おさらいしようザビエルの生涯!日本人との出会いが来日の理由?

日本にはじめてキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエル。日本史の教科書に最初に登場するヨーロッパ人であり、肖像画も有名です。でもザビエルがなぜ、どうやって日本にやって来たのか、そしてザビエルがどういう人間だったのかは、あまり知られていません。そこでザビエルの残した手紙にもふれながら、彼の生涯をたどってみましょう。じつは、ザビエル来日にはアンジローという日本人が関わっていたのです。

小国の裕福な家に生まれ、戦争に翻弄された子ども時代

小国の裕福な家に生まれ、戦争に翻弄された子ども時代

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バスク地方の小国で生まれ育つ

フランシスコ=ザビエルは1506年、イベリア半島の北部にあるバスク地方で、三男二女の末っ子として生まれました。
このころバスク地方にはナバラ王国が栄えていて、ザビエルの父はナバラ王国議会の議長をつとめていました。
ちなみにこのバスク地方には昔から気概に富んだ人がおおく、ナバラ王国の首都だったパンプローナではいまでも「サン=フェルミン祭」の際、闘牛の前を人が走りぬけるエンシェロという行事がおこなわれます。
また有名なサッカー選手の出身地としても知られています。

「ザビエル」という姓は、ザビエルの母が結婚の際に持参金として用意したザビエル城(スペイン語ではハビエル城)に由来します。
このザビエル城はいま復元されて観光地となっています。
また「フランシスコ」という名前は、12世紀のイタリアに生まれ、修道会をつくって国民的聖人となったフランチェスコにちなんで名づけられました。
ザビエルの家もこの時代におけるおおくのヨーロッパ人とおなじく、キリスト教徒でした。

ザビエルの生まれ育ったナバラ王国はちいさな国でした。
南ではスペイン王国が力を増して、イスラム勢力をイベリア半島から追い出していました。
また北ではフランス王国がイギリスとの百年戦争に勝利して、中央集権化をすすめていました。
2つの大国にはさまれたナバラ王国は、やがて戦争にまきこまれていきます。
ザビエルもまた、この戦争によって不遇な幼少期をすごします。

裕福な生活から貧乏な逃亡生活へ

ザビエルが6歳のとき、スペインとフランスの戦争がはじまります。
フランスに味方したナバラ王国は、2万近くのスペイン軍に攻められて崩壊しました。
ザビエルの父とふたりの兄はフランスに亡命し、ザビエルは母と姉たちとともに、バスクの地にかくれました。
ザビエル城もスペイン軍に破壊されたからです。
そしてその3年後には父が亡命先で世を去ります。
ザビエルたちはのこされたわずかな財産で細々と暮らしました。

フランスにいる兄たちは、ナバラ王国の復興をめざして抵抗活動をつづけていました。
1521年、ザビエル14歳のときには、首都パンプローナ奪回のため義勇軍をおこしますが、スペインの軍事力のまえに敗れ去ります。
ちなみにこのパンプローナの戦いでスペイン側の若き武将だったのがイグナティウス=ロヨラ。
のちに信仰に身をささげ、ザビエルを誘ってイエズス会を創る人物です。

こうした戦争と一家離散を、ザビエルは多感な時期に経験しました。
そして政治や戦争ではなく、学問によって身をたてようと決意します。
ザビエルの父もかつて大学で法律を学び、一代で地位と名誉をきずきあげたことも、影響していたのかもしれません。
ザビエルは母と姉をのこして、学問の都パリへと旅立ちます。
1525年、ザビエル19歳のときでした。

ザビエルの運命を変えたパリ大学時代

ザビエルの運命を変えたパリ大学時代

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パリ大学で神学を学ぶ

ザビエルの時代のヨーロッパにおいて、学問で身をたてる方法は3つありました。
医学を学んで医者となるか、法律を学んで法律家となるか、神学を学んで聖職者となるかです。
このうちザビエルがえらんだのは神学でした。
彼がパリへ向かったのも、当時パリ大学は神学でもっとも有名だったからです。
ザビエルはここで学んだあと、バスクに帰って教会を開き、いなかで安定した暮らしをしようと考えていました。

パリ大学は4000人の学生がいるヨーロッパ有数の大学で、50あまりの学院にわかれていました。
ザビエルはそのなかのひとつ、聖バルバラ学院に入学を許可されます。
ザビエルはここで寮生活をおくりながら、優秀な成績をおさめていきました。
なお、聖バルバラ学院の院長はポルトガル人で、ポルトガル王ジョアン3世もこの学院に多額の支援をしていました。
この結びつきがやがて、ザビエルをアジアへと渡航させることになります。

