ちょうど1000年前の日本のリーダー「藤原道長」の歴史

紫式部の『源氏物語』を知らない人はいないでしょう。『紫式部日記』のなかにも藤原道長のことが書かれていますから、この2人は同時代人。『源氏物語』のあと、ある女性の手によって『栄花物語』が書かれていますが、その題名からしてこの物語の主役は道長。道長自身も『御堂関白記』という日記を書き残しています。男性によって書かれた歴史書『大鏡』でも、道長はかなりの部分を占めていますね。「この世を自分の世と思う」などと豪語した道長ですが、晩年には阿弥陀仏を信仰して法成寺を建立。その人生は、意外に知らないことばかりなのですよ。

藤原道長は、藤原氏の九条家の出身です

藤原道長は、藤原氏の九条家の出身です

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何か不思議な力が働いたのでしょうか

藤原道長が生まれたのは966(康保3)年、死んだのが1027(万寿4)年。
60年あまりの人生を生きたことになりますね。
西暦でいうと、ちょうど一千年紀にあたりますが、遣唐使を廃止して、いわゆる国風文化の絶頂期にあった日本ですから、ヨーロッパで何が起こっていたのか、知るはずもありませんね。
ただ、直接的な影響関係はないものの、摂関政治の頂点に立つ道長が、一千年紀という時代のおおきな変わり目を生きたことに、なにか不思議な力を感じてしまいます。
道長の時代には、陰陽師として有名な安倍晴明がいました。
人間の力を超えた、何か大きな力を、きっと道長も利用したことでしょう。

科学が発達した近代からこの一千年紀の時代を眺めてみると、たしかに不思議なことばかり。
道長は、藤原兼家の五男なので、ふつうに考えれば、摂政や関白にはなれそうもありませんね。
実際、右大臣藤原師輔に始まる九条家は、右大臣兼家の長男である内大臣道隆から、さらにその長男である伊周(これちか)へと受け継がれるはずだったのに、なぜか道長が継ぐことになったのでした。
『大鏡』では、この歴史物語の語り手である「世継ぎの翁」が、道長を「今を時めく入道殿下」と賛美しているのですよ。
なにか運命の力が、邪魔する者たちを疫病などで排除したということなのかもしれませんね。

九条家はこうしてできました

ところで、藤原氏のルーツが、中大兄皇子に従って大化の改新をした中臣鎌足だということは、よく知られていますね。
鎌足は「藤原」の姓をもらって、そこから藤原氏の歴史が始まったのですね。
鎌足の息子の不比等の次に、藤原氏は南家・北家・式家・京家の4つに分かれましたが、平安時代には北家が栄えましたね。
摂関政治は、北家の藤原良房・基経に始まり、忠平の代に安定しました。
摂政も関白も、太政大臣や左大臣・右大臣のような律令体制の役職とは別のものなのですね。
なお、この忠平は、道長の曾祖父なのですよ。

この時代に、宮廷の儀式も整えられ、その儀式の作法を「流」と呼ぶことがあります。
忠平の長男の実頼は小野宮流、次男の師輔は九条流、三男の師尹(もろただ)は小一条流と呼ばれ、九条流の師輔が道長の祖父。
公家はほとんどみんなが藤原氏なので、これが九条家となるわけです。
忠平の長男実頼は太政大臣になり、その子の頼忠も太政大臣。
次男の師輔は、太政大臣にはなれず、右大臣止まり。
「関白太政大臣」という言葉がありますが、天皇が成人したあとも政権を担う関白は、律令制度の最高位である太政大臣でなければならない、と決まっていました。
ですからここでもまた、何か運命の力が働いたようですね。

道長の祖父師輔は天皇家の外戚になりました

道長の祖父師輔は天皇家の外戚になりました

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摂政と関白は律令制度の官職とは別のものです

道長の時代に宮廷の女官だった紫式部。
彼女が書いた『源氏物語』は、いわゆる平安朝女流文学の最高峰とされ、外国でも高く評価されていますね。
ヨーロッパの中世文学がまだ花開いていなかった時代に、このようなすぐれた作品が、しかも女性の手によって書かれたということは、ヨーロッパの人々にとっては驚きなのですよ。
さて、この物語の主人公である光源氏は、桐壺帝にもっとも愛された桐壺更衣の息子なのに、天皇の位を継ぐことができず、源氏の姓をもらって宮家から出たわけです。
天皇には何人もの「妻」がいたのですが、それらの「妻」たちは、中宮とか女御とか更衣とかいう身分に分けられ、それはまたそれらの女性の「実家」の力を示していたのですね。

