観光の前に知りたい!丸亀城の歴史。成り立ちから今日まで

丸亀城はどの様な場所にあり、江戸時代から現存する数少ない天守はどの様なもので、さらにはどの様な石垣を持ち、どの様な造りを持っていたのでしょうか?そして、丸亀はどんな人物が治め、安定して治められていたのか、さらにどの様に城主が変わっていったか説明していきたいと思います。さらに丸亀から近くにある金比羅山は江戸時代の庶民にとってどんな存在だったのでしょうか?それについても見ていきたいと思います。
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丸亀城はどんな城でどの様にしてできたか?

丸亀城はどこにあるか?どんな城か?

丸亀は新幹線の止まる岡山駅から快速マリンライナーに乗り瀬戸大橋を渡り坂出まで行き、さらに予讃線に乗り換えて2駅乗った所にあります。
乗り換えに時間がかからなければ1時間ほどで着くでしょうか。
もしくは香川県の県庁所在地の高松駅から電車で40分ほどです。
丸亀駅から南に20分ほど歩いた所に丸亀城の入り口があります。
そこまで来ると立派な石垣の上に小さな天守閣が見えますので、「石の城」と呼ばれ石垣の名城というだけあってかなり急な坂ですが(敵から攻められにくくするための急坂)、登り切ると江戸時代から現存する12天守の一つである丸亀城の天守閣が見えてきます。
二階建てで他の城と比べればやや小さい天守ではありますが、中の木の質感などが当時のままの雰囲気の様で私は好きです。

丸亀城は標高約66mの亀山に築かれた平山城で、亀山城と呼ばれていて、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪、山下曲輪があり、東西が約540m・南北が約460mのうち内堀内の204,756平方mが史跡範囲で、ほぼ石垣の城。
しかし高い石垣の上に広い城郭があり、中を歩いていて楽しいです。

では、この丸亀城はどんな歴史があり、どんな人に統治されていったのでしょうか?

丸亀城とその城下町はどのようにしてできたか?

丸亀城とその城下町はどのようにしてできたか?

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丸亀市の中心市街地の始まりは、天正15年(1587年)に生駒親正(いこまちかまさ)が讃岐の国に封ぜられ、慶長2年(1597年)に親正・一正(かずまさ)による亀山への築城に始まります。
このころの城造りは織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭のみならず武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁(どるい)で囲み防御した「総構(そうがまえ)」となっています。
生駒氏は宇多津より人を移住させ、その人たちが住んだ場所が今の御供所町(ごぶしょちょう)、北平山町、西平山町です。
大坂の陣により豊臣家が滅び、徳川幕府は一国一城令を出し、親正は高松上を残し、丸亀城は廃城となりました。
では今ある丸亀城はどのような理由で建て直されたのでしょうか?山崎氏が正保2年(1645年)に丸亀城を再築するときに作成した絵図が残っていて城郭・武家屋敷・城下町の記載があり、山上の縄張りは現在の形とほぼ一致し、扇の勾配の高石垣は、山崎氏の手によるものです。

この絵図には古町(こまち)と書かれた場所があり、生駒氏時代からある町で今の御供所町、北平山町、西平山町、本町、南条町、塩飽町・城西町二丁目・中府町五丁目の一部、がこれに当たります。
また、大手町を除く番丁の武家屋敷地があったところは当時の道路や区画が今も残っています。

丸亀城はどんな建物や石垣で構成されているか?

本丸と二の丸はどの様にできていて、二の丸井戸の伝説とは何か?

次に丸亀城の作りを紹介します。
山上の最高所が本丸で、天守の他に隅櫓・多聞・土塀が石垣上に巡っていて、礎石・排水路を一部復元しています。

丸亀城天守は3層3階の現存木造天守で高さが約15m、1階北側には石落や狭間(さま)があり、唐破風(そり曲がった曲線状の破風)や千鳥破風(屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風)で意匠を凝らしています。
この天守は四国内でもっとも古く万治元年(1660年)に完成し、日本一小さな現存木造天守です。

山上で2番目に広い平場(曲輪(くるわ))にあるのが二の丸で、本丸同様、石垣上に隅櫓や多聞がありました。
二の丸井戸は丸亀城で最高所にある井戸で現在も水を湛え、城絵図によると深さは約65mあります。

