伊達政宗の子孫が守った「宇和島城」の歴史

宇和島城は現存12天守の一つとされる愛媛県南部の城ですが、どの様な地形の上に立っていて、周りには他にどんな建物や施設があるのでしょうか?さらに宇和島城を建てた藤堂高虎とはどんな人物なのでしょうか?さらに、宇和島に入った伊達政宗の息子秀宗からあとの藩主はどの様に宇和島を治め、日本の歴史に関わっていったのでしょうか?また、筆者も宇和島に行った事がありますので、その時の体験も絡めて説明していきたいと思います。では、まずは宇和島という町がどんな所にあるかということから見ていきましょう。






宇和島城はどんな場所にある?

宇和島城はどこにある?どんな城?

宇和島城は愛媛県の県庁所在地の松山から特急宇和海に乗って1時間20分の距離にあり、新幹線の止まる岡山駅からはさらに特急しおかぜで松山までさらに2時間50分かかり、乗り換えの時間を考えると4時間半程になるでしょうか。
四国の南西部にあります。
宇和島駅から城山登山口までバスで3分、歩いて10分で、城のある山を登り、宇和島市内が一望できる頂上には江戸時代から残る天守(現存12天守の一つ)があります(私も城山を登ったことがあるのですが、「近道」と書かれた看板のある道を登っていくと、カラスが威嚇する様に鳴いていて、なおかつ苔だらけの石段で足を滑らせて大変でした)宇和島城は築城の名手・藤堂高虎が建築し、高虎が今治に転封された後、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り元和元年(1615)に入城。
2代宗利の時、天守を中心に城郭の大修理が行われ、寛文11年(1671)に完成し、現在にその姿を残しています。

また城の近くには天赦園という二代目藩主宗利が作った大名庭園や、宇和島藩の文化財を公開した伊達博物館があり、その敷地内には幕末四賢公の一人、伊達宗城(むねなり)の銅像があります。

ここでは城の設備を説明し、藤堂高虎が入る以前の宇和島から藤堂氏、伊達氏にかけて幕末まで歴史を説明していきたいと思います。

城のある宇和島はどんな場所にある町?また城山はどんな山?

「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地方の中心として発展してきた宇和島市は日本屈指のリアス式海岸地帯(せまい湾が複雑に入り込んだ沈水海岸のこと)にあります。
城はその最深部、原始的ほぼ中央に鎮座し、慶長元〜6年(1596〜1601年)の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張りとなっていました。
石垣や天守、矢倉は元和元年(1615年)に入部した伊達家により修築されていきますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲していきました。

現在、堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭約28万㎡は失われてしまいましたが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万㎡の城山は国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つに数えられる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口門の上り立ち門は市指定重要文化財(昭和38年)に指定されています。

また城山には約300種のの草木が生い茂り、苔むした石垣群と織りなす幽玄の美の世界は一見の価値があります。
私も城山を登ったことがありますが、曇りの平日に行ったせいか人気がなく、暗くて不気味な印象すら覚えるほどでした。

宇和島城にはどんな建物が残っていて、城山にはどんな工夫がされている?

宇和島城にはどんな建造物がある?

92392:宇和島城にはどんな建造物がある?

撮影/カワタツ

藤堂高虎が総したとされる望楼型天守を宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666年)頃に3重3階総塗籠式・層塔型に再建したものが現在の天守。
各階の装飾性の高い破風(はふ)や懸魚(けぎょ)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、御殿建築の意匠が小さいながらも随所に見られ、格式を非常に重んじた造りで、万延元年(1860年)、昭和35(1960年)に大修理を受けていますが、昔のままの姿を今もなお伝えています。

上り立ち門は城山南側の搦手道口(からめてみちぐち)に位置し、武家の正門である薬医門形式となっています。
最大級の現存する薬医門であるだけでなく、創建年代が、最古となる慶長期までさかのぼる可能性を秘めた、貴重な建造物です。

山里倉庫(城山郷土館)は弘化2年(1845年)、三之丸にある武器庫で、現存例が少ない稀少な建物。
昭和41年、伊達家より譲渡され、城山内に移築後城山郷土館として一般公開され、民俗資料や古写真などを展示しています。

藩老桑折氏武家長屋門は城山東北側の登城口に位置する長屋門で家老桑折家屋敷地に残されていたものを昭和27年桑折家より譲渡さ現位置に移築、一部の長屋は失われていますが、数少ない宇和島市内の武家屋敷の建造物です。

平成6年から宇和島城の平成普請が着手され、現在は本丸や二之丸などの傷みの認められる石垣について調査を行いながら修理しています。
その調査からまだ知られていない宇和島城の姿が明らかになってきています。

宇和島城に仕組まれた工夫とは?

