源氏物語の作者「紫式部」の謎多き実像とは?

女房三十六歌仙、小倉百人一首、中古三十六歌仙に名を連ね、古典名作「源氏物語」の作者として有名な「紫式部(むらさきしきぶ)」は、栄華を極めた平安時代中期に生きた女性です。
代表作である源氏物語だけでは知り得ない、ほとんど史料の残っていない謎多き「紫式部」の生きた姿についてご紹介します。

「紫式部」が生きた平安時代とは

「紫式部」が生きた平安時代とは

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『平安時代』とは奈良市の『平城京』を中心とし84年続いた『奈良時代』から首都を京都市に移した『平安京』という都が中心となり、794年から「源頼朝(みなもとのよりとも)」が鎌倉幕府を開く1185年の約400年の間栄えた王朝文化の時代を指します。

大きく前期、中期、後期と別れており、現代へと続く様々な文化の基本を創り出した魅力あふれる時代であり、私たちの日常にある様々な節句やお花見などの行事の原型を作った時代です。

「紫式部」についてご紹介する前に、彼女が生きた雅やかな平安時代についてご案内します。

奈良時代の律令制政治から天皇を中心とした王朝政治へ

平安時代初期は弥生時代から続く中国の唐の影響を強く受けており、衣装が生活スタイルも現在の私たちが思い浮かべる平安時代の雰囲気よりも、中華風の雰囲気が色濃く残っている頃です。

平安期最初の天皇である「桓武天皇(かんむてんのう)」は地理的な弱点を克服するために784年11月11日に奈良県の『平城京』から京都府『長岡京』へと遷都させましたが、わずか10年後の794年10月22日に様々な政治的理由により京都市の基礎となった『平安京』へと再び遷都を行いました。

ここから国風文化と貴族文化が成熟される『平安時代』が始まるのです。

東西南北の美しい桝の目状の整然とした街並みは「芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)」の小説で馴染み深い『羅生門(らしょうもん)』を正面入口とし、約84mの道幅があったという朱雀大路が真っすぐに政治中枢であり天皇やその家族が住まう大内裏まで伸びた目抜き通りが印象的な作りで、周囲を碁盤の枡目のように大小様々な辻や通りが走り巨大な都市を形成していました。

建設当初の大内裏は残念ながら太平洋戦争時に焼失してしまいましたが、その跡地に建立されたのが『平安神宮』であり、ここには当時の大内裏の一部が復元された建物も観光スポットとなっています。

そんな現代へ続く平安文化の礎となった平安時代初期の頃には奈良時代に伝来した仏教の文化が色濃く残り、僧侶が政治に対して強い影響力を持つようになっていました。
それに加えた政治抗争によって乱れた国を立て直し奈良時代から引き継いだ律令制政治を中心に国をまとめ上げていきましたのが「桓武天皇」です。

しかし時代と共に律令制政治では必要な税収を治める事が困難になった事から、各地に権限を委譲した『国司』と呼ばれる役人を派遣し、土地単位で税を徴収する方法へと移行していきました。
それにより平安京を中心に権力が集中し、徐々に新しい体制である『王朝国家体制』となったのです。

これにより日本文化は古代と呼ばれた基礎的な時代からより高度な政治体制と文化を育む中世と呼ばれる時代へと変遷していきました。

貴族文化が隆盛を極めた平安中期の時代

貴族文化が隆盛を極めた平安中期の時代

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『平安時代』の有名人と言えば希代の大陰陽師「安倍晴明」や平安貴族文化の象徴的な人物である摂政「藤原道長(ふじわらのみちなが)」に福岡県の「太宰府天満宮」に代表される学問の神様となった「菅原道真(すがわらのみちざね)」、大江山の『酒呑童子退治』で有名な武将「源頼光(みなもとのよりみつ)」など、歴史に名前を残す有名人を数え上げれば限りがないほど多くの人々が活躍した時代です。

それは裏返せば戦乱などほとんどなく安定した時代であった証拠であり、同時に台頭してきた貴族達によって様々な貴族文化が花開いた時代でもあり、現代に続く様々な節句行事や和歌や文字などの『国風文化』が生まれ広まったのもこの頃からと言えます。

漢文ばかりであった文章に女性でも使いやすい『ひらがな』が登場したり、誰もが一度は聞いたことのある百人一首カルタに使われる和歌、一度は途絶えた能楽もこの頃に再興し、見た目も麗しい十二単や日本人が愛してやまない春のお花見文化も、起源を遡ればこの時代へと繋がります。

