江戸幕府はどうやって誕生したの?これでわかる「徳川家康」の歴史

秀吉と家康がにらみ合った戦いでした

1584(天正12)年、信雄と秀吉との合戦が起こり、家康は早速尾張に兵を送りました。
家康は小牧に陣を張り、一方羽柴軍は、犬山城を陥落させ、長久手に到着。
一時的に小競り合いはあったものの、両軍の主力部隊はそれぞれ、小牧と長久手でにらみ合ったまま、戦闘らしい戦闘は起こらなかったのですよ。
この戦いを、小牧・長久手の戦いとはいうものの、一種の持久戦。
6歳で今川家の人質になった家康も、このときにはもう43歳。
動いてはだめだと、わかっていたのですね。

両軍の主力部隊がにらみ合っている間に、いわゆる外交戦が行われていたのでした。
家康は北条氏や土佐の長宗我部氏、秀吉は越後の上杉氏や安芸の毛利氏に近づいていたのです。
結局は、家康の次男を、まだ子どものいない秀吉の養子とすることで和睦が成立。
この次男はのちに結城家を継ぎ、父の家康と養父の秀吉からそれぞれ一字ずつもらって、結城秀康。
これで小牧・長久手の戦いは終わったのですが、それからがまた複雑な外交交渉。
外交とは戦闘のない戦争である、とよく言われますが、その通りですね。

秀吉が関白になりついに天下統一

1585(天正13)年、秀吉は朝廷から関白の職を与えられ、豊臣の姓を許されて、豊臣政権が成立。
それでもなお、家康は北条氏と手を組んで、これに抵抗。
ただ、上田城主である真田昌幸が、この同盟によって自分の領有する土地が奪われるのを嫌ったため、うまくいきません。
それに、家康の体調不良や、家康の領国での天災などにより、さすがの家康も弱気になってしまったのでした。
そのため、ついに1586(天正14)年、秀吉の懐柔に屈して、秀吉の実妹である朝日姫と結婚することに。
これは一種の人質ですが、形式的には家康と秀吉は義理の兄弟になったわけですね。

それでもまだ足りないのかと、秀吉は今度は実母である大政所を、朝日姫の見舞いと称して岡崎城に送る始末。
ついに家康も、上洛することを決意。
大坂城で家康と秀吉の対面が実現したのでした。
つまりこれは、家康が秀吉に臣従したことを明らかにしたことなのですよ。
こうして浜松城に戻った家康は、秀吉の母大政所を送り返し、居城も駿府城に移したのでした。
もう二度と、大坂城にいる秀吉とは戦うことがない、ということですね。

豊臣家の五大老のひとりに

豊臣家の五大老のひとりに

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北条氏が滅亡して家康は江戸城に移動

豊臣秀吉に抵抗する大名として、残るは小田原城の北条氏のみ。
家康は、北条氏政と氏直に宛てて書状をしたためています。
氏直は家康の娘と結婚していたので、この二人は義理の親子でもあったのですよ。
ともかく、もう抵抗するのはやめて、秀吉に臣従しなさい、という内容の手紙で、場合によっては氏直と自分の娘を離婚させる、ということまで書かれていました。
しかし、それでも北条氏政・氏直親子は、小田原城に籠城したまま、いわゆる小田原評定の真っ最中。

1590(天正18)年、秀吉は大軍を率いて、小田原城を包囲。
家康もその軍勢に加わっていたのでした。
結局、北条氏は降伏し、領地はすべて没収。
なんと、家康がその領地、関八州をすべてもらうことになったのでした。
そのかわり、家康の本来の所領と交換する、というのが条件でしたが。
岡崎城も浜松城も駿府城も、家康は手放さなくてはならなかったということですね。
家康は、この交換を受け入れて、居城を、小田原城ではなく江戸城に移したのでした。

豊臣の五大老・五奉行の政治制度

見かけ上は大幅な加増となった家康の所領ですが、まあこれが、秀吉のやり方だったということでしょうか。
家康も自らが関ヶ原の戦いに勝利したとき、これをもっと大々的にやりましたね。
さて、秀吉のその後ですが、1591(天正19)年に奥州平定に自らも出陣しています。
家康もこれに従軍。
1592(文禄元)年には、西国の大名を中心に、朝鮮出兵。
このとき家康は秀吉とともに、名護屋城にとどまることが許されたのですよ。
朝鮮に出兵した大名たちは、妻子を大坂に残すことを命じられたのですが、これもまた秀吉一流の政策。
家康の参勤交代は、これを真似たものと考えていいでしょうね。

1595(文禄4)年、秀吉の甥で関白職を譲られていた秀次が、謀反の疑いをかけられて切腹する事件が発生。
晩年になってようやく実子を授かった秀吉が、実子に自分の跡を継がせたいために、邪魔になった甥を抹殺した事件、とも言われていますね。
しかし、これによって、諸国の大名たちは上洛を命じられ、家康も、おもに伏見城に住んだのでした。
これもまた、江戸幕府の参勤交代の手本でしょうね。
1597(慶長2)年にふたたび朝鮮出兵。
1598年(慶長3)年に秀吉は病に倒れ、まだ幼い秀頼のために、諸大名や側近にその後のことを託したのでした。
家康は五大老のひとりになり、秀吉の側近、たとえば石田三成は五奉行のひとりになりました。

