ウクライナ、民族と国の絡みあい、苦難の歴史

ウクライナといえば「美人」!そして〈チェルノブイリ原発事故〉。さらには2014年に勃発したロシアとの領土紛争〈ウクライナ危機〉――ウクライナが国として現在の形にまとまり、独立国家として国際社会に立脚するまでには、すさまじい苦難の歴史があったのです。ウクライナの歴史はロシアはじめ周囲の国々との因縁の歴史です。今回は東欧のふしぎの国・ウクライナの歴史をていねいに追っていきましょう。クリミアがロシアに併合され、内戦が今も続く〈ウクライナ危機〉をむかえ、現在ウクライナはどうなっているのでしょうか?

国境のなかった時代ウクライナ

国境のなかった時代ウクライナ

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ウクライナの地理をおさらい。
北にベラルーシ。
南に黒海、黒海を越えればトルコがあります。
西にはハンガリー、スロバキア、ポーランド、ルーマニア。
そして東に因縁の大国・ロシアと国境を接しています。
そしてロシア、ウクライナ、ベラルーシを経由して黒海まで注ぐ、ドニエプル川が流れています。
しかし古代、国境の存在しなかった時代にはどのような光景が、ウクライナで繰りひろげられていたのでしょうか?要衝(ようしょう)としてその後の歴史でも大きな鍵を握るウクライナ。
古代のかの土地をのぞいてみましょう。

地球上一番豊かな土地〈チョルノリース文化〉

ウクライナは寒く厳しい土地柄。
しかしこの国には「地球上でもっとも肥沃な土地」と呼ばれる土地があります。
この〈黒森地帯〉では見事な農耕文化が花開きました。
今もこの豊かな土壌は健在で、ウクライナは〈ヨーロッパの穀倉〉と呼ばれています。
東欧一古い農耕の痕跡が残るのも、ここ、ウクライナです。

〈チョルノリース文化〉と呼ばれたこの文化は、中央ウクライナでまず発見されました。
紀元前11世紀から紀元前8世紀がピークであった文化です。
定住して農耕や牧畜を営んでいた、当時のウクライナの人びと。
スラヴ民族の歴史をさかのぼればかならず、この〈チョルノリース文化〉に行き着きます。
ウクライナはスラヴ民族のルーツなのです。
ちなみにこの〈チョルノリース文化〉ではなんと、マンモスの角を活用した家があったという遺跡の発掘調査結果が出ています。
なかなかワイルドな生活を送っていたようですね。

騎馬民族〈スキタイ人〉による支配

ウクライナ史に転換期がやってきました。
紀元前8世紀~紀元前3世紀、〈スキタイ人〉の台頭です。
イラン系の騎馬民族である〈スキタイ人〉は、ウクライナに遊牧国家を作りました。

〈スキタイ人〉と一口に言っても、単純ではありません。
営む生業によって〈遊牧スキタイ〉〈農民スキタイ〉などの種類があります。
〈チョルノリース文化〉の花開く〈黒森地帯〉に定住したのは、農耕をおもに行う〈農耕スキタイ〉。
国家としてウクライナの土地を支配統治したのは、〈王族スキタイ〉と呼ばれる人びと。

古代ギリシャの歴史家の書物、また現代の考古学の証明するところだと、神話や独自の政治のあり方など、高度な文明を持った人びとだったようです。
実際に発掘された櫛(くし)、首飾りなどは眼を見張る精巧さ。
〈スキタイ人〉の技術の高さがうかがえます。

しかしその後〈スキタイ人〉は衰退。
〈スキタイ人〉なきあと、ウクライナの地に、新たな王国が築かれます。
この中世の王国こそがウクライナ全盛の時代。
次の章で見ていきましょう。

〈キエフ大公国〉の栄光

〈キエフ大公国〉の栄光

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ウクライナに栄光の時代が到来します。
8世紀、キエフ・ルーシすなわち〈キエフ大公国〉成立。
この〈キエフ大公国〉は現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア西部の一部まで勢力を広げる東欧の広大な国家でした。
キリスト教の一大勢力〈ギリシャ正教〉を国教とすることで、ヨーロッパの仲間入りをした〈キエフ大公国〉。
〈キエフ大公国〉の首都こそが現在のウクライナの首都・キエフです。
この時期に作られたのが、ウクライナの基盤。
その後の受難の時期を鑑みるに、「ウクライナ」という国家アイデンティティができたのは、この〈キエフ大公国〉時代だったでしょう。

