広島観光の前に知りたい「福山城」の歴史。成り立ちから今日まで

福山城はどの様に作られ、どの様な建物で構成されているのでしょうか?また福山城と福山の街はいつ作られ、どの様な人に治められ、そのために藩主は領民の生活のために何を作ったのでしょうか?ペリーらの襲来による鎖国の終わりや幕府の長州征伐など日本の歴史とも関わっていますので見ていきましょう。
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福山城と福山の街はどのようにあり、成り立っていったのか?

福山城はどこから見られるか?

福山城は広島県福山市にあり、全国的に珍しいと思うのですが、新幹線の止まる福山駅のすぐ北側にあり、駅から天守閣まで歩いて5分の距離にあります。
私も何回か訪れた事がありますが、駅の一番北側のホームからよく見えますし、電車に乗っているだけでも福山駅の辺りを通れば見えますね。
新幹線からでも見えるのではないでしょうか?全体的に白い天守閣が好きです。

福山城は明治6年に廃城となり多くの城の建物が取り壊され、さらに空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も消失してしまいましたが、その後昭和41年(1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑や平櫛田中の人形などを展示しています。

備後では福山より南にある港町、鞆(とも)や神辺(かんなべ)が栄えていましたが、「山陽道に近い方が便利」という理由によって江戸時代に山陽道が通る位置に築城され、福山城となりました。
それではまず、福山城はどの様にして成り立っていったか、ということから見ていきましょう。
福山城のある福山藩は江戸時代に水野氏、松平氏、阿部氏などに支配されていきます。

なぜ「福山」という地名になったのか?

元和5年、安芸備後と備後鞆を領有する賤ヶ岳七本槍と言われた福島正則が改易されると、大和郡山藩主であった譜代大名の水野勝成が備後7郡と備中の一部の10万石を与えられ、鞆に上陸し神辺城に入りました。
勝成は領内を歩き海沿いの港のある鞆城などを検分し、また陸路の要衝である神辺城も海に遠く不便なため、翌年には幕府の許可を得て野上村常興寺山に築城を始め、元和8年8月に城を完成させ城下を福山とよびました。

なぜ「福山」という名前になったかというと、城のあった常興寺山は「蝙蝠山」(こうもりやま)と呼ばれていて「蝠」は福に通じることから「福山」と呼ばれました。
福山市はその蝙蝠と山をかたどって市章としています。
福山城は江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。
また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の遺構を徳川秀忠が移築させたもので、白壁三層の姿に桃山時代の雰囲気が見受けられます。
城下町は地子(領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代)及び諸役を免除して人を集め、築城後まもなく上水道を敷設しました。

福山水道と福山城のつくり

福山水道と福山城のつくり

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福山の旧上水道

福山の城下町は遠浅の海を干拓して作った町であり地面を掘っても塩水しか出ず、場所の限られる芦田川の伏流水では城下全体の水はまかなえず、飲料水の確保は、城下町づくりの重要課題のひとつでした。
どこの町でも大きい町は最初は水道を整備する必要がありますよね。

水野勝成は土管や木の菅で芦田川から水を引き、貯水池として蓮池(どんどん池)が貯水池として作られ、ここから両側を石垣で囲い込んだ幹線を城下に引き、その各所に貫洞が設けられ、そこから各戸に木管、土管、竹管等で引水しました。

福山の上水道設備は神田上水に次ぐ二番目の歴史をもつと言われており、また神田水道、福山水道、赤穂水道を日本三大水道とする説もあり、江戸時代有数の誇れる歴史と規模をもつものでした(たまたま少し前に赤穂に行ったのですが、赤穂でもこの日本三大水道の説明がありました)。

後に、勝成がいかにこの水道を大切にしていたかを伝える話も残されていて、勝成が苦労して切り開き、城下町の発展の希望が込められた福山水道は明治時代まで使われ続け、その一部は終戦当時まで使用されていたそうです。
勝成は領民に優しい藩主だったのですね。

天守閣と伏見櫓はどの様にできているか?

