納言の魅力

平安時代を代表する女流作家、清少納言。現代まで読み継がれる枕草子の作者ですね。その表現力や鋭いツッコミがたくさんの枕草子は、平安という古い時代の作品ながら、いまだに色あせることなく、私たちを楽しませてくれます。そんな清少納言、なかなか本人の人となりにはスポットが当たりにくいところがあります。ここでは、生い立ちや性格など、枕草子の内容なども紹介しながら、清少納言について詳しく見ていきましょう。

平安時代のエッセイスト清少納言はどんな生涯を送ったのか?

平安時代のエッセイスト清少納言はどんな生涯を送ったのか?

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名のある歌人を多く輩出する家系に生まれた清少納言

みなさんは清少納言についてどれぐらい知っていますか?枕草子の作者、平安時代の女性作家、ぐらいのことはみなさんご存じでしょうが、それ以外となるとあまりご存じない人も多いのでは。
というのも、清少納言については、実はよくわかっていないことが多く、わかっていることよりもわかっていないことの方が多いぐらいなのです。
そもそも平安時代の女性なので、歴史的資料も少なく、清少納言自身の記録はあまり残されていないんですね。
清少納言という名前は、本名ではなく、実名もはっきりとはわかっていません。
清原諾子(きよはらのなぎこ)が本名であったという説がありますが、それを証明する有力な資料はないので、歴史的な根拠がまったくないに等しいのです。

966年ごろの生まれとされ、清原元輔(きよはらのもとすけ)を父に持ちます。
清原元輔ですが、百人一首に少し詳しい人ならご存知の通り、その中に名を連ねる有名な歌人です。
歌人とは、和歌を詠む人のことをいい、元輔は平安時代のとくに優秀な歌人を集めた、三十六歌仙にも含まれています。
歌人としての評価はとても高く、枕草子の中にもエピソードが載せられています。
「高名な歌人である父の名に傷をつけたくないので、私は和歌を詠むことはしません。」と清少納言が言ったとか。

高名な歌人だったのは、父元輔だけではありません。
祖父である清原深養父(きよはらのふかやぶ)も歌人として名の知られた人でした。
息子も三十六歌仙に選ばれていますが、その父である深養父も中古三十六歌仙に選出されています。
こちらは、三十六歌仙には選ばれなかったものの、同じように優れた歌人を選んだものでした。
親子ともにすばらしい歌人だったのですね。
百人一首にも選ばれており、親子三代にわたって百人一首に選ばれています。
ただし、歌人として名をはせていた父や祖父とは違い、清少納言自身は和歌を詠むのは苦手だったようです。

清少納言の名前も由来は謎のまま

清少納言の名前も由来は謎のまま

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実名もはっきりとはしていない清少納言ですが、実名ではなかったんですね。
この清少納言という名前は定子のもとに宮仕えするためにつけた仕事用の名前なのです。
にもかかわらず、清少納言という名前の由来もはっきりとはしていません。
私たちのほとんどが国語や社会、歴史などの教科書で必ず目にしている清少納言という名前、由来にはどんな説があるのでしょうか?せっかくなので、いくつかご紹介したいと思います。

まず、姓である清原の「清」の字と、父親の官職名である少納言から、という説です。
現在の研究では、この説が一番有力とされており、私自身も本などで見かけたことがあります。
当時の女性は、宮中で女房として宮仕えする際には、自らの姓に父親もしくは夫の官職名をつなげた名前を名乗ることがほとんどで、清少納言以外にも、紫式部、和泉式部などの式部も官職名なんですよ。

同じく官職名をとってつけたという説で、父親の官職ではなく、夫の官職からとったのだという説があります。
これは、実際に少納言の職についていた、藤原信義(ふじわらののぶよし)と結婚していたことがあるという説なのですが、資料はほとんどないほか、そのほかの理由から根拠が弱い説とされています。
清少納言は公的に宮仕えをしたというよりも、中宮定子(ちゅうぐうていし)に私的に仕えており、なおかつ非常に仲が良く親しくしていたことから、中宮定子によって名づけられたのではないかという説もあり、どれが正解かはいまだにわかっていません。

