中世にタイムスリップできる、愛し守られてきたシャルトル大聖堂

パリからほど近い街・シャルトルにある大聖堂は美しいのステンドグラスとゴシック建築の巡礼の中心地として、800年前の昔から人々に愛され守られてきました。
前半ではいかにこの大聖堂が愛されてきたのかをご紹介し、後半では世界遺産として認められたその特色についてご案内していきます。
ご一緒に中世の時代にタイムスリップいたしましょう!

聖母マリアのための教会

聖母マリアのための教会

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シャルトル大聖堂の名前を知っていますか?

シャルトル大聖堂の正式名称は「カテドラル・ノートル・ダム・デ・シャルトル」といいます。

「カテドラル」は「大聖堂」のことで、司教座がある教会のことをさします。
キリスト教では教会が管理し教えを説いていくエリアを教区として分けており、その中で一番位の高い聖職者である司教が所属している教会を司教座がある教会と言います。
つまり司教座のある大聖堂はそれだけ教区のなかでも重要な教会であるといえるのです。

「ノートル」は「私たちの」、「ダム」は「女性」で、キリスト教では「聖母マリア」を意味します。

「デ・シャルトル」は「シャルトルの」という意味なので、シャルトル大聖堂は「聖母マリアのためのシャルトル大聖堂」という意味を持つ名前になります。

12世紀から13世紀のフランスでは聖母マリアへの信仰が大きく盛り上がり、フランスには「ノートル・ダム」という名前の教会があちこちに建てられました。

その中でも13世紀の姿をそのままに残している数少ない教会としてとても貴重な教会としてシャルトル大聖堂は世界遺産に登録されています。

農民たちの信仰心

シャルトルの街はパリより南に80キロ離れた場所にあり、現在では電車で1時間程度の距離にあります。

街の周辺には「ボース平原」という穀倉地域が広がっており、車で行くと麦畑の平原の向こうにそびえたつ2本の塔を見ることができ、はるか遠くから歩いてきた巡礼者がホッとした景色と、麦畑を営む農民たちの心のよりどころであった風景を感じることができます。

街の中心にある大聖堂が建つ場所は、1世紀ころのまだガリアと言われていた時代、キリスト教が伝わる前に信仰されていたドルイド教の祠があった霊地だったといわれています。

ドルイド教あまりよくは知られていませんが、主に古代ケルト民族が信仰していた古代の宗教で、井戸や泉・大地や森など自然の中に精霊がおり、その精霊を敬い祭る自然信仰だといわれています。

なんだかファンタジーの世界のようですが、日本の神道のように自然に対しての尊敬の念があったようです。
一神教の父性を主としたキリスト教が伝わる前にこのような大地や森などの母性を感じる自然を慕い敬う気持ちがこの地にはあり、その信仰心が聖母マリアへの信仰へ変わっていったのではないかと考えることができます。

マリア信仰が大盛り上がり

マリア信仰が大盛り上がり

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王家からの聖遺物の贈り物

シャルトル大聖堂はすでに8世紀には聖母マリアに捧げられた教会ではありましたが、そのマリア信仰がより大きくなることになる出来事が起こります。

それは9世紀にカロリング朝の大帝シャルル・マーニュの孫である、禿頭王シャルル2世より「サンクタ・カミシア」と呼ばれる聖衣が大聖堂へ寄進されたのです。

「サンクタ・カミシア」は聖母マリアがイエスを出産した時にまとっていた衣服だといわれています。
または大天使ガブリエルからイエスを身ごもったと告げられる受胎告知の際に着ていた衣服だという説もありますが、実際はシリアで1世紀ごろに織られたといわれます。

この聖衣は現代のシャルトル大聖堂にも残っており、私たちも見ることが可能です。

一見、黄ばんだシンプルな布なのですが、中世の信仰心をもった信者には大変貴重なもの。
特に中世にはキリストや聖母マリアをはじめとする聖人たちの遺品に対して敬虔な信仰の気持ちが向けられた時代だったのです。

