幕府No.2が人々の目の前で暗殺!桜田門外の変をわかりやすく紐解く

桜田門外の変について、皆さんはどんなことをご存知でしょうか。幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門の外で水戸浪士らに暗殺された事件ですが、それに至るまでの経緯は様々な状況が絡み合ったとても複雑なものでした。また、井伊直弼が一方的に悪いイメージを持たれがちですが、彼はいったいどんなことをしたのでしょうか。そして本当に悪だったのでしょうか。そこで、この記事では、桜田門外の変を中心とした当時の政治情勢や井伊直弼という人物などについてわかりやすくご説明していきたいと思います。

桜田門外の変っていったいどんな事件?

桜田門外の変っていったいどんな事件?

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桜田門外の変は、安政7(1860)年3月、幕府の最高職である大老の井伊直弼が江戸城へ向かう途中に、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された事件です。

江戸幕府においては老中が一般的には最高職でしたが、大老は非常時に置かれた職であり、さらにその上に位置していました。
いわば将軍に次ぐNo.2だったのですから、その人物が殺されたとなれば一大事中の一大事だったわけですね。

井伊直弼は井伊家の当主でしたが、井伊家とは徳川家に長い間仕えてきた古参の家臣でした。
暗殺側の水戸藩は、徳川将軍家の親戚筋である御三家のひとつでもあり、そうした巨大勢力同士の仲が悪化したことは、それを制御しきれなかった幕府の権威の失墜の表れでもあり、その後の幕末に大きな影響を与えることとなるのです。

後、幕末に向けては尊王攘夷運動の高まりがあり、それが江戸幕府打倒と慶応3(1867)年の大政奉還につながっていくということになります。

尊王攘夷とは、「王を尊び 夷を攘う(さらう)」という古代中国の春秋時代の思想から来ています。
周という国家の王を尊び、異民族を追討するという考えでした。
それを日本にあてはめたのが国学者たちで、天皇を尊び異国を排除するという考えとなり、それを攘夷と呼ぶようになったのです。

こうした状況を念頭に置きながら、あらためて詳しく桜田門外の変について見ていきましょう。

桜田門外の変の背景その1:将軍継嗣問題

桜田門外の変の背景その1:将軍継嗣問題

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井伊直弼が大老という臨時職に就任する直前、幕府はまさに非常事態にありました。

2つの大きな問題がありましたが、そのひとつは将軍継嗣問題です。

13代将軍徳川家定は、病弱で後継ぎの男子に恵まれる見込みはありませんでした。
ちなみに正室は大河ドラマの主人公にもなった天璋院篤姫です。

将軍に世継ぎが生まれないだろうということで、2つの勢力がそれぞれ候補を担ぎ上げて火花を散らすようになりました。
南紀派と一橋派です。

南紀派とは、徳川御三家のひとつ・紀州徳川家の徳川慶福(よしとみ・後の家茂)を推しており、筆頭は井伊直弼でした。
他にも会津藩主松平容保(新選組を組織した人物)や老中、大奥などがこちらに付いていました。
彼らが慶福を推した理由としては、彼が将軍のいとこであり血統が近いということが最大の強みだったのです。

一方、一橋派は一橋慶喜を推しました。
彼は御三家の水戸徳川家の前藩主であり水戸藩の最大実力者でもある徳川斉昭の息子でもありましたし、何より聡明の誉れが高かったのです。
そんな彼を支持したのは、有力大名である福井藩主松平春嶽や薩摩藩の島津斉彬らでした。

それに加えて、ここには当時来航したペリーの黒船の影響もあったのです。

南紀派は開国志向でしたが、一橋派は対外問題を憂慮しており、どちらかというと外国を排斥する傾向にあったのでした。
加えて、こうした問題を処理するためには慶喜のような聡明な人物を選ぶのが良いと主張していました。
これもまた、両派の対立に影を落としたのです。

結局、将軍継嗣問題は将軍家定の意向もあり、慶福が次の将軍に決まりました。
とはいえ、朝廷は一橋派に同調気味ではあったのでした。
これも後に響いてくることとなるのです。

桜田門外の変の背景その2:修好通商条約締結

桜田門外の変の背景その2:修好通商条約締結

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黒船来航後に日米和親条約が結ばれた後、安政5(1858)年にはアメリカと日米修好通商条約が結ばれました。
俗にいう不平等条約ですが、どんなところが不平等だったのでしょうか。

