平氏一族の終焉はここだった。「壇ノ浦の戦い」の歴史

治承・寿永の乱(源平合戦)の最後は、日本史上極めてまれな、海戦となりました。一ノ谷の戦い、屋島の戦いと連勝し、平氏を追い詰める「源義経(みなもとのよしつね)」ら源氏軍。この戦を最後の砦とし、挽回したい「平宗盛(たいらのむねもり)」ら平氏軍でしたが、奮戦むなしく、平氏は源氏によって滅ぼされてしまうのでした。華々しい武士たちの戦いぶり、壇ノ浦の戦いにまつわるエピソードなど、まとめてみましたので、ぜひご覧ください。

常識破りの源義経の戦法~ひよどり越の逆落とし

常識破りの源義経の戦法~ひよどり越の逆落とし

image by PIXTA / 21001254

平宗盛VS源頼朝

「源義仲(みなもとのよしなか)」による倶利伽羅峠の戦いでの大勝利により、京都に居ては危険を感じた「平宗盛」は「安徳天皇(あんとくてんのう)」と三種の神器を奉じて、九州まで落ち延びていったのでした。
しかし平氏の後、京都を制圧した「源義仲」は、考え方の違いや態度から「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」とすぐに対立関係になってしまったのです。
「源義仲」を見限った「後白河法皇」は、すぐさま「源頼朝(みなもとのよりとも)」に手紙を送り、「源義仲」を討てと命令したのでした。
しかしこのような「後白河法皇」の動きを知った「源義仲」は先手を打ち、「後白河法皇」を閉じ込めてしまった上、朝廷を牛耳るようになったのです。
このような行動を取ってしまった「源義仲」に、朝廷や京都の民衆に大反発、人望を失ってしまった「源義仲」は、結果「源頼朝」の命を受けた、「源範頼(みなもとののりより)」・「源義経」兄弟に滅ぼされてしまったのでした。
その源氏同士の争いのさなか、九州に落ち延びていた「平宗盛」ら平氏一族は徐々に勢力を盛り返し、大輪田泊に上陸、父・「平清盛(たいらのきよもり)」が都を計画した摂津国福原まで侵攻、瀬戸内海・中国・四国・九州を征服し、京都奪還を虎視眈々と狙うところまできていました。

せっかく追い出した平氏が、また目の前まで勢力を戻してきていることを苦々しく思っていた「後白河法皇」は、「源頼朝」に平氏追討と持ち去られた三種の神器の奪還を命じる宣旨を出し、命を受けた「源頼朝」は、「源範頼」・「源義経」兄弟に平氏の籠る、福原への攻撃を命じたのでした。

鹿が無事に下りることができるのであれば、馬でも大丈夫?一ノ谷の戦い

平氏追討の命を受けた「源範頼」・「源義経」兄弟。
福原までの行程で軍を二手に分けることにしたのです。
「源範頼」は、京都から山陽道を通って生田の森へ、「源義経」は、京都から丹波路を通って須磨一ノ谷から、挟撃し総攻撃を仕掛ける戦法に出たのでした。
しかし「平知盛(たいらのとももり)」・「平重衡(たいらのしげひら)」ら平氏軍の主力の奮戦により、「源範頼」の軍勢が苦戦、こう着状態に陥ったのです。

平氏軍は福原での戦いには自信を持ってのぞんでいました。
なぜなら一ノ谷周辺の地形は、前面に海、背後が絶壁の崖、更に海沿いであり、源氏が攻めてくるなら東の方向からしか攻め寄せることができない、守備に非常に適している地形だったからです。

この戦況を苦々しく思っていた「源義経」は70騎ほどを引き連れ、ある場所に出掛けることにしました。
その場所とは一ノ谷裏手のひよどり越の断崖絶壁の上であったのです。
そこで平氏軍の様子を事細かに見た「源義経」はしめしめと思ったのでした。
平氏軍の様子を見ると、明らかに防御するには武士が少なく、源氏軍がここから攻めて来るとは全く思っていないような、非常に手薄な状況だったのです。

