観光の前に知りたい!丸亀城の歴史。成り立ちから今日まで

丸亀城はどの様な場所にあり、江戸時代から現存する数少ない天守はどの様なもので、さらにはどの様な石垣を持ち、どの様な造りを持っていたのでしょうか?そして、丸亀はどんな人物が治め、安定して治められていたのか、さらにどの様に城主が変わっていったか説明していきたいと思います。さらに丸亀から近くにある金比羅山は江戸時代の庶民にとってどんな存在だったのでしょうか?それについても見ていきたいと思います。

丸亀城はどんな城でどの様にしてできたか?

丸亀城はどこにあるか?どんな城か?

丸亀は新幹線の止まる岡山駅から快速マリンライナーに乗り瀬戸大橋を渡り坂出まで行き、さらに予讃線に乗り換えて2駅乗った所にあります。
乗り換えに時間がかからなければ1時間ほどで着くでしょうか。
もしくは香川県の県庁所在地の高松駅から電車で40分ほどです。
丸亀駅から南に20分ほど歩いた所に丸亀城の入り口があります。
そこまで来ると立派な石垣の上に小さな天守閣が見えますので、「石の城」と呼ばれ石垣の名城というだけあってかなり急な坂ですが(敵から攻められにくくするための急坂)、登り切ると江戸時代から現存する12天守の一つである丸亀城の天守閣が見えてきます。
二階建てで他の城と比べればやや小さい天守ではありますが、中の木の質感などが当時のままの雰囲気の様で私は好きです。

丸亀城は標高約66mの亀山に築かれた平山城で、亀山城と呼ばれていて、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪、山下曲輪があり、東西が約540m・南北が約460mのうち内堀内の204,756平方mが史跡範囲で、ほぼ石垣の城。
しかし高い石垣の上に広い城郭があり、中を歩いていて楽しいです。

では、この丸亀城はどんな歴史があり、どんな人に統治されていったのでしょうか?

丸亀城とその城下町はどのようにしてできたか?

丸亀城とその城下町はどのようにしてできたか?

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丸亀市の中心市街地の始まりは、天正15年(1587年)に生駒親正(いこまちかまさ)が讃岐の国に封ぜられ、慶長2年(1597年)に親正・一正(かずまさ)による亀山への築城に始まります。
このころの城造りは織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭のみならず武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁(どるい)で囲み防御した「総構(そうがまえ)」となっています。
生駒氏は宇多津より人を移住させ、その人たちが住んだ場所が今の御供所町(ごぶしょちょう)、北平山町、西平山町です。
大坂の陣により豊臣家が滅び、徳川幕府は一国一城令を出し、親正は高松上を残し、丸亀城は廃城となりました。
では今ある丸亀城はどのような理由で建て直されたのでしょうか?山崎氏が正保2年(1645年)に丸亀城を再築するときに作成した絵図が残っていて城郭・武家屋敷・城下町の記載があり、山上の縄張りは現在の形とほぼ一致し、扇の勾配の高石垣は、山崎氏の手によるものです。

この絵図には古町(こまち)と書かれた場所があり、生駒氏時代からある町で今の御供所町、北平山町、西平山町、本町、南条町、塩飽町・城西町二丁目・中府町五丁目の一部、がこれに当たります。
また、大手町を除く番丁の武家屋敷地があったところは当時の道路や区画が今も残っています。

丸亀城はどんな建物や石垣で構成されているか?

本丸と二の丸はどの様にできていて、二の丸井戸の伝説とは何か?

次に丸亀城の作りを紹介します。
山上の最高所が本丸で、天守の他に隅櫓・多聞・土塀が石垣上に巡っていて、礎石・排水路を一部復元しています。

丸亀城天守は3層3階の現存木造天守で高さが約15m、1階北側には石落や狭間(さま)があり、唐破風(そり曲がった曲線状の破風)や千鳥破風(屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風)で意匠を凝らしています。
この天守は四国内でもっとも古く万治元年(1660年)に完成し、日本一小さな現存木造天守です。

山上で2番目に広い平場(曲輪(くるわ))にあるのが二の丸で、本丸同様、石垣上に隅櫓や多聞がありました。
二の丸井戸は丸亀城で最高所にある井戸で現在も水を湛え、城絵図によると深さは約65mあります。

この井戸は築城にかかわる悲しい伝説があり、羽坂重三郎は常に裸になって一生懸命働くことから「裸重三」と呼ばれ丸亀城を完成させた功労者で殿様も「重三の築いた石垣は完璧だ。
空飛ぶ鳥以外にこの石垣を越えられるものはあるまい」とご満悦でしたが重三郎は「私に鉄棒を下されば容易に登ることがができます」と言い、鉄棒を使ってすいすいと城壁を登ってしまったのです。
殿様は「重三郎を生かしておいてはもし敵が来てそれと通じてしまえば恐ろしいことになる」と考え城内の井戸の底を重三郎に探らせてその隙に石を落として殺してしまいました。
その伝説の井戸が二の丸井戸です。

三の丸・山下曲輪・見返り坂はどうできているか?

