古代ローマの「ハゲの女たらし」カエサルの偉人ぶり

古代ローマを語る上で必ず登場するのがカエサルです。軍人としても政治家としても才能を発揮し、古代ローマをまとめ上げ、やがて来たるローマ帝政の基礎を築きました。しかしその志半ばにして暗殺されるという悲劇により、人生の幕を下ろしたのです。そんなカエサルは偉人らしく女性にモテまくったということですが、いったいどんなところが魅力的だったのでしょうか。エジプトの女王クレオパトラのロマンスなど、数々の色恋と戦いに彩られた彼の人生をご紹介しましょう。

カエサルという名前

カエサルという名前

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カエサルの正式名は、ラテン語でガイウス・ユリウス・カエサルと言います。
彼のことをジュリアス・シーザーと呼ぶこともありますが、これは英語読みの場合ですね。

また、カエサルという名称は、後にローマ帝国の君主号となりました。
カエサルの後継者・オクタヴィアヌスもカエサルと言う名を持ち、後継ぎにこの名を付けていましたが、やがて皇帝そのものを示す言葉となったのです。

この影響はヨーロッパ各国にまで及び、ドイツ語で皇帝を意味する「Kaiser(カイザー)」やロシア語の「Tsar(ツァーリ)」はすべてカエサルに由来しているんですよ。

名門だが没落貴族の息子

前100年、カエサルは同じ名を持つ父親と、数々の高官を輩出した家柄の母との間に生まれました。
父はローマの属州総督を務めており、母の先祖の高官は執政官(コンスル)であったため、かなりの名門の貴族(パトリキ)だったのです。

ここで、古代ローマを知るうえで必ず登場する「属州」についてご説明します。

属州とは、ローマと同盟関係の都市以外でローマの領土となった所で、時代によって違いますがローマ市民と属州民などで権利や身分の差が生まれていました。

また、執政官(コンスル)についてもご説明しますね。

執政官(コンスル)は共和政だった古代ローマにおける最高職で、政治と軍事両方における最高責任者でした。
とはいっても独裁を防ぐために、定員は2名とされていました。

そして貴族(パトリキ)です。

古代ローマ建国の際に功績のあった人物に連なる家柄の人々のことで、社会的な身分として非常に高い地位でした。

こうした要素が重なったカエサルの家は、まさに名門中の名門といってもいいくらいだったのです。
しかし、彼が生まれた頃には没落してしまい、彼の幼少時の記録すらほとんど残っていません。

加えて、当時のローマは戦乱続きでもあり、内情がとても不安定でした。

その不安定の内容とはどんなものだったのでしょうか。
これは、カエサルの人生にとっても大きな意味を持つ時期となるので、次の項目でよくご紹介していこうと思います。

元老院派と平民派の対立

元老院派と平民派の対立

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当時のローマは、市民による選挙政治を目指す平民派と元老院派が争っていました。

この元老院というのが、古代ローマを語る上で必ずついてまわるものとなります。

元老院とは国家統治における最重要機関で、ローマ建国以来の有力な貴族(パトリキ)を議員として選びました。
終身である元老院議員は、為政者への助言機関としての役割を持つのみで、直接権力を持つはずはなかったのですが、実際には政治をコントロールするまでの力を持っていました。
そのため、家系で元老院議員をたくさん輩出すれば、特権階級への道が開けたわけですね。
これなら、狙えるものなら誰だって元老院議員になりたくなるんです。

とはいっても、元老院議員への道は狭く険しいものでした。
17歳以降、10年以上の軍事経験が必要とされ、それなりに戦場で活躍し、見識が豊富でなければなることはできなかったのです。

さて、話をカエサルの方へと戻します。

当時争っていた平民派と元老院派ですが、平民派の中心人物ガイウス・マリウスはカエサルの義理の叔父でした。
そのため、カエサルも自動的に平民派であると世間には認識されることとなります。

