世が世なら最強の城!?「独眼竜」伊達政宗が建てた仙台城の歴史

仙台について思い浮かべると、やはり歴史に関しては戦国大名・伊達政宗がいちばんイメージしやすいですよね。片目の彼は「独眼竜」というカッコイイ仇名も持っています。そんな彼が仙台に建てた仙台城は、国内でも屈指の難攻不落の名城として知られていたんですよ。いったいどんな城だったのでしょうか?ここでは、仙台城の歴史と、それに欠かせない伊達政宗のひととなりについてご紹介していきたいと思います。きっと訪れてみたくなると思いますよ。

仙台城ってどんな城?

仙台城ってどんな城?

image by PIXTA / 2687012

仙台城とは、現在の宮城県仙台市青葉区にあった城のことです。
城自体は焼けてしまったため、今は石垣と再建された櫓(やぐら)のみが残り、正式には「仙台城跡」と呼ばれています。

仙台城は、標高202mの小高い青葉山に建設されました。
そのため、「青葉城」とも呼ばれているんですよ。
ちょっと雅な雰囲気が漂う、素敵な名前ですよね。

そんな仙台城を建てたのは、東北最強を誇った戦国大名・伊達政宗です。
戦国時代が終わりを告げ、江戸幕府が開かれると彼は仙台藩の初代藩主となり、藩の拠点としてこの城を建てたのでした。

それでは、仙台城の歴史について、次から見ていくことにしましょう。

仙台城の歴史:伊達氏以前

実は、もともと政宗が入城する以前から、この地に城は存在していました。
しかし名前は「仙台城」ではなく、「千体城」、「千代城」と呼ばれていたんです。

鎌倉時代末期から室町時代半ばにかけて、すでにここには領主がいたと考えられています。
島津陸奥守(しまづむつのかみ)という人物が治めていたと言われていますが、詳細は不明です。

やがて時代が進むと、この城は国分氏(こくぶんし)の支配下となりました。
そして、国分盛重(こくぶんもりしげ)という人物が城主を務めていたのです。

実はこの人物、伊達氏の出身であり、政宗の叔父でもあったんですよ。
ただ、後に政宗と仲が悪くなってしまい、伊達氏の支配下から逃げ出してしまいます。
そのため、当時は千代城と呼ばれていたこの城は荒れ果ててしまったのでした。

仙台城の歴史:伊達政宗による築城

仙台城の歴史:伊達政宗による築城

image by PIXTA / 7600754

伊達政宗が仙台城建設に関わるのは、慶長5(1600)年に起きた天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いの直後からです。

それまでの政宗の居城は、岩出山城(いわでやまじょう)という宮城県北部の城でした。
最初の本拠地・米沢からそこに移って12年が経っていました。

関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と、豊臣方に属した石田三成率いる西軍が、政宗のいる東北から遠く離れた関西の地で行われました。

一方、政宗は東北で東軍勢力として、西軍勢力と戦っていたのです。
その戦いの功績によって、政宗の領地が増え、仙台へ移ることにしたのでした。
この時、政宗が地名を「千代」から「仙台」へと改めています。

関ヶ原の戦いから2年後には本丸が完成し、城としての体裁が整いました。
同時に、城下町も一から開発し、のべ100万人を動員した大規模工事を行ったのです。
この時の大事業が、現在の仙台の繁栄につながったわけですね。
ですから、仙台で政宗が尊敬され崇められているのも納得できます。

難攻不落の城・仙台城

仙台城は、青葉山の上に建てられたうえに、東を広瀬川の断崖、西を「御裏林」という深い山林、南を竜ノ口渓谷に守られた、まさに天然の要害でした。
これを攻め落とすのは至難の業だったと言えるでしょう。

そんなすごい城を築いてしまった政宗ですが、城のシンボルとなる天守を造ることはありませんでした。
しかし、天守を建てる「天守台」だけは存在するのですから、意外ですよね。

理由についてはいろいろと説がありますが、時の権力者・徳川家康に対して、敵意のないことを示すためだったとも言われています。
後で詳しく述べますが、政宗は豊臣秀吉が天下人だった頃から問題児的なところがあったので、今度ばかりは目立つのを控えたのかもしれません。