元和の一国一城令で、御三家の水戸や和歌山でさえ許されなかった白亜の五重天守は、中心に二本の大柱で全体を支える構造になっていて、姫路城大天守と同様でありました。
窓枠には銅板で補強をし、壁面は総漆喰(しっくい)塗りの白壁、ただし北面だけは総鉄板張りで各階に天井板が張られており、建築の材料には極上のヒバ材を使用していたといわれています。

福山城は天守以外にも櫓の多い堅固な城郭で、特に廃城になった京都の伏見城や、これも廃城となった神辺城から移築された物が多く、伏見御殿・御湯殿・伏見櫓・筋鉄御門・月見櫓(伏見城から)や、神辺一番櫓・同二番櫓・同三番櫓・同四番櫓(神辺城から)などが代表的なものです。
これらを含め福山城に関する文献では三重櫓が7基、二重櫓が16基備えられ、本丸と二の丸はほぼ全周を多聞櫓で囲っていたとされ、多聞櫓の総延長は約570mに及び各曲輪(くるわ)は総石垣造りとなっていました。

伏見櫓は京都伏見城・松の丸にあったものを徳川二代将軍秀忠が移築させたもので、伏見城の城郭建築の遺構としては珍しく、三重の白筋鉄御門と同じく戦災による焼失を免れ現在国重要文化財に指定されています。

福山城はどのような建物で構成されているか?

福山城はどのような建物で構成されているか?

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筋鉄御門と鏡櫓はどんな建物か?

筋鉄御門も国の重要文化財であり、入母屋造り、本瓦葺、脇戸、櫓門等が付いています。
これも伏見城から移築したものといわれ、柱の角に筋鉄を施し、扉にたくさんの筋鉄を打ちつけているためその名が生まれ、左に渡櫓、右に多門を連接させたもので、後の時代の枡型多門の型をとらない初期様式のものです。

鐘櫓は福山市重要文化財に指定されていて、当時は鐘を吊り、太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓をうっていたといわれていて、時を告げる以外にも緊急時に武士を招集する役割などもありました。

鐘は儒学者山室如斎、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが、現在は無銘です。

明治時代以降たびたび補修を繰り返していましたが原形を留めないほど荒廃が激しかったため、昭和54年(1979年)板葺きで修復され、現在は鐘のみではありますが今でも1日に4回、時の鐘をついています。

鏡櫓の文書館は本丸の東側に位置し、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれていて、明治6年の廃城の際取り壊されましたが、昭和48年9月30日外観が復元され、その姿を現在にとどめています。
昭和49年4月2日より、福山に関係する文書・記録類を整理保存する施設として活用されています。

月見櫓と湯殿はどんな建物か?

月見櫓も元々京都伏見城内にあったものを移築したもので本来は着見櫓のことであるとも言われています。
追手側(南側)も入江方面も展望できる南東の隅に築かれ、藩主などの到着を見極める役割をなしていました。
1階南側に石落としがあり(実際の石落とし機能は不明)古い建築様式をもっていて、明治初年頃取り壊されましたが、昭和41年秋に天守閣とともに外観を復元され、現在は貸会場として利用されています(お城で宴会などできればしてみたいものですね)。

湯殿は京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていました。
建築の一部は石垣の上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていました。
昭和20年の戦災により焼失しましたが(日本の城はこの様に空襲で焼失したものが多いのが非常に残念ではありますが)、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復元されたものです。
こちらも現在は貸会場として利用されています。

この様に、復元された建物が多いですが、たくさんの建物が残っていて重要文化財などに指定されているのですね。

水野氏の藩政はどの様なものだったか?


水野勝成は福山で何を作ったか?