こういう歴史的背景から考えると、天皇の子どもは、その子を産んだ母親の「実家」の力によって、次の天皇になれるかどうかが決められていた、とさえ言うこともできますね。
藤原氏はそういう「実家」の力を発揮して、平安時代中期の政権を担ったということですね。
天皇がまだ幼いときには摂政、天皇が成人してからは関白という地位になるというのが摂関政治ですが、これは、律令制度の官職とは別のものなのですよ。

師輔の娘安子は天皇の皇子を生みました

すでに述べましたように、藤原氏の小野宮流が忠平の長男の系統ですよね。
ですから、忠平の長男である実頼も、実頼の長男である頼忠も、律令体制の官職の最高位である太政大臣になっていますね。
実頼は2人の娘をそれぞれ、朱雀天皇と村上天皇の女御として宮中に入れていましたが、残念ながら男の子が生まれなかったので、天皇家の外戚になることはできませんでした。
忠平は村上天皇の摂政をしていたのですが、村上天皇自身は、摂関をおかず、天皇親政を希望していたので、成人した村上天皇は、死ぬまで実頼を関白にすることはなかったのですよ。

それに対して、忠平の次男の師輔は、娘の安子(あんし)を村上天皇の中宮にして、安子からは3人の男の子が生まれているのですね。
なお、中宮は、女御より位が上。
この中宮から生まれた3人の男の子はすべて、次の天皇の候補。
つまり師輔は、次の天皇の母方の祖父、つまり外戚としての地位を得たということになります。
その3人の男の子は、憲平親王、為平親王、守平親王ですが、このうち憲平親王はのちの冷泉天皇、守平親王はのちの円融天皇。
為平親王は政争のため、残念ながら天皇にはなれなかったのですが。

九条家の内部でいろいろ争いがありました

九条家の内部でいろいろ争いがありました

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師輔の長男の伊尹が死んで兼通と兼家が争いました

この時代、天皇の位は、父親から長男に受け継がれるというよりは、兄弟で順番に天皇になった、と考えた方がいいかもしれませんね。
村上天皇は醍醐天皇の子どもなのですが、兄弟に源高明がいますね。
高明は『源氏物語』の光源氏のように、源氏姓をもらって臣下にくだったのですよ。
臣下にくだったといっても、もとは天皇の息子ですから、政治的な力がなくなったというわけではありませんよ。
村上天皇の兄弟である源高明は、村上天皇の次男の為平親王と共謀して、政権を奪取しようとしているという噂。
誰が流したのかわかりませんが、噂には恐るべき力があり、源高明は太宰府に流され、為平親王は天皇になれなかったわけです。
これが安和の変。

安和の変のあと、憲平親王が冷泉天皇になり、藤原実頼は、摂政と太政大臣とを兼ねることができましたね。
村上天皇が死んで、ようやく念願が叶ったということでしょうかね。
しかし、天皇家の外戚になれなかった実頼は、残念ながら寂しい晩年だったとのこと。
実頼の死後、摂政になったのは、師輔の長男の伊尹(これただ)。
伊尹の娘の懐子(かいし)は冷泉天皇の女御となり、師貞親王を産んだので、これで九条家も安泰かと思ったら、伊尹は早くに死んでしまって、その2人の弟である兼通と兼家の争いになったのですよ。
ちなみに道長は、この兼家の五男でしたね。
加持祈祷で人を呪い殺す、などということがふつうにあった時代のこと、長生きするのは大変ですね。

関白の職は小野宮家が握っていました

道長の父親の兼家は、兼通の弟なのですが、兄より出世が早く、兼通はさぞ弟のことを恨んでいたことでしょう。
その恨みが何か恐ろしい形になったのか、長男の伊尹が死んで、その後、村上天皇の中宮で姉の安子(あんし)が死んだあと、安子の遺言によって兼通は、兼家を追い越して関白になったのですよ。
さらに、この恨みの故に、自分が死ぬとき、弟の兼家に関白職を譲らずに、従兄弟の忠頼に譲ったのですね。
977(貞元2)年、つまり、道長が11歳のときのこと。
これで道長の出世の道も遠ざかったのかと思うと、そうでもなかったという不思議。

しかも、娘の詮子(せんし)を村上天皇の三男である守平親王と結婚させ、懐仁親王という男の子が産まれました。
守平親王は円融天皇になったのですが、女御である詮子の実家の九条家よりも、小野宮家の頼忠のほうを好み、頼忠の娘の遵子(じゅんし)を中宮にして、こちらに男の子が産まれたら、そちらを東宮に、と考えたのですね。
考えただけではなく、陰陽師を呼んで、加持祈祷をさせたことでしょうが、残念ながらその願いは叶わず、外戚関係は九条家の独占。
伊尹の娘懐子と冷泉天皇の間に産まれた皇子が花山天皇となり、兼家の娘詮子と円融天皇との間に産まれた懐仁親王が東宮になったのですね。
984(永観2)年のことでしたが、ただ、小野宮家の頼忠が関白太政大臣の地位にあり、兼家はまだトップに上り詰めたわけではありませんね。

