【平清盛】武士として初めて朝廷に君臨した人物を追う

「平氏にあらずんば人にあらず」平氏の隆盛をあらわした、この言葉を聞いたことはないでしょうか。平安時代末期に平氏の棟梁として君臨していた「平清盛(たいらのきよもり)」。「平家物語」の影響からか悪逆・非道・非情のイメージの強い人物であるが、本当はどのような人物なのでしょうか。栄耀栄華を極めた「平清盛」についてまとめてみました。

若かりし頃の平清盛とは?

伊勢平氏の嫡男であった?

伊勢平氏の嫡男であった?

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「平清盛」は1118年2月10日に、伊勢平氏の棟梁であった「平忠盛(たいらのただもり)」の長男として生まれたと言われています。
しかし生母は不明で、「白河法皇(しらかわほうおう)」に仕えていた「祇園女御(ぎおんのにょうご)」や「祇園女御の妹」など諸説あり、また「平清盛」の父は実は「平忠盛」ではなく、「白河法皇」だとも言われています。
「平清盛」は幼いころ、夜泣きが酷く、それを聞いた「白河法皇」は「夜泣きすと ただもりたてよ 末の代に 清く盛ふる こともこそあれ」と歌を詠んでいます。
これがきっかけで「清盛」と名付けられたとも言われているのです。

結局のところ、平清盛の父も母もよくわかっていません。

若い頃は、「平清盛」の継母である「池禅尼(いけのぜんに)」の従兄弟であった「藤原家成(ふじわらのいえなり)」に出入りし、「高階基章(たかしなのもとあき)の娘」を娶り、長男「平重盛(たいらのしげもり)」次男「平基盛(たいらのもともり)」が誕生しています。
その後、継室に迎えた「平時子(たいらのときこ)」との間にも「平宗盛(たいらのむねもり)」らが生まれ、出世も私生活も順調だったのです。

紆余曲折があり、平氏の棟梁に

しかし、「平清盛」にもピンチはあったのです。

1147年7月14日「平清盛」は、祇園臨時祭の夜に宿願の成就を祈って田楽を奉納しようとし、その集団には平氏の郎党が護衛として同行したのでした。
しかし郎党の武具を咎められたことから、祇園社の神人と小競り合いを起こしたのです。
そして郎党が放った矢が宝殿に突き刺さり、多数の負傷者を出す祇園闘乱事件を起こしてしまったのでした。
祇園社の本寺である比叡山延暦寺は、祇園闘乱事件の原因である「平忠盛」と「平清盛」の配流を要求して強訴してきましたが、比叡山延暦寺の力を抑えたい「鳥羽法皇(とばほうおう)」の力添えで、配流の回避に成功したのです。

しかし朝廷では、問題を起こしてしまった上、母を既に亡くしてしまっている「平清盛」よりは、継母である「池禅尼」の後見を見込める異母弟「平家盛(たいらのいえもり)」を推す声が強くなり、朝廷内での力が伸びてきたのでした。
しかしこの「平家盛」は、1149年の「鳥羽法皇」熊野詣の参詣の途中で急死してしまい、結果棟梁の後継者争いのライバルになる人物は居なくなってしまったのでした。

その後、安芸守に任ぜられた「平清盛」は「平忠盛」と共に瀬戸内海の海賊を束ね、また制海権を得ることで莫大なる利益を手にするようになるのです。

そして1153年、父「平忠盛」が亡くなったと同時に「平清盛」は、平氏一門の棟梁となったのでした。

歴史の表舞台へのデビュー戦~保元の乱

棟梁となった平清盛が歴史の表舞台に

棟梁となった平清盛が歴史の表舞台に

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1156年7月20日朝廷内で一つの時代が終わりを告げました。
院政をおこなっていた「鳥羽法皇」が亡くなったのです。
ここ数年朝廷内では熾烈な権力争いが繰り広げられていました。
父である「鳥羽法皇」が子である「崇徳上皇(すとくじょうこう)」を抑え込むような形で院政がおこなわれていたのです。
しかし「鳥羽法皇」が亡くなったことをきっかけに、「崇徳上皇」が権力奪還のため動き出したのでした。
兄である「崇徳上皇」の動きに合わせ、弟であった「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」も動きだし、また同時期に争いを繰り広げていた兄「藤原忠通(ふじわらのただみち)」と弟「藤原頼長(ふじわらのよりなが)」もそれぞれが天皇、上皇側について武士を集め出したのでした。