まず、アメリカ側に領事裁判権を認めました。
領事裁判権とは、外国人が在留国で罪を犯しても、裁くのはその本国の領事ということです。
これなら重い罪になるわけがありません。

また、日本に関税自主権がありませんでした。
自国のモノが外国のモノを競争する力が無い場合、外国のモノに関税をかけて価格を吊り上げ、自国品と競争させるのが一般的なのですが、関税を自由に決める権利がいなければ、自国品を保護することができず、自国産業の衰退を招くことになってしまうのです。

しかも、こうした不平等条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだのでした。
これが安政五ヶ国条約といいます。

この条約が締結された背景もまた問題でした。

本来ならば天皇の許可(=勅許)が必要なのですが、締結にあたってなかなか孝明天皇の勅許が得られずにいました。
井伊直弼は本当は勅許がなければいけないと考えていましたが、なかなか勅許が下りない事情を鑑みて、やむなくGOサインを出し条約を締結してしまったのです。
これに対しては反対派の批判が沸き起こることとなりました。

とはいっても、条約を締結することで終わった鎖国というもの自体は、朝廷ではなく幕府が始めたものでした。
そのため、勅許は必要ないという考え方もあったということを付け加えておきましょう。

事態をさらに混乱させた「戊午の密勅」

事態をさらに混乱させた「戊午の密勅」

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井伊直弼による強硬な条約締結が行われると、すかさず一橋派の反発が起きました。

徳川斉昭や一橋慶喜らが無断で江戸城に登城し、井伊を詰問したのです。
しかしその数日には次の将軍が慶福に決まったことが発表され、やがて一橋派に将軍家定の名で無断登城に対する処分として謹慎などの命が下されました。
ところが、命の翌日に家定は死去しています。
ちょっと不自然すぎますよね。
そのため、この裏には井伊の指図があったのではと考えられてもいます。

勅許無き条約締結と一橋派の排除に対しては、彼らと同様攘夷論を唱えた公家たちや、孝明天皇までもが怒りを示しました。
そこで何と、天皇は「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」という天皇からの直接命令を水戸藩に下したのです。
水戸藩は徳川斉昭が前藩主として背後に控える攘夷派の急先鋒でした。
この密勅の内容は、勅許無き条約調印の釈明を幕府に要求することと、御三家や諸藩に幕政の刷新と団結を求めるというものでした。

こうした密勅が、幕府でなく一大名の治める一つの藩に下されることは、前代未聞でした。
しかも、幕府の頭の上を飛び越えての密勅ですから、幕府の面目も丸つぶれというものです。
幕府の、一橋派と朝廷に対する不信感は増大しました。

密勅を受け取った水戸藩はというと、密勅の写しを有力藩に送りつけて協力を求めました。
しかし、さすがに当時は幕府の威光がまだ強く、他の藩は尻込みするなどまったく相手にすることはありませんでした。

幕府分裂の危機。
さて、井伊はどんな手を使ってこの危機を治めたのでしょうか。

井伊の苛烈な弾圧!安政の大獄

井伊の苛烈な弾圧!安政の大獄

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水戸藩が戊午の密勅を受け、各大名にこの写しを送付したことは、井伊にとっては反対派を潰す絶好のチャンスとなりました。

井伊は、密勅は孝明天皇の意思ではなく水戸藩によるものだとし、弾圧を始めたのです。

腹心の老中・間部詮勝(まなべあきかつ)や京都所司代・酒井忠義らを京都へ送りこみ、一橋派と関係の深い公家を捕らえて断罪しました。
他、幕府批判を繰り広げる諸藩の藩士を捕らえて獄に放り込み、処刑しました。
罰せられたのは、皇族や公家、僧、藩主や浪人、学者、町人にまで及び、連座者は100人以上に上ります。
一橋慶喜や水戸藩主、尾張藩主は謹慎処分を受け、徳川斉昭は永蟄居という厳しい処分となったのです。

こうした処分を受けた中には、松下村塾を開き幕末志士たちを教えた吉田松陰らが含まれていました。

これが安政の大獄と呼ばれる弾圧です。
非常に厳しく過激な弾圧だったため、井伊は、尊王攘夷派からは特に恨みを買うこととなりました。
特に水戸藩関係からの怒りは凄まじく、これが桜田門外の変へとつながっていくわけですね。