1529年、ひとりの老学生が入学し、ザビエルと同室になります。
これがイグナティウス=ロヨラでした。
ロヨラはさきのパンプローナの戦いで足を負傷し、軍人としての出世をあきらめざるをえない絶望のなかで、キリスト教への信仰にめざめ、修行と巡礼の旅をしたのち、みずからの信仰を理論化するためパリ大学にやってきたのでした。
このロヨラとの出会いが、ザビエルの運命をおおきく変えていきます。

人生の転換と、イエズス会の結成

イグナティウス=ロヨラは入学するとすぐに、周囲の学生たちにみずからの考えを熱心に伝えていきました。
ロヨラは内面世界で神を体感することを重視し、「霊操」という実践方法を編み出していました。
これは体操で体を整えるように、霊操によって心を整え、神を体感する方法です。
38歳のロヨラの自信あふれる言葉に、若い学生たちはとりこになり、やがてロヨラを中心としたグループができていきました。

ザビエルは当初、ロヨラを敬遠していました。
学問で身をたてる上での障害だと考えていたのかもしれません。
しかし1533年、長兄と次姉の死という不幸がザビエルをおそいます。
とくに次姉はつねにザビエルを励まし支援してくれていたので、彼女の死はザビエルにおおきな喪失感をあたえました。
そこにロヨラの言葉が響いてきます。
「たとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったならば、何の益があろうか」。
この時期を境に、ザビエルはロヨラとロヨラの語る信仰に惹かれていきます。

やがてザビエルはロヨラの考えに心酔し、いなかでの安定した暮らしよりも、信仰に身をささげる生涯をおくろうと決意します。
そして1534年、ロヨラやザビエルなどパリ大学の7人の学生は、モンマルトルの丘にある小聖堂の地下室にあつまり、清貧・エルサレム巡礼・教皇への服従という誓いをたてます。
これがイエズス会のはじまりです。
ザビエル28歳の夏でした。

イエズス会の発展とザビエルのインド渡航

イエズス会の発展とザビエルのインド渡航

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宗教改革と大航海時代に後押しされたイエズス会

ザビエルたちはロヨラの指導のもと、パリで霊操の修行にうちこみました。
ザビエルの次兄が、年長者にたぶらかされた弟を心配して手紙をよこしますが、ザビエルはこう返信しています。
「この手紙で、私が一生かかっても彼(ロヨラ)から受けた恩義をお返しするつもりであることをお約束します。
彼は、私にとって必要な金や友人たちを幾度も与えてくださいましたし、私の未熟さから気づかぬままに交際していた悪い友人たちからも、彼のお蔭で遠ざかることができました」(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』より書簡1)。

その後ザビエルたちイエズス会は、教皇から修道会として認められます。
時代は宗教改革のまっただなか。
プロテスタントの広がりに対抗するため、教皇はカトリック内に信仰の篤い若者をもとめていました。
教養があり、内面からの信仰が深く、教皇に忠誠を誓うイエズス会士たちはうってつけの存在だったのです。
イエズス修道会の総長にはロヨラが就き、イエズス会の影響力はカトリック内で高まっていきます。

ちょうどおなじころ、ポルトガル国王ジョアン3世からイエズス会宛てに、インドのポルトガル領に宣教師を派遣してほしいという依頼が来ました。
この時代、ポルトガルはスペインとならんで大航海時代を牽引し、アジア各地に拠点を築き、さらなる強化をめざしていました。
拠点の強化・拡大にはキリスト教の布教が欠かせません。
ジョアン3世は、みずからの支援する聖バルバラ学院で結成されたイエズス会に、その布教の役目を託したのでした。

「私を遣わしてください」

当初、インドへはザビエル以外の2名が派遣される予定でした。
ロヨラはいまや自分の片腕となったザビエルを手元に残しておきたかったようです。
しかし1名が病気となり、欠員が出たため、ロヨラはザビエルに尋ねます。
ザビエルは一言、「私を遣わしてください」と答えます。
こうしてザビエルの10年あまりにわたるアジア布教の旅がはじまりました。

1541年、ザビエル35歳の誕生日に、ポルトガルの首都リスボンから彼は船出します。
持ち物は数冊の本と毛布のみ。
胸のなかは、異教の地で布教する使命感に燃えていました。
航海は困難をきわめ、喜望峰をまわり、アフリカ東岸のモザンビークにたちよったころには80人以上の死者を出しました。
ザビエル自身も病気になって、「今日私は七度目の刺絡(静脈から血をぬくこと)を受けました」(書簡13)と書いています。

