漢文が主流だった随筆の中で漢字と平仮名を織り交ぜた『和漢混淆文(わかんこんこうぶん)』であり、江戸時代には読みやすさと教訓の親しみやすさから身近な古典として江戸文化に多大な影響をもたらしたと言われています。
名作古典として明治時代以降には受験対策用の必須アイテムとしても広く愛読された徒然草は、900年以上前に書かれたなのに現代にも通じる教訓や思想、そしてクスっと笑える小話が詰まった魅力溢れる一冊です。
そんな徒然草をもっと身近に、そして歴史が苦手な人でも楽しめるポイントをご紹介します。
「徒然草」の「鎌倉時代」とは?

貴族文化が花開き様々な風雅が生まれた平安時代から武士文化へと変化していった鎌倉時代、そして朝廷を二分して二人の天皇が在位した南北朝時代と、安寧とは遠い波乱に満ちた時代は生きる世界の『無常』を感じるには十分です。
そんな「兼好法師(けんこうほうし)」が生きた時代を知る事で、よりいっそう『徒然草』の世界を理解することができますよ。
平家滅亡と共に終わりを迎える平安時代
勢力を伸ばしていく「源氏」に徐々に追い詰められた「平家」は現在の山口県下関市にある『壇ノ浦』という海で激突し、敗戦濃厚となった「平氏」の人々は満6歳4か月という幼い「安徳天皇(あんとくてんのう)」と共に入水し、それによって終戦し滅亡しました。
いわゆる「源平合戦」は『平家物語』や『源平盛衰記』等の様々な話しや伝説として現代にも語り継がれているので、歴史に興味がない人でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
特に平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」は、国語の授業で暗唱させられた人も多いかと思います。
この一文の後にある「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」は、どれほど隆盛を極めてもいつかは滅びるという『世の無常』を語っています。
この『無常』の精神は『徒然草』と「兼好法師」を知る重要なキーワードなのです。
そして壇ノ浦の戦いを経て源氏の棟梁である「源頼朝(みなもとのよりとも)」が神奈川県鎌倉市に『幕府』を置いた事で『鎌倉時代』が始まりました。
平安京と鎌倉幕府

鎌倉時代以降の江戸時代に至るまで最高権力者として『将軍』のイメージがありますが、実は天皇を頂点とした『朝廷』は残ったまま。
政治の中枢が鎌倉幕府へと移動し、明治の大政奉還まで続く武家文化の礎を作りあげました。
しかし武士を中心とした鎌倉幕府は「源頼朝」の死後に妻の「北条政子(ほうじょうまさこ)」によって「北条家」へと執政が移り政治を行いますが、この事が武家だけでなく公家からも多くの不満を抱かれてしまい1331年から始まった「後醍醐天皇(ごごだいごてんのう)」を中心とする倒幕運動『元弘の乱』によって1333年、わずか140年ほどの歴史に幕を閉じたのです。
その後は再び天皇が自ら政治を行う『親政』政治となりますが、1336年に大阪府付近で繁栄した清和源氏の流れを組む河内源氏の「足利尊氏(あしかがたかうじ)」が「後醍醐天皇」から離反した事で政権は崩れ、武家貴族を中心とした『室町幕府(または足利幕府)』が京都で開かれ、1573年に「織田信長(おだのぶなが)」に滅ぼされるまで政治の中心として栄えました。
そんな鎌倉時代後期から室町時代にかけての公家と武家が争う時代に生まれ、その冷静な観察眼を持って世の中を見つめたのが『徒然草』の作者「兼好法師」なのです。
徒然草」の作者「兼好法師」とは

