中央集権国家の礎を築いた立役者「中大兄皇子」の波乱万丈人生

「中大兄皇子」という名前をご存知ですか?「天智天皇」と言えばお分かりになる方も多いはず。中大兄皇子は、中臣鎌足や大化の改新という言葉と共に教科書に必ず出てきます。しかし、実際にどのような人物で、どのような事を成し遂げたかを知っている方は少ないのでは?今回は、遥か1300年以上前に大きな政治的改革を起こし、天皇中心の国家を築きあげた立役者である中大兄皇子の波乱に満ちた生涯を詳しくご紹介します。

中大兄皇子はどのような人なの?

両親ともに天皇というサラブレット!

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)はどのような人物だったのでしょうか?まずは簡単なプロフィールをみていきましょう。

生きた時代は、飛鳥時代です。
生没年は626年~671年。
「中大兄皇子」とは通称名。
諱(いみな)は葛城皇子(かつらぎおうじ)と言いました。
諱とは、生前の実名と言われています。
父は第35代舒明天皇(じょめいてんのう)、母は第36代皇極天皇(こうぎょくてんのう)。
兄弟には、異母兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、同母弟に大海人皇子(おおあまのおうじ)後に天武天皇(てんむてんのう)、同母妹に間人皇女(はしひとのひめみこ)がいます。

このように中大兄皇子は、両親とも天皇というサラブレットでした。
「中大兄」とは皇位継承権のある二番目の息子という意味。
「大兄」が皇位継承一番目という意味で兄に「古人大兄皇子」がいますが、母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)であったため、両親ともに皇族である中大兄皇子が次期天皇の最有力候補でした。
しかし、実際は、天皇家より強い勢力を誇った豪族である蘇我宗家。
聖徳太子一族などのさまざまな陰謀や思惑が絡み合いなかなかスムーズには、皇太子として即位はできませんでした。

実際には皇位継承候補は、4人いました。
聖徳太子の長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、さきほどの舒明天皇の長男で、入鹿の従兄弟にもあたる古人大兄皇子、皇極天皇の弟にあたる軽皇子(かるのみこ)、そして中大兄皇子。
この皇位継承候補者たちと熾烈な物語が始まるのです。
それは、後ほど詳しくご紹介いたしますね。

誰もが知る「大化の改新」ってなにをしたの?

誰もが知る「大化の改新」ってなにをしたの?

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大化の改新の序章「乙巳の変」とは?

中大兄皇子が目指すのは、天皇中心の国家でした。
その目的のために、中大兄皇子は大きなクーデターを起こします。
それが日本古代史最大のクーデターといわれる「乙巳の変」(いっしのへん)です!

舒明天皇が亡くなった後、先に述べたように皇位継承候補者は、中大兄皇子ただ1人だけではありませんでした。
跡目争いを避けるため、中継ぎで中大兄皇子の母である「宝皇女」が皇極天皇として即位します。
その後、蘇我入鹿が目障りだった有力候補者の山背大兄王一族を滅ぼします。
当時天皇家の外戚だった蘇我宗家の権力は絶大で、天皇家を凌ぐほどだったと言われています。
大臣であった蘇我蝦夷(そがのえみし)と秀才の誉れ高い息子である蘇我入鹿(そがのいるか)は、権力を欲しいままにし専制政治を行なっていました。
そこで中大兄皇子は、645年腹心の部下である中臣鎌足(なかとみのかまたり)や蘇我入鹿の親戚である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)らとともに、蘇我入鹿殺害計画を企てるのです。