その為多くの人々が『平安時代』と言われて連想するのがこの平安中期となり、後の鎌倉時代や戦国時代、町人文化が成熟した江戸時代へと繋がる大切な時代とも言えるのです。

また『源氏物語』の「紫式部」や『枕草子』の「清少納言(せいしょうなごん)」、日本版シンデレラの『落窪姫』等の名作が生まれたのも平安時代中期の頃ですよ。

平清盛の台頭と武士の時代へ続く平安時代後期

何事も隆盛を迎えれば衰退していくように、平安貴族の時代も永遠ではありませんでした。

その証拠に「藤原道長」によって頂点を極めた藤原家の摂政政治は「平清盛(たいらのきよもり)」の台頭によって平家の天下へと移行していき、また天皇も引退した後も『上皇』として政治的な影響力を持つ『院政』を行うようになり、当初平安京より派遣されて『国司』として土地を治めていた人たちが自らの力で開墾し領主となった『開発領主』が登場して主権を主張しだすなど、中期の頃に比べて様子が変わっていきます。

武家の出である「平清盛」が政治的な頂点である関白となった事で身分の低かった武士階級の人々がに光が当たる事を期待されていましたが、「平清盛」はそれでの貴族を中心とした政治を行い、源氏を始めとした武家の人々が不満を募らせるようになりました。

その後1185年3月に山口県下関市と福岡県福岡市の間にある関門海峡で行われた『壇ノ浦の戦い』で平氏は滅亡し、源氏の総領である「源頼朝」によって鎌倉幕府が開かれることで栄華を極め繁栄を遂げた平安時代は終わりを迎えたのです。

ちなみに京都市伏見区の『平安装束体験所』では平安貴族の衣装を着ての記念撮影ができますし、京都市下京区にある『風俗博物館』では源氏物語を再現したミニチュアの他、平安時代の生活をリアルに見学ができ学べる博物館となっています。

また岩手県花巻市にある『えさし藤原の郷』は奥州藤原氏の生誕の地である世界文化遺産『平泉』の近くにあり、20ヘクタールの広大な土地に平安時代の庭園と120棟を超える精密に再現された建物をあ圧巻で、様々な平安文化の体験も人気とです。
この『えさし藤原の郷』は数多くの映画やドラマの撮影にも使われていて、まるで平安時代にタイムスリップしたような気分に浸れる平安好きにおすすめのスポットですよ。

受領階級の妻から中宮の女房となった「紫式部」の生涯

受領階級の妻から中宮の女房となった「紫式部」の生涯

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さて平安時代でもっとも栄えたと言っても過言ではない平安中期の女流作家「紫式部」とはどのような人物だったのでしょうか。

残念ながらこの当時の多くの女性がそうであったように詳細で正確な史料はほとんどなく、彼女については「源氏物語」や女房として勤めていた間に記した「紫式部日記」彼女が読んだ歌を集めた「紫式部集」、周囲の人物の残した手記や日記の中でしか探る事ができません。

そんな数少ない史料の中から現在までで解っている事についてご紹介します。

高貴な血筋と没落した家へのジレンマ

「紫式部」は「藤原道長」と同じ『藤原北家』という名家の血筋に970年頃に生まれ、母方の曾祖父「藤原文範(ふじわらのふみのり)」と父「藤原為時(ふじわらのためとき)」の父方の曾祖父「藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)」は中納言に、「藤原為時」の母の父親である「藤原定方(ふじわらのさだかた)」は右大臣と、名家と呼ぶにふさわしい血を引いています。

本名は不明ですが「香子(かこ、かおりこ、こうし等)」ではないかという説もあり、正確な史料は見つかっていないので確定していません。

この『紫式部』という名前についても源氏物語のヒロインである「紫の上(むらさきのうえ)」になぞらえ周囲から呼ばれた通名であり、出仕の時の名前は「藤式部(ふじしきぶ)」だったというのが通説です。

また弟と娘がいたことも解っていますが、それだけしか解っていません。

そんな血統家柄がものを言う時代に素晴らしい血筋に生まれた「紫式部」ですが、残念ながら父「藤原為時」は優れた学者ではあったものの政治的な才能が無く曾祖父の代では名を馳せた名家は没落し、下級中級貴族が多い『受領階級』という地位まで下がってしまいます。

高貴な血を引きながらも貴族の中では地位が低いという現実は、高いプライドと劣等感を同時に「紫式部」が抱いていたであろうことは、彼女の残した『紫式部日記』からも伺えます。

またこういった自身の経験や考えが『源氏物語』の中で生かされ、ストーリーに深みを与えているのでしょうね。

別離と家族の死

別離と家族の死

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医療技術が進んだ現代とは違い平安時代の頃はちょっとした病気や怪我でも致命的になってしまう事があります。

特に宗教上の理由から動物性たんぱく質を摂取しない食事や生活習慣からくる慢性的な栄養失調、脚気に結核の他にも入浴の習慣がない事で起こる皮膚病などを患う人が多く、また乳幼児に至っては大変死亡率が高く生まれても大人になる前に死亡してしまう事もざらでした。

それによって平均寿命がより短くなったと考えられており現代と同じく40代50代、中には70代まで生きた人もいたのに、その平均寿命は30歳くらいと大変短命です。

そんな時代だったので「紫式部」の周囲にも『死』が溢れていました。

まずは幼い頃の母と死別(一説には別離)し、慕っていた姉も多感な思春期の頃に亡くしています。
また実の姉の様に慕った親友も九州へ家族と共に下りその地で亡くなったそうです。