水野勝成はその後二条城の普請を勤め、寛永2年(1625)には肥後熊本加藤家改易により熊本城受取りを勤め、このとき勝成の妹で加藤清正室の清淨院を福山に引き取り、さらに勝俊の嫡男・勝貞が鞆津で生まれ、勝俊・勝貞の誕生を祝い沼名前神社に石鳥居を寄進しました。
しかし思ったのですが、勝成の子が鞆で生まれて神社を寄進している様に、福山に城が移ったとはいえ水野家は鞆とも関係が深い様なので鞆についても触れてみたかったです。
鞆の浦は何度も行きましたが江戸時代には港町で大都市だっただけある古い家が建ちならぶ雰囲気と、有名な常夜灯や、坂本龍馬がいろは丸の海難事故で紀州藩と談判したという福禅寺対潮楼からの仙水島や海の眺めが素晴らしいので行ってみてください。

さらに勝成は藩札を発行し、野上新田を開発し、さらには寛永15年(1638年)、勝成はその子勝俊・孫の勝貞とともに島原の乱に出陣しました。
翌年に勝成は隠居して2代目勝俊にあとを譲り自らは本格的な干拓事業に取りかかり、木ノ端新涯(芦田川と海の防波堤、これにより福山の町の骨格が完成し城下から天当山までは入り江として城から海への出入り口となりました)を開発し、木綿橋(新橋)を架設しました。
さらに市村沼田・深津沼田・引野新田を開発し、慶安4年(1651年)3月15日に88才で勝成は亡くなり、賢忠寺にて葬られました。

勝成以後の水野氏の藩政とその終わり

そのわずか4年後の承応4年(1655年)、勝成の子勝俊が江戸にて亡くなり、妙政寺に葬られました。
勝俊の7人の側近が追腹を切り殉死し、同じく妙政寺に墓が並べてあります(家臣が殉死するほど勝成と勝俊は慕われていたのですね)その後3代勝貞があとを継ぎ、多治米(という地域)を開発しますが38歳で亡くなり、4代勝種が3才で家督を継ぎます。
この時松永に綿運上所を設け運上銀を定め、手城(という地域)と草戸(鎌倉時代からある町なのですが、この後の洪水で滅びたらしく、福山城ができたことで廃れてしまったのを復興させようとしたら洪水がきて決定的なダメージを負って滅びたということでしょうか?)を開発しますが、大暴風雨・洪水により城下浸水するなどしました。

勝種は7人もの男子に恵まれましたが、長男から六男まではいずれも早世、末子の勝岑(かつみね、七男)が跡を継ぎましたが、数え2歳で早世したため、お家断絶となるところを、幕府は水野数馬に1万石を与え下総結城に転封とさせられ、水野氏による福山藩政は終焉を迎えました。
その後の阿部氏と比べると水野氏の統治は短いものだったのですね。

松平氏と、そして阿部氏はどの様な政治をおこなったか?

松平氏と、そして阿部氏はどの様な政治をおこなったか?

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松平忠雅と阿部正邦の政治はどのようなものだったか?

水野氏が転封になると出羽山形藩主であった松平忠雅が福山にやってきて、このとき残り五万石余(安那・甲奴郡の一部と神石郡)は天領となり、笠岡陣屋支配(備中小田・後月郡の一部)に分かれましたが、忠雅はわずか11年で伊勢桑名に転封となり、阿部正邦が下野(しもつけ、今の栃木県)宇都宮より移封され入城しましたが正邦はすでに53歳になっていて、宇都宮から遠く離れた福山への転封に困惑する心境を述べています。
53歳の男性が転勤などで(しかも移動は徒歩や馬、かごの時代)遠く離れた土地で急に暮らすことになったら不安になりますよね。

正邦は「指出帳」(宝永差出帳)を全村から提出させて、領内の実情を把握しました。
この差出帳には、各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲などの村の概要と年貢納入の方法や、五人組などの諸制度が載せられていて、さらに治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布して、領主交替の際に起こる動揺を抑えようとし、そして年貢の納め方についての請書を出させましたが、転封からわずか5年後、江戸において死去し、家督は四男・正福(まさよし)が継ぎました。

阿部正福(まさよし)は農民に対してどのような政策をおこなったか?