その後、政宗の次の代の2代藩主忠宗(ただむね)が二の丸を建設しています。
これは、青葉山のてっぺんと麓を往復するのが不便だったので、もう少し低い所に執務場所を造ったというわけです。

江戸時代は何度も火災や地震に襲われ、建物と石垣に被害を受けた仙台城ですが、その都度再建され、威容を誇ったまま明治時代に突入していくこととなります。

仙台城の歴史:明治時代以降

仙台城の歴史:明治時代以降

image by PIXTA / 23341472

明治維新に突入すると、江戸幕府の残党と明治新政府軍による戊辰戦争が起きました。
戦場は京都から北上しやがて東北、北海道へ至ります。
その途中に仙台城はありましたが、幸運にも戦場になることはありませんでした。

そして明治4(1871)年、廃藩置県により、藩から府と県に移行すると、仙台藩は仙台県(のち宮城県)となります。
そして、藩主のいなくなった仙台城には、大日本帝国陸軍の部隊である東北鎮台が置かれ、ここを本営とするようになったのでした。

ところが、明治15(1882)年の大火によって、仙台城の建物のほとんどが焼失してしまいます。
加えて、太平洋戦争末期には、空襲によって残っていたわずかな建物もほぼ焼けてしまいました。

戦後、アメリカ軍が進駐しますが、返還後は、二の丸跡に東北大学川内キャンパスができ、三の丸跡には仙台市博物館が建設されました。
仙台市博物館には、仙台藩や伊達家などに関する資料が多く展示・保管されています。

平成23(2011)年の東日本大震災においては、石垣や土塀が崩れる被害を受けました。
しかし江戸時代と同じやり方で積み直すなどして復元されています。

仙台城の構造について

仙台城は、建設当時イスパーニャ(スペイン)からやって来た使節ビスカイノが、その規模に驚嘆して「当国で最強・最良の城のひとつだ!」と絶賛したほどでした。
では、そのスケールはどんなものだったのか、この項目で見ていきたいと思います。

仙台城の広さは、東西約245m、南北約267mあったと言われ、当時でも最大級の城でした。

政宗の時代に本丸と西の丸が建設され、次の代に二の丸、三ノ丸、櫓や門が整備されています。

それでは、もう少し詳しくご紹介します。

伊達政宗が築いた仙台城の顔・本丸

伊達政宗が築いた仙台城の顔・本丸

image by PIXTA / 5800718

関ヶ原の戦いの直後、政宗が建設に着手した仙台城の本丸は、前の項目でも述べた通り、東が広瀬川に面した断崖絶壁、西が山林、南が渓谷と三方を自然に守られた「カタイ」山城でした。

城につきものの天守が存在しなかったことも大きな特徴です。
日本の城というと私たちは姫路城のような豪華な天守を想像しますが、それ自体が造られなかったのですね。

それまではとかく目立つ存在だった政宗が、太平の世となり最高権力者となった徳川氏に睨まれないように、恭順の意思を示したものと言われています。

天守が造られなかった代わりに、本丸には千畳敷と呼ばれる大広間がありました。
政治や儀式に使われた場所で、実際は430畳ほどの広さがあったと言われています。
千畳でなくても、430畳もあったらものすごい広さですよね。
政宗のせめてもの意地だったのかもしれません。

また、大広間の襖絵や壁画は金色に輝き、豪華絢爛そのものでした。
政宗はわざわざ京都から有名な職人たちを呼び寄せ、特注で作らせたのです。
まさに「ド派手」なこの障壁画たちの一部は、仙台市博物館でも見ることができますよ。

本丸に見られるその他の特徴

仙台城本丸の特徴と言えば天守がないことと大広間ですが、他にも特徴がありました。

それが、東側の断崖にせり出した部分です。
これは「懸造(かけづくり)」と呼ばれます。
例えるなら京都の清水寺にある「清水の舞台」を思い出してみて下さい。
これが青葉山の断崖に造られていたら、圧倒的な存在感ですよね。
実際、城下を一望できたうえに、有事には崖を登って侵入してこようとする敵に対して、ここから鉄砲などの一斉射撃を浴びせることもできたのです。

他には、藩主のプライベートエリアである「奥」や、将軍家が来たときだけ開く「御成門(おなりもん)」などの門や各櫓がありました。
「艮櫓(うしとらやぐら)」という櫓が本丸の北東に建てられ、これが天守に相当する建物だったと言われています。
艮というのは北東の方角を意味しています。