さらに「清少納言(せいしょうなごん)」の『枕草子』にも名前がでる好色家の遊び人と言われた、親子ほど年齢に差がある夫「藤原宣孝(ふじわらののぶたか)」とも結婚後わずか3年で死別しています。

何かと女性関係の噂が絶えない「藤原宣孝」には前妻が何人かおりましたが、後妻として「紫式部」を迎え入れる際には「貴女とは深い縁で結ばれている。
100年添い遂げよう」と熱烈な求愛を行っており、また「紫式部」自身も厳格な父とは真逆で優しくユーモアがあり教養に溢れた彼を慕うようになりました。

そして後の「大弐三位(だいにのさんみ)」と呼ばれる「藤原賢子(ふじわらのけんし)」を産み幸せへの期待と幸福の矢先に起きた死別は、「紫式部」にとって深い悲しみとこの世の無常を痛感させるには十分すぎる出来事だったのです。

血筋が育んだ才能と「源氏物語」

後の述懐にあるように婚家での「紫式部」は当時多くの貴族女性に求められていたように、あまり自分の意見を言わず御簾の影で人前に姿を現さず夫や家族以外に顔を見せず、自宅の女房にも気を遣う生活を行っていました。

思うままに寛ぐ事もできずに息が詰まるような思いと、夫を亡くした寂しさと深い孤独を感じていた頃に友人たちからの勧めで物語を読むようになったそうです。

物語の世界に浸ることで孤独の隙間を満たし夢想することで少しずつ心の傷を癒し、それはやがて『源氏物語』を書き始める原動力となったのでしょう、執筆はこの頃から始まったとされています。

そもそも「紫式部」は父「藤原為時」に「お前が男だったらよかったのになあ」と言われるほど漢学や和歌に優れ、観察眼や聡明さも抜きんでていました。

本人はあえて習得した知識ではなく自然に身に付いたものだと主張し、その知識をひけらかす事は恥だとしていましたが、その才覚で身を立て歴史に名前を残すようになるのですから天賦の才としかいいようがありません。

そして『自然に学んだ』というのが彼女の育った環境にありました。

「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」は『古今和歌集』の選者「紀友則(きのとものり)」の経済的な後援者として彼をバックアップし自分自身も歌人として歌を残しており、また父方の祖父「藤原雅正(ふじわらのまさただ)」や叔父「藤原為頼(ふじわらのためより)」もまた歌人として名を馳せています。
父「藤原為時」や母方の曾祖父「藤原文範」も歌だけでなく漢学を修めており、高貴な血筋だけでなく文化人学問人としての血も受け継いでいるのが「紫式部」なのです。

それこそ弟の「藤原惟規(ふじわらののぶのり)」が平安貴族男性の教養であった漢学の勉強をしている声を聴くともなしに耳にした事で覚えたのだと「紫式部日記」にあり、彼女の育った環境が優秀な文化人としての素養を作ったと言えます。

余談ですが「紫式部」本人もその娘「藤原賢子」も女房三十六歌仙の一人であり、平安時代を代表する女流歌人として有名で、優れた才能が血筋の環境の影響によるのは疑いようもありませんね。

「源氏物語」から始まった宮仕えの道

「源氏物語」から始まった宮仕えの道

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傷ついた心を癒すために書き始めた「源氏物語」は最初は友人たちに見せるための物でしたが、その作品の素晴らしさが口コミで徐々に広まり、最後には「一条天皇(いちじょうてんのう)」の目に留まるほどの人気を得ます。

源氏物語は「源氏の君」を主人公として彼を取り巻く女性たちや権力争いなど華やかな宮廷文化と世情を写した平安文学の傑作。
その作中には単純な恋愛物語ではなく「紫式部」が培ってきた深い漢学や歴史への教養や知識が生かされて、知識人ほど称賛したそうです。

「紫式部」自身は自分が源氏物語の作者とは名乗ってはいませんでしたが、周知の事実であったのは言うまでもありません。

そんな彼女の評判を聞きまた階級こそ低くても自分と同じ藤原北家の血筋である「紫式部」を、時の左大臣である「藤原道長」が娘であり「一条天皇」に入内(嫁入り)して中宮となっていた「彰子(しょうし)」の女房として雇う事にしたのです。

当時の貴族の身の回りの世話をする女性使用人の事を『女房(にょうぼう)』と言い、「藤原道長」は優秀で国風文化に精通した女性たちを「彰子」の為に集めており、夫を亡くし幼い子供を抱え生活に不安を抱えていた才媛の「紫式部」をスカウトして雇い入れました。

彼女の優れた知識や教養についての逸話として「一条天皇」が源氏物語を女房に読ませ聞いた際にその才能と知識の深さに感銘を受け、当時廃れてしまった日本書紀の講義の講師にぴったりだと絶賛したそうです。
それを聞いた側付きの女官「左衛門の内侍(さえもんのないし)」が「日本紀(日本書紀)の御局(にほんきのおつぼね)」と呼んで嫌味を言っていたという話が残っています。

