江戸幕府はどうやって誕生したの?これでわかる「徳川家康」の歴史

「狸親父」などとあだ名をつけられ、なにかと腹黒いイメージのある徳川家康ですが、「人生は重き荷を負ひて坂道を登るが如し」を座右の銘にしていた家康は、幼い頃から苦労の連続。一歩間違うと谷底に転落してしまう、そんな戦国時代を、小国の大名家に生まれながら、ついには天下を取り、江戸幕府を開きました。鎌倉幕府や室町幕府より、ずっと長く続いた江戸幕府。それには、徳川家康の長い人生のさまざまな苦労から得られた、素晴らしい知恵が活かされているのですよ。さあ、徳川家康の歩いたデコボコ道は、いったいどんな道だったのでしょうか。

幼い頃の家康は織田氏と今川氏の人質に

幼い頃の家康は織田氏と今川氏の人質に

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松平広忠の長男として岡崎城に誕生

昔の武士は、生まれたときには幼名を与えられ、元服して正式の名前を名のり、場合によっては晩年に、自らつけた雅号を称することもありました。徳川家康の幼名は竹千代。これは、家康の長男信康にも、さらに孫の三代将軍家光にもつけられた幼名で、将来家督を相続する子につけられていたのでした。しかし家康は、徳川の姓で生まれたのではありません。家康が生まれたのは1542(天文11)年、三河の岡崎城の城主松平広忠の長男ですから、姓は徳川ではなくて松平。

この松平氏ですが、父の広忠がその八代目ということですから、かなり長く続いた大名家ということになりますね。残された家系図をみると、清和源氏につながっているのですが、当時の戦国武将たちに家系図を売る業者がいた、ということなので、どこまで正しいのか不明ですが。家康自身、自分は藤原氏につながっていると言ったこともありますから。家康が生まれたのは岡崎城ですが、松平家自体は、現在の豊田市松平あたりから出発したようです。

2つの戦国大名にはさまれることに…

下剋上の戦国時代のこと、室町幕府によって各国に配置された守護がそのまま戦国大名になるとはかぎりませんね。今川氏は、そもそも室町幕府の足利将軍家の親族で、文字通り由緒正しい守護大名。場合によっては、将軍になることも可能な家柄だったのですよ。当時は、駿河から遠江(とおとうみ)、ちょうど現在の静岡県を支配していました。それに対して織田氏は、尾張の守護斯波氏の家臣だったのですが、まさに下剋上、尾張を支配するようになったのでした。とはいえ、織田氏内部にも対立抗争があり、必ずしも安定した戦国大名にはなっていなかったようですね。

この2つの戦国大名にはさまれた三河の小大名、松平氏。ともかく生き残っていくためには、より大きな大名に従うしかありません。そこで、子どもを人質にして、何かあったらその大名のために先頭に立って戦う、というわけです。6歳のとき竹千代は、駿河の今川氏の人質になるために岡崎城を出たのですが、なんと反対方向に運ばれてしまったのでした。まずは織田氏の人質というわけですね。このとき織田氏には、吉法師というどうにも手に負えない少年がいて、これがのちの織田信長。家康と信長はこのときが初対面。その後、織田氏と今川氏とで人質交換が行われ、竹千代は予定通り駿府城に運ばれたのでした。

桶狭間の戦いで今川義元は戦死

桶狭間の戦いで今川義元は戦死

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家康は今川義元と親戚に

竹千代は、駿府城、現在の静岡市で育つことになりました。人質といっても、閉じ込められているわけではありませんね。もちろん、岡崎城にいる父広忠が今川氏に反旗を翻そうものなら、たちまち処刑ということになったのでしょうが、そんなことは不可能。広忠はすでに部下に殺害され、岡崎城は今川義元に派遣された城代がいましたから。もう帰る場所のなくなった竹千代は、1555(天文24)年、駿府城で元服しますが、このときはまだ「家康」になっていないのですよ。今川義元から「元信」の名前をもらったので、松平元信。

義元の姪と結婚させられましたが、これが、のちに謀反を企んだ疑いで殺害された築山殿。年齢も身分も家康より上の女性だったので、家康もさぞかし苦労したことでしょうね。1559(永禄2)年には、この二人の間に無事に長男が誕生。かつての家康と同じ竹千代という幼名が与えられました。なお、家康はこのとき、元服したときの名前「元信」から、祖父松平清康の「康」の字をもらって、「元康」になっていました。なお、この前年に、家康は初陣を見事に飾り、義元から褒美をもらい、ある意味では順風満帆。しかし、この時点でまだ岡崎城は今川氏の支配下。このままで終わるはずもありませんね。

