日本史最初の女王「卑弥呼」とは何者なのか?

数ある日本史の謎の中でも日夜様々な論争が繰り広げられている『邪馬台国の女王卑弥呼』とは、どのような人物だったのでしょうか?
歴史的資料がほとんどなく常に新しい発見と見解が現れる「卑弥呼」と「邪馬台国」についてご紹介します。
学校の授業ではあまり教えてくれない古代のロマンをぜひ感じてみてください。

「卑弥呼」の生きた「弥生時代」とはどんな時代?

「卑弥呼」の生きた「弥生時代」とはどんな時代?

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「卑弥呼」が生きた時代といえば『弥生時代(やよいじだい)』ですが、それはいったいどんな時代だったかご存知ですか。

通説では紀元前3世紀から3世紀までの約600年間が弥生時代と言われていますが、遺跡から発掘された土器や金属が作られた時代や住居に使われた木材を放射性炭素年代測定法という検査で弥生時代は約500年ほど遡る可能性が出てきており、文献によっては紀元前10年からという記述もあります。

「卑弥呼」が史料として記載されている『魏志倭人伝』はこの弥生時代後期にあたるころに、当時の中国大陸で王朝を築いていた『魏』国の歴史書に『倭国の複数ある国を統べる女王』として「卑弥呼」の記述があり、これが現在では唯一の「卑弥呼」の存在を明確に示す史料となっています。

では、原始的な時代を生きていた当時の人々が『三国志』の時代真っ只中の大陸とどのように交易を持つまでに発展したのかをご紹介します。

1万年続いた縄文時代を変えた「水田稲作」の文化

現在わかっている日本最古の時代は縄模様の土器で知られる『縄文時代』です。
この時代でわかっていることは、集団での生活を行っていましたが狩猟、採集、漁労を中心とした『食料採集経済』で、状況に応じて移動を行っていた時代。

長らく続いた縄文時代の終わりは紀元前3世紀ごろに大陸から伝わってきたお米や野菜を定住して育てる『水田稲作』の技術でした。

農耕を行う事によって一か所に定住し、住居群の周りに堀を作って水を引く『環濠集落(かんごう)』を作るように。
この堀は集落とそれ以外の場所との境界を示すものとして、土塁と二重の柵と共に防衛の役割を担っていたのです。

また環濠は水を堀の中に引いたもので低地に多く、『環壕(かんごう)』はV字に掘られた水の無い堀で囲った集落で台地や高地に多く作られていました。

こういった居住区とそれ以外と境界を作ることで安定した生活を送れる環境を形成していったのです。

この縄文時代から弥生時代初期の住居跡として宮城県栗原市一迫真坂で発見された『山王囲遺跡(さんのうがこいいせき)』は、東北有数の大集落遺跡と考えられ、弥生時代初期の竪穴式住居跡や溝跡などが発見されており、また横浜市都筑区大棚西にある『大塚・歳勝土遺跡(おおおつかさいかちどいせき)』は弥生時代の大規模集落後と古墳と共に、外敵からの攻撃を防ぐための濠が掘られており、当時の人々の環境を知る手がかりとなります。

福岡県福岡市博多区板付には住居跡と共に日本最古の水田跡がある『板付遺跡(いたづけいせき)』があり、最初期の水田稲作方法の貴重な史跡です。

安定した食料生産経済による人口増加と「国」の形成

安定した食料生産経済による人口増加と「国」の形成

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このように自給自足を行う『食料生産経済』は食料難を減らし人々が協力しあうことで生活そのものが安定していきます。
また時代が進んだ1世紀から3世頃に大陸から伝わり伝播した鉄製農具によって、それまで木製だった農具に金属が使われるようになることで生産率が格段と上がり、それによって人口が増えるきっかけに。
人が増えたことでより豊かな土地を求めて争いが始まります。
それに対抗するように複数の集落が協力しあう『連合』が作られ、それが『国』の原型となっていったのです。

国が出来上がることで様々な発展がなされます。
その一つに国と国の交易。
複数に集落が集まったことで出来上がった国はそれぞれの集落が元々持っていた知恵や技術などがあります。
それを交易として別の国と交換することで、より暮らしを豊かにし経済的な発達をしていきますが同時に国同士の争いの激化や国内部の変化を促していきました。

