天皇中心の国家を目指した「大化の改新」とゆかりの地について

必ず歴史の教科書に出てくる「大化の改新」。知らない方はいないのでは?中大兄皇子・中臣鎌足が中心となった政治的改革です。蘇我入鹿をはじめとする蘇我宗家を滅ぼしただけと思っている方が多いはず。しかし、それは単なる序章に過ぎません。天皇を中心とした集権国家を目指した「大化の改新」は、具体的にどのようなものだったのしょうか?一緒に詳しく見ていきましょう。

大化の改新とは?

大化の改新とは?

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大化の改新は、645年(最近では646年からという説もあります。)に行われた古代史の中でも大変大きな政治改革です。
それまで日本の政権を4代に渡って握っていた大豪族である蘇我宗家を中大兄皇子・中臣鎌足らが倒し、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと移り変わるきっかけとなりました。
そしてこの改革は、その後の日本の律令国家建設の出発点となりました。

中心人物 其の一 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

「大化の改新」を行なった中心人物は2人います。
一人は、後に第38代天智天皇となる有名な中大兄皇子です。
生没年626年~671年。
本名は葛城皇子(かつらぎおうじ)と言いました。
父は第35代舒明天皇(じょめいてんのう)・母は第36代皇極天皇(こうぎょくてんのう)という両親ともに天皇であるとても血統が良い皇子でした。
兄弟には、異母兄に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)・同母弟に大海人皇子(おおあまのおうじ)後に天武天皇(てんむてんのう)・同母妹に孝徳天皇の皇后となる間人皇女(はしひとのひめみこ)がいました。
「中大兄」とは皇位継承権が二番目の息子という意味。
「大兄」が皇位継承一権が一番目という意味で兄に「古人大兄皇子」がいます。
しかし、母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)であったため、両親ともに皇族である中大兄皇子が次期天皇に一番近い皇子でした。
しかし、実際は、天皇家より強い勢力を誇った豪族・蘇我宗家や聖徳太子一族などのさまざまな陰謀や思惑が絡み合いなかなかスムーズには、次期天皇として即位はできませんでした。

この時点で次の天皇の最有力候補は、聖徳太子の息子の山背大兄王でした。
しかし、蘇我宗家筆頭の蘇我蝦夷は、蘇我馬子の娘と故・舒明天皇の間に生まれた親戚である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を天皇にしようと画策していました。
蘇我氏は、643年に最有力候補だった山背大兄王を急襲し、斑鳩寺(斑鳩宮に隣接する法隆寺の前身)にて自害に追い込みます。
蘇我氏の横暴は増すばかりでした。
そこで、中大兄皇子は中臣鎌足と協力し蘇我宗家の誅殺を計画。
自身の天皇への道と天皇中心の中央集権国家への道を大きく切り開いていくのです。

その後は、大化の改新という大きな政治改革を成功させ、天智天皇となります。
白村江の戦い・近江宮(現在の滋賀県)への異例の遷都・日本最古の時報・日本最古の戸籍編纂・最古の律令法典である近江令の制定など数多くのことを成し遂げました。

中心人物 其の二 中臣鎌足(なかとみのかまたり)

もう一人の中心人物は、中臣鎌足(のち死後に藤原性を賜り藤原鎌足)。
日本の歴史における最大氏族となる「藤原氏」の始祖です。
このことをご存知でない方も多いかも知れません。
「大化の改新」のでは、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍して、その後、藤原氏繁栄の礎を築き上げた人物です。

生没年は614年〜669年。
中臣弥気(なかとみのみけ)の子と言われおり、中臣氏は本来神官でした。
中流豪族であり代々神官を務める中臣氏は,聖徳太子の生存時代に起こった仏教派蘇我氏と神道派物部氏の戦いでは、物部氏について戦い,蘇我氏に滅ぼされていました。
そして、朝廷内での蘇我宗家の権力に対し,中臣鎌足は密かに蘇我氏打倒へと動き始めたと言われています。
そのために,もともと大変秀才と評判だった中臣鎌足は、中国の兵法や歴史を読み、勉学に励んだと『大織冠伝』(たいしょくかんでん)という中臣鎌足の伝記に記述が残されています。

中臣鎌足と中大兄皇子の出会いについて、興味深い逸話が残っています。
中臣鎌足は、当初は皇極天皇の弟である軽皇子(かるのおうじ)と接触しますが、器量がないと判断し側から離れていきます。
そして、次に目をつけたのが皇極天皇の息子である中大兄皇子だったと言われています。
ある時,飛鳥寺西にある広場で蹴鞠会 (鞠を一定の高さで数人で蹴り続け、回数を競う競技)が行われたとき,中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて自身の革の靴を飛ばしてしまいます。
その様子を見てい中臣鎌足が中大兄皇子の靴を拾って差し出すと,中大兄皇子は跪き靴を受け取った。
その時、中臣鎌足は,まだこの10代の若者中大兄皇子に,自分の探し求めていた君主であると直感したと伝えられています。
そして、鎌足は蘇我宗家の滅亡計画を中大兄皇子に語りかけたそうです。

「大化の改新」が成功して後も、中臣鎌足は政治の中枢で活躍し、病に伏して後も天智天皇となった中大兄皇子から、大化の改新後定められた冠位制で最高の冠位である大織冠という位を授けられ、(歴史上中臣鎌足のみが授けられた)内大臣ちなり「藤原」の姓を賜ります。
そして、その翌日中臣鎌足は亡くなります。
その生涯は、中大兄皇子とともに古代史最大のクーデターを成功させ、二人三脚で集権国家をつくり上げました。
この後、1000年以上におよぶ藤原氏の繁栄と栄光は、はじめて藤原氏を名乗ったこの中臣鎌足から始ったのです。

「大化の改新」の序章 

「大化の改新」の序章 

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乙巳の変とは?