「源義経」は以前、地元の猟師から「ひよどり越は冬に餌場を求め、鹿が往来する」と聞いていました。
その言葉から「源義経」は、「鹿が通れるなら、馬も通れるのでは」と考えていたのです。
しかし、周りの者は崖を下りようとする「源義経」を止め、こう言います。
「あまりにも無謀です。
この急斜面を鹿が下りることができたとしても、果たして馬は下りてくれるのでしょうか」と。
しかし「源義経」は、試しに馬を二頭落としてみたのです。
その内の一頭が無事に駆け下りたのを見て、「源義経」は突撃を命令し、自ら駆け下りて行ったのでした。
大将が行ってしまっては、部下も続かざるを得ません。
部下も次々と崖を駆け下り、結果「源義経」軍による総攻撃が始まったのでした。
予想もしなかった方向から攻撃を受けた平氏軍はびっくり。
状況がつかめていない平氏軍に、さらに「源義経」軍があたりに火をかけたのでした。
平氏軍は大混乱、全く制御できなくなってしまい、ただ平氏軍は、我先にと海の方に向かって逃げていくのでした。

平敦盛の悲哀、熊谷直実の苦悩

平敦盛の悲哀、熊谷直実の苦悩

image by PIXTA / 7519855

海の方に向かって逃げていく平氏軍を追い、「熊谷直実(くまがいなおざね)」は馬を走らせました。
すると鶴の直垂、萌黄匂の鎧、金装飾の太刀を身にまとう、立派な武者が沖の船に向かっていたのを見付けました。
そこで「熊谷直実」が、「敵に後ろを見せるのか、引き返しなさい。」と呼びかけたのでした。
そしてその言葉を聞いた武者が呼びかけに応じて戻ろうとした瞬間、「熊谷直実」は武者を馬から引きずり落としたのです。
「熊谷直実」が武者の首を取ろうと兜を押し上げると、何と我が子と同じ16歳前後の若武者だったのでした。
その姿を見た「熊谷直実」の太刀を持つ手が止まってしまい、何とこの若武者を助けたい気持ちにかられたのです。
しかし今は戦の最中で、後ろには味方の軍勢が迫ってきていました。
残念ながらこの若武者が助かる確率は万に一つもなく、若武者もただ「早く首を取って、手柄に致せ」としか言わなかったのです。
そして「熊谷直実」は、他の人物に渡すくらいなら自ら手をかけた上、供養すると誓い、若武者の首を取ったのでした。
「熊谷直実」は、「武士でなければこんな辛い目に合うことは無かったのに」と嘆き、泣き続けたのでした。

その後、先の若武者は「平敦盛(たいらのあつもり)」とわかりました。
「平敦盛」を討った「熊谷直実」は、その後出家し、蓮生法師と名乗ったのです。
「平敦盛」との約束を果たしたこと、またこのような若い武者を殺さねばならない世の無常さ、虚しさがあったのでした。

後日「平敦盛」の亡霊が、「熊谷直実」の前に現れ、蓮生法師の供養で成仏できることを喜び、感謝する話もあると言われています。

誰かあの扇の的を射よ~屋島の戦い

誰かあの扇の的を射よ~屋島の戦い

image by PIXTA / 17645157

源範頼の苦戦

一ノ谷の戦いで、「平敦盛」ら平氏一門の者がたくさん討ち取られてしまい、平氏の勢力は急激に衰えたのでした。
しかしそのような状況の中、平氏は勢力を立て直すために、海を渡り讃岐国屋島に内裏を作り、また「平知盛」を大将に、長門国彦島にも拠点を置いたのです。
平氏自慢の水軍の力を持って、源氏に当るのが最善の方法と考えたのでした。
また反対に、源氏には強力な水軍を持ち合わせていなかったため、屋島・彦島に攻撃を仕掛けることはできませんでした。
源氏が攻撃を仕掛けてくる気配が無い状況で、平氏が今のうちに勢力回復とばかり、山陽道を攻略しようとの動きに出ました。