関ヶ原の戦いで勝利して江戸幕府を開く

関ヶ原の戦いで勝利して江戸幕府を開く

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天下分け目の決戦はたった半日で終了

その後まもなく秀吉が死に、秀頼のことを秀吉自身から涙ながらに頼まれた家康は、五大老の筆頭とされ、何かと豊臣家の政策に口を出すようになったのでした。
これに反発したのが石田三成。
しかし、秀吉の側近には、加藤清正を中心とする武闘派もいて、秀吉の死後、彼らの対立が顕著になりました。
これに乗じたのが徳川家康ということですね。
頭脳派の石田三成は、家康を追い落とすためにいろいろ画策をめぐらせましたが、6歳のときに人質として差し出され、その後、55歳で内大臣にまで上り詰めていた家康のこと、政治の表と裏を知り尽くしていたという点では、三成の及ぶところではありませんね。

越後から会津に転封になっていた上杉景勝を討つため、家康を総大将とする東軍が江戸城を出発。
その間に、石田三成は大谷吉継らとともに挙兵。
五大老のひとりである毛利輝元を名目上の総大将とする西軍を結成。
両軍はついに、関ヶ原で対峙することになったのでした。
軍勢の点でも軍の配置の点でも、西軍勝利は確実だったのに、そこは家康。
戦う前にすでに裏工作で勝利していたのでした。
西軍総大将の毛利軍は動かず、秀吉の肉親の小早川秀秋の裏切りもあって、東軍が勝利したことは、皆さんも知っていますね。

江戸幕府が開かれる

関ヶ原の戦いそのものは、すぐに終わってしまったのでしたが、そのあとの処理が大変。
大坂城にはまだ秀頼がいますし、東軍の大名たちにどう報い、西軍の大名たちをどう処理するか。
たとえば薩摩の島津家は、西軍に加わったものの、戦いには参加せず、西軍の負けが決定してから、東軍のなかを突破して退却したことで有名ですが、そんな大名から領地を召し上げるのは不可能。
島津家は所領安堵となりました。
あれやこれやで大変ですが、逆にそれによって、家康の支配力が高まったことも確かですね。

戦後処理が一段落した1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任ぜられたのでした。
将軍になるためには源氏の子孫でなければならないので、藤原姓を称していた家康も、そのあたりはぬかりなく源氏姓に戻していたのですよ。
二条城で祝賀の儀式を行ったあと、なんと1605(慶長10)年にはもう、将軍職を辞任。
もちろんそれは、息子秀忠を二代目将軍にして、大名たちを秀忠に従わせるためですね。

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす

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二条城で豊臣秀頼と会見して決心したのです

1606(慶長12)年、家康は駿府城に移りましたが、政治の実権は握っていましたね。
この年に李氏朝鮮との国交を回復。
1609(慶長14)年には、オランダ使節と会見し、平戸にオランダの東インド会社設立を許可。
1611(慶長16)年には、九男・十男・十一男の末の息子たち3人を、将来の御三家の候補にして、将軍家の男系が絶えたときの備えを万全にしたのでした。

こうして、「隠居」した駿府城から、遠隔操作で江戸幕府の基礎を万全のものにした家康。
あとは、秀吉の遺児秀頼を従わせるだけですね。
1611年(慶長16)年、二条城に秀頼を呼びつけて、会見することができました。
関ヶ原の戦い以後、摂津・河内・和泉、現在の大阪府ほどの領地の大名になっていた秀頼ですが、家康はその成長した姿に、このままでは秀頼に従う大名が出てくると、恐れたのでした。
ここから、家康の目標は、秀頼をどうするかということになったと考えていいでしょうね。

大坂冬の陣と夏の陣、そしてその後の江戸幕府

1611(慶長16)年に、豊臣家を支える有力大名であった加藤清正が死に、次々と豊臣恩顧の大名たちが死んでしまい、豊臣家は孤立する方向に。
1614(慶長19)年、秀頼が再建した方広寺の鐘の銘「国家安康・君臣豊楽」が、徳川家康を呪い豊臣氏の繁栄を願うものだとされ、ついに家康は、大坂城を総攻撃。
真田幸村が大坂城の一角に真田丸を築き、これに対抗したのは有名ですね。
江戸幕府によって取りつぶされた大名と浪人になったその家臣たちが、大坂城に集まった、という側面もありますね。
しかし、大坂城はそう簡単には落城せず、とりあえず和睦。

和睦の条件が、外堀を埋めること。
外堀ばかりか内堀まで埋められた大坂城ではもう、籠城戦などできませんね。
翌年、ふたたび押し寄せてきた家康の軍に、真田幸村は正面から突撃しましたが、これで豊臣家は滅亡。
その年に家康は、武家諸法度や禁中並公家諸法度などを次々と制定。
徳川政権を安定させるための最後の努力をしたあと、翌1616(元和2)年、辞退していた太政大臣の職を受け、その一ヶ月後に突然の死を迎えたのでした。
なんと75歳。
70歳が「古来稀なる」長寿とされていた時代に、それを越えて長生きしたのでした。

家康には学ぶことが多い!

日光東照宮に東照大権現として祀られている徳川家康の一生を、ざっと眺めてみたのですが、いかがでしたか。
家康の75年の人生は、当時としては極端に長いものでしたが、ただ長いだけではありませんでしたね。
どんな苦境のなかににあっても、その先を見据えていて、そのために必要な手段を講じること。
それはときには、人心を巧みに操る「狸親父」に見えることもあったのでしょうね。
徳川幕府の長い歴史の基盤は、この家康にあったのですね。
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piaristen

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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