後世の世では『名歌人』『能書家』『隠遁者』『辛口批評家』などなど、様々なイメージで語られる「兼好法師」は、9世紀の頃に時の権力者だった「藤原氏」が創建した現在の京都市左京区にある『吉田神社』の神主の血を引く名門貴族の生まれでしたが、後に仏門に下り僧侶として生きた人物。
そんな「兼好法師」についてご紹介します。
神道の一族の卜部家の子供
「吉田兼好(よしだけんこう)」の名前でも知られていますが『吉田』という名前は江戸時代に入ってから卜部家の嫡流が名乗り出したことで、傍系である「兼好」も「吉田兼好」と呼ばれるようになり、出家し仏門に入った事で名乗る「法師(僧侶の意味)」をつけて「兼好法師」とも呼ばれ親しまれるようになったのです。
読書が流行り『徒然草』も多くの人に読まれるようになった江戸時代に合わせて「吉田兼好」と呼ばれますが、本名としては「卜部兼好」というのが正しいのですよ。
そんな彼は19歳の時に天皇の給仕や秘書的な役割を持つ『六位の蔵人(ろくいのくろうど)』の位を得て、25歳には都(京都)の左側の門を守る守護職のトップを補佐する『従五位下左衛門佐(じゅうごいしたさえもんのすけ)』まで出世し、天皇家に連なる女性を妻として迎えるという、順風満帆な生活を送っていました。
しかし30歳の頃に仕えていた「後二条天皇(ごにじょうてんのう)」が若くして崩御をした事が切っ掛けだったのか、突然地位と名誉、家族を捨てて出家をし僧侶となりますが、その正確な理由はわかってはいません。
神職の家系でありながら仏門に下るというのは現代の感覚では不思議に思えますが、当時は貴族が出家をすることが多く、ある意味トレンドであったと考えられます。
また鎌倉時代中期から後期にかけては天皇を始めとした多くの貴族たちが出家し、現在に続く自然豊かな庭園や荘厳な寺院、茶道や屏風画など様々な文化を生み出し発展させた時代でもありました。
そんな時代では源氏や藤原氏以外の血筋の子息の将来は、事務官僚などのさほど出世の見込めず、立身出世といった未来への期待感が抱けない状況であり、神道の名家といえども「兼好」がこれ以上出世することはまずありえない状況でした。
それと同時に「兼好」自身が出世欲が薄く、京都生まれで公家であるにも関わらず関東の武士勢力への偏見が無かった事もあって、内裏での差別意識に満ちた生活に嫌気がさして30歳という若さで出家したのも、自然な流れだったのかもしれません。
聡明だった子供時代

徒然草の最後の243段ではわずか8歳の頃に父親に向かって「仏様はどうして仏様になったの?」「人間だった仏様を導いた仏様は誰に導かれて仏様になったの?」と、幼い好奇心と疑問を素直にぶつけ、父親は返答に窮してしまったというエピソードを紹介しています。
この出来事は「兼好少年」の純粋な疑問と後に抱える事になる『無常の心理』へと繋がる思想の一端を垣間見る事ができるものです。
また41段に記されている賀茂の競馬場のエピソードでは、13歳の少年とは思えない聡明さを感じさせてくれます。
「卜部家」という誇り高い神道の家系に生まれ、祖父は事務官僚でありあがら宮中の神事へ奉仕する立場であり、父や兄弟もそれぞれ内裏へ出仕できる官位を得ています。
また兄弟順は不明ですが「兼好」の兄弟の中には天台宗の僧正であり学僧としても有名な「慈遍(じへん)」がおり、幼い頃から高い教養と豊かな知識に触れる機会が多かったのではないでしょうか。
地位と伝統、そして教養を合わせ持つ貴族の少年として不自由なく伸び伸びと育ったからこそ、目の前の出来事だけでなく世間を俯瞰的に見て感じ、それを口にし行動した「兼好少年」はこの後も常に自問自答と自己啓発、世の無常と生きる人々について観察し考え、そして『徒然草』を記す僧侶へと成長したのでした。
出家後の「兼好法師」