桶狭間の戦いに負けたのか、勝ったのか

天下取りの夢。きっと当時の戦国大名には、こんな夢があったのではないでしょうか。とはいえ現実は、なんとかして自分と家臣たちの命、それに自分の領地を守ることで精一杯だったかもしれません。今川義元は、足利将軍家の親族でしたから、京に上って天下に号令する、そんなことがたんなる夢ではなく、現実になる日が来たと考えたのでしょう。三河はすでに支配下にあり、尾張などは弱小の大名。自分に刃向かってみても、蹴散らせば済むこと。そう考えたかどうかはわかりませんが、大軍を率いて上洛の道を進み始めたのでした。それは、1560(永禄3)年のこと。

家康、この当時は松平元康が、その大軍の先陣。織田氏が守る鷲津砦と丸根砦を突破して、大髙城に食糧補給。「先陣を切る」、などと言えば恰好のいいことですが、もちろん命がけ。その後、鷲津砦と丸根砦は攻め落とされ、のちに天下人となる織田信長も、このときばかりは降伏するか討ち死にするか、究極の選択を迫られたわけです。余裕の今川義元は、陣中にあっても、化粧をしたり歌舞に興じたりしていたとのこと。桶狭間とは、文字通り「狭間」ですから、大軍は長い縦列となって、休んでいました。そこへ、織田信長率いる少数精鋭部隊が、横から今川義元のいる本陣に突撃。今川義元は不意を突かれて戦死。総大将を失った今川軍は駿府城に撤退。さて、家康はというと、その隙に岡崎城を取り戻したのでした。

松平から徳川の姓に!

松平から徳川の姓に!

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清洲同盟で織田信長と手を組み「家康」になる

長い縦列を組んでいた今川軍のどこに義元がいるのか。ちょうどそのあたりを田楽狭間というのですが、一説によると、家康が秘かに信長に伝えた、とも言われています。今川軍の先鋒をつとめながら、結局今川氏から岡崎城を取り戻したのですから、一理はありますね。1561(永禄4)年には、東三河を占領していた今川氏を攻撃。これで完全に家康は、今川氏とは完全に手が切れてしまいました。今川義元を継いだ今川氏真は立腹。しかし、もうどうにもなりませんね。

家康の伯父の水野信元はすでに、今川氏から織田氏に寝返っていましたので、この伯父のはからいで、家康と信長との「再会」が実現したのでした。1562(永禄5)年、織田信長の当時の本拠地、清洲城でのこと。これを清洲同盟と呼んでいます。このとき家康は21歳でしたから、吉法師と竹千代との出会いから、15年ということになりますね。そして翌年、家康は、「元康」の「元」の字を今川氏に返上して、これでようやくわれわれの知る「家康」になったわけですが、今のところまだ、松平家康。徳川家康誕生まで、もう少しの辛抱ですね。

三河の一向一揆を鎮圧し朝廷から徳川の姓を許される

戦国時代はまた、農民たちが領主に反抗した時代でもありました。各地で一向一揆が起こりましたが、三河も例外ではありません。それは、1564(永禄7)年のこと。なんとかこれを鎮圧した家康は、軍を東に進めたのでした。東三河の土豪たちを配下にし、東三河と奥三河を平定したのが1566(永禄9)年。これで松平家康は、三河を支配する大名になったわけです。配下を、東三河衆・奥三河衆・旗本の3つに分けて、軍制改革をしたのでした。

一方、朝廷からは、従五位下三河守の位を授けられ、これで名実ともに三河の大名。姓も、松平から徳川に変えたのでしたが、ここでひとつ問題が発生。松平氏は、これまで清和源氏の流れだと主張してきたのですが、三河守の位を受けるに際して、正親町天皇から、松平の祖先されている清和源氏の世良田氏が三河守になったことなどない、と拒否されたのでした。いささかややこしい話ですが、下剋上の戦国時代にあってもなお、朝廷は伝統というものを重んじていたようですね。そこで、その世良田氏が、藤原姓の得川を名乗ったことがあるとして、家康が一代限りという条件で、藤原姓の徳川氏を名乗ることになった、という次第。なんだかよくわからない理屈ですが、ともかくこのとき、「一代限りの」徳川家康が誕生した、ということなりますね。