その時「平清盛」は悩んでいたのでした。
継母である「池禅尼」は、「崇徳上皇」の子である「重仁親王(しげひとしんのう)」の乳母だったので、その縁もあって「崇徳上皇」に誘われていたのです。
しかし「池禅尼」は「崇徳上皇」の敗北を予測、「平清盛」に「後白河天皇」につくよう命じたのでした。

そして「源義朝(みなもとのよしとも)」による夜襲の提案で、1156年7月29日午前4時ごろ攻撃を開始。
不意打ちを食らわされた「崇徳上皇」側はすぐに壊滅し、その日の正午には保元の乱は終結したのでした。
「平清盛」は保元の乱で「崇徳上皇」についた叔父の「平忠正(たいらのただまさ)」を処刑するといった辛い経験を味わうことになりましたが、朝廷・摂関家の内部抗争を終わらせた武士の一人として、力を握っていくのでした。

保元の乱の勝者のいがみ合い

保元の乱に勝利した「後白河天皇」は親政をおこなっていきますが、その下で権勢を誇ったのは「藤原信西(ふじわらのしんぜい)」でした。
「藤原信西」は次々と「後白河天皇」の命により、政治をおこなっていくのですが、周りの貴族はそれを良しと思わなかったのです。
そこで「藤原信西」は身を守るために、強大な軍事力を持つ「平清盛」と手を結ぶことを考えたのでした。
保元の乱の第一勲功を「平清盛」として多大な褒美を与え、また自分の息子の嫁に、「平清盛」の娘を迎えたのでした。

「平清盛」はこの厚遇にも冷静に、朝廷の争いには極力巻き込まれないように中立を保っていたのですが、周りはそうはいきませんでした。
特に不満を持ったのが「源義朝」でした。
保元の乱で夜襲を提案、勝利に導き、また父や弟を敵に回して戦い、戦後処刑までしているのに、「平清盛」よりはるかに少ない褒美しか与えられなかったのです。
また「源義朝」の娘と「藤原信西」の息子との結婚を断られた上、「平清盛」の娘との結婚を「藤原信西」が認めたことに対し、こらえていた怒りが爆発してしまったのでした。

また出世を「藤原信西」に妨げられ、不満を抱いていた「藤原信頼(ふじわらののぶより)」と共に、打倒「藤原信西」を合言葉に手を結んだのでした。

そのような中でも「平清盛」は中立の立場を維持するため、「藤原信頼」の息子にも娘を嫁がせ、ひたすら様子を見守っていたのです。

平清盛と熊野詣

平清盛と熊野詣

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平安時代末期、世間で最も信仰を集めていたのが、熊野三山でした。
熊野三山は紀伊半島南部、現在の和歌山県南部に位置する熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三つの神社の総称であり、現代では高野山や吉野と共に世界遺産にも登録されている由緒正しい神社です。
この熊野三山に参詣することを熊野詣というのですが、「平清盛」もこの熊野詣に非常に熱心でした。

「平清盛」がまだ安芸守だった頃、伊勢国安濃の津から舟を使って熊野に参詣した時に、大きなすずきが舟の中に躍り込んできました。
それを見た周りの者が「昔、中国の周という国の武王の船に白魚が躍り込みました。
これは、熊野権現の御利益と思われるので召し上がりなさい」と申し出ました。
それを聞いた「平清盛」は、自ら調理して食べ、また一門の者や血縁関係のない家来たちにも分け隔てなく食べさせたのです。
そのためか、以後「平清盛」やその一族には吉事のみが続いたのでした。
また、父「平忠盛」が熊野本宮造営に関与したことにより、「平清盛」も出世したのです。