水戸藩内でのすったもんだ

水戸藩内でのすったもんだ

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水戸藩は水戸藩で、天皇から受け取った戊午の密勅を朝廷に返すかどうかで大揉めでした。
返納派と返納反対派がおり、反対派が過激化していったのです。

そこへ安政の大獄が起こり、処罰者が続出することとなりました。
水戸藩の家老までもが切腹の沙汰となり、前藩主・徳川斉昭が永蟄居(自宅の一室に永久に謹慎する)という厳しい処罰だったものですから、井伊に対して過激派が怒りを強めたのですね。

そして幕府からは密勅を朝廷に返すように要請がありました。
これを受けて返納派と反対派は本格的に揉めはじめ、衝突まで起こりました。

加えて、安政7(1866)年1月15日に水戸藩主・徳川慶篤が江戸城へ登城したとき、井伊によって密勅の返納が強く求められたのです。
井伊の要求は、1月25日までに密勅を返納すること、もし遅れたならば水戸藩の改易(領地没収)の可能性もあると示唆するものでした。

これは水戸藩内の過激派を激怒させることになりました。
そして過激派の主流は井伊の暗殺のために江戸へと向かったのです。
彼らの考えは水戸藩内でメインだった尊王攘夷の思想でしたが、それを実現するためには幕政を正さなければならない、ならば井伊をどうにかして排除しなければならないという方向に向きはじめていたのでした。

過激派の水戸藩士らは、1年余りもの間、江戸に潜伏してチャンスをうかがっていました。
その間、水戸藩は何もしなかったわけではなく、彼らの不穏な動きを察知して召喚状を出したのですが、彼らが応じなかったのでした。

そして同じ年の3月1日、水戸藩士と思想を同じくする薩摩藩士らが集い、3日に井伊の暗殺を決行する計画が練られました。
それは、登城する井伊を江戸城の桜田門の外で襲うというものだったのです。

そして翌2日、彼らは宴会を開き、水戸藩に累が及ばないようにあえて除籍願いを出し、浪士となったのでした。

桜田門外の変、当日

桜田門外の変、当日

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安政7(1860)年3月3日は、早朝から大雪に見舞われていました。

井伊直弼のいる彦根藩邸から桜田門までは、327m~436mほどの短い距離。
井伊の乗った籠を担ぎ、進んでいく行列は総勢60人ほどでした。
しかし、沿道には大名行列を見ようと人々が待ち構えていたのです。

そんな衆人環視の中、浪士たちは行列に襲いかかりました。
斬り合いの末、井伊を籠から引きずり出し、首を刎ねたのです。
この間、わずか十数分でした。

彦根藩60人ほどの行列に対し、襲撃した浪士たちはわずか18人でした。
なぜ暗殺が成功したのでしょうか。

桜田門外の変当日の状況

暗殺の成功に関しては、当日の天候が大きく左右していました。

当日は季節外れの大雪が降り、視界不良だったのです。
そのため、彦根藩士らは合羽を着ており、素早く動くことができませんでした。
加えて、刀の柄と鞘に雪よけの袋をかけており、すぐに抜刀できなかったのです。
これも不運でした。

また、大名行列の籠を江戸の市中で襲うなどということはかつて前例がなく、警護が手薄だったのです。

しかし、井伊は居合の達人としても知られていました。
そんな彼が何もできずに首を取られたというのも不思議な話ですよね。

これにも理由がありました。
井伊は籠の中で座った状態でしたが、その時に腰から太ももにかけて銃弾が貫通しており、動くことができなくなっていたのだそうです。
ただ、銃弾の向きなどで様々な説があり、この詳細はまだはっきりとは判明していません。

とはいえ、動けずにいたところを籠に刀を突き立てられて瀕死の状態となった井伊は、籠から引きずり出され、すぐに首を刎ねられてしまったのでした。

襲撃現場から数百メートルのところの彦根藩邸から関係者が駆け付けたときには、暗殺劇のすべては終了していました。

関係者たちがしたことと言えば、死者や負傷者を収容し、籠や切られた指や腕、耳まで回収したことでした。
血に染まった雪まで集めて持ち帰ったそうです。
とにかく、その場から暗殺の痕跡を消すのに必死でした。
しかし、沿道の人々はそれを見ていたため、井伊暗殺の話はあっという間に広まってしまったのです。