幾度かの結婚と数年間の宮仕え

少女時代を父親の赴任先である周防国(すおうのくに)、現在の山口県で過ごし、15歳で陸奥守であった橘則光(たちばなのりみつ)と結婚します。
男の子を出産しますが、夫との性格の不一致もあり、離婚することに。
その後しばらくしてから宮仕えを始めます。
情報化社会の現代とは違い、資料の少ない平安時代の話なので、離婚から宮仕えまでの空白の期間、清少納言がどうしていたのかは、今となっては知る由もありません。

清少納言が仕えたのは、一条天皇の皇后であった中宮定子でした。
清少納言は、知識の豊富で頭の回転が良い女性だったので、仕えていた中宮定子にはとてもかわいがられたとされています。
現代でも読み継がれている枕草子は、清少納言が中宮定子に仕えていた数年間に起こったさまざまなことをまとめたものです。
中宮定子が出産後に亡くなったあと、清少納言は宮仕えを辞め、その後の足取りはこれといってわかっていません。

宮仕え後に、再婚相手である藤原棟世(ふじわらのむねよ)の赴任先であった摂津国、現在の大阪府に移ったという話は残されていますが、再婚が宮仕え中だったのか、宮仕え後だったのか、はっきりとした年代は記されていません。
晩年は京都で過ごしていたようですが、没年も正式にはわかっておらず、生涯を通して謎の多い人物です。







頭の回転が良く賢い女性としてエピソードも多い清少納言

頭の回転が良く賢い女性としてエピソードも多い清少納言

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女性が学問をするべきではない時代に博学であった

平安時代の女性は、勉強することをあまり良いこととはされていませんでした。
位が高く、天皇の皇后候補のような身分の女性ではない限り、学ぶということにいい顔をされる時代ではなかったのです。
上手に和歌を詠むことは、男性にモテるための大事なポイントでしたが、中国から伝わっていた漢文や漢詩を学ぶことはなかなかできることではありません。
清少納言は、父や祖父や有名な歌人という家系に生まれ、生まれたときからそういった漢詩や和歌に親しむことができる環境で育ったために、とても知識が豊富だったそうです。
本人も好奇心旺盛で、知識欲がある人だったのでしょう。

いつの時代もそうですが、出る杭は打たれると言いますか、清少納言の博識を妬む人は少なくなかったようです。
それも、男性からの。
わざと難しい漢詩をまぎれさせた和歌を贈ってきたり、皮肉を言ってみたりと清少納言が返答に困るようなことをする人もいました。
そんな男性からの言葉にも、機転を利かせて上手に返答し、清少納言の評価は宮中においてもどんどん上がっていったようです。

家庭教師として仕えていた中宮定子にも大事にされた清少納言

家庭教師として仕えていた中宮定子にも大事にされた清少納言

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天皇の皇后に仕えるのは、身の回りのお世話をする女房たちです。
皇后の髪をとかしたり、着替えの手伝い、食事の世話などありとあらゆる身の回りのことを、何人もの女房で行っていました。
清少納言も女房たちと同じように皇后に仕えていましたが、ほかの女房たちとはちょっと違い、皇后にさまざまなことを教える家庭教師としての役割を担っていました。
現代と違い、平安時代は結婚の年齢も若く、まだ10歳あまりのときから天皇の皇后として過ごすため、学ぶこともまだまだ多いのですね。

清少納言が一条天皇の中宮である定子に仕えるようになったのは、20代後半でした。
それから定子が亡くなるまでの約7年の時間をそばで過ごしました。
定子は清少納言よりも10歳ほど年下でしたが、清少納言は定子を非常に尊敬し、慕っていたそうです。
定子は、ほがらかな性格でありながら、聡明で知識が豊富、その人柄によって多くの人々から愛され、一条天皇との仲も良かったという記録が残っています。

清少納言が枕草子を書くきっかけを与えたのも、実は定子です。
清少納言が質の良い紙が好きだということを知っていた定子が、自分に与えられたものを清少納言にプレゼントし、これに何か書いてみてはどうか、と勧めたのがきっかけだと言われています。
平安時代は今と比べて紙が貴重品の時代でした。
そんななか、いくら皇后とはいえ、定子が清少納言に紙をプレゼントしたことからも、2人の信頼関係がうかがい知れますね。

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