負け知らずの家康が武田信玄には敗北

負け知らずの家康が武田信玄には敗北

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岡崎城から浜松城に本拠地を移す

1568(永禄11)年、織田信長は足利義昭を将軍にして、自らも上洛したのですよ。平氏の流れをくむ自分が将軍になれないので、自分の言いなりになってくれる者を将軍にして、天下人になろうということですね。この同じ年に徳川家康は、凋落しつつある今川氏と戦う武田氏と同盟し、遠江を手に入れようとしたのでした。大井川を境にして、東の駿河は武田領、西の遠江は徳川領。しかしもちろん、現実はそう甘いものではありませんね。結局、家康は武田信玄と敵対することになってしまいました。

今川氏真は、武田信玄との争いによって、本拠地を駿府城から掛川城に移していたのですが、家康はこれを包囲。名門の守護から続いていた今川氏も、氏真の代でついに大名の地位から転落。家康が、自らの手で遠江を手に入れ、本拠地も、自分が生まれた岡崎城から、あらたに築城した浜松城に移したのでした。それは、1570(元亀元)年のことで、今川氏真もこの浜松城に招かれ、家康の保護のもとここで暮らしたという次第。

三方ヶ原の戦いで負け、家康は成長

この年には、織田信長が浅井・朝倉の連合軍と戦った姉川の戦いがありましたね。信長の同盟者である家康も、この戦いに参戦。信長は、領土拡大にともなって、自分の家臣たちを次々にその領国の大名にしていきましたが、家康だけは家臣ではなく、同盟者だったのですよ。とはいえ、戦国時代のこと、約束は破るためにする、という時代にあって、家康が最後まで同盟者としての忠誠を示したのは、見事というほかありませんね。関東では武田氏と北条氏が手を結び、浅井氏と朝倉氏、それに石山本願寺を集めて、将軍足利義昭が信長包囲網を作ったのでした。このとき、家康にも、副将軍と引き替えにこの包囲網に加わらないかとの誘いがありましたが、家康はもちろんこれを拒否。

1572(元亀3)年、身動きの取れなくなった織田信長を討つべく、武田信玄が動き始めたのでした。遠江に進行してきた武田軍に、信長の援軍なしに家康は単独で反撃。しかし、浜名湖の北にある二俣城は落城。家康は浜松城にいたのですが、武田信玄はなんと、浜松城には目もくれず、通り過ぎていったのでした。ふつうなら、よかったと胸をなで下ろすところ、これまで負け知らずの家康は、家臣たちの制止聞くことなく、武田軍を追撃。しかし、織田からの援軍も含めて多数の死者を出して敗北。これを三方ヶ原の戦いといいます。武田軍に浜松城まで押し戻されて、家康はようやく、敗北の意味を知ったのでした。翌年、なぜかわからないけれど、武田軍は長篠城まで戻っていきました。

武田氏が滅亡して家康は駿府城を手中に

武田氏が滅亡して家康は駿府城を手中に

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長篠の戦いから武田氏の滅亡まで

しばらくは隠されていた武田信玄の死でしたが、勝頼が武田氏を継いだあと、1574(天正2)年、東美濃の明智城や遠江の高天神城に攻め込んできたのでした。まあこのあたりは、一進一退の攻防戦というところでしょう。1575(天正3)年、ついに、武田氏の精鋭騎馬武者隊と、織田・徳川連合軍の鉄砲隊とが戦った長篠の戦いが起こりました。結果は皆さん、よくご存じのこととと思います。長篠城主である奥平氏は、家康から褒美をもらいましたが、それは裏を返せば、家康の勢力圏に入ったことを意味しますね。武田氏は、なんとか勢力を盛り返そうと焦るのですが、時代の流れは押し戻すことができません。

1578(天正6)年に、武田信玄と並び称された上杉謙信の死後、越後で相続争いが起こり、勝頼は上杉景勝の側に。これによって武田氏と北条氏の同盟が壊れ、翌年、家康は北条氏と手を組むことに。家康の力の拡大ということになりますね。しかし、それを恐れたのか、信長は家康に、築山殿と長男である松平信康の切腹を命じたのでした。これを拒否すれば、織田氏と徳川氏の同盟関係も終わりですね。結局、家康は妻と長男を死なせることに。ただ、これで信長と家康との関係はさらに親密になり、信長に和睦を申し出ていた勝頼を信長は拒否。ついに武田氏滅亡という事態になったのでした。