「紫式部」の初出勤からの引きこもりへ

「一条天皇」の時代は女流文化が花開いた時代の背景には、天皇自身の文化への造詣の深さや趣味が影響していたと考えられます。

その為この時代の上流階級の女性達は漢文を学び公卿たち殿上人と知的で上質な会話を楽しんだそうですが、元来女性は漢文を読むべきではないという考えが一般的で、新しい風潮を忌避する意見も多くありました。

その理由として当時の政治の中心にいるのは男性であり、政治文書はすべて漢文であり女性で漢文書を扱うのはは天皇に近い女官と呼ばれる一部の女性だけ。
女性は平仮名を使うものであり、漢文を扱うのは女性らしくないという考えがあったのです。

同時にこの時代では物語を読むのは現代でいう漫画やライトノベルを読むようなもので、上流階級に行くほどに偏見から眉を顰める人が多く、あまりいい顔をされない事が多くありました。

「紫式部」自身も自分の知識をひけらかす事や源氏物語の作者という事を公言することも品性が無くはしたない事だと感じており、紫式部日記の中で何度もその事についての考えを記しています。

しかし「紫式部」が源氏物語の作者であった事は有名で、「彰子」にも周辺の先輩女房達も当初「紫式部」の事を「気位が高く恐ろしく性格のきつい女性」というイメージを抱き敬遠されてしまいました。
「紫式部」本人は実家の女房の前でも小さく気を遣っていたというのに、周囲からはそう判断されていたのです。

それを知らなかった「紫式部」は初出仕(初出勤)の時に誰にも声をかけてもらえず、また「仲良くして下さい」という歌を送っても返歌は曖昧で相手にしてもらえず、なんて酷い人達だろうと嘆いてしまい大変なショックを受けます。

元々は多くの貴族女性がそうであるように、屋敷の奥で人前に出ずに過ごしてきた「紫式部」にとって女房という人前に出て顔を晒す仕事は、価値観を根底からひっくり返すような出来事。
精一杯の勇気を出して出仕したのにこの扱いはとても辛く、彼女はそれから約半年ほど実家に引きこもってしまいます。

しかし働かなくては生活できない状況から再び出仕しますがなかなか周囲に馴染めず、主人である「彰子」にも避けられていました。

また嫌味な先輩に目を付けられて嫌がらせをされることもあり、恐ろしくどうにかしたいと悩んだ挙句にとった作戦が『天然ボケを演じる』です。

仕事はしますが「知りません、存じません、解りません」と心の中で過激な事を思っていても口に出さず、知っていても解らないふりをして事なかれ主義で過ごしていた結果、周囲の人々から「思ってた人と違っておっとりとして穏やかな人」という評価を受け徐々に信頼される存在へとなっていきました。

その事を後年に知った「紫式部」は、自分が勝手に先入観から苦手意識を持ち壁を作っていただけで、それが『高慢』な態度に映っていたということ、勝手に虐められていると思い込んで逃げた事を知り、そんな当時の自分が恥ずかしいと感じ反省しています。

現代社会でも鳴り物入りの新入社員が初出勤翌日から勝手に引きこもったらいい顔はできませんし、心を閉ざして開こうとしない人と親密になれというのも難しいものですよね。

ただ出勤初日の翌日から何か月も引きこもっても復職できる環境というのは、現代では考えられない当時のおおらかさを感じませんか。

貴族の奥様からプロの女房へ

貴族の奥様からプロの女房へ

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「紫式部」は元々は受領階級の妻として屋敷の奥で使用人に囲まれて暮らしていましたが夫との死別によってシングルマザーとなり、一人で子供を育てなくてはいけない状況になります。

この頃「紫式部」の年齢は30代半頃と思われ、今まで見知らぬ人に顔を晒す事も自ら直接声をかける事もない生活から、主人に代わって男女貴賤問わず顔を晒し声を直接届け、自ら主人の為に動くという事はそれまでの生活を根底からひっくり返すような出来事でした。
しかし受領階級の貧しい家で子育てはおろか家そのものを維持する事もできません。

女房としての仕事は本人の意思とは無関係に、致し方が無くどうしようもない状況で嫌々始めた事だったのです。

紫式部日記での述懐によれば、初出仕からすぐに引きこもり半年ほどしてから働き出しても奥様気分が抜けず、主人の「彰子」が長男を出産しその祝いに「一条天皇」が来るとなっても親友の「小少将の君(こしょうしょうのきみ)」とどうせ午前中に来る予定と言っても午後になるのが当たり前だと、ぐずぐずと支度をしていました。

しかし予定通りの時間に天皇の来訪を告げる鼓の音に驚いて、慌てて主人の元に駆けつけて恥ずかしい思いをしたり、祝いの宴の席で公卿に絡まれたり用事を言いつけられないように衝立の裏に隠れてやり過ごそうとしたりと、会社で言えば受付嬢やホテルのコンシェルジュのような役割を持つ女房という仕事を真面目に行っていませんでした。