宇和島城に仕組まれた工夫とは?

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五角形平面の縄張りである「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる藤堂高虎の設計で、現に幕府の隠密により江戸に送られた密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されたほどです。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくるのですが、実際には五角形なので一辺が空角となり、つまり城を攻める方にとっては完全に死角となり、攻撃は手薄になります。
いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得て、そればかりではなくこの秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなるということです。
これは城を守る作戦上、効果は絶大なもので、当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはありませんでした。

さらに、宇和島城には本丸天守より原生林の中を抜けて西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じている間道が数本ありました。
宇和島城は「空角の経始」や間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が見事に生かされた城だったのです。

城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれていましたが、現在は堀も海も埋め立てられていて、明治以降は建物の大半が撤去され、城郭は「城山公園」として整備されました。
建物は天守、大手門などが残されましたが、太平洋戦争中の空襲により大手門を焼失して現在は、天守(重要文化財)、上り立ち門(市指定文化財)と石垣が現存するだけになりました。

宇和島城の歴史

宇和島城(大串城)の城主はどのように変わっていった?

92395:宇和島城(大串城)の城主はどのように変わっていった?

撮影/カワタツ

ここからは宇和島城の歴史について説明していきたいと思います。
宇和島の歴史は古くは平安時代までさかのぼり、天慶4年(941年) に警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)が藤原純友の乱を鎮めた時、伊予国宇和郡を与えられ砦を構えたとされます。

そして鎌倉時代の嘉禎2年(1236年) 西園寺公経(さいおんじきんつね、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人)が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に砦程度の城を築き、この当時は丸串城と呼ばれていました。

天文15年(1546年) 、安土桃山時代になり、家藤監物(いえふじけんもつ)が城主となり、大友氏、長宗我部氏等の侵攻を受けますがこれに耐え、天正3年(1575年)には監物は去り、西園寺宣久(のぶひさ)の居城となりました。

天正13年(1585年) – 豊臣秀吉の四国討伐により伊予国は小早川隆景の所領となって隆景家臣の持田右京が城代を務めましたが、天正15年(1587年)隆景も筑前国に転封となり、代わりに大洲城に戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が城代となりました。

そこから8年後の文禄4年(1595年)、藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城し、翌年には城の建造を開始しました。
高虎が入るまでは城主がころころと変わっていったのですね。

高虎はどのように仕える主君を変えていった?

高虎はどのように仕える主君を変えていった?

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それでは、宇和島城を築城した重要な人物ということで、ここからは藤堂高虎について説明していきたいと思います。
高虎は弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれます。
藤堂氏は戦国時代には没落して農民にまで身分を落としていましたが、隆景ははじめ近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けます。
天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣として仕えました。
やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っています。

天正4年(1576年)に高虎は信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕え、天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となりました。
秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍し、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ戦勝の糸口となる抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増されました。







高虎はどの様にして出世していった?秀吉や家康とどう関係した?

高虎はどの様にして出世していった?秀吉や家康とどう関係した?

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家康の屋敷を作った際の高虎の心遣いとは?

高虎は天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、戦後は紀伊国粉河(こかわ)に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城の普請奉行に任命され、これが高虎の最初の築城となります。
同年の四国攻めでも功績をあげ、秀吉からさらに5,400石を加増され、1万石の大名となり、さらに方広寺大仏殿建設の際には、熊野から材木を調達することを秀吉から命じられています。

天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することとなった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は高虎を作事奉行に指名。
高虎は渡された設計図には警備上の難点があると考え、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとしました。
のちに家康に引見され、「なぜ設計図と違うのか」と尋ねられると、「天下の武将である家康殿に御不慮があれば、主人の秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目にも関わると存じ、私の一存で変更いたしました。
御不興であれば、ご容赦なくお手討ちにしてください」と返し、家康は高虎の心遣いに感謝したといいます。

天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂(ねじろざか)の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増され、さらにこの戦功により秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任されます。
天正17年(1589年)、北山一揆(奥熊野の地侍たちが蜂起。
太閤検地への反発が原因?)の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城し、また高虎によって、多数の農民が田平子峠(たびらことうげ)で斬首されました。
当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌にされて残っています。

高虎はいつ宇和島城に入ったか?いつ宇和島という名前を付けたか?