645年6月12日。
皇極天皇の飛鳥板蓋宮にて、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が天皇に貢物を贈る儀式が行われました。
『日本書紀』によると、宮殿に到着した蘇我入鹿は、剣を手放すよう促された。
上手いこと誘導され入鹿は剣を手放します。
皇極天皇の前に、古人大兄皇子、蘇我入鹿、石川麻呂らが進み出た。
柱の陰には、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、他に2人の刺客が息を殺して身を潜めて待ち構えていました。
石川麻呂が皇極天皇に上表文を読み始めたのを合図に、刺客が飛び出して入鹿を斬りつける手はずでした。
しかし、刺客は怖じ気づき飛び出せない。
石川麻呂の声も緊張と不安で震えてしまっていました。
不審がる入鹿に、「天皇の前だから畏れ多くて緊張している。」と答えた石川麻呂。
その瞬間、柱の陰から業を煮やした中大兄皇子が飛び出し、剣で中大兄皇子自らが入鹿の頭から肩にかけて斬りつけ暗殺したと伝えられています。
これが、古代史最大のクーデターである「乙巳の変」です。

入鹿が殺害された後、父の蝦夷は自宅に火を放って自害したと伝えられています。
その際に、蘇我蝦夷の父である蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子が編纂した貴重な歴史書「天皇記」が灰になってしまいました。
もし、現存したら今伝えられている古代史が大きく変わっていたかも知れませんね。

 

 

本当の意味での大化の改新とは?

よく上記に述べた「乙巳の変」を「大化の改新」と勘違いしてる方も多いと思います。
しかし、乙巳の変はあくまでも、大化の改新の序章にすぎません。
では、大化の改新とは実際には、どのようなものだったのしょうか?

乙巳の変を皮切りに中大兄皇子と中臣鎌足は、政治改革をはじめていきます。
まず、皇極天皇が退位(現代話題となっている生前退位をはじめておこないました。)すると、弟の軽皇子が第37代孝徳天皇に即位します。
中大兄皇子は、皇太子となり実質政治を取り仕切ることになります。

●日本で始めての「年号」を使った

日本の歴史上で初めて年号を使用し始めました。
その年号は、「大化」です。
この年号から「大化の改新」と呼ばれているのですね。
現在の「平成」などの年号はここから始まっています。

●公地公民の制度をつくった

豪族などが、私有地をもつことを禁止しました。
すべての土地と人民は、国家の支配下におくことと定めました。
この詔は天皇が国の中心で絶対的存在であることを世間に知らしめる効果がありました。

●班田収授の法を定めた

公地公民の制で国家の支配下となった土地を、農民に無料で貸し出しました。
農民は、無料で土地を貸して貰えるが、土地の広さに乗じて年貢を治めなければいけない制度です。
「農民が年貢を納める。」これをはじめて制定したのも大化の改新からでした。

●租庸調制を定める

大化の改新以前は、国に治めるものは、「祖」(お米)だけでした。
しかし、「祖」だけでなく、「庸」(労働力)、「調」(地方の特産品など)も国に治めなさい。
という制度です。

●国郡里制(こくぐんりせい)

日本の土地を、「国」「群」「里」の3つに分けて、役人を都で選び派遣し管理することにしました。
今の都道府県・市町村と同じような仕組みです。
「中央集権国家」を目指す改革でした。

詔として制定されたのは、以上のような4条です。
そして、ここから日本の律令国家の基礎が出来上がっていきました。
中大兄皇子なかなかすごい手腕を持っていますね。

中大兄皇子は、なぜ即位しなかったのか?

中大兄皇子は、なぜ即位しなかったのか?

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なぜすぐに天皇にならなかったのか?

「乙巳の変」のあと、なぜすぐに中大兄皇子は、天皇にならなかったのでしょうか?

中大兄皇子は、乙巳の変の後も自分を脅かす皇子や豪族を次々と粛正していきます。
最初は、蘇我宗家を滅ぼした後、異母兄の古人大兄皇子も謀反を企てたとして殺害します。
古人大兄皇子は、兄という関係だけでなく、自分の后の父でもありました。
これで有力な天皇候補はいなくなりました。
しかし、叔父の軽皇子を孝徳天皇として即位させ、まだ自分は皇太子のままでいました。

また、ともに蘇我宗家を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂も謀反を起こしたとされ殺害されました。
この石川麻呂も、自分の妃の父でした。
これで有力豪族の勢力は大きく削がれました。

