豊臣秀吉はなぜ天下統一できたのか?その人生を追う

ブリを出世魚というのは、知っていますか。地方によって呼び方はいろいろですが、稚魚のモジャコから始まって、ワカシ、イナダ、ワラサと名前を変えて大きくなっていきますね。豊臣秀吉も、日吉丸から始まって、木下藤吉郎、木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と名前を変えて、ついに文字通り「位人臣を極め」て関白太政大臣の豊臣秀吉になりましたね。いくら下剋上の戦国時代とはいえ、武将の家に生まれたのではない秀吉に、どうしてそんなことができたのでしょうか。さあ、いろいろな伝説に彩られた秀吉の人生。さあ、秀吉のこの人生の足跡を追いかけていくことにしましょう。

秀吉の出生についていくつもの伝説が残されています

秀吉の出生についていくつもの伝説が残されています

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生まれたのは現在の名古屋市中村区です

愛知県名古屋市中村区の中村公園に、「豊公誕生之地」の石碑が建っていますね。
豊臣秀吉はここで、1536(天文5)年の元旦に生まれたことになっていますが、正確なことはよくわかっていません。
父親は木下弥右衛門。
武士としては身分の低い足軽、あるいは、農民だったとする説もありますね。
「なか」というのが母親の名前ですが、秀吉を産むとき、日が昇る夢を見たというのです。
それで生まれてきた男の子に、日吉丸という名前をつけた、これもどうやら、作られた伝説でしょうね。

出生ついて伝説がいろいろ語られるのも、秀吉の魅力ということでしょうか。
この父親の死後、「なか」は竹阿弥という男性と結婚したとされていますね。
むしろこの竹阿弥という正体不明の人物こそが秀吉の父親で、足軽とはいえ武士である父親の「木下」という姓も、秀吉が結婚した「おね」という女性の母方のものである、とも伝えられているのですよ。
ともかく謎だらけの秀吉の出生。
ちょうど元服の年頃に、竹阿弥にいじめられた秀吉は、武士になるために家を出た、というのもこれらの伝説の一部でしょうか。

遠江で足軽になり木下藤吉郎と名乗りました

農民に生まれた者が武士になれる、なんて妙な気がしますね。
江戸幕府になって「士農工商」の身分制度が確立されてからは、そんなことはほとんど不可能。
しかし、群雄割拠の戦国時代では、各地に土豪や野武士などがいたのですよ。
いざ戦いとなると、人集めが行われました。
農民がそもそも、自分の土地を守るために、武器を持つこともあった時代ですから、有力な武将のもとに、そのような人々が集まったということですね。
逆に言えば、どのくらいの人を集められるか、ということが武将の力のバロメーターだったわけです。

秀吉は木下藤吉郎と名のり、松下之綱に仕えることになったのですが、松下之綱は遠江にある頭陀寺城の城主。
遠江を支配していた今川氏の家臣のさらにその家臣。
秀吉は、自分の主君の上にいる今川義元に、直接会ったことなどなかったでしょうね。
のちに天下人にまでのぼりつめた秀吉ですが、自分のキャリアの最初を飾ってくれたこの松下之綱には、それなりのお礼をしているのですよ。
今川氏のあとしばらく徳川氏に仕えていた松下之綱でしたが、最終的には秀吉によって、この頭陀寺城の近くの城を与えられています。
恩を受けた人には義理堅い秀吉ですね。

清洲城の織田信長に仕え、結婚もしました

清洲城の織田信長に仕え、結婚もしました

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織田信長に仕えることになりました

今川氏は、室町幕府から任命された駿河の守護大名。
戦国時代になって、遠江まで勢力を拡大したのでしたが、それは、松下之綱のような土豪たちを傘下にしたということですね。
江戸時代なら、武士が自分の主君を変えることなど不可能ですが、この時代は、家臣たちも自分の将来を考えて、だめな主君は見捨ててしまうこともあったのですよ。
要するに、戦国武将たるものは、どれだけ家臣や足軽などを集められるか、その力量にかかっていたわけです。
織田信長こそ、まさにそのカリスマ的存在だった、と言っていいでしょうね。
木下藤吉郎も、1554(天文23)年に、このカリスマのもとで小者になったのでした。