阿部正福は34年間藩主を務め長期の藩主となり、藩主になって3年目の享保2年(1717年)秋に藩領全域にまたがる百姓一揆が勃発し、また、翌年には朝鮮通信使の接待応接(朝鮮通信使の接待は他藩に負けない様にと競い合うように豪華になるもので、藩の出費さらには農民への負担ととなりました)、更に同6年(1721年)福山城下西方にある芦田川の氾らんなどが起こり農民の不満がたまる出来事が多く多難でした。

正福は農民層の分化、すなわち没落した農民の増加による格差の拡大を認識していましたが、その原因は村役人たちの不正や浪費に主因があるとして、綱紀粛正(こうきしゅくせい)や賦役(ふえき)の公正化等の政策を実施していきました。
また、分地や結婚年齢を制限し、農民の極度の零細化を防ごうとしましたが、これらの政策はある程度の成果を挙げたと考えられますが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉によって、それらが台無しになる程の財政的な打撃を受けたようです。

寛保2年(1742年)の利根川の氾濫による修復への普請手伝いも大きな財政的負担となりました。
正福は47歳の時に大坂城代に就任し、その後の阿部氏が譜代の名門として幕閣へ登場する足掛かりを作りました。
しかし同4年(1747年)12月、病気のためわずか2年ほどで大坂城代を辞任し、翌寛延元年(1748年)11月19日には家督を次男・正右(まさすけ)に譲って隠居しました。

正右(まさすけ)と正倫(まさとも)の時代になぜ財政の乱れがおきたか?

正右(まさすけ)と正倫(まさとも)の時代になぜ財政の乱れがおきたか?

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正右(まさすけ)が藩主の時期、福山の藩政はどのように乱れたか?

正右は25歳で正福から家督を譲られ、死去するまで28年間藩主を務めましたが、藩主であった期間の大部分は幕政へ参画しており、藩政に直接関与することはほとんどありませんでした。
宝暦2年(1752年)に奏者番になり同6年(1756年)に寺社奉行も兼任し、同10年(1760年)には京都所司代に転任して従四位下に叙され、京都所司代在任中には先例を破り処分を受けることもありましたが、後桜町天皇即位の祭礼をも任されまとめるなど活躍しました。

明和元年(1764年)には西丸老中、さらに翌年(1765年)本丸老中にも任じられ、阿部家が老中をつとめるのは、5代前の重次以来約100年ぶりのことでした。
しかし一方でこの正右の出世のために多額の経費が必要で福山藩は無理な支出を強いられることになりました。
そのため藩は藩札(銀札)を濫発し厳しい財政を補填しようとしたが、市場を混乱に陥れ藩の信用は失墜することになりました。
藩札の信用が低くなり藩民はなるべく正貨を使おうとしたため藩は藩札の強制使用を命じ、さらには「御用銀」を領民から徴収しました。

しかし宝暦3年(1753年)、これに反発した領民による一揆が起こり政策は撤回されることになりました。
その後、藩は流通統制や財政緊縮で財政の健全化を図ろうとしますが、正右の死去までに状況が好転することはありませんでした。
また、こうした状況の中で、藩士の綱紀はゆるみきったそうです。

正倫(まさとも)の時代、福山藩政はどの様に荒れていったか?