「紫式部」の役職だった『上臈女房(じょうろうにょうぼう)』という仕事は、内裏や後宮で働くいわゆる華やかな高給取りで、男性に交じって働くいわゆるキャリアウーマンであり彼女達がいなければ仕事が回らない事も多いほど重要なポジションです。

しかし当時の貴族社会において女性の美徳とは御簾に隠れて慎ましく夫や家族以外の男性と直接に話さない事でしたので、女房という仕事は恥じらいに欠け世間擦れした軽薄な女性と見られる事が多く、世間の認識と実情が剥離している職業でした。

「紫式部」自身も女房稼業をそう思っていましたし、好き好んで働き始めたわけではないので心構えもやる気も根気もなく、周囲に流されるように働いていました。

しかし1008年に「彰子」の出産を記録する係りになってから意識が変わっていきます。

最初は貴族の奥様としての自分を変えられず、それでも職場での居場所を作ろうと同僚の行っていたいじめに参加したり男性と臆面もなく話す同僚をはしたないと眉を顰めたりとしていましたが、主家の運命を左右する中宮「彰子」の男子出産から変化していく環境を「紫式部」らしい冷静な観察眼で見つめていった結果、「彰子」が第2子となる男子を生む1010年の頃には「彰子」や「藤原道長」からの信頼の厚いプロの女房へと成長し、時には同僚や「彰子」自身にも諫める言葉を言えるほどになりました。

「彰子」に仕えた「紫式部」のその後

「紫式部」についての最後の記述は、1019年の「藤原実資(ふじわらのさねすけ)」の『小右記』とされており、ここで「彰子」への取次の女房として記されています。

「藤原道長」が孫である『後一条天皇(ごいちじょうてんのう)』の摂政となり栄華を極めていた頃まで「彰子」の元で働いていたと考えられますが、実際にいつまで何歳まで勤めていてその後どうなったかは記録がありません。

彼女が何年に何歳で亡くなったのかは不明ですが、「紫式部」のものとされるお墓が京都市北区御所田町にある堀川北大路停留所バス停から徒歩数分の場所にあり、訪れた旅行者が足跡を残せるノートもあって京都観光の人気スポットとなっています。

この場所は「紫式部」が晩年暮らしたと言われている臨済宗大徳寺派大本山である大徳寺の別坊のあった場所に近く、古くから『蓮台野(れんだいの)』と呼ばれる墓地だったそうです。

この「紫式部」のお墓とされる墓石の東側には平安前期の公卿であり、優れた文化人で夜ごと井戸を通って地獄の「閻魔大王(えんまだいおう)」の元で働いていたという伝説を持つ「小野篁(おののたかむら)」のお墓が並んでいるのもポイント。

実は「紫式部」のお墓にまつわる伝説として『安居院』という延暦寺の外坊だったお寺の「聖覚法院(しょうかくほういん)」というお坊さんが石山詣でに出かけた途中で「紫式部」の亡霊に出会い、「自分と源氏物語を供養してほしいと言われた」というのです。
これに従い元々のお経に源氏物語の巻名を加えた「源氏供養表白」を作り、これを読経して供養したという話が伝わっています。

これは当時「物語を読む者や書く者は地獄へ落ちる」という平安期の末法思想によるもので、「紫式部」のお墓が「小野篁」の隣に建立されたのは、冥府の官僚となった「小野篁」の隣に埋葬することで地獄から救われるようにとの願いが込められたからだとか。

このエピソードは能や浄瑠璃などで「源氏供養」という演目になり、広く知られるようになり現在も鑑賞することができますよ。

中宮「藤原彰子」を取り巻く環境

中宮「藤原彰子」を取り巻く環境

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「紫式部」を知るうえでキーパーソンとなる人物の中でも最も需要と言えるのが、主人である「藤原彰子」ではないでしょうか。

「藤原道長」の長女であり彼の天下への布石となる子供を産み、後世へ多大な影響を与えた「紫式部」の主人である「彰子」を取り巻く人々と環境について掘り下げてご紹介いたします。

中宮「定子」と「一条天皇」

「彰子」と「紫式部」を掘り下げるにあたって押さえておきたいのが、前の中宮であった「藤原定子(ふじわらのていし)」と夫「一条天皇」の二人。

「一条天皇」は第66代天皇であり平安中期に大きく発展した女流作家文学を始めとした国風文化の発展に貢献した人物でもあり、彼自身が文芸への造詣が深く優れた文化人であった事もありますが、彼が寵愛し中宮として側に置いた「定子」の存在も大きくかかわっています。