「源頼朝」は当初、京都に警備役として滞在させていた「源義経」に平氏討伐に向かわせようと考えていましたが、このタイミングで畿内に居た平氏たちが反乱を起こしたのです。
その反乱を鎮圧するために「源義経」の力は必要であり、また京都の治安維持のためにも「源義経」の力は必要でした。
そのため山陽道を支配する平氏を討伐させるために「源範頼」を向かわせることにしたのでした。
「源範頼」は「源頼朝」の期待に応え、山陽道を奪い返す奮闘を見せましたが、徐々に長くのびてしまった戦線を度々平氏に侵された上、東国から離れ、西国でずっと戦っている源氏軍に厭戦気分が広がってしまったのです。
そのような状況下でも、何とか「平知盛」が勢力を張る関門海峡を避けて、豊後国に上陸、九州に渡ることに成功した「源範頼」でしたが、名将「平知盛」に抑えられている彦島を攻めることはできず、またもや足踏み状態に陥ってしまったのでした。
「源範頼」は「源頼朝」に何度も窮状を伝える手紙を送り続ける事態にまで陥り、また平氏討伐がなかなか上手くいかない「源頼朝」のイライラは最頂点に達したのです。
京都で「源範頼」が苦戦していることを知った「源義経」は、平氏追討のために出兵したのでした。

なぜ源氏がそこに?源義経による奇襲

山陽道や九州での「源範頼」が苦戦している理由に、平氏の強力な水軍があることが原因だと理解した「源義経」は、平氏水軍の切り離し工作を始めたのでした。
その結果、摂津国の渡邊水軍・熊野水軍・伊予水軍を味方につけることに成功。
その水軍を持って、平氏の棟梁「平宗盛(たいらのむねもり)」らが立てこもる、讃岐国屋島に攻め込むことにしたのです。

その出航前、「後白河法皇」は、「大将(源義経のこと)が、先陣することはない」と伝えてきました。
「後白河法皇」は「源義経」を重要な人物と思い、京都に帰ってきて欲しかったのです。
しかし「源義経」は、「先陣となって、討ち死にする覚悟があります」と伝え、「後白河法皇」の制止を振り切ったのでした。
また軍議の際、戦奉行が「船の進退を自由にできるよう、逆櫓を付けましょう」と提案した際に、「源義経」は、「そのようなものを付ければ、逃げることが頭に入り、不利になる」と一蹴したのです。
戦奉行に「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言われましたが、「最初から逃げることを考えるのか。
私は猪武者で結構である」と意に反しませんでした。
それだけ、今回の戦に力を入れていたのでした。

出航当日、暴風雨に見舞われました。
誰一人海を渡ろうとはせず、諸将は待機。
また船頭たちも暴風雨のため出航を拒みました。
しかしそのような天候でも「源義経」にとって関係なく、わずか5艘150騎で出航したのです。
暴風のおかげか、通常3日かかる航路を何と4時間で阿波国勝浦に到着。
そこから陸路をとって北上、そして屋島を急襲したのです。
海上から攻めて来ることを想定していた平氏はまたも大混乱。
みな内裏を捨てて船に飛び乗り、海上へ逃げていったのでした。