正右が死去すると三男の正倫(まさとも)が跡を継ぎましたが、正右の時代から福山藩の財政は危機的状況に陥っていて、正倫は藩主になると同時に財政改革に取り組みますがあまり効果は挙がらず、それどころか天候不順が重なってより一層の収入不足となり、また、一揆が起こり改革は後退し、結果、更に厳しい財政緊縮を強いられることになりました。
そこで正倫は叩き上げの遠藤弁蔵に財政再建を担当させ、収入の増加に成功しますが、遠藤の施策は厳しいもので、領民の恨みを買うことになりました。
しかも、福山藩は「鬼より怖い」といわれた「上下銀」(天領の貸金)の借入にも手を染めており、藩財政はより深刻な状況へと陥りました。
しかし常に江戸にいた正倫は、その実情を帰国するまで理解することはできなかったのです。

この上下銀の返済に困り果てた正倫は、田沼意次に働きかけたり寺社奉行の地位を利用して返済の凍結を成功させ、最終的には借入の担当者である佐藤新四郎を藩内から追放することで決着を図りました。

なお正倫も奏者番から寺社奉行、老中と進みますが老中就任を祝う臨時税を取ろうとしたところ、これによる反抗として藩史上最大の一揆(天明大一揆)がおこり、さらに松平定信の改革派により、失脚した田沼派に属していた正倫は立場を失い、病を理由にわずか11ヶ月の任期で老中を辞任しました。

正倫から正精(まさきよ)に変わり、藩政はどの様に変化したか?

正倫から正精(まさきよ)に変わり、藩政はどの様に変化したか?

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正倫は財政を立て直すために何をやったか?

その後正倫は藩政の建て直しのため福山に帰国しますが、藩内の綱紀の乱れは想像を超えるもので失望し、それでも藩士教育のため福山城西堀端に藩校の(福山)弘道館(今日の広島県立福山誠之館高等学校の前身)を創設するなど、士風の振興を図ろうとしましたがあまり効果は挙がりませんでした。
また財政再建に取り組んで藩主親政による徹底した経費削減や有力商人への接近、農政改革など政策を実施していき、財政を再建するには至らなかったものの一揆を抑えることには成功しました。

正倫は鞆港に異国船取り調べ番所も置きましたが、これは今も建物が残っていて船の出入りや安全を管理監督する設備で、今で言えば港湾管理事務所です。
遠見番所とも呼ばれ、ここから眺望する鞆の浦の港の景色と出入船の情景はさぞかし格別のものだったことでしょう。

享和3年(1803年)に隠居し、5代正精(まさきよ)に家督を譲り文化2年(1805年)に死去しました。
なお、藩主在任期間は第2代・正福(まさよし)より5ヶ月長い34年に及び、阿部家福山藩では最も長期でした。

文化の振興を図った正精(まさきよ)の時代

正精は父正倫と同じ様に奏者番と寺社奉行を兼任しますが(阿部氏は譜代大名であったため幕府の良いポストにつきやすい立場だったのでしょうね)、病を患い寺社奉行を辞任しますが後に再任されます。
さらに将軍家斉の、寛政の改革の厳しさを嫌っての幕閣改造人事により老中に抜擢され、これは正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが伺え、実際に正精の老中在任中に空前の賄賂政治が横行することになりました。

しかし、正精が老中であった時の功績に江戸の範囲を確定したことがあり、江戸御府内という区画が具体的にどこからどこまで指すのかをはっきりと決定しました。

文政6年(1823年)、正精は病気のため老中職を辞し、53歳で藩主在任のまま亡くなり、跡は三男正寧(まさやす)が継ぎました。

藩政において正精は、先代正倫の財政再建を継承し、経費削減と負債償還のため豪商・豪農に便宜を図り藩財政に寄与させ、鞆港(鞆の浦)の整備に力を入れました。
しかし、10万両を超える負債は利子を返済するので精一杯で、財政の健全化に程遠いのは変わりはありませんでした。

また、江戸の駒込藩邸の中に学問所を置いたり、文化教育に取り組む民間救済機関「福府義倉」(義倉とは災害や飢饉に備えて米や穀物を備蓄する倉庫)を援助し、朱子学者の菅茶山(かん ちゃざん)に歴史書「福山志料」の編纂を命じるなど、文化政策に熱心だったため、文化の興隆は阿部期の福山藩が最盛期であり、自身も多くの書画を残しました。

老中となった正弘は日本と福山にとってどんな存在だったか?