2代藩主忠宗による二の丸

2代藩主忠宗による二の丸

image by PIXTA / 2064468

政宗の後を継いだ2代藩主伊達忠宗によって、二の丸が造られました。
寛永16(1639)年に完成しています。
この頃は、ちょうど江戸幕府によって鎖国が始まったあたりですね。

二の丸は、以後、明治時代まで仙台藩の政治の中心として機能しました。
藩主の居所であり、政務を執る場所でもあったのです。
能舞台も設けられていたそうですよ。

本丸は青葉山の頂上にあり、麓との行き来が不便でした。
それを考えて、忠宗は少し低い場所に実用的な二の丸を造ったわけです。

二の丸焼失の理由

明治時代になると帝国陸軍が駐屯しました。
しかし、建物自体は明治15(1882)年に焼失しています。

この理由というのが、ただの火災ではありませんでした。

明治10(1870)年に起きた、西郷隆盛を中心とした勢力が明治政府に反旗を翻した西南戦争による戦没者の招魂祭を行おうとして、花火を打ち上げたのです。
ところが、不発のまま落ちてきた花火が地上で点火してしまい、大火災となってしまったのだそうですよ。

現在、焼失した二の丸後は東北大学の川内キャンパスとなっています。
こんなところで学べたらいいなあと思いませんか?







仙台城で唯一復元された大手門脇櫓

仙台城で唯一復元された大手門脇櫓

image by PIXTA / 15768012

仙台城の建造物のほとんどは天災や戦災でなくなっていますが、二の丸の正門だった大手門は、仙台城の「顔」でもあり、2階建て構造の飾り立てられた立派なものだったそうです。

しかし現在、この場所で、仙台城で唯一の復元建造物を見ることができます。
それが、大手門のすぐ横にあった脇櫓(わきやぐら)なんですよ。

戦争で焼けてしまったのですが、昭和42(1967)年に再建されました。
復元ではありますが、江戸時代の姿を想像するには十分な佇まいです。

大手門復元を望む声も上がっていますが、まだ実現していません。
しかし、いつか立派な大手門の姿を見られる日が来るといいですよね。

西の丸と三の丸

西の丸は、今は宮城縣護国神社となっており、明治維新の戦役などで亡くなった宮城県人やそれにゆかりのある人々を祀っています。

三の丸は、かつては藩の米蔵だったそうで、城下絵図に「御米蔵」という記載があります。
年貢米を収めていたと考えられています。

また、近年の発掘調査で陶磁器などが発見され、ここには政宗時代の庭園や屋敷、茶室があったことがわかりました。

三の丸跡には、現在、仙台市博物館があり、仙台城跡を訪れるなら合わせて見ておきたいおすすめスポットですよ。

仙台城の重要箇所:大橋と御裏林

仙台城の重要箇所:大橋と御裏林

image by PIXTA / 14740083

仙台城と城下町の間には、広瀬川という川が流れていたため、大橋という橋が架けられていました。
明治25(1893)年に鉄橋となっています。
軍が駐屯するなら、木製の橋では心もとなかったのかもしれませんね。

橋の大きさを想像できる跡が、今でも川底に見られます。
大きな穴が川底に開いているのですが、これは橋脚の柱を支えるための穴で、岩盤まで掘り込んだため、今でもその跡を川底に見ることができます。
ぜひ、探してみて下さい。

一方、御裏林は、仙台城が要害とされる理由のひとつでもある、城の西側の山林を指します。

江戸時代は勝手に切ったり立ち入ったりすることはできませんでした。
また、土塁をもうけて、敵が入れないようにもしたそうです。

御裏林には、本丸の水源である「御清水(おすず)」があったので、色々な意味で「超」がつくほど重要な場所だったわけですね。
だからこそ、勝手に立ち入ることはできず、土塁まで作って守ろうとしたのでしょう。