『枕草子(まくらのそうし)』で知られる「清少納言(せいしょうなごん)」を女房として抱えた「定子」は母が女官であり、「藤原道長」の兄である「藤原道隆(ふじわらのみちたか)」を父として持ち、その他の親しい親族の多くが和漢文学に明るい文系一族の出身でした。
その影響で「定子」も漢文を得意として、その才能は後に編纂された『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』や『百人秀歌(ひゃくにんしゅうか)』にも残されるほど。

それらの才能と彼女自身の明朗快活で心地の良い人柄は「一条天皇」に深く愛されるほどで、彼女達によって『一条天皇朝』の文化は美しく風雅に花開いたのです。

しかし「藤原道隆」を始めとした有力な公卿が相次いで病死し注目されていなかった五男(一説では四男)の「藤原道長」の台頭によって、「定子」は有力な後ろ盾を失い立場は不安定になり、更に兄弟達が起こした『長徳の変(ちょうとくのへん)』と呼ばれる政変によって左遷される騒ぎや屋敷の火事といった悲運の中、長女を妊娠中であるにも関わらず自ら髪を切り出家してしまいました。

2年後の997年(長徳3年)に兄弟の罪が許され釈放されると、「定子」も「一条天皇」の強い希望があり再入内し還俗し、999年に「一条天皇」の初めての男の子供である「敦康親王(あつやすしんのう)」を出産しましたが彼女にも息子「敦康親王」のも有力な後ろ盾がおらず、すでに左大臣まで出世し権力の中心にいる「藤原道長」の長女「彰子」が入内していた事もあって、いくら天皇の寵愛を一身に受けていてもその立場は相変わらず不安定なまま。

三子となる姫君を出産した翌年1001年に産後の肥立ちも悪くわずか24歳の若さで崩御し、そのお墓は遺言に従い京都市東山区今熊野泉山町に建立され『鳥辺野陵(とりのべのみささぎ)』として今も参拝することができます。
緑の多いこの場所は京都の街並みを見下ろせるちょっとした絶景と、新緑や紅葉が楽しめる隠れたスポットとしておすすめですよ。

ちなみに「清少納言」は「定子」が崩御するまで女房として仕え、その後出家したと言われていますが詳細は不明なままです。

華やかな「定子」の宮中を描いた『枕草子』は、この後に「彰子」の元で働きだした「紫式部」にとって心中穏やかでいられないほどの影響を後々の宮廷にもたらし、辛辣な批評へと繋がりました。

「藤原彰子」と「一条天皇」

「藤原彰子」と「一条天皇」

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「彰子」と「紫式部」を掘り下げるにあたって押さえておきたいのが、前の中宮であった「藤原定子(ふじわらのていし)」と夫「一条天皇」の二人。

「一条天皇」は第66代天皇であり平安中期に大きく発展した女流作家文学を始めとした国風文化の発展に貢献した人物です。
彼自身が文芸への造詣が深く優れた文化人であった事もありますが、彼が寵愛し中宮として側に置いた「定子」の存在も大きくかかわっています。

『枕草子(まくらのそうし)』で知られる「清少納言(せいしょうなごん)」を女房として抱えた「定子」は、母が天皇の秘書的な役割を持つ女官であり、「藤原道長」の兄である「藤原道隆(ふじわらのみちたか)」を父として持ち、その他の親しい親族の多くが和漢文学に明るい文系一族の出身でした。

その影響で「定子」も漢文を得意として、その才能は後に編纂された『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』や『百人秀歌(ひゃくにんしゅうか)』にも残されるほど。

それらの才能と彼女自身の明朗快活で心地の良い人柄は「一条天皇」に深く愛されるだけでなく多くの人々から敬愛され、その影響もあって『一条天皇朝』の文化は美しく風雅に花開いたのです。

しかし「藤原道隆」を始めとした有力な公卿が相次いで病死し、全く注目されていなかった五男(一説では四男)の「藤原道長」の台頭によって「定子」は有力な後ろ盾を失い立場は不安定に。
更に兄弟達が起こした『長徳の変(ちょうとくのへん)』と呼ばれる政変によって左遷される騒ぎや屋敷の火事といった悲運の中、長女を妊娠中であるにも関わらず自ら髪を切り出家してしまいました。

この当時の美しい女性の必須条件でありまさに「髪は女の命」と言われ、貴族女性はみんなどれだけ美しく髪を保つのかに注力を注いでいたほど。

そんな髪を切り落とすという事は命を絶つも同然で、「定子」の悲愴な決意が垣間見えます。

2年後の997年(長徳3年)に兄弟の罪が許され釈放されると、出家していた「定子」も「一条天皇」の強い希望があり、周囲の反対を押し切って還俗し再入内し、999年に「一条天皇」の初めての男の子供である「敦康親王(あつやすしんのう)」を出産しました。

しかし彼女にも息子「敦康親王」にも権力争いから守ってくれる有力な後ろ盾がおらず、すでに左大臣まで出世し権力の中心にいる「藤原道長」の長女「彰子」が入内していた事もあって、いくら天皇の寵愛を一身に受けていてもその立場は相変わらず不安定なまま。