時の大老、幕府のNo.2でもある井伊直弼を暗殺した水戸浪士たち。
しかし、彼らのその後が気になりますよね。
浪士たちの末路について、次の項目でご説明しましょう。

襲撃者たちと水戸藩のその後

井伊を襲撃した水戸浪士らは、その場で死亡した者のほか、切腹したり、捕えられて斬首されたりと様々な末路を辿りました。
しかし、2名は生き延びて潜伏生活を送り、明治時代まで生きています。
ただ、彼らは生前、この襲撃の詳細については口を閉ざしました。

水戸藩内においては、残った急進派たちが尊王攘夷運動に身を投じました。
そのため、水戸藩では保守派と改革派の争いが続くこととなります。
また、徳川斉昭は永蟄居のまま亡くなりましたが、その息子・一橋慶喜はやがて江戸幕府15代将軍に選ばれ、徳川慶喜となって大政奉還を行い、幕府の終焉を見届けることとなったのでした。

暗殺直後の彦根藩と幕府の動揺

水戸浪士らによって籠から引き出され暗殺された井伊直弼は、首を刎ねられていました。

実は、その首は浪士たちによって持ち去られ、その浪士が自決した場所の前にあった邸宅の主・遠藤胤統(えんどうたねのり)が預かっていたのです。

遠藤は若年寄という幕府の重要ポストにあった人物でした。
そのため、井伊の顔はわかっていたはずです。
しかし、遠藤家・井伊家・幕府が相談した結果、首は同じく討死した彦根藩士のものとし、負傷した井伊を遠藤家が収容していたので井伊家に引き渡すという体で、事態の収拾を図ったのでした。

井伊家に送り届けられた首は胴体と縫合されましたが、井伊の死自体は隠され、重傷(もしくは急病)とされていました。

明らかに暗殺されていて、その噂が広がっていたというのに、ちょっと滑稽ですよね。
どうしてそんなことがまかり通ったのでしょうか。

それには、当時の武士の家督相続のシステムが関係しています。

後継ぎを決めない、もしくは後継ぎがいないまま当主が死んでしまうと、お家断絶となってしまうことになっていたのです。

家康のころから徳川家に仕えた名門・井伊家を断絶させるわけにはいきませんから、井伊家は息子による跡目相続をすぐに幕府に願い出て、幕府もそれを認め、井伊家は断絶を免れたのでした。
幕府側としても、騒ぎがこれ以上大きくなることを防ぎたかったのです。
そのため、2ヶ月もの間、幕府は井伊の死を公表することはありませんでした。







彦根藩のその後

それでは、井伊を護衛していた藩士たちの処遇はどうなったのでしょうか。

その場で討死した者たちは跡目相続を許され、家は続くこととなりました。
しかし、生存者に関しては、護衛を失敗した上に井伊家の名をはずかしめたとして、幽閉・切腹・斬首の上、お家断絶という厳しい処分が下ったのです。
それは親族にまで及びました。

その後の彦根藩はというと、井伊直弼の後を継いだ息子・直憲(なおのり)は、やがて幕府側から明治維新の新政府側へと立場を変えます。
新政府側が勢いをつけた鳥羽・伏見の戦いでは、井伊家の強さのシンボルでもある真っ赤な軍装の「赤備え」で参戦し功績を挙げました。
また、新選組局長・近藤勇を捕らえたのは、実は彦根藩士なんです。

幕府の重鎮から一転、新政府の主力となったわけですから、井伊家の当主は時の流れを読む力があったのでしょうね。

水戸藩と彦根藩の関係はどうなったのか

暗殺した側と暗殺された側となった水戸藩と彦根藩。

浪士たちは脱藩して名目上は関係を切っていましたが、直前まで水戸藩士だったことには変わりありません。

そのため、水戸藩と彦根藩の関係は悪化し、後々まで遺恨が存在することとなります。

和解が実現したのは、桜田門外の変から109年後の昭和43(1968)年のことでした。
水戸市と彦根市が親善都市となったのです。
そして、当時の彦根市長は井伊直愛(なおよし)、井伊直弼の曾孫に当たる人物でした。

桜田門外の変が及ぼした影響

桜田門外の変が及ぼした影響

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桜田門外の変は、当時の大老が大衆の面前で暗殺されるという大事件でした。