前84年、父の死去に伴い16歳で家長となったカエサルは、翌年に最初の結婚をします。
ここから彼の人生が動き出していくのです。

粛清の窮地から亡命へ

ローマの情勢は相変わらず不安定でしたが、元老院派のスッラがついに権力を握ることとなり、平民派への粛清が始まりました。
当然、平民派とみなされていたカエサルも窮地に陥ります。

ただ、この時彼はまだ18歳。
実際、大した政治活動もしていなかったので、周囲は彼を何とか助けようと声を上げました。
その声に押されたスッラは、渋々カエサルを助命したのです。

しかし、スッラはカエサルの資質を見抜いていたようでした。
助命を願う周囲に対して、彼はこう言ったそうですよ。

「君たちにはわからんのか?あの若者(カエサル)の中には多くのマリウスがいるんだぞ」

マリウスとはカエサルの義理の叔父にあたるガイウス・マリウス。
平民派の筆頭であった人物でした。
時の権力者だったスッラの目は、カエサルの中でまだ目覚めていない才能を見抜いていたのでしょう。

カエサルを助命する代わりに、スッラはカエサルに離婚を命じました。
カエサルの最初の妻は平民派の大物の娘だったからです。
しかしカエサルはこれを拒否し、その結果、国外へ亡命することとなりました。

亡命後の生活、ローマに戻り冴える弁舌

亡命後の生活、ローマに戻り冴える弁舌

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亡命後のカエサルはどうしていたのでしょうか。

彼が逃れたのは小アジア(アナトリア)でした。
ここは現在のトルコのアジア側の半島部で、黒海やエーゲ海、地中海に囲まれ、文化と交易ルートの重要拠点でもありました。

その小アジアもまたローマの属州であり、カエサルはここで任務に就いています。

そして前78年、彼を粛清しようとしたスッラが死去したことで、ついにローマへ帰れることになりました。

その後の彼は、巧みな弁舌を生かして名を挙げていきます。
大きなジェスチャーと鋭い舌鋒が特徴だったそうで、今で言えば古舘伊知郎さんみたいな感じだったのかな、なんて思ってしまいますね。

カエサルの弁舌は、たとえ最高職の執政官(コンスル)でさえも容赦しませんでした。

当時は属州を治めるに当たって脅迫や収賄が横行していたのですが、カエサルはその当事者たちを容赦なく告発したのです。
その対象には執政官(コンスル)さえも含まれていたのですから、カエサルの勇気も大したものですよね。

しかし、彼の鋭すぎる弁舌は相手から恨みを買うこととなってしまいました。
そのため彼は報復から逃れるためにローマからまたも逃亡します。
行き先はエーゲ海に浮かぶロドス島でした。
しばらくの間、彼はそこへ身を隠すこととなったのです。

カエサルの帰国、待ち受ける政界の荒波

カエサルの帰国、待ち受ける政界の荒波

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ほとぼりが冷めた頃、カエサルは再びローマへ戻ってきました。

少し遅くはなりましたが、ここから彼の出世コースが始まるのです。
最終的な目標は執政官(コンスル)でした。

そのために彼はまず軍団司令官となり、次に財務官をつとめ、そしてついに元老院議員としての議席を得ます。
このためには買収工作などの陰謀も用いたそうですが、同時に敵を追いつめる告発の手を緩めることもありませんでした。
やはり、のし上がるためには多少のダーティーな手を使わざるを得なかったのでしょうか。
同時にド派手な公共事業も立ち上げ、自分の存在感を高めていったのです。

元老院議員となったカエサルが次に目指したのが、最高神祇官という役職でした。

最高神祇官とは文字通り神官職ですが、これになることで権威を高めることができたのです。
そのため、上を目指すものにとっては必ず通らなければならない役職でした。

カエサルは、なんとこの職を多額の借金で賄ったお金で買収します。
しかし彼は本当にこのチャンスに賭けていたそうで、次この職に選ばれなければ国外退去をする覚悟まであったそうですよ。
さすが古代ローマの偉人となる政治家。
その執念、恐るべし。

しかしまたもカエサルにピンチが待ち受けていました。
政争に容赦なく巻き込まれ、陰謀への参加を疑われてしまい、またも少々の隠棲生活を余儀なくされたのです。

ただ、ここで彼が政界へ復帰する際に役立ったのが、彼の積極的な女性関係だったんですよ。
さて、どんな事情があったのでしょうか。

疑いを晴らしたのは、女性からのラブレター!