1年あまりの航海の末、ザビエルをのせた船はインド西岸のゴアに到着します。
このポルトガル最大の拠点で、ザビエルは活動をはじめました。
病院に住みこんで病人の世話をやき、刑務所に行っては囚人の告解を聞き、日曜には教会でキリストの教えを伝えました。
しかしこうした活動にザビエルは満足できませんでした。
ゴアにはポルトガル人も多く、キリスト教の布教もすでにはじまっていたからです。
もっと未開の、だれもキリスト教を知らない土地で布教したい……。
こうした思いが、ザビエルをさらに東へと進ませていきます。

困難なアジア布教のなかで日本人と出会う

困難なアジア布教のなかで日本人と出会う

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インド布教は実を結ばず、東南アジアでは労多くして功少なし

まずザビエルはインド東南の漁夫海岸とよばれる地方へ赴きました。
ここにはまずしい村が多く、ポルトガル人も少ないので、かっこうの布教の地と考えたからです。
しかし2年あまりの布教活動は実を結びませんでした。
村の人々がヒンドゥー教をかたくなに信じていたこと、言葉が通じなかったことなどが理由です。
当初は「大きな成果を挙げる」(書簡19)と書いていたザビエルでしたが、2年後には「(ここの人々は)暗黒の淵に沈み、その霊魂を永遠の地獄に転落させようとしている」(書簡46)と絶望しています。

つぎにザビエルは東南アジアのマラッカおよびモルッカ諸島へ赴きます。
マラッカは中継地として、モルッカ諸島は香辛料の産地として、ともにポルトガルが拠点を築いていて、現地にもキリスト教に関心をしめす人々がいるという噂を聞きつけたからです。
1545年、インドから東南アジアへと赴いたザビエルは、人食いの習慣や島々をめぐる途中の嵐など、たびかさなる困難にもめげず、布教活動をおこないました。
東南アジアでの布教はインドよりも成功しましたが、そうじて労多くして功少なしという状況でした。

ちなみに余談ですが、ある嵐の際、ザビエルが十字架を海にひたして祈りつづけたところ、十字架のひもが切れました。
その後海岸にたどりつくと、いっぴきのカニがザビエルの十字架をはさんで現れたそうです。
このエピソードはのちに各地に伝わり、鹿児島のザビエル教会の鐘にも十字架をもったカニが描かれています。

アンジローと出会い、日本への渡航を決断

1547年の年末、ザビエルはマラッカでアンジロー(またはヤジロー)という日本人と出会います。
アンジローは鹿児島生まれの武士または商人で、ある事情から殺人を犯し、たまたま鹿児島湾に停泊していたポルトガル船にのりこんで日本を逃れました。
その船中でポルトガル人からキリスト教について教えられました。
罪の意識になやんでいたアンジローは、告解と洗礼をして改宗したいと決意します。
そしてマラッカに宣教師がいるという情報を得て、ザビエルを待っていたのでした。

はじめて日本人と出会ったザビエルは、その知識欲と理性的な態度におどろきます。
「もしも日本人すべてがアンジローのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域のなかで、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思います。
(中略)私はアンジローに、もしも私が彼とともに日本へ行くとしたら、日本の人々は信者になるだろうかと尋ねました。
彼は、すぐには信者にはならないだろうと答えました。
彼らの質問によく答えて満足させ、また私の生活態度にとがむべきことを見出さなかったら、半年ぐらい私を試してみたあとで、キリスト信者になるかどうかを考え、判断するだろうと言いました」(書簡59)。

そしてザビエルは日本への布教に希望を見出します。
「その渡航はたいへん危険で、大暴風雨に遭いますし、海上には積み荷を盗ろうと往来する中国の海賊船がいますし、たくさんの船が難破していますけれど、それでも私たちは行きます」(書簡59)。
1548年、ザビエル41歳での決断でした。

鹿児島に上陸したザビエルが見た日本

鹿児島に上陸したザビエルが見た日本

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ザビエル来日の目的はポルトガルの日本進出

ここで、ザビエルが来日を決意したころの日本とその周辺の状況を整理しましょう。

当時の日本は戦国時代で、諸大名が覇権をあらそっていました。
また堺や博多など商人の街が興隆していました。
かれらが利益獲得のため目をつけたのが、東シナ海の貿易です。
琉球を中心として中国や東南アジアをつなぐ勘合貿易のネットワーク、そして台湾や五島列島、平戸を中心とした倭寇の密貿易ネットワークに、諸大名や商人はきそって参入し、莫大な利益をあげていました。

このころポルトガルはマラッカを拠点に、ようやくこれらのネットワークに参入を果たしたところでした。
1543年、鉄砲をのせたポルトガル船が種子島に漂着すると、日本の諸大名はあらたな貿易参入者を歓迎し、ポルトガル船をこぞってみずからの領地の港に迎え入れました。
アンジローが日本を逃れることができたのも、こうした諸大名の思惑によって、ポルトガル船がたびたび入港していたからです。