原始的な集団では戦上手な人が酋長として人々を率いていきますが、複数の集落が集まった国では戦上手だけではなく国の中で暮らす人々の心を一つにまとめる『王』を戴く縦社会が形成され、同時に多くの思想をまとめるために先祖や自然を祭る『祖霊信仰』が生まれました。
この祖霊信仰は現在まで続く『神道』の原点ともいうべきもので、現在のような宗教的な思想というよりは自然信仰に近いものと考えられています。

「国」の成立と「製鉄」技術の発展

日本に製鉄の技術が持ち込まれたのは6世紀頃で、それまでは大陸からの輸入に頼っていたためこの鉄や青銅などを多く持つ国ほど豊かで強い力を持っていたというのが通説でしたが、近年の研究ではすでに1世紀の頃には日本で製鉄が行われていたことが解ってきました。

そもそも6世紀とされていた理由として製鉄を行っていたとされる遺跡の中で6世紀以前の物が見つかっていない事が大きな理由でしたが、複数発見された全国の弥生時代後期の遺跡から数多くの鉄や青銅の道具が発掘されており、輸入だけで普及したとは考えにくいという事と弥生時代にはすでいガラスを加工する技術があったため、製鉄に必要な1400度から1500度の高温を作り出すことができたこと、青銅そのものが紀元前3世紀には大陸より伝来しており紀元前2世紀から2世紀ごろと推定される遺跡から東アジアの中でも優れた治金技術によって作られた12cmから1mmほどの様々ななサイズの青銅製の銅鐸(どうたく)が出土していることも、早い段階で日本に鋳造が行われていたという説を裏付ける証拠となっています。

そして輸入だけではなく自分の土地で鋳造を行えるほどの資材と技術力を持つ国ほど人々が多く集まる「大国」であったと推察されるのです。

鉄を加工し道具とする技術を持つことは文化的にも大きな発展へと繋がるきっかけともなります。

製鉄鋳造の技術が九州北部から山陰地方や近畿地方へと製鉄技術が広まる頃には、鉄は農具や日用品に加工され、青銅は祭祀用の鏡や剣として利用され人々の生活へと根付いていきました。

こうして文化的にも技術的にも文明として発展した時代こそ「卑弥呼」が生きた弥生時代後期なのです。

中国の史料にしか残っていない「邪馬台国」とは

中国の史料にしか残っていない「邪馬台国」とは

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「卑弥呼」が治めていたとされる「邪馬台国」は3世紀ごろに中国大陸で大きな勢力を誇った『魏』国の歴史書の日本こと『倭国』のことについて記述した『魏志倭人伝』と、中国の『後漢末期』から様々な国が乱立した『三国時代』の興亡を記した複数の『三国志』『後漢書』『晋書』に記載があるのみで、日本には「卑弥呼」や「邪馬台国」についての史料は見つかってはいません。

しかし複数の中国の正史とされる歴史書にその名前があることからその存在はあったと認識されてはいますが、『邪馬台国』ついては考古学的な成果によって場所の候補があるのみで明確な史料や文献では不明であり、研究者によって様々な意見に分かれ論争が繰り広げられています。

「邪馬台国」は国同士の連合によって生まれた?

『邪馬台国』とはどんな国だったのでしょうか。

邪馬台国について多くの記述を残している『魏志倭人伝』には「そもそも男子を王としていた国だが7、80年争いが続き、倭国そのものが乱れお互いを攻撃するようになった。
そこで諸国が共同して鬼道を操る卑弥呼という女性を王に立てて倭国を治めた」という記述があり、これが「卑弥呼」という存在に触れる最初の記述です。

ここで注目すべきなのは「共同して女王を立てた」という部分で、前述のように弥生時代後期は複数あった集落が一つの国として成立し、そこから連合を組んで勢力を拡大していた時代。
そんな時代に政権争いがあったとして、正当な男の継承者もしくはそれに相応しい人物がおらず、連合国内で争いを鎮めるために「卑弥呼」という女性を王に据えることで、人々を纏めたのではないか考えられています。
そしてその連合国こそが『邪馬台国』であるというのです。
現代で言うところの大統領や首相といった立場の人に近いのかもしれませんね。