源義経の期待に応えた、那須与一の腕前

源義経の期待に応えた、那須与一の腕前

image by PIXTA / 13618691

陸地から突然現れた源氏に驚いて逃げた平氏でしたが、冷静に見ると少数であることがわかり、反撃を仕掛けてきました。
その平氏の猛攻に、「源義経」も危うく命を落としかけ、有望な武士を亡くしてしまったぐらいでした。
そして大激戦の後、夕方になり休戦状態になりました。
その時、美女を載せた一艘の小舟が平氏軍から現れたのです。
小舟をよく見ると竿の先に扇があり、それは「これを射てみよ」という挑発だったのでした。
挑発に乗った「源義経」でしたが、これを外せば源氏末代までの恥と考えたため、手練れをくまなく探し、指名したのは「畠山重忠(はたけやましげただ)」でした。
この「畠山重忠」は、一ノ谷の戦いでは、反対に馬を担いで、ひよどり越えの崖を下りたと言われる豪傑です。
しかし、「畠山重忠」は辞退、代わりに「那須十郎(なすのじゅうろう)」を推挙しました。
しかし「十郎」も「怪我をしているので」と断り、弟である「那須与一(なすのよいち)」を推薦。
兄から振られた「那須与一」は、この大役をしぶしぶ受け入れたのでした。

「那須与一」のプレッシャーは、大変なものであったと思われます。
外した際は自害するとまで覚悟し、矢を放ったのでした。
そして放たれた矢は見事に扇の柄に命中、扇は空を舞ったのです。
このできごとに源氏は喝采、また敵である平氏も感嘆し、船を叩いて「那須与一」の腕前を褒め称えたのでした。
この腕前に感動した平氏の武者が舞を始めたのですが、その武者を見た「源義経」は「那須与一」に「あの平氏の武者も射ろ」と命じたのでした。
命を受けた「那須与一」今度も命中、平氏の武者は倒れてしまったのです。
源氏軍はまたまた歓喜に包まれたのでしたが、この風流のない行動に怒った平氏軍は源氏軍への攻撃を再び開始したのでした。
しかし源氏軍の防備も素晴らしく、結果平氏軍は上陸することはできず、遅れて源氏の応援軍が来るとの知らせを受け、平氏は長門国彦島にいる、「平知盛」の元に逃げて行ったのでした。

平氏一族の滅亡~壇ノ浦の戦い

平氏一族の滅亡~壇ノ浦の戦い

image by PIXTA / 24716731

源平合戦最後の戦い

平氏との最終決戦に挑む「源義経」は、渡邊水軍・熊野水軍・伊予水軍などで830艘もの水軍を編成し、彦島に向かいました。
対する平氏は、「平知盛」を大将とした、500艘の水軍で源氏軍を迎え撃つことになったのです。
平氏にとって瀬戸内海は「源義経」、山陽道、九州は「源範頼」に抑えられてしまった、彦島に孤立状態、既に逃げ場は無く、本当に最後の決戦地になったのでした。
これが源平合戦最後の戦いになるとわかっていた「源義経」は、軍議で「自ら先陣に立つ」と主張。
しかし「大将が先陣とは聞いたことが無い」と軍監であった「梶原景時(かじわらのかげとき)」に言われ、一触即発のケンカになりかけたのでした。
この「梶原景時」とは、屋島の戦いの際の逆櫓に関しても言い争いをしていて、元々馬が合わなかったのかも知れません。
その後「梶原景時」は、「源義経」の行動を逐一「源頼朝」に報告、「源頼朝」と「源義経」の兄弟仲を割く原因となった人物になるのでした。

自分の意見を押し通し、先陣を切ることになった「源義経」は、彦島に向かって出撃を開始。
その報を聞いた「平知盛」は、迎え撃つために彦島を出撃、関門海峡の壇ノ浦で源氏を待ち構えるのでした。
また「源義経」を援護するために「源範頼」は、壇ノ浦近くの陸地に布陣。
退路を防ぎながら矢を仕掛けて平氏を攻撃することになったのでした。







その矢を射返してみよ

壇ノ浦の戦いで陸地から矢を仕掛ける役目を担っていた「源範頼」軍でしたが、そこには一人の武者が居ました。
その武者の名は「和田義盛(わだよしもり)」と言い、天を仰ぎながら平氏軍に向かって矢を射かけたのでした。
300メートル内の距離であれば外すものはないと言われた「和田義盛」の矢に、平氏軍はひるみそうだったが、ひとしきりの矢を射かけた「和田義盛」は、平氏軍に向かって「その矢を返してくれないか」と言ったのです。
「和田義盛」からすると、平氏軍にはこの距離を射る武士は居ないと思っていたのでしょう。