本丸・二の丸を巡る平場が三の丸で、3ヶ所に隅櫓がありました。
戊亥櫓は明治2年の藩邸(旧京極屋敷)火災の時に焼失し、火災で焼けた跡が今でも石垣に残っています。
三の丸井戸は山崎時代の絵図にある井戸で深さ31間と書かれていますが現在は空井戸となっていて、抜け穴伝説もあります。
月見櫓跡は讃岐富士と呼ばれる飯尾山を正面に望み、「人麿の歌かしこしとおもひつつ海のかなたの沙弥島を見る」と書かれた吉井勇の歌碑もあります。

山の下の平地を山下曲輪と呼び、内堀の北側中央部にあり城内側の櫓門を一の門、堀端の高麗門を二の門と呼び(殿様の方から見て近い方が一の門なのですね)、寛文10年の京極氏の時に完成しました。
一の門は楼上に太鼓を置き、城下に刻(とき)を知らせたことから太鼓門とも呼ばれています。
平成18年6月10日の時の記念日から時太鼓(ときだいこ)が復活し、江戸から平成へ時代を経て力強い太鼓の音が響き渡っています。
玄関先御門は京極氏の屋敷の表門であって形式は薬医門でこの門に接して番所・御駕籠部屋・長屋があり、芝生広場や資料館はかつては藩主の屋敷地でした。

大手門から山の上の三の丸に向かう山道は見返り坂と呼ばれ、傾斜が急で、登りのしんどさに時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになったそうです。
三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣の中でもっとも高く20m以上の城壁が続き、隅角部の石垣は算木積み(さんぎづみ、長方形の短辺・長辺を交互に組んで積み上げていく方法)された美しい曲線美で「扇の勾配」と呼ばれています。

生駒親正とその後の藩主はどんな人物だったか?丸亀城とどの様に関わったか?

丸亀城を建てた生駒親正とはどんな人物か?

続いて丸亀城と丸亀城に関わる人達の歴史を紹介していきます。
天正15年(1587年)に讃岐の国に封ぜられた生駒親正は美濃の国に生まれ、織田信長の美濃攻めの際にその臣下となりました。
その後は羽柴秀吉の配下の武将となり、金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しました。
信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。
姫路城主時代の秀吉に仕えていた天正6年(1578年)の約1000石からはじまり、着々と知行を増やし、文禄4年(1595年)には讃岐国17万1,800石を与えられ高松城を居城とし、慶長2年(1597年)から丸亀城築城に着手しました。

これに先立ち、讃岐の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした十河存保の嫡男千松丸を預かって養育し、親正が秀吉の前に千松丸を同行して参上した時、「存保ほどのものの子にわずか3千石か」と秀吉が発言したことにより「いずれ元の2万石復活か」と遺臣らは期待していましたが、千松丸は15歳で元服を迎える年に病死した。
そのため、秀吉の前で千松丸とともに舞を披露した親正の甥・大塚采女ら生駒側による毒殺ではないかと噂されました。
一説には、生駒氏に敵対するものが、生駒をおとしめるために行ったという説もあります。
その後も、十河氏復活の可能性を断つために三好氏の血を引く者を徹底的に弾圧したことで知られています。

親正とそれ以後の藩主はどんな人物だったか?

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正(かずまさ)は東軍に与し、親正は在国していましたが西軍に参加して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣しましたが、戦後に剃髪し、高野山に入りました。
西軍に与した責任を取るためとされてきましたが、関ヶ原での戦闘の前であり、東軍寄りの行動の責任を石田三成ら西軍に問われたためとする説もあります。

その後、一正が東軍に与したため生駒氏の所領は安堵され、一正は丸亀城から高松城へ移り丸亀城には城代を置きましたが、1615年の一国一城令により丸亀城は廃城となり、さらに親正は慶長8年(1603年)に高松城にて死去しました。

跡を継いだ一正は親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げ、その後妻子を江戸の屋敷に居住させたのでその忠義を徳川秀忠より賞されましたが、慶長15年(1610年)に死去し家督は長男の正俊(まさとし)が継ぎました。

正俊は大坂の陣では遊軍として活躍しましたが、元和7年(1621年)、死去。
家督は長男の高俊が襲封しましたが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになりました。
余談ですが藤堂高虎は今治城や宇和島城を作った築城の名手としても有名ですね。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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