「邪馬台国」の場所について。「九州説」と「近畿説」

「邪馬台国」の場所について。「九州説」と「近畿説」

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弥生時代後期の倭国について記述があるのは『魏志倭人伝』とそれに寄って編纂された『後漢倭伝』などのわずかな史書に『邪馬台国』についての記述があるのみで、その詳細についてはほぼ解ってはいません。

その中で有力な候補地として福岡県糸島市中心とした地域、と福岡県の太宰府や大分県の宇佐、宮崎県の西都市付近をまとめた広域の『九州王朝』のあたりに邪馬台国があったとする『九州説』は、その根拠として魏からの使者また倭国から送られた使者の記述にある距離は、地図上の直線距離ではなく実際に歩いた距離が2,000里、使った時間が2か月ほどだとすると北部九州から外には出ていないとされ、また魏志倭人伝の中に記述のある邪馬台国の埋葬方法と同じ『甕棺(かめかん)』のお墓の遺跡が多数出土しているといった事が根拠とされています。

しかし現在では九州を『邪馬台国』とするには論拠が乏しいということで、この九州説は下火になりました。

変わって現在最有力なのが『畿内説』です。

その根拠としては『三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)』をはじめとした卑弥呼が魏国へ遣使を行った証となる数多くの銅鏡が弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から出土していること、また当時大きな力を持っていた九州勢力と畿内勢力と連合を組んだ瀬戸内勢力との間で鉄等の物流についての争いがあり、それに勝利したのが畿内瀬戸内連合で、これが魏志倭人伝に記述のある『倭国の乱』つまり「卑弥呼」が王として立つ前の80年に渡る争いだったのではないか、倭国の乱で勝利した国がつまり「卑弥呼」を女王とした『邪馬台国』なのではと考えられています。

しかし九州北部から数多く出土している倭国から隋への朝貢や貿易として数多く輸出していた鉄や絹が畿内ではあまり発見されていない事や魏志倭人伝では九州については詳しく記述があるのにも関わらず、出雲以降畿内方面への記述がない事が畿内説を否定する論拠の一つに。
また近年では四国説や国外説など様々な新説が提唱されており、まだまだ邪馬台国の所在地論争の決着に終わりは見えません。

2つに分かれた「邪馬台国」説

近年の主流は「邪馬台国=畿内説」ですが、実は九州に2つ目の邪馬台国があったのではないかという説も出ています。

この理由として三国時代に入る前の後漢時代に漢の王族のみに伝わる『後漢鏡』が大分県日田市で出土した事に始まります。

この出土した鏡は『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』と呼ばれる銅鏡で、これが「卑弥呼」の宗女「台与」の鏡だと言われているのです。

そもそも大分県日田市の辺りは古くは『豊前(ぶぜん)』『豊後(ぶんご)』と呼ばれる地域で、この一帯を『豊国(とよのくに)』と呼んでいました。
この『豊国』=『台与(とよ)の国』を示すのではないかと考えられ、また「卑弥呼」のお墓の候補の一つである『会所山遺跡(よそやまいせき)』のある地域が、魏と近畿の『邪馬台国』本国とを結ぶ商業文化圏であり、「卑弥呼」とは違う邪馬台国を「台与」が作り上げたのではないかという説があるのです。

もしもこの説が正しければ江戸時代から続く邪馬台国の場所についての論争に決着がつくのかもしれませんね。

「卑弥呼」とはどんな存在だったのか

「卑弥呼」とはどんな存在だったのか

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その実態はともかく、邪馬台国という大国を統べた「卑弥呼」とはどのような存在だったのでしょうか。

魏志倭人伝を元に現在までの研究で分かっている女王「卑弥呼」という存在ついてご紹介します。

古代の政治観や思想が垣間見れる「卑弥呼」の時代は、現代にも通じるものを感じますよ。

「卑弥呼」の鬼道と政治

魏志倭人伝の中に「卑弥呼」は『鬼道を使えて衆人を惑わす』という記述があり、「卑弥呼」は『鬼道』と呼ばれる方法を用いて人々を導いたというのです。

この『鬼道』とは本来の意味では2世紀後半に中国で大流行した『道教』の宗派の一つという説と祖霊信仰を元にしたシャーマニズムではないかという説の2つが有力。

前者の『道教』は1980年代に日本で大流行したキョンシー映画でのイメージがあるが、本来の意味は大まかに言えば『先人(聖人)の教えを請い道に従う』という思想で「卑弥呼」の時代では『鏡の呪力で悪鬼(悪霊)を撃退し鬼人(霊)と交渉して吉凶を占い使役する』というもので、『魏志』の中にある『張魯伝』で、「卑弥呼」の扱う鬼道はこの道教と関係がありその思想が繁栄されているとされています。