挑発を受けた「平知盛」は失敗が許されない中悩んでいると、「仁井親清(にいちかきよ)」と言うものが「平知盛」に、「私がその矢をもらいます」と言い、射返したのでした。
その矢は「和田義盛」の後方に居た源氏の武士の左腕に刺さり、「和田義盛」は大恥をかいたのでした。

そして反対に「仁井親清」が「源義経」の乗った船に矢を射かけ、「和田義盛」と同じように「その矢を返してくれないか」と手招きしたのです。

「和田義盛」や源氏の面目を潰された「源義経」は、「浅利与一(あさりよいち)」と言う者に射返すよう命じたのでした。
そして見事に「浅利与一」は、「和田義盛」の矢で「仁井親清」の胸を射抜き、船底真っ逆さまに射落としたのでした。
これにより、源氏の面目は保たれたのでした。

平知盛らによる最後の攻撃

平知盛らによる最後の攻撃

image by PIXTA / 8174426

源氏と平氏による弓矢による挑発も、戦いの形勢にあまり影響はなく、兵数に劣る平氏軍であったが、得意の海戦で攻勢を仕掛けていました。
「平知盛」が彦島に本拠を置いたのは、平氏の強力な水軍を活かすためであり、また関門海峡独特の早い潮の流れと干満による潮流の変化を熟知していたからでした。
午前に始まった合戦は、平氏軍有利に進みました。
早い潮の流れに乗りながら矢を射かけ、水軍を操ることに不慣れな源氏軍を追い詰めるほどでした。
「源義経」は、後ろ後ろに下がり気味になり、ますます勢いに乗った平氏軍はここぞとばかり「源義経」を討ち取ろうと攻めかかってきたのでした。

その時、2000頭のイルカの群れが海底から湧き出たように、平氏軍の船に接近してきたのでした。
「平宗盛」も意味が分からず、このイルカで勝敗をそばに居た陰陽小博士に占わせたところ「イルカが手前で折り返し源氏に向かえば平氏の勝ち、イルカがこのまま平氏の船の下を通れば源氏の勝ち」と占ったのです。
結果イルカはそのまま平氏の船の下を通り抜け、戦の戦況が変わっていくのでした。

このままでは平氏に負けてしまうと悟った「源義経」は、当時の常識では考えられない行動に出たのでした。
それは、非戦闘員である船の操縦士や漕ぎ手を射るように命じることでした。
非戦闘員を射ることは戦の作法に反する行為ではあったが、「源義経」は不利な状況で作法は気にせず、おきて破りの行動をとったことで、戦況を一変させてしまったのです。

船の操縦士や漕ぎ手を次々と失っていき、船の制御が利かなくなった上、平氏に有利だった潮の流れが午後になると一転、源氏に有利な方向に流れるようになってしまったのでした。
これにより、反撃に出た源氏軍は次々と平氏軍を倒していき、源氏に裏切るものや降参するものが続出、平氏軍は壊滅状態になってしまい、勝敗は決してしまったのでした。

平氏の滅亡

平氏の滅亡

image by PIXTA / 10776851

平氏軍の敗北が決定的になった時、「平知盛」が「安徳天皇(あんとくてんのう)」らが乗る船にやってきました。
「平知盛」はその船に乗る、「安徳天皇」の母である「建礼門院(けんれいもんいん)や「安徳天皇」の祖母である「二位尼(にいのあま)」に「もうすぐ珍しい東男(源氏)が見られますよ。
見苦しいものは捨てて掃除してください。」と伝え、「平知盛」は船の掃除を始めたのでした。
「平知盛」の冗談で敗北を悟った「二位尼」は、源氏に捕まるくらいならと死を決意、幼い「安徳天皇」と三種の神器の一つである勾玉を抱え、また腰には剣をさし、身を清め、「安徳天皇」に身を託す祈りをささげるように勧めたのでした。
そして「安徳天皇」が「どこにいくのか」と聞いたところ、「二位尼」は、「極楽へ参りましょう。
海の下にも都はあります」とだけを伝え、海に飛び込んだのです。
その様子を見た「建礼門院」や他の女官たちも次々と海へ飛び込んだのでした。
他の平氏の武士たちも次々と覚悟を決め、錨や鎧を重みに、またある者は手を取り合って次々と飛び込んでいったのでした。