三子となる姫君を出産した翌年の1001年に産後の肥立ちも悪く、わずか24歳の若さで崩御してしまいました。

そのお墓は遺言に従い京都市東山区今熊野泉山町に建立され『鳥辺野陵(とりのべのみささぎ)』として今も参拝することができます。
緑の多いこの場所は京都の街並みを見下ろせるちょっとした絶景と、新緑や紅葉が楽しめる隠れたスポットとしておすすめですよ。

ちなみに「清少納言」は「定子」が崩御するまで女房として仕え、その後出家したと言われていますが詳細は不明なままです。

華やかな「定子」の宮中を描いた『枕草子』は、この後に「彰子」の元で働きだした「紫式部」にとって心中穏やかでいられないほどの影響を後々の宮廷にもたらし、辛辣な批評へと繋がりました。

一方的にライバル視?「清少納言」と枕草子

一方的にライバル視?「清少納言」と枕草子

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「紫式部」は著書である「紫式部日記」にて、同僚だった女流歌人「和泉式部(いずみのしきぶ)」と「清少納言」についての記述を残しています。

「和泉式部」については夫を持つ身でありながら多くの男性と浮名を流した事に苦言を呈しながらもその才能については皮肉交じりに認めていますが、「清少納言」に対しては驚くほど辛辣な言葉を多く残しています。

この背景には源氏物語よりも前に宮中で人気を博していた枕草子への嫉妬心とも言われていますが、実際にはそれだけでなく「清少納言」本人への悪感情というよりも、彼女が仕えた「定子」および『定子の後宮』の評判の良さと、自分が所属する『彰子の後宮』との落差に苛立ちと一方的な敵愾心を抱いていたようです。

「紫式部」と「清少納言」は出仕していた期間が被っていない事から面識はなかったようですが、噂や彼女の残した作品はよく知っており「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人(中略)良く見ればまだいと足らぬこと多かり」と「利口ぶって漢文を書き散らしてるけど、学識の程度はまだまだ全然足らない人」と酷評し「上っ面だけでその中身は無いと思う」と残しています。

風雅の機微を丁寧に書き連ねた枕草子は『一条天皇朝』ではベストセラーとなりたいへんな評判とましたが、枕草子の後半にあたる「定子」を取り巻く厳しい環境については触れていません。
ただひたすら雅やかな世界だけを描いた随筆である事を含んでいるようで、それを揶揄したようです。

また「清少納言」の「定子」への深い敬愛が描かれており、すでに故人であるがゆえに美化され理想のように周囲に語られる事も、「彰子」を我が子のように愛し敬っていた「紫式部」は気にくわなかったのかもしれませんね。

前述のように「彰子」の周囲は彼女の内気な性格を表すような女房が多く、プロという気概を持って仕事をするよりも貴族のお嬢様気分が抜けきらない保守的な女性が多くて、男性の前に出てももじもじと恥ずかしがって女房としての仕事もまともにこなせない事が多かったのですが、「定子」の女房は彼女の気質に近い社交的で仕事ができる華やかな女性が揃っていており内裏で働く男性達からの評判がよく、事あるごとに『定子の後宮』を懐かしむ公卿が多かったのです。

正反対の性格と女房を抱える二人の中宮を比べてしまうのは仕方がないかもしれませんが、当事者としては良い気分はしませんよね。

実際に「紫式部」は紫式部日記に「女房のみなさん、いつまでもお嬢様気分でいないで、もっとしっかり仕事をして下さい!」と怒っています。

「紫式部」と「藤原彰子」の成長

それでは「紫式部」と「藤原彰子」はどのような関係だったのでしょうか。

「紫式部」については詳細な情報がほとんどありませんが、「紫式部」自身が記した史料である『紫式部日記』には、彼女の心情や当時の政治的な世情やそれにまつわる人々の姿、後宮の裏側などが丁寧に記されています。

1010年に書かれた日記の始まりは、1008年に「彰子」が「敦成親王」を土御門の屋敷で出産するシーンから。
ここでは安産を願う加持祈祷の不断の読経や僧都たちが廊下を歩く振動、張り詰めた空気といった緊張感が詳細に描かれ、読み手にその場にいるかのような臨場感を感じさせてくれます。

これは「紫式部」が一連の慶事の記録係をしていたとされ、個人的な随筆(エッセイ)というより他人に見せる記録という側面が強く、過去のことは記録的に後半に当たる1010年の事は手紙風に記されているのも特徴的。

二年も前の出来事をまるでリアルタイムで記しているかのように表現できるのは、彼女の鋭い観察眼と豊かな感性を見込まれて、詳細にメモを残していたのではと考えられます。

そんな「紫式部」の目を通してわかる「彰子」の姿と「紫式部」の心情、そして二人の成長は、歴史上の遠い人物というより現実を生きた生身の人間なんだと私たちに訴えかけるものです。