疑いを晴らしたのは、女性からのラブレター!

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前の項目でカエサルが陰謀に加担したとする政争に巻き込まれたとご紹介しましたが、その疑いについて彼を追及する会議が開かれました。
相手はカトという政治家で、後にカエサルと戦うこととなる人物です。

カトの追及の最中、カエサルに部下がある手紙を取り次ぎました。
それを見たカトは、「その手紙こそが陰謀へ加わった証拠だから、今ここで開けて見せてみろ」と迫り、ためらうカエサルに無理やり手紙を開封させました。
果たして内容は…?

なんと、その手紙はカエサルの愛人セルウィリアからのラブレターだったのでした。

しかもセルウィリアはカトの異父姉に当たる女性で、カトの面目は丸つぶれ。
カトは「この女たらしめ!」としか言えず、追及することもできなくなってしまいました。
議場は爆笑に包まれ、カエサルへの疑いは立ち消えてしまったのだそうですよ。

ちなみにこのセルウィリアという女性、この時はまだ別の男性と結婚していました。
つまり、カエサルとは不倫をしていたんです。
しかも、カエサルが夫のいる女性と不倫をしていたのは、この時だけではないんですよ。
なぜそんなにモテたのでしょうか。
次の項目では、彼の女性関係などについてご紹介しましょう。

稀代の色男カエサル、実は見た目はぱっとしなかった!?

当時のローマは恋愛に関してかなり大らかだったようですが、それにしてもカエサルの女性関係は派手でした。
記述が残るだけでも結婚は3度、愛人は8人いたそうです。

元老院議員の3分の1が彼に妻を寝取られたという噂まで立ち、彼のあだ名は「ハゲの女たらし」だったそうなんですよ。

カエサルの恋愛といえば、いちばん有名なのはエジプトの女王クレオパトラとの関係ですよね。
ドラマチックなエピソードもよく知られていると思います。

美女として知られるクレオパトラをものにしたとなれば、カエサルは相当の美男子だったのではないか…と思いきや、実は彼の見た目はあまりぱっとしなかったのだそうですよ。

髪の毛が薄く、それが政敵の攻撃対象になったりもしたので、頭頂部をいつも隠そうと努力していたそうなんです。
後に月桂樹の冠をかぶることを許されたときはとても喜んだと言われています。
ちょっと可愛らしいですね。

加えて、エラが張っていて、どうひいき目に見てもイケメンではなかったということでした。
唯一の売りと言えば背が高かったことくらいでしょうか。

当時のローマの美男子の基準は「細身で優男」だったので、カエサルの風貌がぱっとしなかったということは明らかなのです。

けれど彼は女性にモテました。
それが「ハゲの女たらし」というあだ名にも表れていますよね。
やはり、偉人となるべき人物には、抗いがたい魅力があったのでしょう。
それは見た目と関係ないというのは、いつの時代も同じことなのかもしれませんね。

さて、今度はカエサルの人生について話を戻していきましょう。

第1回三頭政治の主役となる

疑いの晴れたカエサルは、前61年にヒスパニア・ウルステリオル属州総督(今のスペイン付近)となり、現地の異民族の平定に功績を挙げました。
そして翌年、念願の最高職・執政官(コンスル)となったのです。

