近代を切り開いた男達のドラマがここに!明治日本の産業革命遺産

2015年、日本各地の23の遺跡が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、世界文化遺産に登録されました。ここにはかつて、幕末から明治にかけて、日本の夜明けを夢見て奮闘した男たちのドラマがありました。伊豆、釜石、佐賀、薩摩、長州、長崎、三池、八幡と、各地に眠るかれらの物語を、歴史のおおきな流れと、そして各地の遺跡とともに、紹介していきましょう。

国を守り欧米に追いつくため、日本の産業革命がはじまった

国を守り欧米に追いつくため、日本の産業革命がはじまった

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欧米の産業革命と、大国・清の敗北

ときに18世紀後半。
ヨーロッパのかたすみイギリスで、産業革命がはじまります。
産業革命とは技術革新によって社会が工業化されることです。

まず科学の進歩により、織物機械や蒸気機関が改良されました。
つぎに豊富な石炭が、製鉄の材料となり、蒸気機関の燃料ともなり、街を照らす明かりともなりました。
また改良された機械をつかって、大量生産が可能となりました。
大量の工業製品がつくられるようになると、それを運ぶ輸送手段も発達して、蒸気機関車や蒸気船がうまれました。

このようにして、イギリスは農業社会から工業社会へと変わりました。
そして同時に、大量の工業製品を売ったお金で資本家が労働者を管理する、資本主義が完成しました。
資本家はさらなる市場をもとめて海外に進出し、したがわない土地にたいしては、国と軍隊をうごかして植民地としました。
これを帝国主義とよびます。
産業革命、資本主義、帝国主義という流れはフランスやロシア、アメリカなどにも広まって、19世紀前半には、イギリスをはじめとしたこれら欧米諸国が世界でいちばんの強国となりました。

1840年、イギリスは中国王朝の清と戦争をして勝利します。
産業革命をへたイギリス海軍あいてに、清の海軍はまったく歯がたちませんでした。
やぶれた中国はほかとおなじく、欧米諸国の食いものにされていきます。

日本の産業革命は大砲用の製鉄からはじまった

清の敗北に、日本の知識層は衝撃をうけました。
邪馬台国の昔から日本のお手本であり、つねに東アジア世界の盟主だったあの中国が負けたのです。
このままでは日本も植民地になる……。
この危機感から、日本の近代化がはじまりました。

日本の産業革命はまず、大砲づくりからスタートしました。
中国海軍の敗北をしって、欧米諸国との力の差はまず大砲にあると思われたからです。
また19世紀からは日本近海にも欧米諸国の船がうろつくようになり、沿岸警備の重要性も増していました。
とくに1853年にペリーが4隻の黒船をひきいてやってくると、日本各地で沿岸警備のための大砲が要求されるようになりました。

大砲づくりには鉄が必要です。
古代からずっと日本では、たたらという製法で鉄がつくられてきましたが、たたら場の鉄ではムラがあって、実用の大砲はつくれませんでした。
じっさい、鋳型のまわりにたたらをならべて溶けた鉄を流しこんでも、失敗作ばかりだったようです。
質のよい鉄をつくるため、たたらに代わるあらたな製鉄技術が求められました。

鎖国の日本には欧米の知識はほとんど入ってきませんでしたが、それでも長崎の出島をとおして、わずかばかりの本が流入していました。
そんななかの一冊に『ルイク国立鋳造所における鋳造法』というオランダの本があります。
この本一冊だけをたよりに、あらたな製鉄技術を切り開いた男達があらわれました。
伊豆の江川英龍(ひでたつ)、盛岡の大島高任(たかとう)、そして佐賀藩の技術者たちです。

伊豆代官江川英龍の「韮山反射炉」とかれの業績

伊豆代官江川英龍の「韮山反射炉」とかれの業績

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江川英龍の反射炉づくり

江川英龍(通称は太郎左衛門、号は担庵)は幕府の役人のひとりです。
かれの家は代々、伊豆韮山(にらやま)の代官でした。
かれの父が長生きだったので、35歳まで英龍はけっこう自由に暮らしていたようです。
剣術修行で江戸にも遊んで、同門だった斉藤弥九郎とは生涯の親友となりました。
ちなみに斉藤弥九郎のひらいた剣術道場ではのちに長州藩士の桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔(のちの博文)らが学んでいます。

英龍の領地には相模湾があり、ひごろから海上防衛のため大砲が必要だと痛感していました。
そこで当主になるとすぐに、洋学にくわしい人たちと親交をふかめ、とくに渡辺崋山や高野長英といった蘭学者から知識を吸収しました。
また長崎に留学して、高島秋帆(しゅうはん)という砲術専門家から砲術を学びました。

さまざまな知識をえた英龍は伊豆韮山に帰り、大砲づくりに取りかかります。
1849年、『ルイク国立鋳造所における鋳造法』を片手に、まずは自宅にあらたな設備を試作しました。
反射炉とよばれるこの設備はレンガづくりの巨大な中空の炉で、火炎の熱が天井や内壁で反射してとなりの床にはこばれ、そこで鉄を溶かします。
この方法だと不純物がまじりにくいため、上質な鉄をつくることができました。