ただポルトガルはまだ、日本における拠点を築いていませんでした。
当時の日本は良質な銀を産出していたので、日本をよく知るポルトガル商人たちは、日本における拠点をつくることが急務だと感じていました。
ザビエルはこうした状況のなかで、日本への渡航を決意したのです。
彼の第一の目的はキリスト教の布教でしたが、それと同時に、日本における最適な拠点を見定め、ポルトガルの日本進出の足がかりとする役目も担っていました。

「たいへんな好意と愛情をもって迎えてくださいました」

1549年、ゴアで準備をととのえたザビエル一行は、途中マラッカにたちよってポルトガル総督の歓迎と励ましをうけながら、一路日本をめざします。
東シナ海の嵐や台風にもなやまされながら、ついに8月15日、鹿児島湾に上陸しました。
この上陸地点はいま鹿児島市の祇園之洲公園となり、ザビエルの上陸記念碑が建てられています。

ザビエルはまず、アンジロー一族の家に身をよせて、布教をはじめました。
日本語がわからないので、語り伝えるのはもっぱらアンジローの役目でしたが、すぐにアンジロー一族やその近隣の人々が信者となっていきました。
はじめて接する日本人とその習俗に感激したのか、ザビエルは日本上陸後に生涯でいちばん長い手紙を書いています。
イエズス会員に充てたその手紙の一部を紹介しましょう。

「第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人々は今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。
彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。
驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじます。
大部分の人々は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。
(中略)城代や奉行はたいへんな好意と愛情をもって迎えてくださいました。
そして一般の人すべても同じように歓迎し、ポルトガルの地から来た神父たちを見て、皆たいそう驚嘆しております」(書簡90)。
ザビエルの興奮が見てとれるような文章です。

平戸を見聞し、ミヤコをめざす

平戸を見聞し、ミヤコをめざす

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鹿児島を発って平戸へ

手紙にもあるように、鹿児島の薩摩藩主、島津貴久もザビエルを城にまねいて歓待し、またポルトガルやキリスト教について質問したりしました。
当時の鹿児島は堺の商人が琉球へむかうための中継地であり、ポルトガルの参入によってこの堺-琉球ルートがさらに活気づくことを期待していたからです。
島津貴久はザビエルに宣教の許可をあたえ、また家も貸し与えました。

この鹿児島で、ザビエルは1年間をすごします。
なかなか上達しない日本語に苦しみながらも、アンジローの助けもあって、100名ほどの信者ができました。
かれらはインドにおける形ばかりの洗礼とはちがい、内面から信仰するようになった人々でした。
また忍室という名の80歳をこえる高名な僧侶とも親しくなって、キリスト教と仏教とのちがいをさかんに議論したりもしました。

しかし大多数の僧侶たちはザビエルの布教を快く思わなかったので、藩主の島津貴久にキリスト教の禁止を提言します。
島津貴久はなやみつつもこれを受け入れ、ザビエルに対し、ほかの土地での布教をうながします。
ザビエルのほうでも見聞をひろめたかったため、鹿児島を発つことに決めました。
信者たちが泣いて別れを惜しむなか、ザビエルは長崎の平戸にむけて旅立ちます。

山口からミヤコへ、ザビエルの落胆

当時の平戸は倭寇の頭目である王直という人物が拠点をかまえていて、東シナ海の密貿易の中心地でもありました。
ザビエルはこの平戸に2か月だけとどまった後、仲間の宣教師をのこして、ミヤコとよばれている日本の首都へむかいます。
平戸滞在の目的は布教よりもポルトガルの拠点視察だったのかもしれません。
そしてザビエルにとってより急務だったのは、ミヤコで日本国王から宣教の許可をもらい、日本全土にキリスト教をひろめることでした。

平戸を発ったザビエルは途中、山口に立ちよります。
「西の都」とよばれた山口は当時、博多の商人とくんで貿易をさかんにおこなっており、1万人以上が暮らすおおきな街でした。
ザビエルはここで藩主、大内義隆にも謁見します。
しかしザビエルのみすぼらしい恰好のため、好印象をあたえることはできませんでした。
街中でも子どもにはやしたてられたり、石を投げられたりしました。

冬の寒いなかを、ザビエルはなおも東へむかい、まず堺に入ります。
日本有数の商都を見聞したのち、堺商人の手引きで、1551年1月、ようやく京都にたどりつきました。
しかしミヤコの現状は、ザビエルの予想とかけはなれていました。
応仁の乱以来の戦乱で市街は荒れ果て、天皇も将軍も、日本を治める力をうしなっていたのです。
謁見もかなわなかったため、ザビエルはわずか10日ほどで京都をあとにします。
その胸には失望と落胆がひろがっていました。

山口での本格的な布教活動

山口での本格的な布教活動

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