しかし、平氏軍一の猛将であった「平教経(たいらののりつね)」は、最後まで戦っていました。
「平知盛」に「お前の相手ができる源氏はおらん。
これ以上罪つくりなことはするな。」と言われたところ、ならばせめて「源義経」を道連れにしようと追いかけたのです。
そして「平教経」は、何と「源義経」の船に乗りこみ、後少しのところまで追いつめたのでした。
しかし「源義経」は、何と6メートルも離れた隣の船に飛び移ったとされる、八艘飛びによって逃げていったのでした。
「源義経」に逃げられ、他の源氏軍に囲まれた「平教経」は、最後に源氏の大男を二人抱え、海に飛び込んで道連れとしたのでした。
最後の最後まで平氏のために命を燃やし続けていた「平知盛」も「見るべきものは全て見た」と言い、鎧を二領着た上で生前から人生を共にすると約束をしていた、乳兄弟である「平家長(たいらのいえなが)」と一緒に海に飛び込んだのでした。
鎧を二領着たのは、自分の亡骸が浮かび上がって、源氏の辱めを受けないようにという理由からであったと言われています。

海の水面には、かなぐり捨てられた平氏の赤旗が無数にただよい、水際に寄せる波は紅色に染まっていました。

壇ノ浦の戦いによって、平氏は滅亡したのでした。

晩節を汚した、人間性豊かな平氏の棟梁

壇ノ浦の戦いの敗戦で、最後海に飛び込んでいった平氏一族でしたが、源氏によって引き上げられた者も居ました。
平氏の棟梁であった「平宗盛」「平清宗(たいらのきよむね)」親子がその内の二人でした。
この「平宗盛」は平氏の棟梁とは思えない人物であったと言われています。
実際源平合戦による平氏軍の指揮は「平知盛」がほとんど取っていて、「平宗盛」が表に出てくることはほとんどありません。
しかも壇ノ浦の戦いの最後、皆が海に飛び込んでいく様子を見て、船の上で行ったり来たりして逃げ回っていたのです。
その姿に呆れてしまった周りの諸将は「平宗盛」を捕まえて、無理やり海に突き落としたのでした。
しかし親子ともども肥満体型で浮きやすかったということ、また泳ぎが非常に達者だったため、助かろうとして浮かび上がり、そこを源氏に引き上げられたのでした。

「源義経」により、鎌倉に送られた「平宗盛」と「平清宗」親子でしたが、「源頼朝」との面会時にも媚びへつらい、助命嘆願したので源氏の諸将は嘲笑い、「源頼朝」からは「平末国」と改名させられたのです。
そこまで助命を願っていましたが叶わず、「平宗盛」は親子ともども処刑され、系統は途絶えることになってしまったのでした。

しかし「平宗盛」は、平氏の棟梁としては落第点だったのかもしれませんが、妻が亡くなった時、その遺児を男手一人で育てたり、壇ノ浦の戦いの時も息子が心配で浮かび上がってきたとも言われています。
武士には似合わない人間性が豊かな家庭人の面があり、生まれてきた時代が悪かったとしか言えない悲劇の棟梁だったのかもしれません。

実は滅亡していなかった、平氏の一族

実は滅亡していなかった、平氏の一族

image by PIXTA / 26357536

「建礼門院」も源氏に助けられた一人でした。
「建礼門院」は、源氏の武士が熊手で髪を引っかけ、引き上げられました。
源平合戦は、兄「平宗盛」が斬首されるなど、平氏にとって非常に厳しい結果でしたが、「建礼門院」は罪に問われることなく、命を助けられたのです。
「建礼門院」は、壇ノ浦の戦いで散った我が子や、平氏一族の菩提を弔うために出家し、生涯を終えたのでした。