ウクライナ、もっとも華やかな時代

〈キエフ大公国〉時代はウクライナの栄光の時期でした。
〈キエフ大公国〉の正式名称は〈ルーシ〉。
〈ルーシ〉の語源は、〈キエフ大公国〉の王朝を打ち立てた北欧ヴァイキングの「ルーシ族」が起源とされています。
なんと北欧ヴァイキングの作った国だったのですね。
今も〈ルーシ〉という名前は国の雅号としてウクライナ、ロシア、ベラルーシなどで使われている、三国の人びとにとっては愛着ある名です。

10世紀には〈キエフ大公国〉の王様が〈ギリシャ正教〉に改宗。
ヨーロッパの一大勢力とパイプを繋ぎ、ビザンツ化、すなわち近代文明を国家に取り入れていきます。

いかにして発展したかというと、〈キエフ大公国〉は対外交易の中心地!要衝としての地理を活かして、東西南北の商品を流通させたのです。
バルト海から黒海を流れるドニエプル川を渡ってビザンツ帝国、ブルガリア帝国まで。
そして陸路で中央アジアからペルシャまでも商人たちは足をのばし、〈キエフ大公国〉は一大経済大国となっていきました。

〈キエフ大公国〉の知恵の中心地〈ソフィア大聖堂〉

〈キエフ大公国〉時代に建造された世界遺産をご紹介。
11世紀につくられたギリシャ正教建築の〈ソフィア大聖堂〉です。

「正教?」と日本ではなじみのない言葉ですが、実は西洋史を語る上でとっても重要。
1054年にカトリックと大喧嘩したのち、教義などの面でカトリックとは決別。
東部ヨーロッパなどで勢力を広げた、キリスト教の一大勢力です。
主に東欧諸国でカトリックとは違う独自の文化を花開かせていきました。

ここでは大公の即位式、〈キエフ大公国〉の大公や公女、貴族など高貴なセレブたちの冠婚葬祭の儀式のほかにも、なんと図書館や大学まで併設されていました。
その中では聖職者たちが日々学術研究にはげみ、国の歴史書の編纂などを行っていました。
正教スタイルのドームを持った塔で構成され、大聖堂内部は美しいイコン壁画がいろどっています。
1000年の歴史を持つこの〈ソフィア大聖堂〉、現在はウクライナ内部の宗教事情が複雑なことから、博物館として多くの貴重な遺産が展示されています。

〈タタールのくびき〉の200年

〈タタールのくびき〉の200年

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ウクライナ、ひいては東部ヨーロッパ受難の時期がやってきます。
モンゴルの来襲です。
13世紀、チンギス・ハーンからはじまって約400年間に渡り大陸に君臨した大国。
中国を滅ぼし、最終的に東は日本、西はポーランドまでせまったモンゴル帝国。
地続きのヨーロッパは領土拡大の対象となりました。
〈キエフ大公国〉はその威力の前に滅亡。
13世紀から15世紀に渡って東部ヨーロッパを縛めた〈タタールのくびき〉。
えーと世界史の教科書でチラッと見たような……そんな〈タタールのくびき〉をこの章ではあつかいましょう。

おそるべきモンゴルの威力、新しい国の到来

1240年、かねてより内紛がたえなかった〈キエフ大公国〉は、東方から襲来したモンゴル帝国に滅ぼされます。
この〈モンゴル来襲〉によって多くの国が滅亡しました。
以後200年に渡って、モンゴル民族の支配を受けます。

モンゴル来襲の戦争によって〈ルーシ〉一帯は焼け野原、女子供などの非戦闘員にいたるまで殺戮されたと記録にはあります。
〈ルーシ〉の人口はこの戦争で激減したと、ロシア側の史料にあります。
しかしモンゴル民族は破壊しっぱなしではありません。
チンギス・ハーンの孫・バトゥがヴォルガ川河口の近くに〈遊牧政権(ウルス)〉を築きます。