そのような時代背景からこの聖母マリアの遺品である聖遺物が寄進されたことで、ますますシャルトル大聖堂はマリア信仰の中心としての大きく発展していくことになりました。







ステンドグラスに込めた戦勝祈願

聖母マリアにささげられた聖堂なので聖母像はいくつかありますが、その中でも有名な聖母マリアのひとつが西側正面入り口に3つ並んだ長方形の尖塔窓にある「勝利の聖母」です。

このステンドグラスの聖母像の構図にはこんな言い伝えがあります。

昔、信仰心の篤かったビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌスがアラブ軍と戦う時に夢で勝利宣言をした聖母の像と同じだと。
その皇帝は見事勝利したと言われています。

12世紀に作られた大聖堂内でも古いステンドグラスにある聖母像は、十字軍へ参戦した者たちへの戦勝祈願の意味が込められています。

十字軍にはさまざまな人が参戦をしていました。
特に嫡男ではない二男や三男は家柄が良くても家督を継ぐことはできないため、教会の道に入るものもいれば体を鍛えて武術を身につけて立身するものもいました。
そんな若者たちにとっては自らの力を示すのに十字軍の参戦は意味のあることだったのです。

11世紀から始まった十字軍遠征ではそのような立身にはげむ者や農村からも信仰心の篤い若者が参戦することが多く、それを見送った母親や妻・恋人たちは聖母マリアに無事に帰ってくるよう祈りを捧げたことでしょう。

中世フランス巡礼の聖地へ

中世フランス巡礼の聖地へ

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パリから最も近い巡礼地

十字軍が盛んだった12世紀から13世紀はイスラム教の支配下になった聖地エルサレムへの巡礼に出ることができない時代でした。

また、12世紀ごろから気温が上昇したと考えられています。
それまで気温が低かったことから、農作物の出来が悪く飢饉状態だったのが、温暖化したため農作物の出来がよくなり農村部の暮らしが楽になり、それに連動して商業も発展する時代になったのです。

そのように人々の暮らしが少し楽になると、信仰心を示す聖地巡礼に関心が集まるようになりました。
しかし、イエスゆかりの聖地エルサレムには行けません。
そこで、その代わりに聖人ゆかりの地へ巡礼に出るようになりました。

たとえば聖ペテロ終焉の地・ローマへの巡礼や聖ヤコブゆかりの地・サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼です。

フランスで比較的に多かった巡礼路はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。
ローマへの巡礼より人気があったのはアルプスを越える苛酷さがないためかもしれません。

その者たちがその道中にある聖遺物を祭る地にも足を運ぶようになったのです。

パリから最も近い聖遺物のある巡礼地のシャルトルにはたくさんの巡礼が訪れ、街は人にあふれ活気に満ちていきます。

特にマリア崇拝者には重要な巡礼地として人気がありました。

ここでエルサレムへ巡礼したことに?

シャルトル大聖堂に訪れる巡礼者は単にサンティアゴ・デ・コンポステーラなど遠方の聖地が目的地の人ばかりではありませんでした。
このシャルトル大聖堂自体が巡礼地として巡礼者たちが訪れました。

聖遺物への拝礼が巡礼者たちの目的ではありましたが、もうひとつエルサレムへの巡礼を体験できる仕組みがシャルトルにはあったのです。

大聖堂の西側入口から入ると奥へと続く大きな身廊が広がります。
この床に不思議な曲線を描いた模様があります。
現在は椅子が並べられていることが多いため、これは一見しただけではわかりにくですが、上から見ると大きな迷路が描かれているのがわかります。

その幅約15メートルで、迷路の長さは260メートルを超えるものです。
とても大きな迷路ですが、「エルサレムへの道」と言われており、巡礼者がこの迷路を祈りながら歩くことでより神に近付きエルサレムへの巡礼と同じ意味を持つことができると言われています。
また、懺悔をするものはこの迷路を膝立ちで歩むことにより、十字架を負ってイエスが歩いたゴルゴダへの苦しみを追体験することができるとも言われています。

その巡礼の習慣は現代のフランでも行われており、現毎年5月ごろに学生たちが歩いて巡礼する姿がボース平原で見られます。

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