「彰子」の変化

「彰子」の変化

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紫式部日記には「彰子」の出産からそれにまつわるお祝い行事に「一条天皇」の行幸の様子やその裏側の女房や公卿たちの様子に、出産後の疲労に包まれても誇らしげな「彰子」や可愛い初めての外孫であると同時に自身の家の栄華へと繋がる男子の誕生に喜び浮かれる「藤原道長」の姿も描かれ、同時に自分自身の心情についても記しています。

またこの頃の「紫式部」は、貴族の妻として奥向きで暮らし後宮の女房達は軽薄で恥じらいのない存在と思っていたのに、わずか2、3年で自分自身がかつて軽蔑していた後宮の女房の生活や考え方に染まった事に対する戸惑いやジレンマが垣間見れ、現実と過去との剥離に困惑しているのが伺えます。

そんな「紫式部」が変わったきっかけが、主人である「彰子」の変化と成長でしょう。

前述のように「彰子」はずっと消極的で自己主張も意見も言えない、自分を強く出せない女性でした。

しかし天皇の子供、それも男子を産んだことで自信がついたのか徐々に変化していきます。

その一つに出産の為に里帰りしていた「彰子」が内裏に戻る際に「一条天皇」へのお土産にするために、『源氏物語の豪華な本』を自分の手で一生懸命に作りました。

これはかつて源氏物語を褒めていた夫へのプレゼントにしたか、もしくは手元に置いて「こんな本がありますから一緒に読みませんか?」という誘い文句にしたというのです。

内向的な「彰子」が自分から張り切って行動するという変化は「紫式部」にとって微笑ましく、同時に男子を生んだ自信と希望に輝いて見えたのではないでしょうか。
自室にしまってあった源氏物語の草稿を持ち出された事については苦い気持ちを味わいつつも、張り切って本を作る「彰子」の姿とそれを茶化しながらも応援する「藤原道長」の様子が楽しげに記されています。

また「彰子」に頼まれて「紫式部」は内緒で漢文を教えていたという事が紫式部日記の後半にひっそりと書かれており、その事に「彰子」の変化が垣間見れ、「紫式部」も感銘を受けていたようです。

これも一重に夫との距離を縮めたいという女性らしい気持ちの現れであり、娘「賢子」と年齢の変わらない「彰子」を娘の様にも感じていた「紫式部」だからこそ記せた、温かい目線なのではないでしょうか。

そしてこの「彰子」の変化こそ、後々の時代二人の天皇の母として国政を支える基盤となった事は言うまでもありません。

「紫式部」が目指した教養

「彰子」が勉強した漢文は唐の詩人で文学者の「白居易(はくきょい)」の書いた『白氏文集(はくしもんじゅう)』という詩文集の中の一つである『新楽府(しんがくふ)』という物で、当時の社会や政治、民衆の声を遠回しに比喩した内容でした。

漢学がトレンドだった当時の女性たちの多くはロマンティックな恋愛の詩や娯楽に関する詩で学んだのと違い、「彰子」は「一条天皇」と同じ目線で同じ事を感じ、その心を慮れるようにと男性が学ぶような漢詩を習っていたのです。

消極的で自分に自信のなかった「彰子」が自らの意思で進んで変化していく様子は、「紫式部」にとっても自分を見つめなおし変えていくきっかけとなった事でしょう。

最初は幼い頃から一緒の女房ですら信用できなかった「彰子」は後に「紫式部」を最も信頼できる女房として語っており、「紫式部」も「彰子」を慈しみその健気さを愛でたのは言うまでもありません。

そして目立たず密かに修学し、慎ましくも「一条天皇」を支えようとする姿は「紫式部」が目指す淑女の教養そのものだったと言えます。

「紫式部」の考える教養とは『その知識をひけらかす』物ではなく『密かに滲み出る』ものであって、人前で堂々と披露する物ではないというもの。

彼女はとても優れた漢学や文学の才能を持っていましたが、曰く一度もそれを自慢した事はなく逆に自分は漢字の『一』も書けませんという振りをしていたほどです。

実際は彼女が源氏物語の作者であるという公然の秘密も含めて、気の利いた返歌や素晴らしい和歌を残している事からその教養の深さは疑うべきもありませんが、それを堂々と自慢することははしたなく、女性として品性の欠ける行動と感じていました。

「彰子」が漢文を学んでいる事は「藤原道長」やその周りにもバレていましたが、「道長」本人も「紫式部」もそれを吹聴することはせず、さりげなく応援していたのです。

そんな「彰子」はの姿は『理想の高貴な女性のあるべき姿』と「紫式部」は捉えたのではないでしょうか。

源氏物語が「彰子」の元へ出仕する前から書かれて、いつ頃完結したのかはわかっていません。

平安時代の理想の女性とされた源氏物語のヒロイン「紫の上」は夫である「源氏の君(げんじのきみ)」が起こす数多くの女性トラブルに対しても耐え、夫の栄華を支え続けたいじらしい女性です。
そんな姿はどこか「彰子」の健気さに通じるものがあり、もしかしたら「彰子」をモデルとして書いたのかもしれませんね。

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