孝徳天皇が亡くなると孝徳天皇の息子である有馬皇子も謀反の罪で殺害します。
今度こそ、天皇に即位するかと思いますが、なんと母である皇極天皇が重祚(2度天皇に即位すること)、第37代斉明天皇として即位することになるのです。

中大兄皇子は、次々と有力豪族や有力皇子を殺害していきますが、天皇には即位しません。
皇太子でいた時期は、20年以上に及びます。
実に不可解ですよね。

その理由として、まず乙巳の変などの政治改革のクーデターが自分が皇位につくためだったいう論調を避ける意図があったとされています。
また、天皇になると暗殺されたりと、矢面にたつと政治改革がやりづらかったからとも言われています。
まさに、古代のフィクサーですね。

天皇になれなかった?もう一つの説

それは、「不義密通」をしたという説です。
それも実の同母妹と。
今でいう「近親相姦」にあたります。

飛鳥時代の当時は、兄妹であっても母親が異なれば、婚姻は問題がなく決してタブーでも珍しいものでもありませんでした。
叔父や姪、叔母や甥の婚姻も沢山ありました。
しかし、同父同母となると話は別で、当時であっても当然のことながら厳しくタブーとされていました。
しかし、中大兄皇子は、同母妹の間人皇女と相思相愛であったと言われているのです。
この間柄は、間人皇女が叔父である孝徳天皇の皇后となってからも続いた。
そして、このことは飛鳥に住んでる者なら知らない人はいないと言われるほどの公然の秘密だったとも言われています。
このような大きなタブーを犯しただけに、中大兄皇子は天皇に即位できなかったと伝えられているのです。
そして、この説が有力視されている理由が、中大兄皇子が即位した時期。
間人皇女は、665年に亡くなりますが、中大兄皇子は「天智天皇」として即位するのが、667年。
ちょうど、間人皇女の喪があけたと同時に即位しているのです。

どの説が真実かは、現代では知る由もありませんが、古代史は謎が多くとても興味深い話が多いですね。

中大兄皇子は、大化の改新だけじゃない!

中大兄皇子は、大化の改新だけじゃない!

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他国と戦争!大敗した白村江の戦い

「大化の改新」意外にも中大兄皇子はさまざまことをしています。

まず有名な出来事が、「白村江の戦い」(はくそんこうのたたかい)です。
当時、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国が治めていました。
日本はその中でも朝鮮半島の百済(くだら)という国と国交があり親密でした。
しかし、660年に中国にあった唐という国が新羅と手を組み、百済を攻めて滅ぼしたのです。

「日本は関係ない?」と思う方も多いと思いますが、日本と百済は300年にも及ぶ交流がありました。
また、このままでは、唐が勢力を増して日本を滅ぼしかねないという懸念もあったのです。
中大兄皇子は、百済復興の手助けと唐への防衛のため、662年、27000兵という大軍を百済に送り込みます。
そして、翌年の663年ついに戦いが勃発します。
場所は、朝鮮半島にある白村江。
日本・百済軍VS唐・新羅軍の戦いです。
しかし、大国である唐の軍事力は凄まじく、あっけなく日本・百済軍は大敗します。
中国に残っている歴史書によれば、「日本の船は、400堰以上燃え上がり、煙は天を覆い隠し、海は赤い血で染まった。」と書かれています。

中大兄皇子は、急ぎ北九州の大宰府(外交などを行う場所)に防人(さきもり)という兵隊や水城(みずぎ)と呼ばれる防衛施設を設置して、唐・新羅の侵略に備えることにしました。
しかし、唐・新羅軍が日本に攻めてくることはありませんでした。
この大敗は、中大兄皇子の政治生命に大きなマイナス要素をつくってしまいましたが、日本にとっては、この敗戦は日本国内の危機感を高め、日本という新しい律令国家体制の建設をもたらしたと言えます。

 

 

 







異例の遷都!都を滋賀県に

白江村の戦いの大敗の後、667年に中大兄皇子は近江大津宮(現在の滋賀県大津市)に遷都(都をうつすこと)します。
そして、668年やっと天皇に即位。
これが、第38代天智天皇です。
やっと天皇になりました。
「乙巳の変」から20年以上経っての即位です。