また、この暗殺劇は、井伊の専制的な手腕が否定されたという紛れもない事実として認識されたのです。
井伊は、有力藩が協調して体制を維持していくやり方を否定し、何をするにも幕府が絶対であり、朝廷でさえも口出しは無用と考えていたわけですが、それが打ち消されてしまったということですね。

また、水戸藩と彦根藩という御三家と譜代大名の筆頭が対立したということで、それを制御しきれなかった幕府の弱体化も明らかになってしまいました。
そのため、尊王攘夷の動きがいっそう激しくなっていくのです。

それが実を結んだのが、慶応3(1867)年の大政奉還でした。
15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した、日本史上最重要クラスの出来事です。

大政奉還は、桜田門外の変からわずか7年7ヶ月後に実現しました。
つまり、明治維新へと時代が加速していく始まりこそ、この桜田門外の変だったと言えるのです。
そう考えると、この暗殺事件はとてつもなく大きな意味があったと考えることができますよね。

徳川家康に古くから仕えた名門・井伊家

さて、ここで井伊直弼の生涯をご紹介する前に、井伊家について少し触れておきましょう。

関ヶ原の戦い以前から徳川家康に仕えてきた彦根藩・井伊家は、井伊直政(なおまさ)を初代としています。
この直政ですが、現在放送中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、柴咲コウさん演じる井伊直虎の養子となる人物なんですよ。
ドラマでは菅田将暉さんが演じることとなっています。

ちなみに、大変な美男子でありながら猛将として知られた武将で、当時戦国最強をうたわれた武田家の軍を受け継ぎ、赤で統一した軍装「赤備え」が井伊のシンボルとなり、敵方には恐れられました。

この赤備えを率いて、幕末の鳥羽・伏見の戦いに彦根藩が参戦することとなったわけです。
それは敵もひるみますよね。

ちなみに、赤備えを率いたことで、直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれました。

これは畏敬の念が込められていますが、一方、直弼もまた同じように「井伊の赤鬼」と呼ばれたんですよ。
しかしこれは、安政の大獄で彼が弾圧を行ったことに対する憎しみが込められていたのです。

とはいっても、直弼自身についてはもっと違う一面がありました。
次の項目ではそれをご紹介しますね。

桜田門外の変の登場人物その1:井伊直弼

桜田門外の変の登場人物その1:井伊直弼

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桜田門外の変とセットで必ず名前が挙がる、暗殺された井伊直弼。
いったいどんな人物だったのでしょうか。

井伊直弼は、古くから徳川家に仕えてきた譜代大名の筆頭にして幕府の重鎮・大老のポストにあり、彦根藩の15代藩主でもありました。
さぞかし恵まれた環境で育ってきたのかと思いきや、実は、若い頃は苦労人だったのです。

文化12(1815)年、直弼は13代藩主井伊直中(なおなか)の十四男として生まれました。
当然、後継ぎになれる可能性はゼロに近く、父や兄に養われる「部屋住み」という身分で、形見の狭い生活を15年も送っていたのです。

ところが、14代藩主となった兄と、兄の後継ぎとなるはずだった別の兄が相次いで亡くなってしまい、なんと直弼に藩主の地位が巡ってくることとなりました。

そして嘉永3(1850)年、直弼36歳のときに、ついに彦根藩15代藩主となったのです。

藩主となった直弼は藩政改革に着手し、彦根藩の名君として有名になりました。
後には幕政に参画し、ペリーが黒船を率いて来航した際には率先して開国を唱えます。
ただ、この時に外国の排斥を強硬に主張する前水戸藩主徳川斉昭とぶつかることになるんですね。
これが桜田門外の変で水戸浪士が直弼を暗殺する根っこの部分となるのです。

とはいえ、最初に述べたように、直弼は外国との修好通商条約締結や将軍継嗣問題で存在感を強めていきました。
そして、南紀派の筆頭として、一橋派との対立を深めていったのです。

安政5(1858)年に大老となると、彼は対抗勢力を安政の大獄によって弾圧し、多くの人に憎まれるようになってしまいました。
そして翌年、桜田門外の変で暗殺されてしまうのです。