焼け野原から建設されたのは、〈キプチャク・ハーン国〉、正式名称を〈ジュチ・ウルス〉。
広大なモンゴル帝国の連邦、その1国として重要な位置をしめた〈キプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)〉。
ウクライナを支配したのはこの〈キプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)〉でした。

〈キプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)〉による「くびき」

さて〈タタールのくびき〉の正体とは何だったのでしょう?ここでいう〈タタール〉というのは「モンゴル民族」のことをざっくり指すと考えていただいて構いません。
〈くびき(軛)〉の内容としては、貢ぎ物を奉献し、モンゴル民族には服従。
ウクライナはじめ〈ルーシ〉の人びとは、宗主国〈キプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)〉の臣下となったのです。

ロシア側の史観だと「残虐な異教徒による支配」となりがちで、年代記によって犠牲者の数も変わってきています。
当初殺戮が行われたことはたしかなようですが、その時期が過ぎると〈キプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)〉が宗主国として君臨し、税を納められるかわりに、〈ルーシ〉諸侯の自治を認めてもいました。
〈モンゴル帝国〉自体がたくさんの国の連邦制。
その1国として〈ルーシ〉も組みこまれたというのが実情。
わりとゆるい統治だったようですが、その後ロシア側がモンゴルに対するネガティブキャンペーンと自国の愛国心向上のために「くびき」という言葉を使ったのです。

〈ポーランド・リトアニア〉に、そしてロシアに……支配下の歴史

〈ポーランド・リトアニア〉に、そしてロシアに……支配下の歴史

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〈タタールのくびき〉から脱したと思ったのもつかの間でした。
ウクライナは「支配下の時代」とでも言うべき時期に突入。
14世紀、中世の超大国〈ポーランド・リトアニア〉の支配下に置かれます。
4世紀の時を経てようやく独立を果たすべく決起しますが、すぐにロシアの支配下に。
〈ウクライナ〉という国が「独立国家」としてもう一度目覚めるには、何百年という時を必要とするのです。
しかしこんな長い支配下の歴史の中でも、ウクライナの人びとは、自分の文化と言語を守りぬいてきました。
他の国を受けいれつつ、自分の本質を保ちつつ。
ウクライナのたくましさがわかります。






〈ポーランド・リトアニア連合〉時代

Wonder tripの「中世の大国、ド根性な不死鳥の国!ポーランド不屈の歴史」でもあつかいましたが、中世のポーランドは超大国!バルト三国の最南の国〈リトアニア〉と組んで、ヨーロッパ大陸に一大王国を築いていました。

バルト海に接する中世の大国〈リトアニア〉は14世紀に国土を拡大。
その後モンゴルやドイツ騎士団などと対抗するために、ポーランドと合同します。
すでにウクライナを支配下に置いていたリトアニアとポーランドが合同したことで、ウクライナはポーランド領になります。
ウクライナ人はポーランド貴族のもと、農奴としてあつかわれていました。

しかし内部分裂やたびかさなる戦争で〈ポーランド・リトアニア〉は弱体化。
名高い〈ポーランド分割〉が行われます。
1795年、ポーランド滅亡。
ロシア・プロイセン・オーストリアの三国によるポーランド分割の、ウクライナの大半はロシアの取り分に入っていました。
ウクライナはロシアに〈小ロシア〉と呼ばれる一地方になってしまったのです。

〈ロシア帝国〉支配の時代

ロシアの歴史は「領土拡大の歴史」です。
凍らない港とあたたかな土地を求めて、ひたすらに領土拡大をするロシア。
〈モスクワ大公国〉時代、ウクライナに対して「〈ポーランド・リトアニア〉から独立するために協力する」と同盟を結びます。
しかし〈ポーランド・リトアニア〉を内部から突き崩すのに必要だっただけのこの同盟。
何世代もかけてロシアは南下政策を進めていきます。
そして18世紀にはヨーロッパの一大事件〈ポーランド分割〉によって、〈ロシア帝国〉の一地域〈小ロシア〉となったウクライナ。