世捨て人といえども経済活動を行わなければ生きていけない、そんな現実が垣間見れるもので、出家後に何度が関東(鎌倉)へと足を運んでは有力者と接触し交流を深めたり、現在の横浜市金沢区の『上行寺』の境内に庵を作り、当時鎌倉幕府の将軍を助ける御家人だった「金沢貞顕(かなざわさだあき)」と特に親しくしていた事もあり、この地を「ふるさと」と言うほど大切にしていました。
そんな経済活動と共に見聞きし考え集めた知識が後の『徒然草』にも多く反映されており、この随筆の面白さを深めるエッセンスとなています。
さらに40歳になるころには歌人としての才能も花開き、歌人たちが集まる歌壇へと何度も登場するなど『和歌四天王』の一人に数えられるほどの評価も得ていました。
ちなみにこの『和歌四天王』に数えられる「頓阿(とんあ)」は「兼好法師」の親友として徒然草に登場し、知的で友好な親友関係にあった事が伺えます。
そして鎌倉時代が終わり二人の天皇が争う南北朝の混迷する時代に入る49歳の頃から徒然草を執筆を始めますが、世の混乱をよそ目に彼は作歌や古典の研究、権力者や上流階級の人との交流など多岐に渡り活動を続けていました。
『隠遁者』というと人里離れた山奥で清貧な生活を送っているイメージがありますが、「兼好法師」は市井で暮らし俗塵の中で俯瞰的に世間を見つめて過ごす、定年後のスローライフのようなゆったりとした生活の中で徒然草は書を書き上げたのです。
「兼好法師」は晩年は徒然草に何度も登場する、世界遺産に登録されている京都市右京区の真言宗御室派の『仁和寺』の麓にある双ヶ丘の庵に隠棲し、1352年ごろに亡くなりました。
そのお墓は双ヶ丘の近くにある長泉寺に歌碑と共に建立され、今なお多くの人に参拝されています。
徒然なるままに書かれた「徒然草」のポイント
話の序文を含めた段数だけ見ると244段と多く思えますが、実際には一行や数行で終わる一言コメント的な内容や数十行にも渡る思想や逸話などが混ざっていて、思いのほかスルスルと読み解けるのもポイント。
そんな徒然草のランダムに纏められた各段の内容を大きく分類すれば、ビギナーさんで入り易くて読んだ事がある人には新たな発見になるような、徒然ポイントがあるのです。
兼好法師が見つめたこの世の「無常」
その多くは仏教の「正しい修行をした人の時代が過ぎると外見だけの修行者が現れ、その後は人の世が正しい教えが守られない最も最悪な時代になる」という『末法思想』や中国の老子や荘子の哲学的な道家思想の影響を強く受けており、その中で「兼好法師」が感じた様々な事を記しました。
特に多くのページに共通して語られる「人のあるべき生き方」や「世の無常さ」は、彼の哲学者としての側面を強く残しつつ、当時の世情や人情を垣間見ることができ、語られる『無常』に胸を打つ段もあります。
例えば徒然草第25段では、奈良から京都へと流れる飛鳥川の流域では度重なる洪水でどれだけ立派なお屋敷でも流れて何もなくなってしまい残るのは桃や李の木ばかりで、たとえお屋敷の跡が残っていても昔を懐かしむ人もいない事は世の無常を感じてしまうし、平安中期の大貴族である「藤原道長(ふじわらのみちなが)」が子孫繁栄を願って建立した『法成寺』は放火や戦災などで荒れ果て捨て置かれており、平安京のメインストリートだった朱雀大路もほとんどが田畑となって、かつての栄華の面影がない。
子孫が残っていても「藤原道長」が願った夢は跡形もなく無常の極みと悲哀を書き、第7段や第30段では人の死とこの時代の葬儀の在り方について「兼好法師」なりの考えとして当時の49日間かけて葬儀を行う無駄さとその後山奥で放置されるお墓の虚しさや、貧しい人は葬儀も上げられず亡骸は火葬場近くの河原に放置されるのが日常。