熊野にはそのような縁があったため、「平清盛」は熱心に熊野を参詣するようになったのでした。

平清盛による政権掌握への第一歩~平治の乱

源義朝と藤原信頼によるクーデター勃発

源義朝と藤原信頼によるクーデター勃発

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1159年12月「平清盛」は、今回も御利益に授かろうと熊野詣を計画、都を離れたのでした。
しかしひたすらチャンスを待っていた「源義朝」と「藤原信頼」はこの時を見逃しませんでした。
巨大な軍事力を誇る「平清盛」ら平氏一族が都にいると、うかつに兵を起こすことができなかったのですが、今はその天敵である「平清盛」が京都から居なくなったのです。

12月9日「藤原信頼」と味方した武士たちが「後白河上皇」や「藤原信西」らが居る、三条殿を襲撃して「後白河上皇」の身柄を確保し、その他逃げまどう者には容赦なく矢の雨を降らせたのでした。
三条殿を警備していた多くの者が犠牲になったのですが、一足先に危険を察知した「藤原信西」は先に逃げでしまっていたのでした。
すぐさま追手を差し向けた「藤原信頼」らは「藤原信西」の子たちを捕え、配流を決定。
逃亡を重ねた「藤原信西」は山城国田原で地中に埋めた箱の中に隠れていたのですが、追手に発見され、掘り起こされる音を聞き自害したのでした。
そして先に捕えていた「後白河上皇」や「二条天皇(にじょうてんのう)」を閉じ込めて、政権を掌握。
「源義朝」らに官位を与え、自らは独断専行の政治を始めたのでした。

平清盛が恭順の意を示す?

「源義朝」「藤原信頼」がクーデターを実行。
「藤原信西」を殺害、「後白河上皇」と「二条天皇」を幽閉し、権力を握る。

この報を紀伊国で聞いた「平清盛」は気が動転してしまいました。
「このまま「源義朝」の軍勢に襲われたらひとたまりもない」と九州にいったん落ち延びて再起をはかろうとまで一度は考えたくらいです。
しかし子の「平重盛(たいらのしげもり)」らはこの父の考えに反対され、また味方をしてくれる紀伊国の武士たちの協力の元、伊賀・伊勢の武士を集め、12月17日、都に戻ってきたのでした。

帰ってきた都はすっかり変わっていたのでした。
権力を一手に収めた「藤原信頼」。
そして「藤原信頼」の後ろ盾であった「源義朝」の軍勢。
しかしその「藤原信頼」に不満を抱く者も居たのです。
ここでいったん「平清盛」は「藤原信頼」に恭順の意を示しました。
「後白河上皇」と「二条天皇」が「源義朝」と「藤原信頼」の手中にあるため、うかつに行動に出ることができず、油断を誘うために頭を下げたのでした。
「藤原信頼」と「平清盛」は親せき同士であり、源氏の棟梁だけでなく平氏の棟梁も味方をしてくれるのであればと大喜びしたそうです。
しかし「源義朝」は、この「平清盛」の恭順の意を本気と捉えず「藤原信頼」に何度も忠告していましたが、「藤原信頼」は意にも介してなかったようでした。







天皇に女装姿までさせた平清盛

天皇に女装姿までさせた平清盛

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「源義朝」は「平清盛」をずっと警戒していました。
「源義朝」の軍勢はクーデターを成功させるために集められた武士のみで、隠密に動いていたため非常に少数でした。
しかし「平清盛」の軍勢は、熊野詣に出かけた時より増えて戻ってきたため、兵力に劣りこのまま武力衝突に持ち込まれたらひとたまりもないと考えた「源義朝」は、「平清盛」が動けないように「後白河上皇」と「二条天皇」を確保し続けることが重要だったのです。

「平清盛」もこのままでは動けないことは重々承知していました。
そのため、まずは「藤原信頼」に不満を持つものを味方に引き入れるように行動に移したのです。
そして不満分子を味方に引き入れた「平清盛」は、その者どもを使って、どうすれば「二条天皇」を「藤原信頼」の手から放すことができるのか、考えるのでした。