摂関は太政大臣が兼ねるという前例を兼家が破りました

摂関は太政大臣が兼ねるという前例を兼家が破りました

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兼家は右大臣職を捨てて摂政になりました

986(寛和2)年に、花山天皇が退位したあと出家して、兼家の孫である懐仁親王が一条天皇になったので、兼家は摂政になったのですよ。
この時代、天皇は死ぬまで天皇でいることはなくて、生きているときに譲位して上皇になったり、さらに出家して法皇になったりしたのですね。
それがのちには院政ということになるのですが、このときはまだ、藤原氏による摂関政治の時代。
幼い孫が天皇になったので、兼家は摂政ということになるのですが、摂関は太政大臣が兼ねる役職。
右大臣の兼家が摂政というのは、前例のないこと。
九条家を九条流と呼んでいたのは、この「前例」を大事にしていたからなのですね。
頼忠が太政大臣の職を譲ってくれるはずもありませんね。

そこで兼家は、右大臣の職を弟の為光に譲り、自分は律令体制の役職をすべて捨てて、ただ摂政になったというわけです。
「前例」を大事にしつつ、しかしこれまでにないことをあらたな「前例」にして、自分の意志を通す、まさに政治家ですね。
兼家のこのようなやり方を、長男道隆も次男通兼も、そして五男道長も、幼い頃から、文字通り「父の背中を見て育った」ということになります。
このとき道長はちょうど20歳。
その人生のおよそ3分の1の時点にさしかかっていたのでした。

兼家の強引なやり方で道長はどんどん出世

兼家は、自分が摂政になった強引なやり方で、息子たちにも次々と官職を与えていったのですよ。
官職には順序というものがあるのですが、道長は、参議という役職を通り越して、988(永延2)年に権中納言になったいますね。
990(正暦元)年には中宮大夫、その翌年には権大納言というように、異例の出世。
ただし兼家の長男は道隆なので、頼忠が死んだ989(永祚元)年に道隆ははやくも内大臣になっているのですよ。
そのうえ、娘の定子(ていし)を一条天皇の中宮にまでしたうえ、皇子も産まれていますから、どうみても次の摂関は道隆で決まり。
道長がなった中宮大夫は、この定子に仕える役職なのですよ。

道隆には長男の道頼がいましたが、道頼とは腹違いの次男伊周(これちか)を自分の後継者にしようと考えたようですね。
そして、兼家の強引なやり方を真似て、伊周をどんどん昇進させました。
(正暦5)年には、道長を追い越して内大臣。
叔父たちはもちろんのことですが、兄の道頼の悔しさはどれほどのものだったでしょうか。
それが直接の原因かどうかわかりませんが、伊周はのちに、996(長徳2)年の長徳の変で太宰府に左遷されてしまいました。
菅原道真を祀る天満宮のある太宰府は、北九州にありますね。

道長は子宝に恵まれました

道長は子宝に恵まれました

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道長は源雅信の娘倫子と源高明の娘明子と結婚

兼家の五男だったので、それほど高い地位に上り詰めるなどとは想像もされていなかった道長のこと。
子ども時代の道長については、あまりよく知られていないようですね。
すでに述べましたが、生まれたのは966(康保3)年。
母親は、藤原中正の娘の時姫。
15歳のとき、道長は母を亡くしていますが、同時にこの年には、従五位下の位を与えられていますね。
その後、昇殿を許されるのは、986(寛和2)年ですが、この年にはなんと、円融天皇が花山天皇に譲位したかと思うと、その花山天皇はすぐに出家。
一条天皇が即位して、道長の父親の兼家が摂政になりましたね。

その後、道長は短期間のうちにどんどん昇進し、987(永延元)年に、左大臣である源雅信の娘の倫子(りんし)と結婚。
現代では考えられないことですが、翌年には、安和の変で太宰府に左遷された源高明の娘である明子(めいし)と結婚。
しかし、『源氏物語』の主人公光源氏のことを思えば、妻が2人いても、不思議ではありませんね。
それに、いつ病気になって死んでしまうかわからず、医学も発達していないこの時代、できる限りたくさんの子どもを生んでおかなくてはなりませんし、父親が太宰府に左遷されて、京に残された明子の面倒を、誰かが見てあげなくてはなりませんから。