この突然の遷都の理由はよく判っていません。
それまで、多くの都は飛鳥(現在の奈良県明日香村)周辺から離れたことがありませんでした。
しかし、中大兄皇子は、突然に近江大津京に遷都を決行したのです。

遷都した有力な説としては、大化の改新に基づいた政治改革を行なうために、飛鳥のように地に根付いた抵抗勢力である有力豪族が少ない、近江大津で人心の一新を図ることができること。
また、大津は琵琶湖に面しているので、陸上・湖上ともに東方へ向かう交通路が通じて便利であり、西方へも交通の便が良いためと言われています。

しかし、慣れ親しんだ飛鳥からの遷都は、民衆から大きな不満が出て、昼夜を問わず出火(当時は政治に不満がある場合、宮殿や寺院などに放火する風習があったそうです。)があったと「日本書記」に記録されています。
また、当時の有名な歌人である「額田王」(ぬかたのおおきみ)も当時の歌集『万葉集』(まんようしゅう)に、

”額田王、近江の国に下る時に作る歌

味酒うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際まに い隠るまで 道の隈くま い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放さけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや”

<三輪の山(当時の人には神聖な特別の山でした。)は、奈良の他の山々の間に隠れるまでも、道の曲り目が幾重に重なるまでも、つくづくとずっと見ながら行きたいのに。
何度も眺めていたい山なのに、無情にも、雲が隠すなんてことがあっていいのでしょうか。

と詠んでおり慣れ親しんだ飛鳥を名残惜しそうに歌っています。

中大兄皇子の偉大な業績!

中大兄皇子の偉大な業績!

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日本ではじめて刻を知らせた

天智天皇となった中大兄皇子は、日本ではじめて時報を開始した人でもあります。
時を民衆に伝え始めた人。
これはあまり知る人は少ないのではないでしょうか?

671年に漏刻(水時計)を作り、大津宮の新しい台に置いて時刻を鐘や鼓を打って、役人や民衆に知らせました。
「漏刻」とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に入っていき徐々に貯まり、水海の水位の量から時刻を測ることができる時計のことです。
水の流入速度が一定を保つように、夜天池、日天池、平壷、萬分壷の四個の壷を経て水海に水を流入し、水海の目盛りを指す矢が浮上し、人形が指差す場所で時刻がわかる仕組となっていました。

このことにちなんで、現在、滋賀県大津市の「近江神宮」には、天智天皇を時計の始祖として祀っています。
境内には、博物館があり和時計を中心に展示してありますが、漏刻台もあるので実際に見ることができます。
興味のある方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか?

 

日本ではじめての戸籍をつくった

中大兄皇子は、日本ではじめての戸籍である『庚午年籍』(こうごねんじゃく)を作成した人でもあります。

この戸籍は現存していませんが、日本の正史でもある歴史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)などに、この戸籍は全国規模で作成されたものであることと記録されています。
以後、戸籍は30年保管されることと決められていましたが、この「庚午年籍」だけは例外として永久に保存されるべきものと規定されていたそうです。
事実、平安中期まで『庚午年籍』が残されていたことが書物で確認されています。

この戸籍を中大兄皇子が作成した目的は、663年の白村江の戦いに日本が大敗したことで、唐・新羅連合軍が日本本土を侵略して来ることを恐れていたため、急いで兵を組織する必要があり、兵士として徴兵可能な青年を日本全域で探すためと言われています。
全国にいる成人男性の人数や名前のリストが必要だったというわけです。
つまり、庚午年藉は「徴兵名簿」と同じだったのですね。

まだまだあります!中大兄皇子の業績

まだまだあります!中大兄皇子の業績

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日本で最古の律令法典!近江令の制定

『近江令』とは、中大兄皇子こと天智天皇の命令により、藤原鎌足が668年に編纂したと言われている日本最古の律令法典と言われています。
残念ながら、現存しておらず内容も詳しくわかっていません。
「令」とは、現在の民法や行政法などに当たるものと考えられ、籍や租税について定めていたと伝えられています。