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保(ひでやす)に仕え、秀保の代理で翌年の文禄の役に出征。
文禄4年(1595年)に秀保が早くに亡くなったため、出家して高野山に上るも、高虎の将才を惜しんだ秀吉が、生駒親正に説得させて呼び戻したため還俗(僧侶になった者が、俗人(一般の人)に戻る事)し5万石を加増され、伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となりました。

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて朝鮮に渡り、漆川梁(しっせんりょう)海戦では朝鮮水軍の武将・元均(げんきん)率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城(なんげんじょう)の戦いと鳴梁(めいりょう)海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となりました。
この時期に板島丸串城に大規模な改修を行い、完成後に宇和島城へと改称しています。
朝鮮の官僚・姜沆(きょうこう)を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期です。

高虎は慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近し、これは高虎は元々家康と親交があって、家康の気高く優れた志を理解しており、他の大名たちは劉表(りゅうひょう、中国後漢末期の政治家であり儒学者)のようにただ領地を守ることのみで精一杯で天下を治める事はできないが、家康は北宋の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん、北宋の初代皇帝)のような人物で、天下を治める力があると考えていたからだといわれています。
豊臣氏の家臣団が武断派と文治派に分かれると、高虎は武断派の諸将に先駆けて徳川家康側に付きました。

関ヶ原の戦いで功を上げて宇和島に来た藤堂高虎と富田信高

関ヶ原の戦いで功を上げて宇和島に来た藤堂高虎と富田信高

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関ヶ原の戦いで功を上げ、家康に譜代大名と同じ扱いまでもされた高虎とその転封

慶長5年(1600年)、高虎は家康による会津征伐に従軍し、その後は木曽川・合渡川の戦いに参戦。
9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と戦い、また留守中の伊予国で毛利輝元が仕組んだ一揆を鎮圧、さらに脇坂安治や小川祐忠(すけただ)、朽木元綱(くつきもとつな)、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っています。

戦後、これらの軍功により家康からこれまでの宇和島城8万石の安堵された他、新たに今治城12万石を加増され、合計20万石となりました。
これにより高虎は今治城を新たな居城に定めて改築し、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれました。
やはり宇和島は四国の端にあるので、江戸や大坂に出るのには不便だからですかね?

その後、高虎は徳川家の重臣となって仕え江戸城の改築等にも功を挙げ、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主の筒井定次が改易され、伊勢津藩主・富田信高が伊予宇和島藩への転封となったことにより、今治城周辺の越智郡2万石は飛び地とされ、伊賀国内10万石、さらに伊勢安濃郡・一志郡内10万石を加えて計22万石に加増移封され津藩主となり、今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせました。
高虎の才能と忠義を家康は高く評価し、外様大名でありながら譜代大名と同等の別格譜代として重用しました。

富田信高は関ヶ原でどんな功を立てて宇和島に来た?

次に高虎の後に宇和島に入った富田信高について説明します。
信高は近江国に生まれ、父の富田一白(いっぱく)が羽柴秀吉に仕えて側近にまでなったため、天正16年(1588年) より信高も関白秀吉に仕えました。
文禄4年に父一白が伊勢安濃郡で2万石を加増され、これを一白はそのまま信高に分知、秀吉の死後に一白が隠居し信高が家督を継承しました。

