広島観光の前に知りたい「福山城」の歴史。成り立ちから今日まで

福山城はどの様に作られ、どの様な建物で構成されているのでしょうか?また福山城と福山の街はいつ作られ、どの様な人に治められ、そのために藩主は領民の生活のために何を作ったのでしょうか?ペリーらの襲来による鎖国の終わりや幕府の長州征伐など日本の歴史とも関わっていますので見ていきましょう。

福山城と福山の街はどのようにあり、成り立っていったのか?

福山城はどこから見られるか?

福山城は広島県福山市にあり、全国的に珍しいと思うのですが、新幹線の止まる福山駅のすぐ北側にあり、駅から天守閣まで歩いて5分の距離にあります。
私も何回か訪れた事がありますが、駅の一番北側のホームからよく見えますし、電車に乗っているだけでも福山駅の辺りを通れば見えますね。
新幹線からでも見えるのではないでしょうか?全体的に白い天守閣が好きです。

福山城は明治6年に廃城となり多くの城の建物が取り壊され、さらに空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も消失してしまいましたが、その後昭和41年(1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑や平櫛田中の人形などを展示しています。

備後では福山より南にある港町、鞆(とも)や神辺(かんなべ)が栄えていましたが、「山陽道に近い方が便利」という理由によって江戸時代に山陽道が通る位置に築城され、福山城となりました。
それではまず、福山城はどの様にして成り立っていったか、ということから見ていきましょう。
福山城のある福山藩は江戸時代に水野氏、松平氏、阿部氏などに支配されていきます。

なぜ「福山」という地名になったのか?

元和5年、安芸備後と備後鞆を領有する賤ヶ岳七本槍と言われた福島正則が改易されると、大和郡山藩主であった譜代大名の水野勝成が備後7郡と備中の一部の10万石を与えられ、鞆に上陸し神辺城に入りました。
勝成は領内を歩き海沿いの港のある鞆城などを検分し、また陸路の要衝である神辺城も海に遠く不便なため、翌年には幕府の許可を得て野上村常興寺山に築城を始め、元和8年8月に城を完成させ城下を福山とよびました。

なぜ「福山」という名前になったかというと、城のあった常興寺山は「蝙蝠山」(こうもりやま)と呼ばれていて「蝠」は福に通じることから「福山」と呼ばれました。
福山市はその蝙蝠と山をかたどって市章としています。
福山城は江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。
また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の遺構を徳川秀忠が移築させたもので、白壁三層の姿に桃山時代の雰囲気が見受けられます。
城下町は地子(領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代)及び諸役を免除して人を集め、築城後まもなく上水道を敷設しました。

福山水道と福山城のつくり

福山水道と福山城のつくり

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福山の旧上水道

福山の城下町は遠浅の海を干拓して作った町であり地面を掘っても塩水しか出ず、場所の限られる芦田川の伏流水では城下全体の水はまかなえず、飲料水の確保は、城下町づくりの重要課題のひとつでした。
どこの町でも大きい町は最初は水道を整備する必要がありますよね。

水野勝成は土管や木の菅で芦田川から水を引き、貯水池として蓮池(どんどん池)が貯水池として作られ、ここから両側を石垣で囲い込んだ幹線を城下に引き、その各所に貫洞が設けられ、そこから各戸に木管、土管、竹管等で引水しました。

福山の上水道設備は神田上水に次ぐ二番目の歴史をもつと言われており、また神田水道、福山水道、赤穂水道を日本三大水道とする説もあり、江戸時代有数の誇れる歴史と規模をもつものでした(たまたま少し前に赤穂に行ったのですが、赤穂でもこの日本三大水道の説明がありました)。

後に、勝成がいかにこの水道を大切にしていたかを伝える話も残されていて、勝成が苦労して切り開き、城下町の発展の希望が込められた福山水道は明治時代まで使われ続け、その一部は終戦当時まで使用されていたそうです。
勝成は領民に優しい藩主だったのですね。

天守閣と伏見櫓はどの様にできているか?

元和の一国一城令で、御三家の水戸や和歌山でさえ許されなかった白亜の五重天守は、中心に二本の大柱で全体を支える構造になっていて、姫路城大天守と同様でありました。
窓枠には銅板で補強をし、壁面は総漆喰(しっくい)塗りの白壁、ただし北面だけは総鉄板張りで各階に天井板が張られており、建築の材料には極上のヒバ材を使用していたといわれています。

福山城は天守以外にも櫓の多い堅固な城郭で、特に廃城になった京都の伏見城や、これも廃城となった神辺城から移築された物が多く、伏見御殿・御湯殿・伏見櫓・筋鉄御門・月見櫓(伏見城から)や、神辺一番櫓・同二番櫓・同三番櫓・同四番櫓(神辺城から)などが代表的なものです。
これらを含め福山城に関する文献では三重櫓が7基、二重櫓が16基備えられ、本丸と二の丸はほぼ全周を多聞櫓で囲っていたとされ、多聞櫓の総延長は約570mに及び各曲輪(くるわ)は総石垣造りとなっていました。

伏見櫓は京都伏見城・松の丸にあったものを徳川二代将軍秀忠が移築させたもので、伏見城の城郭建築の遺構としては珍しく、三重の白筋鉄御門と同じく戦災による焼失を免れ現在国重要文化財に指定されています。

福山城はどのような建物で構成されているか?

福山城はどのような建物で構成されているか?

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筋鉄御門と鏡櫓はどんな建物か?

筋鉄御門も国の重要文化財であり、入母屋造り、本瓦葺、脇戸、櫓門等が付いています。
これも伏見城から移築したものといわれ、柱の角に筋鉄を施し、扉にたくさんの筋鉄を打ちつけているためその名が生まれ、左に渡櫓、右に多門を連接させたもので、後の時代の枡型多門の型をとらない初期様式のものです。

鐘櫓は福山市重要文化財に指定されていて、当時は鐘を吊り、太鼓を懸け、時の鐘と半時(1時間)の太鼓をうっていたといわれていて、時を告げる以外にも緊急時に武士を招集する役割などもありました。

鐘は儒学者山室如斎、菅茶山の銘を刻んだものもありましたが、現在は無銘です。

明治時代以降たびたび補修を繰り返していましたが原形を留めないほど荒廃が激しかったため、昭和54年(1979年)板葺きで修復され、現在は鐘のみではありますが今でも1日に4回、時の鐘をついています。

鏡櫓の文書館は本丸の東側に位置し、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれていて、明治6年の廃城の際取り壊されましたが、昭和48年9月30日外観が復元され、その姿を現在にとどめています。
昭和49年4月2日より、福山に関係する文書・記録類を整理保存する施設として活用されています。

月見櫓と湯殿はどんな建物か?

月見櫓も元々京都伏見城内にあったものを移築したもので本来は着見櫓のことであるとも言われています。
追手側(南側)も入江方面も展望できる南東の隅に築かれ、藩主などの到着を見極める役割をなしていました。
1階南側に石落としがあり(実際の石落とし機能は不明)古い建築様式をもっていて、明治初年頃取り壊されましたが、昭和41年秋に天守閣とともに外観を復元され、現在は貸会場として利用されています(お城で宴会などできればしてみたいものですね)。

湯殿は京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていました。
建築の一部は石垣の上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていました。
昭和20年の戦災により焼失しましたが(日本の城はこの様に空襲で焼失したものが多いのが非常に残念ではありますが)、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復元されたものです。
こちらも現在は貸会場として利用されています。

この様に、復元された建物が多いですが、たくさんの建物が残っていて重要文化財などに指定されているのですね。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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