この井戸は築城にかかわる悲しい伝説があり、羽坂重三郎は常に裸になって一生懸命働くことから「裸重三」と呼ばれ丸亀城を完成させた功労者で殿様も「重三の築いた石垣は完璧だ。
空飛ぶ鳥以外にこの石垣を越えられるものはあるまい」とご満悦でしたが重三郎は「私に鉄棒を下されば容易に登ることがができます」と言い、鉄棒を使ってすいすいと城壁を登ってしまったのです。
殿様は「重三郎を生かしておいてはもし敵が来てそれと通じてしまえば恐ろしいことになる」と考え城内の井戸の底を重三郎に探らせてその隙に石を落として殺してしまいました。
その伝説の井戸が二の丸井戸です。

三の丸・山下曲輪・見返り坂はどうできているか?

本丸・二の丸を巡る平場が三の丸で、3ヶ所に隅櫓がありました。
戊亥櫓は明治2年の藩邸(旧京極屋敷)火災の時に焼失し、火災で焼けた跡が今でも石垣に残っています。
三の丸井戸は山崎時代の絵図にある井戸で深さ31間と書かれていますが現在は空井戸となっていて、抜け穴伝説もあります。
月見櫓跡は讃岐富士と呼ばれる飯尾山を正面に望み、「人麿の歌かしこしとおもひつつ海のかなたの沙弥島を見る」と書かれた吉井勇の歌碑もあります。

山の下の平地を山下曲輪と呼び、内堀の北側中央部にあり城内側の櫓門を一の門、堀端の高麗門を二の門と呼び(殿様の方から見て近い方が一の門なのですね)、寛文10年の京極氏の時に完成しました。
一の門は楼上に太鼓を置き、城下に刻(とき)を知らせたことから太鼓門とも呼ばれています。
平成18年6月10日の時の記念日から時太鼓(ときだいこ)が復活し、江戸から平成へ時代を経て力強い太鼓の音が響き渡っています。
玄関先御門は京極氏の屋敷の表門であって形式は薬医門でこの門に接して番所・御駕籠部屋・長屋があり、芝生広場や資料館はかつては藩主の屋敷地でした。

大手門から山の上の三の丸に向かう山道は見返り坂と呼ばれ、傾斜が急で、登りのしんどさに時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになったそうです。
三の丸北側の石垣は丸亀城の石垣の中でもっとも高く20m以上の城壁が続き、隅角部の石垣は算木積み(さんぎづみ、長方形の短辺・長辺を交互に組んで積み上げていく方法)された美しい曲線美で「扇の勾配」と呼ばれています。

生駒親正とその後の藩主はどんな人物だったか?丸亀城とどの様に関わったか?

丸亀城を建てた生駒親正とはどんな人物か?

続いて丸亀城と丸亀城に関わる人達の歴史を紹介していきます。
天正15年(1587年)に讃岐の国に封ぜられた生駒親正は美濃の国に生まれ、織田信長の美濃攻めの際にその臣下となりました。
その後は羽柴秀吉の配下の武将となり、金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加しました。
信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。
姫路城主時代の秀吉に仕えていた天正6年(1578年)の約1000石からはじまり、着々と知行を増やし、文禄4年(1595年)には讃岐国17万1,800石を与えられ高松城を居城とし、慶長2年(1597年)から丸亀城築城に着手しました。

これに先立ち、讃岐の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした十河存保の嫡男千松丸を預かって養育し、親正が秀吉の前に千松丸を同行して参上した時、「存保ほどのものの子にわずか3千石か」と秀吉が発言したことにより「いずれ元の2万石復活か」と遺臣らは期待していましたが、千松丸は15歳で元服を迎える年に病死した。
そのため、秀吉の前で千松丸とともに舞を披露した親正の甥・大塚采女ら生駒側による毒殺ではないかと噂されました。
一説には、生駒氏に敵対するものが、生駒をおとしめるために行ったという説もあります。
その後も、十河氏復活の可能性を断つために三好氏の血を引く者を徹底的に弾圧したことで知られています。

親正とそれ以後の藩主はどんな人物だったか?