この時、彼は有力者だったポンペイウス、クラッススと手を結びました。
そして3人でローマの政治を取り仕切る、「第1回三頭政治」という体制を生み出しました。

これは、依然として発言権が大きい元老院に対抗したもので、カエサルはこの体制の中で大きな改革を成し遂げていきます。

3人は互いに足りないところを補う形で権力の頂点にいました。

ポンペイウスはすでに戦いで絶大な功績を挙げており、軍事面では他に比類なき武将でした。
しかし元老院に優遇されずに不満を持っていたのです。

カエサルは、執政官となったもののポンペイウスほどの功績はなく、民衆からの人気に頼っていました。

そしてクラッススはいちばん年上でもあり、とにかく莫大な経済力を持っていたのです。

こうした得意分野を持ち寄ることで、彼らは元老院を牽制したのでした。

軍事に優れた男・ポンペイウス

軍事に優れた男・ポンペイウス

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ポンペイウスは共和政ローマ時代の軍人で、裕福なエリート家系の人物でした。
ヒスパニア(スペイン)遠征を成功させたりオリエント・小アジア(トルコ付近)を平定し属州化したりと、その功績はずば抜けていました。
そのため多くの市民に支持されていたのです。

カエサル・クラッススとの第1回三頭政治に参加した時が彼の人生の頂点でした。
その後はカエサル対立し内戦で敗北、エジプトへ逃げますが暗殺されてしまうのでした。

彼の妻ユリアはカエサルの娘で、夫婦仲はとても良かったそうです。
しかしユリアが産褥で亡くなったことで、カエサルとの間の溝が深くなってしまったんですよ。
もしユリアが亡くなっていなければ、少しは情勢が違ったのかもしれません。

ちなみに、カエサルが暗殺されることになった場所は、ポンペイウスが建てた「ポンペイウス劇場」でした。
皮肉なことですよね。







とにかく金持ち・クラッスス

クラッススもまた軍人であり政治家でした。
当時、裕福な身分は騎士階級(エクイタス)と呼ばれる階級でしたが、彼はその騎士階級の代表的な存在だったのです。

また、弁舌の才能にも恵まれ、元老院で勢力を持っていました。
このため、元老院に対抗したいカエサルとポンペイウスにとってはぜひ仲間に引き入れたい人物だったのです。
加えて、大金持ちである彼はカエサルの最大のパトロンでもありました。

しかし、クラッススはポンペイウスとはとても仲が悪かったのです。
というのも、第3次奴隷戦争という剣闘士スパルタクスの反乱において、頭目のスパルタクスを討ち取ったのは彼だったのに、ポンペイウスが自分こそが手柄を立てたと元老院に報告し、手柄を横取りしてしまったのでした。

そんなこともあって、クラッススはポンペイウスへの対抗心から、いまだ成功していなかったパルティア遠征(イラン高原付近にあった王国)を実行に移します。
ところが彼はここで戦死してしまい、結果として第1回三頭政治が崩壊することとなるのでした。

カエサル最大の功績!ガリア戦争

前58年、カエサルはガリア方面(フランス・ベルギー・スイス方面)の属州総督となり、その地を平定するべく赴任します。
この時の異民族との戦いが、7年間に及んだ「ガリア戦争」です。

ガリア戦争で勝利を収めたカエサルは、ガリア全域をローマの支配下とし、自身のキャリアに輝かしい功績を残すこととなりました。
加えて、大量の戦利品などを得たことで財力も得たのです。

また、辛く長い戦いの中で、兵たちはローマよりもカエサル個人に忠誠を誓うようになっていました。
そのため、カエサルの率いる軍は無敵の強さを誇るようになりましたが、同時に、ローマにいる元老院の面々は警戒を抱くようになっていきます。
もしこれで内戦でも起きたら、兵たちはみなカエサルのために戦うようになり、カエサル個人がとんでもない力を持つようになると思った面々も多かったんですよ。

この時の戦いを、カエサルは「ガリア戦記」という書物にまとめました。
元老院への報告としてまとめられたものですが、文学としても今でも親しまれていますので、ご興味があればぜひ読んでみて下さいね。
カエサルの戦いや彼の考えがよくわかると思います。