12月26日未明、大内裏の隅から火災が発生しました。
「火事か」と騒ぎになりかけた時、内裏から1台の牛車が出て行こうとしたのです。
「こんな時間に誰がどこにいくのか」と疑問に思った警備の武士が中を確認すると、高貴な女官の姿が確認されため、そのまま通過を許してしまったのでした。

実はこの女官こそが「二条天皇」だったのです。

脱出に成功した「二条天皇」は、「平清盛」らがこもる六波羅に無事到着したのでした。

これら一連の流れは、全て「平清盛」が計画した、「二条天皇」脱出計画だったのです。
火事を起こさせ騒ぎにし、その隙に「二条天皇」を「藤原信頼」の元から脱出させる。
しかもこの計画を前日に、味方に引き入れた貴族を使って「二条天皇」や「後白河上皇」に伝えていたのです。
この計画を聞いた「二条天皇」は翌日実行に移し、「後白河上皇」は一足先に仁和寺に脱出したのでした。

「二条天皇」に逃げられたことを知った「源義朝」は大激怒。
「藤原信頼」に対して「日本一の不覚人」とののしりますが、時すでに遅し。
軍勢が少ない状態で、「平清盛」に挑まないといけない状況になってしまったのでした。

朝敵を征伐する平清盛

朝敵を征伐する平清盛

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「上皇、天皇とも脱出する」とのニュースが瞬く間に朝廷に広まりました。
この報で朝廷のほとんどの貴族が「平清盛」の味方についたのでした。
「二条天皇」により、「源義朝」「藤原信頼」討伐の命を受けた「平清盛」は、内裏を固める「源義朝」「藤原信頼」を攻撃したのです。
「源義朝」や子の「源義平(みなもとのよしひら)」の奮戦に、一時苦戦する「平清盛」でしたが、おびき出し作戦にまんまとはめ、内裏を奪うことに成功、「藤原信頼」を捕えて斬首、「源義朝」は東国に落ち延びて再起をはかろうとしたが、尾張国で味方に裏切られ、斬殺されたのでした。
「平清盛」を暗殺しようと最後まで命を狙っていた「源義平」も捕えて処刑。
他の「源義朝」の子たちも処刑するつもりでいたが、「池禅尼」の助命嘆願を受け入れて命を助けることにしましたが、配流や寺に入れたのでした。

平治の乱が終息した12月29日、「平清盛」ら平氏一族に恩賞が与えられたのでした。
「二条天皇」「後白河上皇」にとって痛手だったのが、保元の乱、平治の乱でお互いに有力な貴族を失ってしまったことでした。
そのことで、二人を守る者が平氏一族しか居ない状態になってしまっていたのです。
そのため、政治への影響力を持つ要職を占め、また、国家的な軍事・警察権を独占するようになったのでした。

平氏にあらずんば人にあらず~平氏のおごり

摂関政治をまねた平清盛

摂関政治をまねた平清盛

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「平清盛」の権力強化の方法は、前時代の藤原氏による摂関政治と同じやり方でした。
まずは「後白河上皇」の妻であった、「平時子(たいらのときこ)」の妹である「平滋子(たいらのしげこ)」の子を、「高倉天皇(たかくらてんのう)」として即位させたのです。
また「平清盛」は、「高倉天皇」に自身と「平時子」との子である「平徳子(たいらのとくこ)」を妻とさせたのでした。
さらに摂関家とも親せき関係になり、天皇家とも摂関家ともつながりを強化した「平清盛」は1167年、武士として初めて公卿の最高位にあたる太政大臣に就任し、人臣としてトップに立ったのでした。

また「平清盛」は国内だけでなく、国外にも目を向けていたのでした。
中国の宋との貿易に着目し、博多に日本で初となる人工港を築き、貿易を本格化させたのです。
またかねてからの悲願である厳島神社の整備、摂津国福原には別荘である雪見御所を造営、福原の外港である大和田泊を拡張し、正式に宋との貿易に着手。
巨万の富を得たのでした。