今でも、御裏林には貴重な動物が生息しており、天然記念物「青葉山」として保護されているんですよ。
政宗以来の自然が残されていることに感動です。

仙台城跡のシンボル・伊達政宗騎馬像

仙台城跡のシンボル・伊達政宗騎馬像

image by PIXTA / 13290517

仙台のガイドブックやパンフレットに必ず登場する伊達政宗の銅像を、何らかの手段で見たことがある方は多いと思います。
勇壮なあの騎馬像は、仙台城跡の本丸の天守台の上に立っているんですよ。

特徴的な兜と、眼光鋭い伊達政宗像は、カッコいいとしか言いようのない凛々しい姿ですので、訪れた際にはぜひカメラにおさめて下さいね。

この騎馬像は、宮城県出身の彫刻家・小室達(こむろとおる)の作品です。
慶長6(1601)年、仙台城に政宗が入城した時の姿をモチーフとしているそうですよ。

しかし、仙台の顔である伊達政宗騎馬像も、戦争に巻き込まれました。
太平洋戦争の折、武器生産のために金属回収令が出されたため、この騎馬像も撤去されてしまったのです。
復元されたのは、戦後しばらく経ってからの昭和39(1964)年のことでした。

なお、仙台市博物館には、金属回収令で撤去された後にかろうじて残った胸から上の部分が胸像として展示されています。

騎馬像だけでなく、台座の部分にも注目です。

ここには、政宗元服の図や、政宗がヨーロッパに派遣した使節と部下・支倉常長(はせくらつねなが)を見送る図、朝鮮出兵の時の姿、朝廷から官位を賜り正装した姿など、様々な彼の姿が彫られています。
ぜひ見てみて下さいね。

眼帯をしていない政宗像、その理由

伊達政宗騎馬像をよく見上げてみると、私たちが政宗のトレードマークだと思っている眼帯をしていないことに気付くはず。
どうしてなんでしょうか。

実は、政宗の肖像画なども眼帯をしていないものが多く見受けられます。
それだけでなく、失われたと言われている右目も描かれているんですよ。

これは、政宗が「親からもらった大事なものがひとつ欠けてしまったのは不敬であるから、きちんと両目を描くように」と命じたからなのです。

伊達政宗騎馬像もそれにならっているのでしょうね。

ちなみに、眼帯をした政宗のイメージが定着したのは戦後のことだと考えられています。
映画やドラマの影響が大きく、特に大河ドラマの主人公となったために、あのような眼帯姿が一般的に印象付けられたわけです。
実際には布で覆っていただけとも言われているんですよ。
ファンとしては、眼帯姿でカッコ良くいて欲しい気もしますけれど。

さて、それでは仙台城と切っても切り離せない人物・伊達政宗について、次の項目から触れていくことにしたいと思います。
とても面白い人物なので、ご期待下さい。

東北の雄・伊達政宗の野望

出羽(山形、秋田の一部)、陸奥(青森、岩手、宮城、福島、秋田の一部)を支配し、東北地方に覇を唱えた戦国大名・伊達政宗は、仙台藩の初代藩主となり仙台城を建設した人物です。

彼が生まれたのは永禄10(1567)年。
伊達輝宗(てるむね)と最上氏の姫・義姫(よしひめ)との間の嫡男でした。

ちなみに、大河ドラマで一気に人気が出た真田信繁とは同い年になります。

政宗は幼少時に天然痘にかかり、そのせいで右目を失明してしまいました。
しかし片目となっても伊達氏の後継ぎとしての器量に支障はなく、天正12(1584)年に18歳で家督を継ぐこととなります。
ここから、政宗の東北地方制覇に向けての進撃が始まるのです。

周辺の戦国大名たちとの熾烈な戦を繰り広げ、やがて政宗は南東北をほぼ手中におさめます。
この領土の広さは、全国でも指折りの規模でした。
そして彼は東北の雄として存在感を際立たせていったのです。

面白いけど問題児

面白いけど問題児

image by PIXTA / 1638487

快進撃を続けていた政宗ですが、それ以上の進撃は豊臣秀吉という天下一の戦国大名によって阻まれます。

天正18(1590)年、秀吉は天下統一のために関東の北条氏を攻めていました。
その際、政宗にも参戦を要請しますが、政宗は北条氏との親密な関係があったことからなかなか応じず、結局4ヶ月も遅参してしまったのです。