そして「平頼盛(たいらのよりもり)」。
この人物こそが、「平清盛(たいらのきよもり)」の一族でありながら、壇ノ浦の戦いの後も唯一生き残った平氏でありました。
「平頼盛」は、「平清盛」の弟でしたが、平氏と別行動に至ったのは、平氏が都落ちをする際、連絡することを忘れ去られ、京都にほったらかしにされたからでした。
「平頼盛」は怒り、棟梁であった「平宗盛」に連絡を取るが、何の返答も無く、仕方なく「後白河法皇」に助けを求めたのでした。
「後白河法皇」はこの「平頼盛」を信頼し、「源頼朝」との連絡役を与えたのでした。
「平頼盛」も敵意が無いことを伝えるため、「源頼朝」に会う際には、刀剣を持たないいでたちで会見に臨みました。
このような「平頼盛」を「源頼朝」は歓迎したそうです。
また「平頼盛」の母親は「池禅尼(いけのぜんに)」と言う人物で、この「池禅尼」の働きかけで、平治の乱で処刑されそうになった「源頼朝」の命が助けられたのでした。
「源頼朝」は生涯「池禅尼」への恩義を忘れなかったと言われていますので、「池禅尼」の息子であった「平頼盛」にも、特別な感情があったのかもしれないですね。
京都に置いてけぼりにされてしまった「平頼盛」でしたが、「後白河法皇」にも「源頼朝」からも厚遇された稀有な平氏の武士として生き残り、後世に子孫を残したのでした。

壇ノ浦の今

みもすそ川公園

みもすそ川公園

image by PIXTA / 8172324

平安時代末期の1185年、山口県下関市で起こった源平合戦の最後である壇ノ浦の戦い。
その壇ノ浦の戦いがあった跡地には、現在「みもすそ川公園」として整備されています。
壇ノ浦は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」と呼ばれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。
「みもすそ川公園」の由来は、「二位尼」の辞世の歌である「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」から来ていると言われています。

公園内には、安徳帝御入水之処碑があり、そこに「二位尼」の辞世の歌が刻まれています。
また、八艘飛びをしている「源義経」と、錨をかついだ「平知盛」が対峙する像も設置されております。

また、無料の壇ノ浦合戦絵巻などの紙芝居も行われているそうです。

赤間神宮

赤間神宮

image by PIXTA / 12617052

壇ノ浦の戦いで亡くなった、「安徳天皇」をまつった神社です。
「安徳天皇」が「どこにいくのか」と聞いたところ、「二位尼」は、「極楽へ参りましょう。
海の下にも都はあります」と言う言葉から、竜宮城を模して造られたと言われています。
平家一門の合祀墓があり、14名の供養塔が並んでいます。
名前に「盛」字のつく者が多いことから「七盛塚」とも言われています。
他にも小泉八雲の怪談で有名な耳なし芳一の芳一堂、資料の展示がおこなわれている宝物殿があり、夜は真っ赤な水天門がライトアップされます。

運に見放された悲劇の名将、平知盛

いかがでしたでしょうか。
神がかり的な力を持って平氏を滅ぼした「源義経」と「平知盛」との最終合戦でした。
引き立て役になることも多い「平知盛」ですが、武士としても貴族としても非常に優れた人物であったと言われています。
生来体が弱く、松葉杖をつくことが多かったため「松葉殿」と揶揄された「平知盛」でしたが、散り際も見事でした。
生まれた時代が違えば、また相手が「源義経」でなければ、運命は変わっていたかもしれません。
しかし壇ノ浦の戦いの敗北後、栄耀栄華を極めた平氏一族でしたが、壇ノ浦の戦い後、表舞台に出てくることは、決してなかったのでした。
photo by PIXTA