全国に500もの荘園を所有し、平氏一門で朝廷の位を独占、また日宋貿易で莫大なる財産を築いた「平清盛」。
「平時忠(たいらのときただ)」をして、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめたのでした。

反平氏の動き~鹿ケ谷の陰謀

平氏一族ばかりが強くなる世の中に不満を持つ者が出始めてきたのでした。
その中でも一番不満を持っていたのが、実は「後白河上皇」でした。
そして「平清盛」も「後白河上皇」の性格をよく知っていたため、常に警戒を抱いていたのです。
お互いがトップに君臨したいと考えている中、衝突は避けられなかったのでした。

まず「後白河上皇」は、「平清盛」に比叡山延暦寺の僧兵を討つことを命じたのです。
しかしこの命令が、お互いを弱らせようとする「後白河上皇」の策略であることを見抜いていた「平清盛」は、兵を集めただけで、攻撃しようとはしませんでした。
しかし堪忍袋の緒が切れた「後白河上皇」に押し切られる形で出兵せざるを得なくなり、その出陣しようとしたその日「多田行綱(ただゆきつな)」が訪れたのでした。
「なぜ今?」と不思議がる「平清盛」に対し、「多田行綱」はこのように伝えたのです。
「「藤原成親(ふじわらのなりちか)」・「西光(さいこう)」・「俊寛(しゅんかん)」が集まり平氏一族を滅ぼそうと計画しています」と。
怒りに震えた「平清盛」は、すぐさま追手を差し向け、三人を捕えたのでした。
そして「西光」は拷問にかけた上、自白後に処刑。
「藤原成親」は備前国に配流。
「俊寛」は喜界が島に配流としました。
また他の参加者たちも処刑や配流としたのでした。

この騒動の黒幕も実は「後白河上皇」だったのです。
しかし白を切り続けた「後白河上皇」を処罰することはできませんでした。
「平清盛」の子であった、「平重盛」が強くいさめたからです。
ただこの件で「後白河上皇」と「平清盛」の関係は修復不可能なものになってしまったのでした。

後白河上皇との権力争い、治承三年の政変

後白河上皇との権力争い、治承三年の政変

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「後白河上皇」は鹿ケ谷の陰謀の失敗にくじけず、さまざまな方法で「平清盛」から権力を奪い取ろうと画策したのです。
次に目を付けたのが、平氏の経済基盤の一つであった、土地を奪い取ることでした。
「後白河上皇」は、「平清盛」の娘である「平盛子(たいらのもりこ)」が摂関家から相続していた土地を、「平盛子」が亡くなったと同時に奪い取ってしまったのです。
本来なら親せきである摂関家が相続する土地を「平清盛」に相談することなく「後白河上皇」に奪い取られてしまったので、「平清盛」の面目は丸つぶれにされてしまったのでした。

また「後白河上皇」は、「平清盛」の息のかかる者を要職に就けないようにしていったのです。
中納言の地位が空位になった時、「平清盛」は「平盛子」の子である「藤原基通(ふじわらのもとみち)」を推したのですが、「後白河上皇」は「平清盛」と血がつながっていない、「藤原師家(ふじわらのもろいえ)」を任命したのでした。

あまりに「後白河上皇」が反抗的な態度を取り続けるため、温厚な「平清盛」も切れてしまったのでした。
「平清盛」は軍勢を引き連れ、都に押しよせたのです。
そして「藤原師家」の官を解き、尾張国に追放。
関白であった、師家の父である「藤原基房(ふじわらのもとふさ)」の位も奪い、降格させました。
また、39名もの人物の位をはく奪、全て平氏一族に入れ替えたのです。

ここまで怒り狂った「平清盛」を見て恐怖を抱いた「後白河上皇」は、「平清盛」に今後は一切政治のことに関わるのは止めると訴えましたが無駄でした。
「平清盛」は「後白河上皇」を鳥羽離宮に閉じ込め、院政を停止。
さらに「後白河上皇」の土地を没収し、平氏の領土にしたのでした。