試作をおえると、英龍は本格的な反射炉の建設にうつります。
試行錯誤の末、8年後についに1号基が完成しました。
大砲づくりのための良質な鉄が得られるようになったのです。
幕末には各地で反射炉がつくられましたが、萩に1つ、そして韮山の1つのみが現存しています。







英龍は近代日本の形にさまざまな分野でかかわった

江川英龍の反射炉によって、カノン砲とよばれる大砲がつくられはじめました。
また英龍は国防のために、製鉄以外にもさまざまな分野で活躍しました。
自宅でひらいた「大砲塾」もそのひとつです。
門下生には佐久間象山や桂小五郎などがいます。
ちなみに佐久間象山はその後私塾をひらき、吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬などを輩出しました。

また英龍は自宅ちかくに農民をあつめて、日本ではじめて西洋式軍隊を組織しました。
ヨーロッパの号令を日本流にあらためて「気をつけ」「まわれ右」などと訳して使ったのも彼が最初です。
また英龍は非常食としてパンに目をつけ、焼きしめて堅パンとしました。
いま日本のパン業界では江川英龍を「パン祖」とよんでいます。

1853年にペリーが来航すると、英龍は江戸湾の海上防衛を命じられ、品川沖に数個の大砲とその台場を建設します。
これがのちに「お台場」となりました。
また英龍は砲弾の設計や製造、鉄砲の製作、造船技術の改良、ロシア使節との交渉役と、さまざまな仕事に心血をそそぎます。
しかしあまりの激務にからだをこわし、1855年、53歳で亡くなります。
韮山の反射炉を完成させたのは跡をついだかれの息子でした。

現在、静岡県伊豆市の「韮山反射炉」は世界遺産に登録されています。
観光客も増え、地元のボランティアが解説もしてくれます。
アクセスは伊豆長岡駅から東へ1.5キロ、または東名沼津ICから30分弱の距離です。

近代製鉄の父、大島高任の高炉(釜石と高野)

近代製鉄の父、大島高任の高炉(釜石と高野)

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鉄の大量生産をなしとげた高任

大島高任(たかとう)は藩医の長男として盛岡藩に生まれました。
17歳からは江戸や長崎にわたって、西洋医学や治金術、兵学や砲術、鉱物の採取方法まではばひろく学びました。
このころにかれは『ルイク国立鋳造所における鋳造法』の日本語訳にもかかわっています。

1853年に、高任は学識を買われて水戸藩にまねかれ、反射炉の建設にたずさわります。
やがて反射炉を完成させ、大砲づくりにも成功しましたが、高任は納得しませんでした。
反射炉では10時間以上かけてわずかの鉄しか取り出せなかったからです。
もっと大量に鉄を取りだせるあらたな炉をつくろう、そう決意した高任は、地元の釜石に目をつけます。

太平洋沿岸の釜石の地には、たくさんの鉄鉱石がありました。
鉄鉱石は砂鉄とおなじく、鉄の原料になります。
また釜石には木炭用の森林もおおく、そして高温にも耐えられる良質な石も取れました。
そこで高任は「高炉」の建設に取りかかります。
石を高く組んで炉をつくり、炉のなかで木炭を燃やし、上から鉄鉱石を投入して、鉄をつくったのです。

この「高炉」は従来のたたら場とちがって、火をおとす必要がなく、連続した製鉄ができます。
また鉄鉱石からつくられた鉄は砂鉄からつくられたものより質がよく、大砲をはじめいろいろな道具に使うことができました。
こうして、鉄の大量生産という産業革命の土台ができあがりました。
高任がはじめて釜石の高炉に火を入れた12月1日は、いま「鉄の記念日」になっています。

高任の高炉が近代日本の産業をリードした

大島高任はその後、各地に10基の高炉をつくりました。
このうち橋野の高炉跡にはいまも石組みがのこり、「橋野鉄鉱山」として世界遺産に登録されています。
ちなみに高任は高炉づくりのほかにも活躍しました。
地元で学校をひらき、英語・医学・物理・化学などを教えました。
また火薬をつかった鉱山開発をはじめておこない、金・銀・銅の精錬方法も改良しました。
工学寮(現東大工学部)をつくったり、西洋種によるワインの国産醸造をはじめたりしたのも高任です。

高任がはじめてつくった釜石の高炉は、維新ののち、明治政府にひきつがれました。
その後民間に払い下げられ、燃料が木炭からコークス(石炭)となったり、鉄中の炭素を効率的に取りのぞく方法が導入されたり、蒸気機関で空気を送りこんだりと、さまざまな改良が加えられました。
こうした技術は八幡製鉄所にも引き継がれ、そして現代日本の製鉄業にも引き継がれました。
高任の高炉が日本の近代化をリードしたのです。

現在、大島高任は「近代製鉄の父」とされ、日本の製鉄メーカーのHPでもくわしく紹介されています。
また釜石市には新日鐵住金の工場がいまも稼動し、釜石駅の南東2.5キロには「鉄の歴史館」もあります。
また「橋野鉄鉱山・高炉跡」は釜石駅から西へ20キロの山中にあります。

江川英龍や大島高任の製鉄によってはじまった日本の産業革命でしたが、すぐにその中心は西国にうつります。
とくに佐賀、薩摩、長州など、藩をあげて近代化にとりくんだ雄藩が、やがて幕末から明治の日本を動かしていくのです。

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