ウクライナは〈ロシア帝国〉の一員として歩み出します。
進められた「ロシア化」は、たとえばそれまであった〈ウクライナ・コサック〉の廃止はもちろんのこと。
ロシア語の公用語化、教会においてウクライナ語で説教することも禁止されました。

〈タタールのくびき〉〈ポーランド・リトアニア〉から続いて〈ロシア〉の支配を受けたウクライナ――ウクライナとロシアの関係は奇妙な緊張の中にいます。
それは今も、そして昔からも変わらないのです。

ロシアの支配から離脱、〈ウクライナ人民共和国〉へ

ロシアの支配から離脱、〈ウクライナ人民共和国〉へ

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一気に時代を飛ばしましょう。
1918年、第一次世界大戦が終結。
ウクライナ、そして世界は転機を迎えます。
1917年の〈ロシア革命〉によってロマノフ王朝は崩壊します。
その混乱の中で、ウクライナでは自治政府が作られました。
〈ウクライナ人民共和国〉です。
ようやく独立を勝ち取ったウクライナ。
しかしロシアとの対立はまだまだ続きます。
〈ソビエト連邦〉成立のカオスの中、たった3年だけ続いた〈ウクライナ人民共和国〉。
今もウクライナの人びとは「ウクライナ」という国はこの〈ウクライナ人民共和国〉の延長にあると考えている、大事な時期なのです。

混乱の中で勝ち取った独立、しかし……

1917年、帝政ロシア崩壊。
広大なロシアの各地でくすぶっていた民族運動は開花します。
ウクライナでも〈中央ラーダ〉が組織されました。
「ラーダ」とは「議会」という意味。
歴史の混乱期、ここでようやくウクライナは自治政府、そして独立を勝ち取ることができたのです。
〈ウクライナ人民共和国〉では民主主義が敷かれました。
言論の自由やストライキの自由、信仰の自由、8時間労働など、理想的な民主主義国家をめざして国家が建設されたのです。

しかし〈ソビエト連邦〉としては、ウクライナを得ておきたいところでした。
なんといってもウクライナは、広大な穀倉地帯。
そしてかつては「ロシアの土地」であった場所です。
〈ソビエト連邦〉は無理難題を言いつけたあげく、ウクライナに兵を向けました。

結果は、ウクライナの敗北。
首都キエフは占領。
いったんドイツの助力でソ連軍を撃退できたものの、ドイツが引きあげてからはふたたび劣勢に立ちます。
おびただしい数の犠牲、殺戮のが行われました。

第二次世界大戦、そのときウクライナは……

1920年、ウクライナは〈ソビエト連邦〉に編入されました。
たった3年しか続かなかった、独立国家〈ウクライナ人民共和国〉。
しかしウクライナの人びとは今も「独立国家」としてかつて自分の国があったということを、誇りに思っています。
国旗や国歌、国章など〈ウクライナ人民共和国〉のものは現在のウクライナにも引き継がれています。

さて、1939年に開戦した第二次世界大戦において、ウクライナも〈ソビエト連邦〉の一員として参戦します。
そこで待っていたのは悲惨きわまりない光景でした。

開戦直後〈ソビエト連邦〉にドイツは破竹の進撃を展開し、ウクライナ全土を占領します。
〈ソビエト連邦〉はウクライナを焦土にしてドイツ軍を撤退させるべく、東ウクライナの工業地帯に住む住人約380万人あまりを、遠くウラル山脈を越えた地域まで強制移住させる戦法をとりました。
一方ドイツも、ウクライナ住民をドイツに強制連行、強制労働に従事させます。
この最中、ウクライナに住むユダヤ人も強制収容所へ多く送られました。
ウクライナ全土に悲惨な光景を巻き起こした戦争の結果は、〈ソビエト連邦〉の勝利。
終戦後もウクライナの受難はまだまだ続きます……