どれほど高貴な生まれでも貧しい生まれでもその死後は無残な姿であり、どれほど立派な建造物も災難があれば何もかも無くなって人々から忘れられるなら、程ほどに多くを望まない質素な生活が一番であり俗世から離れて『死』は身近にあるもので逃れられない事、それを無常と悟って生きるのが一番だと考えていたのです。
徒然と語られる人生の在り方

理由としては若い頃は何をしても全てが新鮮に感じられるが、年齢を重ねるとそういった驚きや感動が減ってしまい味気ない人生になってしまう。
程々の年齢で死んだ方が人生を楽しめるという事だそう。
また『嘘』についても独自の意見を持っており、徒然草の中でも随所に語っています。
「口から出まかせばかり言う人は信用ができないが、嘘でも話の筋道をきちんと立てれると信じてしまうので恐ろしい」「初めから嘘と言って口伝や伝承を否定するのはよろしくない。
真実が嘘かは解らないし、信者は何を言っても嘘を信じないからだ」と言う一方で「神仏が起こしたという不思議な出来事の伝承を頭から否定してはいけない」と、僧侶らしいコメントあり「兼好法師」の相反する気持ちが垣間見れ、現実主義者でありながら哲学思想家の二面性を感じる事ができますね。
これ以外にも徒然草の中には様々な『人生の在り方』についての記述があり、会話のマナーとして「久しぶりに会った人に自分の事ばかり語るのは不愉快な事で親しい間柄でも久しぶりに話すのなら自分の事は控えて相手の話しを聞くのが正しい」や軽薄な人や教養の無い人は平気で他人を気づ付ける事を示唆しています。
現代風に言い換えるのであれば、職場の新入社員や学校等で新しく知り合った人を前にして内輪でしか解らない会話をして仲間はずれにする、自分が気にくわないからと虐めや心の無いいじりを行うといった行為の事で、こういうタイプの人は「心にゆとりが無い状態だから、周囲が戒めても無駄。
自分で気づく前放っておくのが一番」と、実体験を感じさせる内容が読み取れ、相手の気持ちを汲んで慮る事が大切だと説いているのです。
また人間は生きていく上でどうしても働いて日々の糧を手にしなければなりません。
「せこせこと一生懸命に働く人は日々目の前にある生命や自己保身、利益ばかりを追求して、すぐ近くにある無常に気づいていないのはいけない。
どうせ人間の先は老いと死しかないのだから、若いうちに人生は波風が立ち変化をしていくものだと気付かなければならない」と世捨て人らしい一歩引いた目線で人の世を見つめ、記してているのは「兼好法師」らしい視点と言えます。
確かに人生には急な病気、職場や学校などの生活の変化があり突然の出来事に慌ててしまう事があるでしょう。
「兼好法師」はどうせ生まれた時から老いて死ぬしか未来はないのだから、どんな事が起こってもそれを受け入れるのが大切だと説いていおり、また「人生は長くも短くもあり、目的のある人には短く何も考えない人には長い。
長いからと言って様々な事に手を出すと大切な事を見落としてしまうので、大事な事から行うのが良い」と、哲学者らしいコメントも残していて、ついつい日常の雑事に忙殺される現代人としてはハッとさせられますね。
教養ある人間のとなるべきは
その為男性の教養の必須科目として主君や自分を守る為の武術と漢文や聖人の教えを理解し話し書く知識、そして病気や怪我から身を守る医療があったのですが、「兼好法師」はさらに人間として生きるために大切な食事の作り方や仕事にもなる細工の仕方なども、必須で覚えるべき教養だと記しています。
武術や知識等は時代に添った考え方ですが、女性の仕事を言われていた料理や細工については「兼好法師」の中にある平穏だった古き良き時代への懐古の情が含まれていて、争いばかりで豊かではない時代への皮肉ともとれますね。