賽は投げられた!カエサル、ローマを掌握

賽は投げられた!カエサル、ローマを掌握

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前53年、クラッススが戦死したことで三頭政治の均衡が崩れます。
ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが亡くなったことで、残されたカエサルとポンペイウスの中も微妙なものになり、緊張が高まっていきました。

そして、カエサルは突然ガリア属州総督を解任され、ローマ本国への召喚命令が出されたのです。
前にも述べた通り、ガリア戦争で力をつけたカエサルを警戒した元老院によるものでしたが、事実上の「お前を潰してやるぞ」という脅しだったわけですね。

これに大人しく従うカエサルではありません。
戻れば殺されるのは目に見えており、かといってこのままガリアに留まれば、反逆者とみなされてしまいます。

前49年1月10日、カエサルとその軍はルビコン川の河畔にやって来ていました。

ルビコン川とはイタリア本土と属州の境界線でもあり、軍を率いてここを渡ることは国家反逆と同じことでした。

ここでカエサルは叫びます。

「賽は投げられた!」

そして軍を鼓舞し、一気にルビコン川を渡ったのです。
彼がイタリア半島を掌握するのに、時間はさほどかかりませんでした。
というのも、ポンペイウスは彼の進攻の速さに軍を整えるのが間に合わず、自身の勢力基盤であるギリシャへ逃げてしまったのです。
元老院議員の多くもそれに従っていました。

「賽は投げられた」という言葉、聞いたことがありますよね。
もう後戻りできない状態になってしまったので、最後までやるしかないという意味で現在は用いられていると思います。
この言葉は、この時のカエサルに由来していたんですよ。

エジプト女王クレオパトラとの恋

エジプト女王クレオパトラとの恋

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ポンペイウスなど敵対勢力と繰り広げた戦乱は、ローマ内戦と呼ばれています。
カエサルはこのほとんどに勝利を収め、ポンペイウスはエジプトへ逃げ、カエサルはその後を追撃しました。

しかし、ポンペイウスはエジプト王の計略によって暗殺されてしまいます。
その直後にカエサルが到着し、これまた内戦の真っ最中だったエジプト王とその姉王の仲介に乗り出すのです。
この姉王こそ、カエサル最大の愛人・クレオパトラでした。

一時は政権を追われたクレオパトラは、ローマを掌握したカエサルの力を借りようと考えます。
そして、一説には絨毯にその身を包ませ、自分自身を貢物としてカエサルに献上し、面会を果たしたのだそうです。

クレオパトラは美女として名高く、才女でもありました。
女たらしのカエサルが惹かれないわけがありませんよね。

愛人関係となった2人は、クレオパトラの弟王を駆逐し、エジプトの支配者となります。
この頃、2人の間にはカエサリオンという男児も生まれています。

「来た、見た、勝った」の戦い

「来た、見た、勝った」の戦い

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その後、カエサルはさらに勢力を広げていきます。

黒海南岸東部、現在のトルコの一部にあったポントスとの戦いに勝った彼は、ローマへの勝利報告として「来た、見た、勝った(Veni, vedi, vicious)」という簡潔明瞭な手紙を送っています。
この言葉も有名ですよね。
シンプルすぎるほどかもしれませんが、これほど的確に事実を伝えた手紙は他にないのではないでしょうか。

また、北アフリカの地でいまだ抵抗を続けていた元老院勢力にも勝った彼は、前46年、ついにローマへ凱旋しました。
その威風堂々たる姿に市民は熱狂し、彼の権力は確固たるものとなったのです。
ここにはクレオパトラとカエサリオンも伴っていたそうですよ。

そしてポンペイウス一派の残党も一掃し、前45年にローマ内戦は終結することとなりました。

カエサルの独裁化

ローマへ凱旋した彼は、元老院派の抵抗も抑え込み、ついに古代からの共和政ローマの改革へ乗り出します。

彼が就任したのは、終身独裁官という地位でした。
独裁官(ディクタトル)とは国家の非常事態に1人任命されてきた役職で、強大な権限を持っていたのです。

それを終身務めるとしたことは、まさに彼が帝政を目指していると周囲には受け取られました。
また、カエサルが「共和政ローマは白昼夢のようなものだ」と発言したり、自分の言葉が法律であるといった趣旨の発言をしたりしたとされ、これがカエサルの決意だと思われたのでしょう。