関ヶ原の戦いの時には、信高や一白は同じ近江衆でも三成とは仲が悪かったため東軍に属し、家康は交通の要衝にある安濃津城を確保するために、信高と伊勢上野城主・分部光嘉(わけべみつよし)に先行して帰還し、防備を固めるように命じました。
信高は兵1600と共に籠城し、安濃津城攻防戦で奮闘しますが開城し、城を明け渡して自身は田町の高田山専修寺で剃髪した後出家し、高野山に入りました。
関ヶ原の役が東軍の勝利で終わると、家康から二心無き旨を賞され、失った所領が取り戻されて本領が安堵された他に、伊勢国内に2万石を加増されました。
慶長13年(1608年)9月15日、板島丸串城に転封となり、これにより宇和島藩10万1900石が立藩し、海運工事や掘削事業などを手掛けましたが信高はこの後正室の兄とも弟とも伝わる坂崎直盛が、甥の宇喜多左門と対立して事件を起こしたことにより改易され、陸奥磐城平藩の鳥居忠政に預けられ、岩城に蟄居することになりました。
改易の理由としては大久保長安事件による連座とも言われています。

伊達秀宗は政宗の長子なのになぜ本家を継がず宇和島に入ったのか?

伊達秀宗は政宗の長子なのになぜ本家を継がず宇和島に入ったのか?

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秀宗はなぜ仙台伊達家の家督を継げなかった?

では、次に宇和島に入ってきたのは伊達氏ですが、伊達政宗の長子である秀宗はどの様な経緯で宇和島に来たのでしょうか?

天正19年(1591年)9月25日、秀宗は伊達政宗の庶長子として陸奥国柴田郡村田城にて生まれました。
幼名は兵五郎。
この時点では、政宗の正室愛姫(めごひめ)に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者になるだろうとされていて、文禄3年(1594年)政宗に伴われて秀吉に拝謁し、兵五郎は秀吉の人質になり、伏見城で養育されました。

文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起こると、豊臣秀次と仲の良かった政宗もこの事件に連帯して処罰されることになり、隠居して家督を兵五郎に譲り伊達家を伊予に国替えすることを秀吉から命じられました。
結局は徳川家康の取りなしにより許されましたが、8月24日に京にいる重臣19名が連署することによる起請文の提出を命じられ、「もし政宗が秀吉に逆らう様ならただちに隠居し兵五郎を当主にする」旨を誓約。
豊臣政権では政宗はあまり良い待遇を受けてなかったのですね。

文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱(へんき、貴人(この場合は秀吉)などの名前の一文字)を受けて秀宗と名乗り、従五位下侍従に叙位・任官され豊臣姓も授かり、豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられました。

秀吉死後の慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵(関ヶ原の戦い)すると、三成方である宇喜多秀家の邸で対伊達政宗の人質とされました。

秀宗はどのような経緯で宇和島に封ぜられた?

慶長7年(1602年)9月、秀宗は徳川家康に拝謁、徳川氏の人質として江戸に向かいました。
しかし正室である愛姫(このとき政宗36歳、愛姫35歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産)との間に虎菊丸(とらぎくまる、後の伊達忠宗)が生まれ無事に育ち、慶長8年(1603年)1月に政宗が虎菊丸を家康に拝謁させたことにより秀宗は微妙な立場になり、慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令で徳川重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になります。
しかし弟の虎菊丸が慶長16年(1611年)12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を与えられて忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外される事になりました。
これは「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣の姓まで与えられた秀宗が徳川氏の世では、たとえ政宗の長子だとしても秀宗は仙台藩主としてふさわしくないという理由で除外されたとされています。

このため別家を興すことを父・政宗が考え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には秀宗は父と共に参陣し、初陣を飾ります。
戦後、大御所徳川家康より参陣した功として政宗に与えられた、伊予宇和島10万石を伊達家の別家として嗣ぎ、同年12月25日に宇和島藩の初代藩主となり、家臣団の中の多くは政宗が伊達の家中から選んだ者で、秀宗が入部した際に57騎騎馬団のほか足軽と小者を合わせて約1200名がいたとされています。

秀吉に可愛がられた秀宗でしたがそのため徳川の世では仙台藩を継ぐことができず、分家として宇和島に行かなくてはならなかったのですが、家臣や兵をたくさん付けてあげた所に政宗の愛も感じられますね。

次のページでは『和霊騒動とはどの様なもので、政宗・秀宗父子の関係にどんな影響を及ぼした?』を掲載!
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Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きで、城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べていて、過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。 よろしければブログも読んでみてください。http://tatsuyakawakami.hatenablog.com

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