この時代は、まだ明確な成文法典もなく、国家制度もまだまだきちんと整備されていませんでした。
そのため、天智天皇は、推し進める天皇中心の中央集権国家をいち早く確立するためにも国家の基本法典を編纂する必要がありました。
しかし、現在、『近江令』の原本は現存ぜず、詳しい内容も不明なままなので、この『近江令』自体の存在を裏付ける歴史的史料にも乏しいとされ、存在説と非存在説の間で今もなお激しい論争が続いています。

古墳時代を終焉に導いた人

中大兄皇子は、お墓の規模や副葬品などを制限する薄葬令を発令しました。

当時は、中国の故事に習い高貴な人が亡くなると殉死する人がでたり、莫大な費用を使い大きなお墓をつくったりしていました。
また、庶民は遺体を谷などに放置していました。
中大兄皇子は、そこで一定のガイドラインを制定したのです。

●お墓をつくる際の経費の節減

●身分による葬制規模を分ける

●遺体は風葬など放置しないで、一定墓地へ集める

●後追い死や馬などを一緒に殺して埋めるような殉死の禁止。

など定めました。
この薄葬令により、大規模なお墓がつくられなくなり、事実上古墳時代は終わりを告げることとなりました。

しかし、実際はなかなか浸透しなかったのが事実のようです。
古代日本人が抱いていた死後の儀式を簡単に変えるのは難しかったのですね。

中大兄皇子こと天智天皇の跡継ぎは?

中大兄皇子こと天智天皇の跡継ぎは?

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最有力候補!大海人皇子

天智天皇は、皇太子でいた期間が長かったので、天皇としの在位期間は短くわずか4年でした。
中大兄皇子こと天智天皇の跡継ぎが誰だったのでしょうか?

今のように天皇は、必ずしも世襲制ではありませんでした。
息子が必ず天皇になるわけではなく、弟や叔父がなる場合も少なくなかったのです。
中大兄皇子こと天智天皇の跡継ぎも同母弟である大海人皇子が最有力候補でした。

大海人皇子は後に天武天皇となる人物です。
父は舒明天皇、母は皇極 (斉明) 天皇で中大兄皇子と父母共に同じ弟でした。
中大兄皇子と長い間、政治的にも行動を共にしていたようで、中大兄皇子の娘を4人妻としています。
そのうちの1人は、後に持統天皇となります。
また、娘や息子は、中大兄皇子の娘と息子と婚姻を多く結んでしまいた。
(従兄弟同士の婚姻)668年、大海人皇子は、兄の中大兄皇子が即位して天智天皇となると、皇太弟として政治を補佐し支えます。
しかし、天智天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ)が成人すると、跡継問題で両者は対立するようになってしまいます。
671年に大友皇子は、太政大臣に任命され政治の中枢にたつようになります。
これにより大海人皇子は政治から遠ざけられるようになってしまいました。
そして、天智天皇の病がいよいよ深くなった671年10月17日に、大海人皇子を天智天皇は病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。
これが罠かもしれないと警戒した大海人皇子は、天智天皇の皇后である倭姫王が即位し天皇となり、大友皇子が政治を執り行うように薦めて、自らは出家して僧侶となり、吉野に去っていきました。
そして、天智天皇が亡くなると挙兵をし、古代史最大の内戦といわれる「壬申の乱」が起こるのです。

次のページでは『やっぱり我が子が可愛い!大友皇子』を掲載!
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Writer:

二児の母。自他共に認める「歴女」。寺社仏閣巡りが趣味。大学時代は、巫女バイトに励み神社の驚愕の裏側を知る。主人の仕事で、ニューヨーク、カリフォルニアに5年間住むことになる。ナショナルパークなどの世界遺産の素晴らしさを実感。ライターという仕事を通して、歴史や世界遺産の素晴らしさを多くの方と共有できれば幸いです。

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