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正(かずまさ)は東軍に与し、親正は在国していましたが西軍に参加して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣しましたが、戦後に剃髪し、高野山に入りました。
西軍に与した責任を取るためとされてきましたが、関ヶ原での戦闘の前であり、東軍寄りの行動の責任を石田三成ら西軍に問われたためとする説もあります。

その後、一正が東軍に与したため生駒氏の所領は安堵され、一正は丸亀城から高松城へ移り丸亀城には城代を置きましたが、1615年の一国一城令により丸亀城は廃城となり、さらに親正は慶長8年(1603年)に高松城にて死去しました。

跡を継いだ一正は親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げ、その後妻子を江戸の屋敷に居住させたのでその忠義を徳川秀忠より賞されましたが、慶長15年(1610年)に死去し家督は長男の正俊(まさとし)が継ぎました。

正俊は大坂の陣では遊軍として活躍しましたが、元和7年(1621年)、死去。
家督は長男の高俊が襲封しましたが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになりました。
余談ですが藤堂高虎は今治城や宇和島城を作った築城の名手としても有名ですね。

生駒騒動とはどの様なものだったか?

生駒騒動はどの様にして起こったか?

生駒騒動はどの様にして起こったか?

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藤堂高虎の後見を受けて家督を相続した高俊(高俊の「高」の字は外祖父である藤堂高虎の「高」でしょうか)は幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約し(寛永10年(1633年)に輿入れ)、高虎は生駒家一門の家老生駒将監(しょうげん)・帯刀(たてわき)父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣の前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせました。

高虎が亡くなり藤堂家は息子の高次が継ぎ、引き継いで生駒家の後見もすることになり、前野と石崎は高次を背景に権勢を振るい、寛永10年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。
高俊は藩政を両人に任せきりにして男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていたため、世人はこれを「生駒おどり」と呼びました。
前述で輿入れした正室が父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせましたが高俊の乱行は一向に収まらず、増長した前野と石崎はしばしばわがままで勝手な行いをするようになり、これに不満を持つ譜代の家臣たちと対立し家中は乱れました。

藤堂高虎という強い力を持った人物が入り込んできたのと高俊が政治をおろそかにした藩主だったために生駒家中が乱れたのですね。

藤堂家臣の前野助左衛門・石崎若狭と生駒帯刀を始めとする生駒家臣はなぜ対立したか?

寛永12年(1635年)、生駒家は幕府から江戸城修築の手伝い普請(ぶしん)を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行いました。
前野と石崎はこの返済のために高松城南方の石清尾山(いわせおやま)の松林を木屋に伐採させました。
この山は親正が高松城築城のときに、城の守りとなるため伐採を禁じた土地で家中の者たちは憤慨し家老生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を訴えることになりました。

帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸に向かい訴状を差し出し、受け取った高次はこれはとんでもないことだと思い、老中利勝と生駒家の縁戚である脇坂安元と相談し、帯刀を尋問しました。
高次は穏便に済ませる様に帯刀を説いて国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に呼び出して尋問した上で厳しく訓戒し、以後は専横を慎むよう誓わせました。

しかし家中が対立するのは収まらず、かえって激しく対立するようになり、寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出ましたが、国許にあった高次は帯刀を伊勢津藩に呼び「家中の不和が続くようではお家滅亡になる」とさとして帰しました。
翌年4月、参勤交代で江戸に来た高次は安元と利勝(前年に幕府大老に就任)と相談し、このままでは訴訟が続き遂には生駒家は取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになりました。

生駒騒動はどんな人々がどう争い、どういう結末が下されたか?

生駒騒動でどの様な人がどの様に動いたか?

生駒騒動でどの様な人がどの様に動いたか?

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5月、藩主高俊が江戸に参勤交代で来て前野と石崎も従って来ていて、高次は前野、石崎及びさらに国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは自家のために切腹することを承知し、高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせました。
8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に派遣し、江戸での決定を家臣たちに伝え、これに帯刀派の家臣たちが不満を持ち騒ぎ始めました。
12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀らは忠義の者であって命を助けるよう訴えましたが、これまで事情を全く知らされていなかったため高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒りました。
翌年1月、高俊は藤堂家の藩邸に行き高次に抗議し、高次は説得しましたが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよとさじを投げ、生駒家の家政から手を引くことにし藤堂家の兵も讃岐から立ち去りました。

帯刀は帰国し帯刀派は歓喜しましたが、江戸で切腹する覚悟をしていた前野と石崎は驚き、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにしました。

生駒騒動の結末はどの様なものだったか?