また「高倉天皇」と「平徳子」との間に生まれた「安徳天皇(あんとくてんのう)」を無理やり即位。
強制的に譲位させられた「高倉上皇」が院政を開始しましたが力はなく、「平清盛」による独裁政治が始まったのでした。

おごれる人も久しからず~平氏の没落

平清盛によって不遇を味わっていた、以仁王の挙兵

平清盛によって不遇を味わっていた、以仁王の挙兵

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「後白河上皇」と「平清盛」との権力争いのさなか、「後白河上皇」の子であった「以仁王(もちひとおう)」は親王になることもできず不遇の人生を送っていました。
「平清盛」によって土地を没収され、また自分より若い「安徳天皇」が即位してしまったことにより天皇になる可能性も否定されてしまったのです。

また「源頼政(みなもとのよりまさ)」は、平治の乱で「平清盛」を助け、勝利に導いたのですが、その後平氏一門の力ばかりが強くなり、また自身の現状の待遇を見て、不満を持つようになってしまったのでした。

打倒「平清盛」と平氏一門のために二人が策を講じるようになり、平氏に対抗するには全国各地の武士たちの力が必要と、味方に引き入れようと考えたのです。
「源頼政」は「以仁王」に平氏打倒の令旨を書かせ、それを「源行家(みなもとのゆきいえ)」に持たせて、全国各地に居る、源氏に渡るように仕向けたのでした。

しかしこの計画はすぐに「平清盛」の耳に入ることになりました。
「以仁王」はすぐに平氏と対立していた三井寺に逃げ込んだのですが、三井寺の僧兵だけでは太刀打ちできないと判断した「以仁王」と「源頼政」は、興福寺の僧兵と協力して平氏と戦うため、闇にまぎれて奈良に向かったのでした。

「平清盛」はこの動きを察知し、追手を三井寺に送らず、奈良に向かわせたのです。
そして宇治で休んでいたところを襲撃。
数に勝る平氏の力は圧倒的で奮戦むなしく「源頼政」は息子共々宇治で最期を迎えたのでした。
また、宇治からかろうじて脱出に成功した「以仁王」も興福寺に到着する前に平氏の武士に追いつかれ、非業の死を遂げ、平氏打倒の夢は潰えたのでした。

命を助けたのが失敗だったのか、源頼朝らの反旗

命を助けたのが失敗だったのか、源頼朝らの反旗

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「以仁王」と「源頼政」戦死で、平氏打倒の夢は潰えたかのように見えました。
しかし反平氏の動きが各地で見られるようになってきたのです。
以仁王の令旨を受け取った各地の源氏が、一斉に立ち上がったのでした。
伊豆で挙兵した「源頼朝(みなもとのよりとも)」は、「平清盛」が平治の乱の後、処刑した「源義朝」の子でした。
さらに興福寺のみならず親平氏であった比叡山延暦寺でも反平氏の動きが見られるようになってしまったのです。
そしてその状況を判断した「平清盛」は守備に向かない京都を捨て、都を福原に移すという強硬手段に出たのでした。

しかし日に日に関東で勢力を広げていく「源頼朝」を無視することはできなくなりました。
そして「平清盛」は「平維盛(たいらのこれもり)」を総大将とする軍を組織し、鎌倉に向かわせたのです。
しかしあろうことか、決戦前夜「平維盛」軍は夜襲を仕掛けようと動いた「源頼朝」の軍勢の足音に驚いた富士川の水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を夜襲と勘違い。
我先にと逃亡を開始してしまい、簡単に「源頼朝」軍に勝利を与えてしまったのでした。

この敗戦を聞いた興福寺や近江源氏などが立ち上がり、九州でも反乱が勃発。
福原遷都反対の声も強く、「平清盛」は都を平安京に戻し、平定に注力。
近江を平定した後、反平氏を貫く興福寺や東大寺に大軍を派遣。
焼き討ちをおこなったのでした。
これによって奈良の反平氏の動きはしばらく収まりましたが、焼き討ちにより大仏をほとんど焼失させた上、たくさんの市民まで巻き込んだため「平清盛」は仏敵の汚名を着せられ、人望を失っていくのでした。

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