また「世の中には嘘が溢れていて、語り継がれるがその内容はだいたいが嘘。
教養の無い人間は誇張された内容を手放しで褒めるが、教養があれば自分で見聞きしていない以上、話半分で聞くものだ」と、嘘と教養について語っています。
『嘘』が悪いのではなく無遠慮に『嘘』に踊らされる人に眉を顰めていたようです。
他にも本当に教養のある人間は知ったかぶりをしないし、聞かれるまで知識を口にはしないもの。
大事なことを必要な場面で言葉にする事が効果的に伝える手段であり、教養のある人間の姿だとしています。
このように「兼好法師」が考える『教養』とは知識や技術はもちろんのところ、物事の真贋を見極めて慎ましく出しゃばらず、静かに心理を見つめ受け止めて生きる姿を示しており、これは同時に「兼好法師」自身が目指した姿でもありました。
崩壊している僧侶に物申す「仏の教え」とは

仏の教えを受け求道者となったからには、この世の無常を受け入れて生きる覚悟が必要だと「兼好法師」は考えていました。
そのうえで僧侶といえども人間であり、過度な執心は身を滅ぼすもので仏の教えを守って慎ましやかに生きるべきだと言い「人間とは悪を真似すれば悪となり、善を真似すれば善となる」と説いています。
また「兼好法師」がお世話になっていた『仁和寺』の僧侶についても手厳しく批評しており、権力と癒着し本来の『仏の教え』から離れて自分のプライドを優先した心の狭さや狡さを数多くの段で辛口に書き連ねています。
この時代の僧侶の暴虐無人な振舞いに憤っていた彼は、徒然草の中でもたびたびこうやって僧侶や寺の行いに対して強い物言いで言葉を残しており、神職から仏門へと出家した決意や無常の虚しさをひしひしと感じていた事がうかがえ、不健全な宗教の在り方に頭を痛める「兼好法師」の姿が目に浮かぶようです。
その一方で仁和寺の末寺である『真乗院』の「盛親僧都(じょうしんそうず)」という眉目秀麗にして身体健常、健啖快食な人で説法中でも大好物の里芋の親芋をもりもり食べて資産を無くしてしまうほどの自由人で型破りな僧侶が、周囲から煙たがられるどころか大変好かれる人物だった事「徳が最高の域に達している」と褒め称え、自分では真似できない傑物だと尊敬半分羨ましさ半分で書いています。
手放しで褒めないのが「兼好法師」らしいエピソードですが、確かに羨ましく感じる人物ですね。
ちなみにこの「盛親僧都」はとある法師を見かけた際にその顔を「しろうるりのようだ」と言い、それ以来その法師を「しろうるり」と呼んだそうです。
その「しろうるり」とは何かと周囲の人が聞いたら「知らない。
きっと法師に似た何かがしろうるりだろう」と、なんとも自由な返答をしたとか。
このエピソードは江戸時代に生まれ庶民の間で大流行した川柳のお題として人気となり、白い瓜のような形に目鼻がついたのっぺり顔の人をイメージし幕末頃まで刊行された川柳集の『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』に「徒然草の実だと言う白うるり」と載ったほどです。
人間としての生き方と恋愛小話
「権力を得た人間は必ず腐敗するが、権力そのものが腐っているのではない。
権力を握った人間の心が腐るのだ」と徒然草の初めの段で強く言い切るのは、「兼好法師」が天皇に近い位置で政治を見知っていたからかもしれません。
それ以外にも賀茂の葵祭の行列の見物人たちの自由勝手な振舞いには人間の本質や品性が垣間見れるとし、生涯現役を語る老人の姿はいいが、自己管理をしっかりして周囲に迷惑をかけない事が大切だと語っています。
「人間は一人では生きられないけど社会に出ると自分を通すのが難しい。