世の中のイメージと違う直弼像

安政の大獄のせいで、直弼は厳しく冷酷であり、独断専行のイメージが強いかと思います。

しかし、藩主就任直後は、まず領民に15万両という大金を分け与え、民に愛される優しさを持った藩主だったんですよ。

安政の大獄で処刑された吉田松陰でさえも、この頃の彼を名君と評しているほどなんです。

直弼が十四男という立場から藩主になったということを前の項目でご紹介しましたが、基本的に、後継ぎ以外はどこかの養子になるか寺に入るか、それでも行き先が決まらなければ部屋住みとして控え屋敷で藩主の世話になるかしかありませんでした。
そのため、直弼は長い間部屋住みの身分だったのです。

こんな話があります。

直弼が20歳の時、養子の話があったため弟と一緒に江戸へ行きました。
ところが、養子が決まったのは弟だけで、直弼は失意のまま彦根に帰りました。
そして自分の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、花も咲かない埋もれ木を自分の境遇に例えたのです。

しかし、ここでの生活で直弼は学問に励み、茶道に精通し、和歌や書などに造詣を深めていきました。
禅については「有髪の名僧」と呼ばれるまでになり、武術については居合の達人となったくらいなんですよ。
そうして自分磨きを怠らなかったことが、後に花開くことになるのです。

そんな辛く厳しい青春時代を過ごした直弼。
それを知ると、今までのイメージとは少し変わってきませんか?

桜田門外の変の登場人物その2:徳川斉昭

桜田門外の変の登場人物その2:徳川斉昭

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それでは、井伊直弼と並び桜田門外の変関連で存在感のあったもう一人の人物・徳川斉昭について見ていきましょう。

寛政12(1800)、7代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として生まれた斉昭は、なんと30歳まで部屋住みの身でした。
この境遇、井伊直弼と同じですよね。
しかも斉昭も幼い頃から聡明で、日本古来の伝統を重視した水戸学を修めていたんです。
この考え方が後の攘夷論につながっていくことになります。

そして8代藩主の兄が死去したために9代藩主となりました。
これも直弼と共通しています。

藩主となった斉昭は、藩校を創設して幅広い人材育成と登用を行い、藩政改革を推進します。
これもまた直弼と同じなんです。
驚きますよね。

聡明ですがちょっと過激でもありました。
西洋兵器を国産化するとして、寺の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料としてしまったりしたため、藩主の座から隠居させられてしまうんです。
そのため、歴史に登場する際は「前水戸藩主」と紹介されることが多いんですよ。
しかし、やはり有能なので許されて幕政に参画するようになりました。

そして、ペリー来航時には攘夷の先鋒として、将軍継嗣問題では一橋派の筆頭として、井伊直弼らとことごとく対立していくこととなります。

孝明天皇の戊午の密勅が直接水戸藩に下されたことで、前藩主とはいえ絶大な権力を誇っていた斉昭は、井伊直弼の力も働いたおかげで、水戸で永蟄居となってしまいました。
そして万延元(1860)年、桜田門外の変から5ヶ月後に亡くなりました。

同じような境遇にありながら、対立し続け、同じ時期に亡くなった井伊直弼と徳川斉昭。
不思議な縁を感じますが、皆さんはいかがですか?

過激なだけじゃない斉昭像

激しい性格で「烈公」とおくり名されたほどの斉昭ですが、礼儀に厳しく、カリスマ性のある君主でした。
特に若いころ苦労したせいか、倹約家だったそうです。

側室の地位を引き上げた際に、彼女に衣装代の上乗せをおねだりされると激怒し、以後目通りを許しませんでした。

また、毎年幕府から援助金をもらっていた水戸藩ですが、斉昭は「もらっている石高だけで生活すべきだから、今後は援助金をもらわないように」と言いつけたという話もあります。

それだけではなく、藩主となって豪華な食事が出されると、「これまで日陰者だった自分には贅沢すぎるから、今までと同じものを出してほしい」と言ったそうですよ。

桜田門外の変こそ歴史の転換点だった!

桜田門外の変は、単なる幕府の重鎮の暗殺劇にとどまらず、その後の日本の歴史に大きな影響を及ぼしたのでした。
そして、そこに至るまでにも、様々な要因があったのです。
そうした点を頭に入れて歴史を見てみると、桜田門外の変がどれほどの衝撃を当時の世の中に与えたかがおわかりになるかと思います。
ぜひ、この機会に幕末の歴史を再度紐解いてみてはいかがでしょうか?
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