倫子と明子それぞれが6人の子どもを生みました

源氏は、天皇家につながる血筋。
藤原氏はこの源氏の娘と結婚するという伝統がありましたが、道長はまさにそれを守ったということですね。
倫子からも明子からも、それぞれ6人の子どもが生まれています。
倫子からは、結婚した翌年に長女彰子(しょうし)が生まれましたが、彰子はのちに、一条天皇の中宮になり、小一条天皇と後朱雀天皇を生んでいます。
摂関政治の頂点に立った道長に、おおいに貢献したわけですね。
992(正暦3)年には長男の頼通が生まれましたが、これが道長の後継者で、摂政も関白もやり、平等院鳳凰堂を建築したことで有名です。
994(正暦5)年に次女妍子(けんし)が生まれまたしたが、これは三条天皇の中宮。
996(長徳2)年に五男の教通が生まれていますが、これは関白になっています。
999(長保元)年に四女の威子(いし)が生まれましたが、これは後一条天皇の中宮。
1007(寛弘4)年に六女の嬉子(きし)が生まれましたが、これは後冷泉天皇を生んでいます。

一方、このあいだに明子も6人の子どもを生んでいますが、父親の源高明が太宰府に左遷されたせいか、その子どもたちは、不遇でした。
993(正暦4)年に次男の頼宗、994(正暦5)年に三男の顕信、995(長徳元)年に四男の能信と、相次いで男の子が生まれています。
頼宗はのちに右大臣になっていますが、中御門家という分家になっていますね。
顕信は出家したあと、残念ながら早死にし、能信は長生きしますが、権大納言止まり。
倫子から生まれた長男の頼通が道長の後継者ですから、しかたありませんね。
999(長保元)年に三女の寛子(かんし)、1003(長保5)年に五女の尊子(そんし)が生まれていますが、寛子は三条天皇の皇子の敦明親王と結婚していますが、残念ながら子どもには恵まれませんでした。
1005(寛弘2)年に六男の長家が生まれましたが、これも権大納言まで。

長徳の変により、道長が頂点に立ちました

長徳の変により、道長が頂点に立ちました

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道長が藤原氏の「氏長者」になりました

現代のような一夫一婦制という婚姻形態でなかったこの時代、母親が誰かということで、その後の人生がずいぶん変わります。
これは道長自身にも言えることで、兼家の正妻である時姫から生まれた長男の道隆、三男の道兼、五男の道長は優遇されました。
次男の道綱は、「道綱母」としてしか知られていない『かげろう日記』の作者とのあいだにできた子どもですから、兄や弟たちと比較にはなりませんね。
兼家の娘たちについても同じことが言えますよ。
長女の超子(ちょうし)は冷泉天皇の女御、次女の詮子(せんし)は円融天皇の女御になっています。

長男の道隆の家を中関白家といいますが、その次男の伊周がこの家の継承者になりましたね。
詮子からみると甥ということになりますが、その甥よりも詮子は同じ母親から生まれた弟の道長を好んだということです。
995(長徳元)年は大変な年で、摂政である道隆が死んで、関白の位はなんと、伊周ではなく、道隆と同じ母親から生まれた通兼に。
もちろんこの背景には、円融天皇の女御である詮子の力が働いていたことは、言うまでもありません。
ところがこの通兼は、関白になったあとすぐに死んでしまったのですよ。
「七日関白」と呼んでいますが、そうなると、次は道長、ということではありますが、とりあえずは右大臣となり、「氏長者」つまり藤原氏の代表者として認められたわけですね。

長徳の変により伊周は排除されました

兼家の五男の道長が藤原氏の氏長者になった、などということを、中関白家の伊周が認めるはずもありませんね。
何を言い争ったかはわかりませんが、道長と伊周が激しい口論をした、ということが『小右記』に書かれているのですよ。
さらに、道長の家来たちと伊周の家来たちとのあいだで、乱闘騒ぎまで起こす始末。
伊周には隆家という弟がいたのですが、隆家も加わって、とうとう殺害事件までが起こってしまったのですね。
もちろん、陰陽師をつかって呪詛する、などということも、この時代には当然こと。
陰陽師による呪詛にどれほどの効果があるのかはわかりませんが。

このときの天皇は、一条天皇。
伊周と隆家兄弟の妹である定子と結婚をしていましたが、母親は詮子。
妻の意向をくめば伊周を重用すべきでしたが、どうやら母親の意向のほうが強かったようですね。
詮子が、甥の伊周よりも弟の道長に目をかけたといいましたが、その理由は、伊周の性格に問題があったらしいのです。
しかも、兼家の長男である道隆の息子とはいっても次男であり、父親の寵愛を受けすぎたということ。
そのために少し性格が悪くなったようで、なんと、一条天皇の先代の花山法皇に、弓の名人に依頼して矢を射たのですよ。
もちろん殺害の意志はなく、脅すだけだったので、名人の射た矢は花山法皇の袖に当たったとか。
詮子の具合が悪くなったのも、呪詛のせいということで、伊周とその部下たちは左遷。
これを長徳の変といいます。

いよいよ道長の時代が到来しました

いよいよ道長の時代が到来しました

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