その根拠として「卑弥呼」が居住していた城郭の形状やその四方に守護をする軍将を据えるなどの古代道教の思想との類似性が挙げられていますが、この説は中国から伝来したとして80年近く乱れた国内を平定しまとめあげるだけの求心力が得られるほど一般の人々にまで浸透し諸国の王への影響力をもたらしたとは考えにくいとして否定的な意見が多く、近年では下火となっている説です。

そのため現在は『鬼道=古代のシャーマニズム』であったという説が有力視され、研究が進められています。

この場合には使者の魂は『魂魄(こんぱく)』に分かれ『魂=神』『魄=鬼』となり合わせて『鬼神』となり、その鬼神と交流しその遺志を現世へ伝える為の技術(占術や呪術)も持った巫女だったというのです。

前述のように弥生時代後期には人々をまとめる為に先祖の霊を祭る祖霊信仰を行っていました。
その流れから鬼道を使う「卑弥呼」は鬼神となった祖霊と交信し政局を占うだけでなく、死者の埋葬や慰霊などの死者儀礼の最高統括者であり宗教的な職能者として人々をまとめたと考えられ、この事から「卑弥呼」は九州の巫女王を指すのではないかという説も出ています。







「卑弥呼」の行った外交

「卑弥呼」の行った外交

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弥生時代後期の日本には邪馬台国以外にも大小さまざま国があった事が解っています。

その中で『魏』国と交易を行い数少ない『親魏』を冠する『親魏倭王』として倭国の王と認める称号を与えており、所在不明の『親魏倭王の金印』を授けられているのです。

邪馬台国と同様に『親魏』の金印を授与されているのは、東アジアと中央アジアにかけて王朝を築いた『大月氏国(クシャーナ朝)』の「ヴァースデーヴァ1世」で、『親魏大月氏王』と刻印され交易があった事が確認されています。

三国時代の魏にとって倭国も大月氏国も地理的に遠く離れた異国であり、本来であれば金印を授けるほど重要な国にならないはずですが、当時の魏国は濁国、晋国と大陸の覇権を争う戦国の時代です。
その中で遠い倭の邪馬台国や中央アジアお大月氏国と交易を持つことは、それだけ大きな勢力を持っていると周辺諸国へ誇示する意味合いもあり、長い中国大陸史の中で倭国が重要視された稀有な時代だったと言えます。

そんな時代もあって「卑弥呼」の邪馬台国は魏国への使者と倭絹や絳青の?(赤と青の絹の平織物)短弓矢、丹と呼ばれる赤い鉱石などを送り、魏国は使者と共に銅鏡や金、錦や刀などを送るという交流を行い、邪馬台国は魏国の庇護下にある事をアピールして『狗奴国(くなこく)』などの敵対国への牽制していたのではないでしょうか。

原始的な文明があったと思われる弥生時代に、現代に通じる高度な外交が行われていたというのは驚きですね。

「卑弥呼」の死と宗女「台与」

魏志倭人伝によれば「卑弥呼」が王となった時にはすでに年齢を重ねており、夫も子供もいなかったとされています。

「卑弥呼」の出生は不明ですが248年頃に亡くなったことはわかっており、その在位は40年ほどだったと考えられ魏の使者が面会した時にはかなりの高齢であり、基本的に人々の前に姿を現さず世話をする女性と数名の男性のみがいたそうです。

「卑弥呼」の逝去の後男王(一説には弟とされるが詳細は不明)が立ちましたがこれを不服とした共立国が内乱を起こして争いが活性化し、それを鎮める為に「卑弥呼」の宗女(後継者)だった「台与(とよ)もしくは壱与(いよ)」が女王としたことで再び国が安定したと記されています。