息が詰まったら自分らしいあり方を求めて雑事から離れる事も人生をエンジョイするポイントだ」と、仕事で行き詰った時に参考にしたいコメントや考え方があり、現代人でも参考にしたい生き方が書いてあります。
男女の恋愛模様についても数多く残しています。
たとえば自宅デートを楽しんだ後に帰る男性の後姿を、恋しく思いながらも見送る女性をこっそり観察している段や伝説の仙人が偶然見かけた洗濯をする女性の足を見た事でときめいてしまい神通力を無くしてしまうなど、実体験から逸話、果ては人づてに聞いた話しなどがあり昔の人も現代と変わらない恋愛模様と男性の性について面白く読む事ができます。
特に「兼好法師」自身の自慢話7話のうちの一つに美しい女性に言い寄られたけれど、毅然としてお断りしたという話がありますが、文章の中に言い寄られた「据え膳」を食べるか否かの葛藤や、断った後のなんも言えないエピソードが短い文章の中で垣間見れるのはさすがの筆力としか言いようがありません。
ちなみに「兼好法師」は女性に対して複雑な気持ちを抱いていた事が徒然草の各所から読み取れます。
女性への憧憬と同時に蔑視を含ませる二面性もまた、「兼好法師」ときうより男性らしい視点の意見とも読み取れて面白い部分であり少々考えさせられる部分となっていますよ。
徒然なるままに面白い「小話」
たとえば手書きの文字に自信が無い人に向けて「文字が下手でもいいじゃない。
だってそれも個性だもの」と言い、かえって悪筆だからと別の人に代筆を頼むはみっともないと一刀両断しています。
美しい文字が書けるのにこした事はありませんが、どんな文字も個性と言われるとちょっと自信がつきますね。
この他にも殿上人だった「兼好法師」らしく内裏に住む内親王が父親に会いたいと願った手紙について、お付きの女房と手紙でやりとりをしたエピソードや、山奥に出る妖怪の猫又が都に出てきたという噂を聞いた後に夜遊びに出かけた僧侶が帰り道に猫又に襲われたと悲鳴を上げたけれど、良く見たら自分の飼い犬だったというエピソード等、思わずクスリと笑ってしまうものも多く「兼好法師」の住まいに対する意外なこだわりについては、思わずツッコミを入れたくなるような独特の価値観を見せてくれます。
他にも現在は旬の味として人気のカツオについて、当時基本的に鰹節などの加工品を食べており生食は漁師などの一部の貧しい人だけだったのが、この時代になると上流社会でも生のカツオが食されるようになり人気となった事や、子供の名前やお寺の名前などに現在でいうキラキラネームが流行っている事を知った「兼好法師」は世も末だと嘆いたそうです。
このように徒然と書かれた段によっては現代でも全く同じ事を感じられるので、古典である徒然草がぐっと身近に感じられますよ。
現代人が共感する人生を見つめなおせるエッセイ
紹介しきれない程に様々なエピソードが詰まった『徒然草』は、序文の「徒然なるままに」は隠遁者である「兼好法師」が庵の中でぼんやりと、やる事が無く手持無沙汰で書き始めたとあるように、晩年に差しかかり自分の人生や世間を改めて見つめなおす気分になって筆を執ったのではないでしょうか。
徒然草は「兼好法師」が集めた様々な徒然と生きづらい人の世の中で発見と自己啓発を促して、すぐ身近にある様々な『無常』を「兼好法師」自身が克服する事を目指した一冊とも言われています。
そんな徒然とした「兼好法師」の世界は現代を生きる私たちと同じように日々の生活の中で多くの苦悩や理不尽、友情や親愛といった心の交流にちょっとした面白いエピソードなど、混迷した時代に生きた生身の人間の素顔が垣間見れ読み手の年代によって表情を変える、奥深い一冊。
小難しい古典作品として苦手に感じるのなら、ぜひ普通のおじさんの日常エッセイと思って読んでみるのも面白くておすすめです。