4ヶ月の遅刻、現代なら考えられませんし、当時でも切腹以外の処分はないだろうと考えられていました。

ようやくやって来た政宗ですが、ここで何とも目立つパフォーマンスをやってのけます。

何と、白装束を身にまとって現れ、死ぬ覚悟があると暗に示したのでした。
これには秀吉がかえって面白がり、政宗は許されたのです。

その後、秀吉に従うようになった政宗ですが、もう翌年には問題を起こします。

東北で起きた一揆を、政宗が扇動していたことがばれてしまい、秀吉に召喚されたのです。
これもまた死罪ものの大ピンチでした。

さて、今度は、政宗はどうしたのでしょうか。

京都へやって来た政宗の行列を見て、京都の人々は仰天しました。

白装束に加えて、政宗は、巨大な黄金のはりつけ柱をお供の者に担がせていたのです。
そして秀吉に対しては、一揆の扇動については身に覚えがないと(本当はあるんですが)堂々と弁明し、これまた許されてしまったのでした。

とはいえお咎めなしというわけにはいかず、領地を減らされ、岩出山城(仙台城へ入る直前の居城)へと移されました。

実はこれだけではなく、秀吉の後継ぎと目されていた秀次が切腹させられた際、彼と親しくしていた政宗は、危うく連座させられそうになっています。
何とか許されましたが、とにかく問題が絶えない存在だったのですね。

とはいえ、政宗は元々秀吉に早くから従っていたわけではなかったので、豊臣政権内で重要なポストにつくこともありませんでした。
ちょっと目を光らせておかないとまずいヤツ、そんなふうに見られていたことでしょう。

やっぱり食えない男

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍に味方しました。
と言っても関ヶ原での本戦ではなく、東北の自分の領地で、西軍に付いた上杉景勝(うえすぎかげかつ)と戦ったのです。

この直前、政宗は家康から「百万石のお墨付き」をもらっていました。
それは、秀吉時代に岩出山城に移されたせいで失った領地が上杉方のものとなっていたため、それを戦によって自力で取り戻して領地にしても良いというものでした。
領地を回復すれば政宗は文字通り百万石の領地を持つ大名になり得たので、家康からの許可は百万石のお墨付きと呼ばれたのです。

上杉軍と戦った政宗ですが、その後またも一揆を扇動し、それにつけ込んで近隣大名の領地を獲ろうとしました。
本当に食えないし懲りない人物ですよね。

一応、不問に付されはしましたが、このことによって百万石のお墨付きはなかったことにされ、領地が増えることはありませんでした。
身から出た錆なので、こればかりはどうしようもありません。
結局、政宗は60万石の一大名におさまることとなりました。

野心を持ち続け、飼い慣らせない政宗は、秀吉にとっても家康にとっても油断大敵な存在だったことでしょう。
そこがまた、後世の私たちにとってはたまらない魅力でもあると思います。

仙台城建設とヨーロッパとの貿易

仙台城建設とヨーロッパとの貿易

image by PIXTA / 28043089

関ヶ原の戦いが終わった直後、政宗は仙台城の建設に取り掛かります。
約1年で本丸を完成させ、ここに仙台藩が誕生することとなりました。
そして政宗は仙台藩初代藩主となったのです。

前述の通り、家康と江戸幕府に睨まれるようなこともあったためか、政宗は仙台城の天守を造りませんでした。
しかし、天守が無くとも超一級の城だったことには変わりありません。

ちょうどそのころ、ヨーロッパへの関心を高めていた政宗は、イスパーニャ(スペイン)との貿易を考えており、仙台を訪れた使節のビスカイノは仙台城の素晴らしさを賞讃しています。

政宗は自分の部下である支倉常長をヨーロッパへ派遣することを決めます。
行き先はスペイン王フェリペ3世とローマ教皇パウルス5世の元でした。
これが、慶長遣欧使節と呼ばれる使節団となります。
これによって、政宗はヨーロッパの珍しい品々などを手に入れることになりました。

ちなみに、フェリペ3世の時代のスペインは、彼の父フェリペ2世が築いた「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたほどの国が衰えていく時代です。
そして、そのフェリペ2世と覇権を争ったのが、イングランド(イギリス)のエリザベス1世になります。
時代としては、だいたいこの頃が世界と日本の同時代に当たるんですよ。

次のページでは『大坂の陣とその後の政宗』を掲載!
次のページを読む >>