この「台与」については詳細がわかっておらず、生年が235年で13歳で女王になったという事までは解っていますが、魏国の後に建国した晋国への朝貢を行ったことは『晋書』に記述があり存在は確認されています。
しかしその後「台与」に関しての史料はなく、また比定される人物はいますがその存在は卑弥呼以上に謎に包まれているのです。

そこから「卑弥呼」というのは『倭国の代表者』を表す号であり、最初に国が80年ほど乱れた際に鬼道の使える女性が『初代卑弥呼』として擁立され、その死後もう一人鬼道の使えた「台与」が『二代目卑弥呼』となったという説を唱える学者さんもいます。

比定される「卑弥呼」の正体

比定される「卑弥呼」の正体

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そもそも「卑弥呼」という名前は魏志倭人伝にその名前が出てきていますが、正確な呼び方や名前などは一切不明です。
「卑弥呼=ひみこ」という発音自体が平安時代以降で弥生時代にどのように発音されていたかはわかっていません。

また「卑弥呼」という文字そのものも魏志倭人伝や後漢書、隋書などで表記が異なり、ますます邪馬台国での呼ばれ方や人物像については謎に包まれていて何も解っていないのが現状です。

そんな「卑弥呼」の正体ではないかとされる人物や説についてご紹介します。

もっとも有名な「天照大御神」説

日本古来の歴史を示した『古事記』や『日本書紀』で日本の最高神または太陽神として語られる「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が「卑弥呼」の正体ではないかとされる説です。

根拠として「卑弥呼」という名前は「日巫女」「日女子(日売子)」といった太陽に使える巫女としての意味や「日御子」として太陽神の子供という意味があるとされ、日本の史書に出て来る人物の中に「卑弥呼」に匹敵する存在は「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」しかいないとしています。

またある大学の研究者が行った最小二乗法という統計的な計算方法から算出すると、記録のある古代天皇の系譜の中で「卑弥呼」とされる人物達が活躍した時代に該当する人物が、初代天皇とされる「神武天皇(じんむてんのう)」より5代遡った「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が「卑弥呼」の年代と一致するというのです。

その他にも「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の別名が「大日孁貴」オオヒルメノムチ)」と言い、この意味が『太陽に使える巫女』となり「卑弥呼」に符号することと、「卑弥呼」の死後に立った男王が「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の息子である「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)」の事で、彼が即位したが国内の争いが収まらずに中継ぎとして妃である「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」=「台与」が女王となり内乱を鎮めたと言われています。

ちなみにこの二人の子供の一人が『天孫降臨』の神話で有名な「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」で、ヤマト王権の台頭に合わせて邪馬台国が吸収されたのだとしたら、魏国が晋国になり交易が途絶えたことをも踏まえて「台与」以降の記録が無いことも納得がいきますね。

また皆既日食が247年3月24日と248年9月5日にあった事がわかっており、この年が「卑弥呼」が逝去した年=天岩戸に隠れたという伝説になったという話もありますが、九州北部でははっきりと確認された日食は畿内や瀬戸内方面では部分日食だった事もわかっているので、この説も「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の伝説と「卑弥呼」の伝説を後世の編纂者が結び付けてヤマト王権の正当性や神秘性を付与したのではないかという考えも出ています。

江戸時代から議論される「神功皇后」説

江戸時代から議論される「神功皇后」説

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第14代天皇の妻である「神功皇后(じんぐうこうごう)」が「卑弥呼」であるという説は、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」説よりも古くから研究者たちの間で議論されてきている人物です。

『古事記』『日本書紀』によれば「神功皇后」は夫の「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」と共に九州へと出征し、その途中で「仲哀天皇」の突然の崩御の混乱の中、軍勢の先頭に立って熊襲(くまそ)を平定し制圧した女傑とされます。

では「神功皇后」が「卑弥呼」である根拠はなんなのでしょうか。

答えは『日本書紀』の『神功記』の中にあります。

この神功皇后記の中では神功皇后について魏志倭人伝から「魏志に曰く」と引用し魏国への朝貢を送ったと記されており、さらにその見返りとして証書印綬を賜ったとしているのです。