もちろん、すべての人がこれに賛成していたわけではありません。

長く共和政を保ってきたローマにはまだまだ多くの共和主義者が存在していました。
彼らはカエサルのやり方に大きな危機感を持ち、やがてそれは彼を排除しなければならないという過激な方向へと動き出していくのです。

運命の日が近づいてきていました。

カエサル、暗殺さる

カエサル、暗殺さる

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前44年3月15日、カエサルは元老院会議へ出席するために、議場であるポンペイウス劇場へ向かいました。

実はこの時、カエサルの妻は前夜に悪夢を見たから行かないでほしいと彼を止めています。
また、占い師も彼に「3月15日に注意せよ」と警告していたのだそうです。
しかし彼はその言葉を容れず、ポンペイウス劇場へ足を踏み入れました。

その時、列柱の影から幾人もの影が飛び出し、彼に襲い掛かりました。
彼は抵抗する間もなく、全身に23もの刺し傷を受けてその場で絶命しました。
皇帝への階段をあと数段残したところで、彼は転げ落ちたのです。
56歳でした。

暗殺の当事者たちは、カエサルの独裁化に反発する一団でした。
その中には、カエサルの見知った顔も多く含まれていたのです。

そのため、彼は刺される直前にこう叫びました。
「ブルトゥス、お前もか」と。
これもまた有名な言葉ですよね。

実はこの台詞、シェイクスピアによって作られたカエサルについての戯曲「ジュリアス・シーザー」のワンシーンに登場するもので、本当は「息子よ、お前もか」と叫んだとも言われています。

では、この「ブルトゥス」とはいったい誰のことなのでしょうか。

息子同然の男か、腹心の部下か:2人のブルトゥス

ブルトゥスが誰なのかについては、最も有力な説は、マルクス・ユニウス・ブルトゥスを指しているというものです。

彼はカエサルの愛人セルウィリア(ラブレター事件の女性です)の息子で、元老院議員もありました。
幼少時に実の父を亡くしており、実質カエサルを父として育った人物だったのです。
カエサルもまた彼を愛し、厚遇してきました。

しかしカエサル暗殺に加わるよう説得され、それに応じてしまいます。
彼の妻がカエサルに殺されたカトの娘だったということもあったようですよ。
カトとはカエサルを会議で糾弾しようとしたあの人物です。
そして、カトの娘もまた、女性で唯一カエサル暗殺に参加していました。

もう一人のブルトゥスは、カエサルの腹心中の腹心であったデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスではないかという説です。

彼は前述のブルトゥスの従兄弟でもあり、カエサルに従ってガリア戦争やローマ内戦を戦い抜いた、苦楽を共にしてきた仲間でした。

彼は執政官(コンスル)にまで指名され、カエサルの遺言の中では第2相続人に指名されていたほどの人物だったのです。
その彼がまさか自分の暗殺に加わり、自分を裏切るとは…という思いで、カエサルは「ブルトゥス、お前もか」と叫んだのかもしれません。

2人のブルトゥスとローマのその後

2人のブルトゥスやカエサル暗殺の一団は、実は元老院によって賞讃されました。
カエサル嫌いの元老院ですから、これは有り得る話です。

しかし、カエサルの後を継いだオクタヴィアヌスが力を付けていくに従い、またも対立が起きました。
加えて、カエサルの部下だったアントニウスもまた、彼らを追討したのです。

戦上手のアントニウスの前に、2人のブルトゥスは敗北し、命を落とすこととなりました。

そしてアントニウスとの抗争に勝利したオクタヴィアヌスが実権を握り、ついに皇帝となったのが前27年のこと。
カエサルの死から約17年後でした。

次のページでは『ローマ史に燦然と輝く偉人・カエサル』を掲載!
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