中大兄皇子が目指したのは、先にも述べましたが天皇中心の国家でした。
その目的のために、「大化の改新」の序章ともいえるクーデターを起こします。
それが当時権力を欲しいままにしていた蘇我宗家への日本古代史最大のクーデター「乙巳の変」(いっしのへん)です!

中大兄皇子の父である舒明天皇が亡くなった後、先に記述したように皇位継承候補者は、中大兄皇子だけではありませんでした。
跡目争いを避けるため、中継ぎとして、中大兄皇子の母である宝皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位します。
その後、蘇我宗家が有力候補者の山背大兄王一族を滅ぼします。
当時天皇家の外戚となっていた蘇我宗家の権力は絶大で、その財力や発言力は天皇家を凌ぐほどだったと言われています。
大臣であった蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子で秀才の誉れ高い蘇我入鹿(そがのいるか)は、さまざまな権力を欲しいまま、専制政治を行なっていました。
そこで中大兄皇子は、645年腹心の部下となった中臣鎌足(なかとみのかまたり)や蘇我入鹿の親戚である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)らとともに、蘇我入鹿殺害計画を実行するのです。

決行日は、645年6月12日。
皇極天皇の飛鳥板蓋宮にて、現代の朝鮮半島にあった三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が天皇に貢物を贈る儀式が行われました。
『日本書紀』の記述によると、飛鳥宮に到着した蘇我入鹿は、剣を手放すよう言われます。
普段は用心深い蘇我入鹿を上手いこと誘導し、剣を手放します。
皇極天皇の前に古人大兄皇子・蘇我入鹿・石川麻呂らが進み出ました。
柱の陰には、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、その他に2人の刺客が息を殺して身を潜めてその時を待ち構えていました。
石川麻呂が皇極天皇に対して上表文を読み始めたのを合図に、刺客が飛び出して蘇我入鹿を斬りつける手はずのなっていました。
しかし、刺客は怖じ気づきなかなか飛び出せない。
石川麻呂の声も緊張と不安でいつも以上に震えてしまっていました。
不審に思い蘇我入鹿は問いただしますが、「天皇の前だから畏れ多くて緊張しているだけだ。」と答える石川麻呂。
その瞬間、柱の陰にいた中大兄皇子が業を煮やして飛び出し、中大兄皇子自らが刀で蘇我入鹿の頭から肩にかけて斬りつけ暗殺したと伝えられています。
これが、古代史最大のクーデターと言われる「乙巳の変」です。
当然の出来事に、皇極天皇以下その場にいたものは、何も出来ず呆然としていたと言われています。

息子である入鹿が殺害されたことを知った父の蝦夷は、自宅に火放ち自害したと伝えられています。
その際に、蘇我蝦夷の父の蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子が編纂したと伝えられる貴重な歴史書「天皇記」が灰になってしまいました。
もし、現存したら今伝えられている古代史が根本から大きく変わっていたかも知れませんね。

これで、ここに蘇我本宗家は滅亡しました。
そして、この後、中臣鎌足を祖とする藤原一族が頭角を表すまでの間は、天皇・皇族を中心とする政治が行なわれることになります。

蘇我宗家はそんなに凄かった?

乙巳の変で滅ぼされた蘇我宗家ですが、どのような豪族だったのでしょうか?蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代に絶大な勢力を持っており、代々に渡り大臣(おおおみ)を出していた日本でも有数の有力豪族でした。

日本に仏教が伝来した際に、いち早く取り入れた蘇我氏は、蘇我稲目(蘇我馬子の父)の代になると、蘇我氏は大伴氏と物部氏と並ぶ三大勢力の一角となります。
やがて大伴氏が失脚すると、大和朝廷の最高の官職である大連の物部氏と重要な国務に携わる高官である大臣の蘇我氏の二大勢力となります。
蘇我稲目は、娘である堅塩媛・小姉君を第29代欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となり、豪族としての地位を確かなものにしていきます。
そして、蘇我稲目が欽明天皇とほぼ同時期に亡くなり、この二大勢力の構図は息子の蘇我馬子に引き継がれますが、第31代用明天皇の崩御後に後継者をめぐる争いが起こります。
蘇我氏は、小姉君の子でありながら、ライバルである物部氏に推薦されていた穴穂部皇子を暗殺し、その後の戦いで物部氏を討ち滅ぼすします。
その後は、政権は蘇我氏の一極体制となり、いよいよ蘇我宗家が全盛を迎えます。
蘇我馬子亡き後は、蘇我蝦夷・入鹿は、政治を思いのままに動かしていきました。
蘇我蝦夷は天皇の許可もなく、勝手に蘇我入鹿に対して高い位である紫冠を与えるなど、横暴な行いをしたと『日本書記』に記されています。
そして、先に述べた皇位継承権問題では、蘇我宗家は蘇我蝦夷の妹を母に持つ、中大兄皇子の異母兄・古人大兄皇子(蝦夷からすると甥)を皇太子に据えようと計画。
そうすることによって、蘇我宗家の権力が益々強くなるからです。
そのため、蘇我入鹿は、有力な候補者である山背大兄王を自害に追い込み、聖徳太子の血統がこの事件により滅んでしまいました。
蘇我入鹿は甘橿丘と場所に、飛鳥宮(天皇の住居)を見下ろすように大邸宅を造ります。
蘇我氏の暴政の極みとなるのです。

大化の詔とは

大化の詔とは

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蘇我氏を滅ぼしたあと、中大兄皇子と中臣鎌足らは叔父である孝徳天皇を擁立し、天皇中心の国家建設を具体的に進めていきます。
詳しく内容を見ていきましょう。
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