〈ソビエト連邦〉のもとでのウクライナ

〈ソビエト連邦〉のもとでのウクライナ

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ウクライナは〈ソビエト連邦〉に編入されたのち、〈ソビエト連邦〉主導のもと様々な政策が行われていました。
全体主義政策は数々の悲劇の結末を生んでいます。
そして1945年、ヤルタ会談。
平和を決める会議で、アメリカ率いる「民主主義」対、ソビエト連邦率いる「共産主義」の構図が成立してしまいます。
〈冷戦〉の開始です。
そして、現在の〈ウクライナ危機〉に絡む1つの重大な伏線が、この時期にすでに張られていました。
クリミア半島の、ウクライナ編入です。
ウクライナ人が今もロシアに複雑な感情を持つ理由が、この章を見ればわかります。

集団農場〈コルホーズ〉失敗の悲劇

ウクライナは一大農業国。
「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれる国でもあります。
「地球上でもっとも肥沃な大地」を有するウクライナを、何が何でも自分のものにしておきたい〈ソビエト連邦〉。
一方で、抵抗するウクライナを弾圧する必要がありました。

当時、〈ソビエト連邦〉各地に〈コルホーズ〉と呼ばれる集団農場が作られました。
多くの人が共同生活を送りながら、家畜をいとなんだり、菜園を耕したりして生活します。
物品は基本的に共同体のもの。
収穫物はまず国家に引き渡し、機械の利用料などが支払われたその余りが労働者たちの手元に来るというシステムでした。
1930年代からウクライナでも強制的に作られた〈コルホーズ〉。
反対者は容赦なく逮捕投獄、シベリア送り、強制収容所送りとなりました。
無謀な生産計画は失敗を繰り返し、1932~1933年には大飢饉を引き起こします。
この大飢饉だけで500万人が犠牲になりました。

冷戦期である1970年代には、経済的な低迷が続く〈ソビエト連邦〉各地の中でも、ウクライナは「マシ」なほうでした。
ロシア各地からウクライナへの移住が激増。
これも後に混乱の火種になっていきます……

因縁の〈クリミア半島〉、ウクライナへ……

この冷戦期、その後のウクライナ史を転換させる事件が起こります。
〈クリミア半島〉のウクライナ編入です。

ウクライナは「国だけれど、大きな〈ソビエト連邦〉という国の一部」という中途半端な状態。
〈ソビエト連邦〉はウクライナ懐柔政策として「ロシアとウクライナの兄弟愛と信頼」にもとづいたとして、〈クリミア半島〉をウクライナに編入します。

さてそもそも〈クリミア半島〉とはどのような場所だったのでしょう?ロシアにとって〈クリミア半島〉は、歴史的にも文化的にもなくてはならない土地でした。
世界的に有名な保養地・ヤルタを有し、何よりもロシアの歴史と常にともにあった、難攻不落の〈セヴァストーポリ要塞〉も、この〈クリミア半島〉にあったのです。
ロシアとトルコが〈クリミア半島〉をめぐって繰りひろげた〈クリミア戦争〉において、あのナイチンゲールが登場したのも有名な話。
〈クリミア半島〉はロシアにとってもっとも愛着ある土地の1つといっていいでしょう。
このようにロシアにとって非常に重要な意義を持つ場所だったのですが……歴史は変わります。
1991年、冷戦終結と〈ソビエト連邦〉崩壊により、ウクライナ独立。
〈クリミア半島〉もウクライナのものとなるのです……

〈チェルノブイリ原発事故〉

〈チェルノブイリ原発事故〉

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史上最大の原子力発電所事故〈チェルノブイリ原発事故〉。
忘れてはならないこの原発事故について、この章ではあつかいます。
1986年に起こったこの事故は、国際原子力事象評価尺度で、最悪の「レベル7」と判定されています。
今なお東部ウクライナに大きな負の遺産として残る、〈チェルノブイリ原子力発電所〉。
あの時そこでは一体何が起こったのでしょう?この〈原発事故〉でも、〈ソビエト連邦〉支配下のウクライナの負の面が見えてきます。
この章では人類が忘れてはならない人類史上最悪の事故の1つを振り返ってみましょう。
次のページでは『1986年4月26日「4号炉、メルトダウン」』を掲載!
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