しかしそもそも『日本書紀』そのものがヤマト王朝、つまり日本の正史として「卑弥呼」よりも後の時代に編纂されたもので、その中で大陸へ使者を送る伝説の女王に比定する存在を「神功皇后」に見出したのではないかというのが現在の通説となってきています。

この理由として日本書紀に記されている年代と魏志や実際の年代との違い、中国へ使者を送れるほどの大きな権力と財力を持った王朝=ヤマト王朝という認識の元で編纂されているので、その根拠の信用性は乏しいと言わざるを得ません。

それでも今なお「卑弥呼」=「神功皇后」という説が唱えられているのは、邪馬台国が九州にあったとした場合、そこを征服した「神功皇后」が人々をまとめる為に『巫女』としての神がかり的な役割を果たしたのではないかという考えあり、完全に否定することができない説なのです。

ちなみに京都市の『祇園祭り』の毎年7月17日の前祭と7月24日後祭の最後を飾る2基の『船鉾』は、「神功皇后」の『三韓征伐』の説話をモデルにした大きな船の形をした山車となっています。

桃太郎のモデルの姉「倭迹迹日百襲姫命」説

「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」は「桃太郎」のモデルとなった「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」の姉として日本書紀や古事記に登場し、「卑弥呼」に比定される人物の中で最有力候補と目されている人物。

第7代孝霊天皇の娘として生まれた「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」は年代として中国が三国時代に入る頃で外交と共に自然災害も多く発生した時期の実在した人物である事が解っています。
この混迷期に災害を鎮める為に天皇が八百万の神々へ占うと、「大物主(おおものぬし)」が優れた霊力を持っていた「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」に神懸かりを行い、「大物主」を敬い祀るようすれば災いは静まり国は平和になる告げたと言います。
その言葉に従い「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」は「大物主」と『神婚』つまり神と結婚をし妻となって『特定巫女』=「秘め巫女(ひみこ)」と呼ばれるようになっというのです。

さらに「吉備津彦命」が「崇神天皇(すじんてんのう)」の命によって山陰地方を制圧に向かった240年頃にはすでに60歳を超えている事が解っており、その姉である「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」との年齢差を2、3歳とするなら60歳半ばごろと、魏志倭人伝の「卑弥呼」は高齢であったという記述とも一致し、また義理の孫である「崇神天皇」と彼の叔父である「大彦命(おおびこのみこと)」が「大物主」の声を聴き政を行っていた「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の補佐を行っていたとすれば、魏志倭人伝の「卑弥呼」の記述にある「男弟」という存在と一致し、「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の死後に大王家の血筋である「崇神天皇」が即位するのも当然の流れと言えますね。

また大王家(天皇一族)に連なる人物の名前に「台与」が記されているのも重要なポイントとなり、邪馬台国畿内説によれば「崇神天皇」は「台与」を「卑弥呼」の代わりとして表に立たせ、自分は摂政として実権を振るう事で国内を平定したのではないかとも考えられます。

その為「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」のお墓とされる最古式の前方後円墳の『箸墓古墳(はしはかこふん)』は「卑弥呼」のお墓として紹介されることがありますが、有力な説というだけで確定されたものではありません。

それでも昔話で馴染み深い「桃太郎」の姉が「卑弥呼」というのは、真偽を差し引いても面白い説ですよね。

この箸墓古墳は奈良県桜井市箸中にあり、JR桜井線「巻向駅」から南へ徒歩5分ほどで観光ができます。

また桜井市の観光名所である「大物主」を祀る『大神大社(みわたいしゃ)』も近いので合わせての観光がおすすめです。

箸墓古墳と大神大社周辺は三大そうめんの一つ『三輪そうめん』と『柿の葉寿司』の産地なので、こちらもぜひお試しください。

古代の女王に感じるロマンと可能性

今なお研究が続けられ様々な意見が出ている「卑弥呼」については、伊勢神宮の初代斎宮とされる「倭姫命(やまとのひめのみこと)」や出雲族「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)」、九州筑後の巫女「甕依姫(みかよりひめ)」にエジプトやジャワといった外国人説など様々な人物が比定されています。

様々な史料や文献を研究する人たちの白熱した議論では、全く思いつかなかった説が飛び出してくるかもしれない「卑弥呼」は、古代日本へ馳せるロマンが詰まった神秘の存在と言っても過言ではないかもしれませんね。

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