駿府城は家康にとって故郷のようなものでした

この戦いはまず、1581(天正9)年の、家康による高天神城への攻撃から始まりました。高天神城は、その名の通り、高い山の上に立つ難攻不落の山城。武田氏の威信を賭けた戦いでしたが、家康は見事これを攻略。あの武田信玄の威光も消失。織田信長は、これまで武田氏に従っていた木曽義昌を引き込み、家康とともに甲府を目指したのでした。1582年(天正10)年の甲州征伐ですね。信長は信濃方面から、家康は駿河方面からの二面作戦。しかも、武田氏の重臣であった穴山信君は、家康についてしまったのでした。

こうして武田氏が滅亡したあと、武田氏に支配されていた駿府城は、家康のものとなりました。人質として暮らしたとはいえ、そこで元服し、結婚し、そして長男を産んだ駿府城。守護から戦国大名になった今川氏の裕福さを、家康は十分に味わったはずです。岡崎城に生まれ、領地を拡大して浜松城を築城し、そしてついに駿府城まで手に入れた家康。今川義元も武田信玄も上杉謙信も、そして織田信長もすべて、京の都を目指して西に向かったのに、家康は東に向かったということでしょうか。

本能寺の変で織田信長が死去

本能寺の変で織田信長が死去

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「敵は本能寺にあり」と本当に叫んだのでしょうか

琵琶湖畔に安土城を築いた織田信長。京ではなくあえてこの地から、天下統一を目指したのでした。1582(天正10)年に、駿府城に落ち着いていた家康と穴山信君は、この安土城に呼ばれました。中国地方の毛利氏、九州地方の島津氏、四国地方の長宗我部氏、東北地方の伊達氏、それに関東地方の北条氏など、まだまだ敵もいましたが、もう畿内では信長に逆らう者などありません。信長は、羽柴秀吉を備中高松城攻略を命じていたのですが、明智光秀を援軍として派遣。自らは、本能寺にわずかな手勢をつれて宿泊していたのでした。

軍勢を引き連れて都をあとにした明智光秀は突然、「敵は本能寺にあり」と叫んで引き返し、本能寺にいる信長を襲った、という話はよく知られていますね。畿内を平定していた信長は、自分を襲った敵が明智光秀だと知って、「是非に及ばず」と言い放ち、「人生五十年……」と謡曲を歌いながら自害したという場面、映画にしたら最高ですね。家康はこのとき、穴山信君と堺をぶらぶらしていたとのこと。この事件を知って、伊賀を越えて難を逃れたといいますから、明智光秀は思いつきで反乱を起こしたわけではなく、周到な準備をしていたはずですね。壮大な安土城も、この騒動で焼失してしまいました。

羽柴秀吉に先を越されてしまいました

三河に戻った家康は、光秀を討つべく軍を整えて京に向かったのですが、備中高松城から戻った羽柴秀吉が、山崎の合戦ですでに光秀を討っていましたね。信長も死に、すでに家督を譲られていた長男信忠も自害していましたから、さて、どうするか。カリスマ信長にひれ伏していた戦国大名たちも、思い思いに武器を取って立ち上がる始末。とくに、北条氏はいまだ羽柴秀吉の言うことなど聞くはずもありません。かつての武田領の甲斐と信濃は、信長の家臣である滝川一益が任されていたのですが、もう支えきれません。武田氏も今川氏もいなくなった今、関東は北条氏直と徳川家康との一騎打ちの様相。

家康がこんなことをしている間に、羽柴秀吉は、1583(天正11)年に織田家の筆頭家老柴田勝家を賤ヶ岳の戦いでやぶり、織田家の家臣の筆頭になっていたのでした。清洲会議のときに自分の膝に抱いていた、信忠の長男三法師の後見役として、邪魔になる者はこうして排除。北条氏直と和睦して、甲斐と信濃と駿河と遠江、それに三河という5つの国の大名となった家康は、信長の次男信雄と手を組んで、羽柴秀吉の野望に立ち向かったというわけです。

小牧・長久手で羽柴秀吉と対決

小牧・長久手で羽柴秀吉と対決

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piaristen

Writer/Editor:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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