老中となった正弘は日本と福山にとってどんな存在だったか?

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病弱な正寧(まさやす)と正弘の時代はどのようなものだったか?

正寧も奏者番に任じられましたが、病気を理由に辞職し、藩政にも消極的で、天保2年(1831年)に福山藩は大洪水、その翌年に凶作、さらに天保7年(1836年)の大凶作に見舞われますが、特別に対策を講じるこもなく同年に28歳で家督を弟の正弘に譲って隠居しました。
正寧は文化政策にも先代の正精のような熱心さはなく、「福府義倉」への援助もなくなり、ただ、自らは隠居後、不争斎と号して文筆に親しんだといいますので、政治の人ではなく芸術向きの人だったのではないかと私は思います。

そして歴史の教科書にも載っていて有名な阿部正弘は天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行いましたが、正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみだと言われています。

正弘も奏者番から寺社奉行に任命され、感応寺の破却などを行なっています。
これは徳川家斉時代に大奥と僧侶が乱交を極めていた事件で、家斉が死んだ後に寺社奉行となった正弘の時代に発見されると、正弘は家斉の非が表面化することを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定しました。
この裁断により正弘は第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになったといわれます。

阿部正弘は幕府の政治でどのような影響を与えたか?

正弘は25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移りました。
外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰しましたが正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したといいます。
水野が復帰すると、天保の改革の時代に不正などを行っていた江戸南町奉行らを処分し、老中首座だった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に解職させ、後任の老中首座となります。

幕政においては海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ、また、薩摩の島津斉彬や水戸の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、さらに筒井政憲、戸田氏栄など大胆な人材登用を行いました。
さらに人材育成のため、福山藩の自らが治める藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行いました。
ただ、藩の政治を考えることはほとんどなく、藩財政は火の車でした。

そしてペリーやロシアのプチャーチンが来航して通商を求めましたが、この国難に対し正弘は朝廷を始め、諸大名や市井からも意見を募りましたが、結局良い対策を打ち出せず、松平慶永や島津斉彬らの意見から徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、幕府の権威を結果的に弱め、一方で雄藩の発言力と朝廷の権威の強化につながりました。

幕末の動乱に福山藩主たちはどう対応したか?

幕末の動乱に福山藩主たちはどう対応したか?

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正弘は外国の脅威に対してどう対応したか?

正弘は積極的な政策を見出せないまま嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーが再来し同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させ、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げました。

その後攘夷派であり条約締結に反対し締結後に海防掛参与を辞任することになった徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全(のりやす)、松平忠固(ただかた)をに老中より罷免したことにより開国派の井伊直弼らは怒り、正弘は孤立を恐れ開国派の堀田正睦(ほったまさよし)を老中に起用して老中首座を譲り、両派の和解をはかることとなりました。

こうした中、正弘は海防の強化のために江川英龍、勝海舟などを登用して、講武所(後の日本陸軍)や長崎海軍伝習所(後の海軍)、洋学所(後の東京大学)などを創設し、また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組みました。

安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま享年39、江戸で急死し、跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教(まさのり)が継ぎましたが23歳で若くして亡くなりました。
子はおらず、跡は弟の正方が継ぎました。

長州征伐のとき福山藩はどうしていたか?