4月、前野・石崎派は老中の稲葉正勝に訴状を提出し、同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を連れて讃岐を立退くよう指図しました。
讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が武装して国許を立退く大騒ぎになり、江戸でも一味の者たちが藩邸を立退きました。

幕府は両派の者たちを江戸城に呼び出して審議することにし、この間に一方の首領であった前野助左衛門が病死し、7月に前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を幕府に申し立て、更に彼らが武装して讃岐を立退いたことを訴えました。
3回の対審の後に幕府の裁定が決し、帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠誠の心があるとして出雲松江藩にお預け、その他の者も他の大名家へお預けとなりました。
前野・石崎の一派に対しては石崎、前野冶太夫(じだゆう、助左衛門の子)など4人は切腹、彼らの子供のうちの男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となりました。

同時に幕府は藩主高俊に対しても家中を取締ることができなかったとして城地を没収し、出羽へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えました。
高松藩はその後天領とされ、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸下館(ひたちしもだて)藩から12万石で転封されました。

山崎家は丸亀で何をしたか?

新しく丸亀に入った山崎家治とはどんな人物か?丸亀城の築城にどう関わったか?

新しく丸亀に入った山崎家治とはどんな人物か?丸亀城の築城にどう関わったか?

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生駒氏が改易された後丸亀城は伊予大洲藩主の加藤家の預かりとなり、その後肥後天草富岡城主の山崎家治(やまざきいえはる)が丸亀城に入りました。
家治は大坂夏の陣で池田利孝に属し、首級を6個挙げる活躍をし、その戦功により因幡若桜(いなばわかさ)3万石から備中成羽(なりわ)3万5,000石に加増転封され、成羽時代には連島新田開発などに尽力しました。
築城の名手であったといわれ、元和6年(1620年)の大坂城築城工事において才能を遺憾なく発揮しています。
家治は幕閣から信任を得て、島原の乱の後の寛永16年(1639年)、肥後天草4万石に加増され転封、乱後の天草は領内の2~3割が荒れ地というほどに荒れ果てていましたが、家治は富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などの復興に着手し、これらの功績により讃岐丸亀5万3,000石に大幅加増転封されました。

翌寛永20年(1642年)には廃城となっていた丸亀城に新城造営を計画し許され、幕府より白銀300貫をもらい、さらに参勤交代を免除されました。

丸亀でも築城の経験を生かして丸亀築城を開始する一方、城下町の経営と整備を行ない、今日の丸亀の基礎を築きました。
しかし丸亀城を凝った造りにしてしまったこともあり工事が長引き、慶安元年(1648年)3月17日、その完成を見ることなく55歳で亡くなり、丸亀城築城工事は山崎家が丸亀を去った後、京極高和まで引き継がれ、万治3年(1660年)にようやく完成しました。

山崎家の断絶から京極家の入封までどのような経緯だったか?

家治の跡は長男の俊家(としいえ)が継いで藩主となり、丸亀城の石垣・堀などの修築に尽力しましたが、慶安4年(1651年)10月26日に丸亀にて享年35で死去し、家督は長男でわずか3歳の治頼(はるより)が継ぎ、このとき叔父の山崎豊治に5000石を与えて後見人としています。
しかし治頼は明暦3年(1657年)3月6日に8歳で死去し、山崎氏は無嗣断絶で改易となりましたが、先に5000石を治頼から分知されていた叔父の豊治は、幕府から旧領・備中国川上郡成羽5000石を与えられて、交代寄合として復活し、明治維新まで血筋を絶やすことなく、山崎の家名は保たれました。
また豊治の実弟(母が同じ)・弘家は帰農し、豊治同様に山崎氏の旧領である肥後国天草郡御領に移住したと言われ、現在、成羽山崎氏と御領山崎氏は共に子孫が存在しています。

この後大洲藩主加藤家が在番した後に播磨龍野6万石藩主の京極高和が丸亀にやってきて、万治3年(1660年)に、讃岐にあり広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請(かんじょう、神仏のの分霊を他の場所に移すこと)し、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させ(現在の虎ノ門金刀比羅宮)、また丸亀城の天守閣を完成させましたが、1662年(寛文2年)に京都において44歳で死去しました。

京極高豊と高或はどの様な人物だったか?

芸術に秀でた高豊は丸亀に何を残したか?