織田信長は当時、清洲城の城主。
あまりにも有名なエピソードとして、信長がはく草履を、秀吉が自分の懐で暖めていた、という話があります。
織田信長もまだまだ弱小大名でしたから、秀吉にも近づくチャンスがあったということになりますね。
そして、その気遣いに主君信長はおおいに感激し、何かと秀吉に用事を言いつけるようになったとか。
信長は秀吉を「サル」と呼んでいたそうです。
そしてなにかにつけて、秀吉に用を言いつけたということでしょうね。







「サル」も人並みに結婚しました

今どき部下を「サル」などと呼んだらそれこそパワハラですが、命がけで戦っていた戦国時代のことですから、これは秀吉が信長におおいに目をかけられていた証拠。
主君に気に入られた秀吉ですから、同僚にも気に入られたことでしょう。
例えば、足軽組頭になっていた秀吉と同じ長屋に住む、同じ足軽組頭の浅野長勝。
のちに浅野氏は、豊臣政権の有力な大名のひとりになっていますが、この当時は大名からははるかに遠い身分。
秀吉に関係した人たちの「出世」も忘れてはなりませんね。

1561(永禄7)年、秀吉はこの浅野長勝の養女おねと結婚したのですよ。
血縁関係と婚姻関係が、人と人との結合につよく作用したこの時代、誰かの娘を養女にして、しかるべき男性と結婚させ、その男性との絆を強くする、ということはよくあったことですね。
おねの実父は杉原定利で、実母の朝日はこの結婚に反対していたとのこと。
足軽組頭ではなく、もう少し身分が上の武士の嫁にしたかったのでしょう。
なお、おねは生涯にわたって秀吉の正妻。
のちに北の政所と呼ばれ、豊臣氏の滅亡もその目に焼き付けたのですよ。

織田信長の勢力拡大の先兵となりました

織田信長の勢力拡大の先兵となりました

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美濃攻めで功績をあげました

美濃の斎藤道三は、薬売りから一代で戦国大名になった人物。
織田信長は、その娘と結婚しましたが、もちろんこの結婚は政略結婚。
尾張が美濃に飲み込まれるか、それとも尾張を統一した信長が、その勢いで美濃に進出するか。
戦国時代は、本当に油断大敵。
斎藤道三自身も、思いがけず息子の斎藤義龍に挙兵され、これと戦って戦死したのですよ。
織田信長も、義理の父への援軍を出したものの間に合わず、義龍が死んで、その息子の龍興の代になったとき、1563(永禄6)年に美濃を攻めたのでした。

斎藤氏が美濃を支配していたといっても、あちこちに土豪がいて、その寄り合いというのが、戦国大名たちの実情。
土豪たちは、自分の所領を安堵してくれる大名がいてくれさえすればいい、それが斎藤氏でも織田氏でもかまわない、理屈のうえではそういうことですね。
1564(永禄7)年に秀吉は、その作戦を遂行し、成果をあげています。
翌年、そのうちのひとりに宛てた知行安堵の書状に、木下藤吉郎秀吉と、はじめて「秀吉」の署名。
秀吉は、信長の家臣として、もうかなりの地位に昇っていたことになりますね。

墨俣一夜城は本当に一夜にして築城されたのでしょうか

この美濃攻めで、やはり伝説になっているのが、墨俣一夜城。
美濃は、木曽川と長良川という大きな川が流れていて、それがまた自然の防壁にもなっています。
木曽川の岸に建つ岐阜城は、文字通り難攻不落の城。
斎藤氏を滅ぼし、岐阜城を居城にした織田信長が、ここで「天下布武」、つまり自分は天下を取るのだと言った話は有名ですが、まだまだ道は遠いのに、それほど立派な城だったということでしょうね。
話は先に飛んでしまいますが、本能寺で死んだ信長の孫の後見人になった秀吉が、信長に代わって天下を取りますね。
その孫は、のちの織田秀信で、この岐阜城の城主になっているのですよ。

墨俣一夜城の遺構は長良川の川岸にあり、現在は大垣市です。
秀吉がここに、一夜にして城を築いた、という伝説があるのですよ。
だからその名も墨俣一夜城。
どんなトリックを使ったのか、さすが秀吉というところですね。
この功績により、秀吉はますます織田家での地位を高めたことは確かでしょう。
1566(永禄9)年のことでした。
木曽川を根拠地する野武士集団である川並衆の蜂須賀正勝が、このあと秀吉の配下になっているのですが、実は、秀吉が奉公先を求めて放浪していたとき、蜂須賀小六と名乗る盗賊にかわいがられた、という伝説もあり、秀吉の美濃での活躍には、いろいろ裏もありそうですね。

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