正方は幕府から第一次長州征伐の先鋒を命じられ、藩兵約6,000人を率いて安芸国広島(広島県広島市)に出征しましたが到着から間もなく、福山藩が幕府への忠誠を疑われ急遽幕府から日光警護の下知がもたらされた、帰陣後、正方は尊皇派の藩士5人を処罰しています。

翌年福山藩は再び長州征伐(第二次)を命じられ、正方は藩兵を率いて出陣しますが翌年石見国を進む途中に正方は病(脚気と思われる)を悪化させ、指揮を家老内藤角右衛門に委ねて粕渕(かすぶち、島根県邑智郡)に留まり、正方の本隊は石見国益田(島根県益田市)で長州藩と交戦して敗北しました。
翌日、粕渕で敗報を聞いた正方は軍の立て直しを命じますが、幕府軍が長州藩に敗北したため、正方は撤兵を決意し福山へ帰還しました。

その後、大政奉還、王政復古、と政局が激動する中、徳川譜代であることから立場を危うくしていき、そのため攻めてくるであろう長州藩に備えて福山城の北側に胸壁を築き、城下に番所を増やすなど、防備を強化に取り組みました。
そして、慶応3年(1867年)11月22日、戊辰戦争の前哨戦として長州藩軍(新政府軍)が領内に迫ろうとする時、正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去しました。

明治以後の福山城はどうなったか?

明治以後の福山城はどうなったか?

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明治維新で福山はどう変わったか?

正方は未婚であり阿部家は本来断絶になったところですが、明治維新の混乱で隠匿され、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・元次郎が正弘の娘と婚姻し養子として迎えられ、戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年、1868年)に福山城へ入って阿部正桓(まさたけ)と名乗って跡を継ぎました。
親朝廷方の浅野家の親族を養子にすることで、幕府重鎮の阿部家を存続させる、ということになり、同年新政府(長州軍)の命令に従い新政府軍(芸州軍)の福山入城が行われており、福山は芸州藩の浅野家による占領状態でした。

福山藩は伊予国松山への出兵、播磨国西宮の警護、大阪府天保山砲台を警護するなど新政府軍への対応に追われ、正桓も藩主就任直後に箱館戦争への出兵を命じられています。
翌年正桓は版籍奉還を願い出て、福山藩知藩事に任命され、こうした中正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して、従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め、人事も刷新しましたが、廃藩置県により正桓は知藩事を罷免されました。

そして明治に入り城郭全建物・樹木一切は兵部省に移管され、御屋形は県庁となり、明治8年(1875年)には本丸が福山公園となりました。

明治から昭和、そして現代にかけて福山城はどう変わっていったか?

明治21年(1888)3月には月見櫓跡に葦陽館が建設され、明治24年(1891年)に山陽鉄道笠岡・福山間が開通し、さらに福山・尾道間が開通し福山城の南内堀を埋めて線路と駅舎が建設されました。
大正3年(1914年)には東外堀が埋められ、鞆軽便鉄道の野上・福山町間が開通し、には両備検便鉄道の両備福山・府中町間が開通、これも東外堀を埋めて線路と駅舎が建設されました。

大正11年(1922年)には阿部正弘公の銅像が建立され、昭和6年(1931年)には天守閣が国宝に指定され、さらに昭和8年(1933年)、伏見櫓・御湯殿・筋鉄御門国宝に指定され、昭和11年には福山城址本丸が国史蹟とされましたが、昭和18年(1943)太平洋戦争により阿部正弘公銅像を供出し、昭和20年(1945)8月8日、福山大空襲により福山城天守、御湯殿、涼櫓などが城下に残る多くの文化財と共に焼失しましたが、21年後の昭和41年(1966年)福山市の市制50周年記念事業として天守閣・月見櫓・御湯殿が復元され、平成18年(2006)財団法人日本城郭協会が定める日本100名城に指定されました。

福山城がどんな歴史を持つかおわかりいただけましたか?

いかがでしたでしょうか?水野氏が福山城を建て、領民に優しい政治を行い上水道などを整備し、譜第大名阿部氏は幕政に参加し日本の歴史に深く関わりました。
福山城は空襲で焼けてしまいましたが、後に復元されてたくさんの建物を見ることができます。
城特有ののどかな雰囲気を持っていて、駅のすぐ横なので楽でもありますし、是非行って楽しんでみてください。
それでは読んでくれてありがとうございました!
photo by PIXTA

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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