芸術に秀でた高豊は丸亀に何を残したか?

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高和の跡は次男の高豊(たかとよ)が継ぎ、寛文12年(1672年)、幕府に近江の所領と播磨国2村を交換することを請願し、京極氏歴代の菩提寺である近江清滝寺を復興し、付近に散在していた墓碑を一カ所に集め三重塔を寄進し歴代当主の墓を集めて並べ、寺院名を父の法名に基づき徳源院と改めました。
この三重塔は現在、滋賀県の指定文化財に指定されています。

延宝2年(1674年)、江戸の桜田久保町に上屋敷を建設し、駿河台狩野派(かのうは)の絵師田中八兵衛に鳳凰、牡丹(ぼたん)、菊、四季山水、吉野竜田などを題材にする華やかな屏風(びょうぶ)類を製作させました。
高豊は絵画に非常に熟達していて、野々村仁清(ののむらにんせい、江戸時代前期の陶工)にこの屏風絵をそのまま描いた壷を発注した文書が残り、その芸術の関する才能の片鱗をうかがわせ、仁清窯と京極家の関わりは高豊に始まるといいます。

延宝4年(1676年)に丸亀城に移り、貞享5年(1688年)には城下町近くの下金倉村に大名庭園を築き万象園と名付け、京極氏の故郷、近江の琵琶湖の様な池を中央に置き、近江八景を配したこの庭園は日本三大海浜庭園の一つに数えられます。

元禄7年(1694年)、江戸からの帰国中に天然痘(てんねんとう)を患い、播磨国加古川で40歳で死去し、跡を五男の高或(たかもち)が継ぎました。

高或は何をしたか?その周りにはどんな人がいたか?

高或は兄3人が早く亡くなったため嫡子となり、元禄7年(1694年)、父の高豊が亡くなった時高或は3歳だったため、もし高或が若くして死ねば家の断絶となり、これを恐れた高豊の遺言により、高或が宗家を継ぐ一方、庶兄の高通に1万石を分け、多度津藩を立藩しました。
宝永3年(1706年)に叙任(位を授かり任を受ける事)し、翌年には元服して前髪を京極氏の氏神である沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社で、少彦名命(すくなびこなのみこと)を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」を総称し、佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座しています)へと納めました。

高或は享保9年(1724年)に33歳で死去し、跡を長男の高矩(たかのり)が継ぎました。

正室所生は長男・高矩。
側室馬勢子所生は常子。
側室登満子所生の次男・西尾忠需(にしおただみつ)は、高或の姉妹を正室とする横須賀藩主(神奈川県の横須賀とは違う土地の様です)西尾忠尚(にしおただなお)の養子となり跡を継ぎました。
西尾忠尚は幕府の老中を務めた人物で、静岡県掛川市横須賀で4月第1週に行われる祭礼である遠州横須賀三熊野神社大祭は、幕府の要職に付いて江戸暮らしが長かった忠尚が、江戸で学んだ文化を横須賀に伝えて始まったものです。

18世紀の丸亀はどの様に治められ、どの様な人が訪れたか?

高矩・高中の時期には何が作られ、何が起こったか?

高矩・高中の時期には何が作られ、何が起こったか?

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高或の長男の高矩は享保9年(1724年)に6歳で家督を継ぎ、享保16年(1730年)叙任し、享保19年(1733年)に初めて江戸から丸亀城に入りました。
宝暦4年(1754年)に藩内の弘田郷に雲気神社(くもげじんじゃ、香川県善通寺市にあり、天霧山の霧によって、雲がわき、雨が降るということから、

雲気神社となったそうです)を再興し、宝暦13年(1763年)に46歳で死去し跡を長男の高中(たかなか)が継ぎました。
高矩の治世中に寛保二年江戸洪水があり、江戸の下町を洪水が襲い900名以上の溺死者が出たため、西国大名の手伝い普請に丸亀藩も参加し、幕府のかき集めた船で食料の支給を行いました。

跡を継いだ高中は安永9年(1780年)、勘定奉行に村井忠左衛門を登用して銀札を発行し、さらに米の備蓄を法で制定し、窮民救済に努めました。
また、儒者の渡辺半八を登用し、学問所である正明館(せいめいかん、後の明倫館)を拡大して学問を奨励し、福島甚浦を建設して船舶の利便を図りました。
文化3年(1806年)に若狭守に遷任し文化8年(1811年)1月13日に江戸屋敷で死去しました。
享年58。

与謝蕪村はなぜ讃岐を訪れ、どんな人々と交流したか?

同じ時代の明和3年(1766年)の秋から明和5年(1768年)の夏にかけて、画家であり俳人でもある与謝蕪村が何度か讃岐を訪れました。
蕪村は妙法寺に滞在して揮毫(きごう、文書や書画を書くこと)した「蘇鉄図」など大作6点があり、寺宝とされて大切に保存されていて、妙法寺が一名「蕪村寺」といわれる理由です。

讃岐・琴平には望月宋屋(もちづくそうおく、江戸時代中期の俳人)門下の俳人が多く住んでいて、その中に当時妙法寺檀家総代の菅暮牛(かんぼぎゅう、琴平の豪商)がいて、菅暮牛をはじめとする琴平の俳人仲間たちを訪ねるために蕪村は丸亀の港に上陸し、一夜の宿のために妙法寺を偶然に訪れました。
真観上人(しんかんしょうにん)の時であり、その時の蕪村は無一文で、乞食のような格好だったそうです。

 その後、菅暮牛の案内で再び妙法寺を訪れた蕪村は、真観住職との再会を喜び、ともに菅暮牛、一夜の宿と運命的な再会が縁で、絵を好みとしていた真観住職と意気投合し、蕪村と親密な交流が始まりました。

以後、讃岐を滞在した間に数回妙法寺を訪れ、お礼の意味を込めて、蕪村は客殿の襖(ふすま)を表装し、絵を描き、真観上人の歓待に応え、京都へ帰るとき、当山で「長尻の春をたたせて棕梠(しゅろ)の花」という俳句を残していて、讃岐でのたくさんの思い出を胸に、少々長く逗留しすぎたことを詠んでいます。
知らない土地を旅して滞在して自分の好きなことをしてその土地の空気を楽しんで人と交流するというのは良いでしょうね。

幕末から明治、現代まで丸亀城はどの様に変わっていったか?

高朗と朗徹はどんな人物だったか?

高朗と朗徹はどんな人物だったか?

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高中の跡は四男高朗(たかあき)が継ぎ、文化10年将軍徳川家斉(いえなり)に御目見し、従五位下長門守(じゅうごいのげながとのかみ)に叙任しています。
藩政においては高朗自身が文学的な才能があったため、江戸藩邸に藩校・集義館を開きました。
弘化2年(1845年)には鳥居耀蔵(とりいようぞう、幕臣で「遠山の金さん」の悪玉)を預かっています。
しかし治世後期から、武士も町民も共にぜいたくに走る傾向が見えたため、高朗は加藤俊治らを登用して藩政再建の改革を行ない、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定や文教政策に力を注いぎました。

嘉永3年(1850年)3月7日、婿養子の朗徹(あきゆき、従弟高周の五男)に家督を譲って隠居しました。

朗徹は財政再建のため、ぜいたくを戒めて倹約令を出し、産業奨励、輸入の制限、不正の厳罰化、上納米の督促、銀札の一部発行停止などを行なっています。
幕末の動乱の中では尊王派(天皇を政治の中心と考えること)として行動し、御所を警備するためにたびたび出兵し、鳥羽・伏見の戦いでは、隣の高松藩が朝敵にされると、新政府の命令で土佐藩・多度津藩と共に高松藩の追討にあたりましたが、高松藩主松平頼聰(よりとし)から新政府に対して許してもらえる様に説明してくれないか仲介を依頼され、新政府に取り次いで頼聰を許させています。

明治維新後の丸亀城と現代に至るまで

明治2年(1869年)2月に朗徹は諸藩の藩主に先駆けて版籍奉還を願い出て、3月19日に丸亀藩知事に任じられました。
その後、藩士の知行削減などの改革を行なっい、明治4年(1871年)3月、全国の諸藩に先駆けて廃藩置県を願い出て、4月10日に丸亀藩は廃藩で丸亀県となり、朗徹は丸亀県知事に任じられましたが、4ヵ月後の8月15日に県知事を辞職して東京へ移り、明治15年(1882年)5月11日に死去しました。
享年55。

明治7年(1874年)陸軍省の所管となった丸亀城の番丁に丸亀兵営が完成し、明治9~10年(1876~1877年) の間に城内の櫓、多聞が取り壊されました。
大正8年(1919年)丸亀市が山上部を借地して公園として開設し、大正15年(1926年)国有地の一部が市へ払い下げられました。
昭和18年(1943年)丸亀城天守は国宝となりました。

その後何度も修理されたり工事があったり、文化財に指定されたりして、今の丸亀城に至ります。
空襲で天守閣が焼けた城も多いのに、無事にその姿をとどめ続けることができたのは、ありがたいと思います。

丸亀城の近くにある金比羅山はどの様な場所で、どのような人が訪れたか?

金比羅参りとはどの様なものだったか?

金比羅参りとはどの様なものだったか?

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ここで丸亀から近くの香川県仲多度郡琴平町(なかたどぐんことひらちょう)にある金比羅山(こんぴらさん)について説明しようと思います。
私も登ったことがありますが、1368段というきつい階段を登って参拝して一番上まで辿り着くと、西讃が一望できす高所の景観が待っていて、心が洗われる様です。

「こんぴらさん」は元々、「朝廷の勅願所」でしたが、江戸中期、第十代別当「宥存」のとき、「幕府の祈願所」とされ、幕府のお墨付きになったということで、江戸の庶民は競うように「こんぴらさん」へとお参りに詰めかけました。
江戸時代、庶民は旅をすることが禁じられていましたが、「こんぴら参り」と「お伊勢参り」だけは、庶民が旅することを許されていた特別な場所だったのです。
「こんぴらさん」の主祭神である「大物主神」は海の神さまで、海の安全を守っていて今でも船乗りたちの厚い信仰の対象となっています。

海にまつわる「流し樽」という伝統があり、「こんぴらさん」に直接行けない人々や、航海の安全を祈願する人たちが、「樽(たる)」に酒を詰めて海に流し、流した人、そしてそれを拾い上げた人、双方にご加護が得られ、ある漁師は15個も樽を拾って、「こんぴらさん」に納めたそうです。

十返舎一九や滝沢馬琴は金比羅山をどの様に描いたのか?

「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者十返舎一九も金比羅山を訪れていて、「金毘羅参詣続膝栗毛 (こんぴらさんけいぞくひざくりげ) 」という前作同様弥次郎兵衛と喜多八(いわゆるやじさん・きたさん)を大阪から讃岐金毘羅へと向かわせます。

江戸を出発して大阪で旅を終えて帰国するはずだった前作の続編で、金毘羅を目指し海路丸亀に渡り街道を行くのですが、旅籠屋(はたごや)・茶屋など道中で出会う人達との間で交わされる会話や仕草が滑稽で、中でも方言が応酬するのが面白いです。

「南総里見八犬伝」で有名な戯作者滝沢馬琴も金毘羅に関連する作品を何点か残していて、その中でも『金毘羅船利生纜』(こんぴらぶねりしょうのともずな)では、金毘羅に向かう船中で、旅人が同乗客に金毘羅の本来の姿を語り始めるという設定で、話は日本と中国、また時空を超えてSF小説の様に奇想天外に展開していく孫悟空が登場する「西遊記」の翻訳版になります。
ちなみに孫悟空が生まれたといわれる花果山が象頭山(金比羅山の別称)という設定になっています。

前述の与謝蕪村の話といい、讃岐にはたくさんの芸術家たちが訪れているのですね。
私的にはこの辺りはさぬきうどんの名店が多いところなので、また2〜3件くらいハシゴして回ってみたいものです(美味しい所は15時くらいには閉まってしまうので気を付けないといけないのですが)

丸亀城を回るならうどんの名店と一緒に車でまわりましょう

いかがでしたでしょうか?丸亀城は全国で12しかない江戸時代から現存する天守で、天守の歴史を感じさせる木の作り古めかしさが素晴らしく、私は城を巡るのは「タイムスリップ感」が大事だと思っているのですが、この城はそれがとても感じられるのです。
そして強固な石垣と坂を持ち、生駒氏、山崎氏、京極氏と、生駒騒動という事件を経て一度は廃城になりながらも今日まで無事にその姿を江戸時代から残してきました。
お越しになるときは車を使ってさぬきうどんと一緒に回って楽しむという方法がオススメです。
では、読んでくれてありがとうございました!
photo by PIXTA

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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