江戸時代の最悪の法「生類憐れみの令」ってなぜおきたの?真実は?

「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」というのは、江戸時代の五代将軍である「徳川綱吉(とくがわつなよし)」の時代に発令されたものです。

学校の歴史の授業では「跡取りの徳松が幼くして死んだために、子授けのご祈祷をしてもなかなかできず、綱吉が戌年生れだから、生き物の中でも特に犬を愛護したら子も授かるというお坊さんの言葉にしたがってくだされた」と習います。教科書なのでザックリしてますが、これで子供たちは「とんでもない法律だ」「この将軍頭おかしいんじゃないの?」と刷り込まれます。そして「これはとんでもない暗黒時代だ」と思います。

はたして、この法律は本当はどんな法律だったのでしょうか?

そして、この時代は暗黒時代だったのでしょうか?

そこで、この時代はどんな時代だったのか、そして法律の真実を調べていきたいと思います。

五代将軍・徳川綱吉の時代は暗黒時代?

五代将軍・徳川綱吉の時代は暗黒時代?

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「徳川家康」からはじまった江戸幕府。
「二代将軍・秀忠(ひでただ)」「三代将軍・家光(いえみつ)」を経て、幕藩体制はようやく盤石なものとなりました。

平和になったことから「武断政治」から「文治政治」へと移って、新田開発によって農具などの改良がされて生産力が増えたり、それによって物の流通が盛んになり貨幣経済が発展していきます。
経済が安定してきたので、一般市民の人達から生まれた「町人文化」も花開いていきます。

あれ? 暗黒時代とはほど遠いものを感じるのですが?

生い立ちと性格

生い立ちと性格

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徳川綱吉は、三代将軍・家光の四男として生まれます。
父親の家光から、後に将軍となる兄を助けてていくために「儒学」をたたき込まれます。
これが後に争いごとを嫌い「文治政治」の礎になったといわれています。

1651年、家光が亡くなり、長兄の「家綱(いえつな)」が四代将軍となりました。
この時に元服して家綱の「綱」の字をもらって「綱吉」となります。
1680年、家綱に子供が生まれなかったために(次兄はすでに死亡)跡継ぎに迎えられて、その年に家綱が亡くなったために将軍になりました。

とても学問が大好きで、特に儒学の講義を自らするくらいの秀才でもあり、今も殘る孔子廟の「湯島聖堂(ゆしませいどう)」を作っています。
そして殺伐とした軍事力で治める政治を嫌い、徳を重んじる文治政治を推し進めていきました。

儒学の影響で「尊皇」の気持ちが一番強かった将軍ともいわれていて、朝廷への支援や歴代天皇の御陵(お墓)の修復なども行っています。
他にも「大名の改易(罰として身分を平民にして財産没収する)の減少」「法令・制度の整備」「儀礼の尊重」「人民教化の重視」「学芸の振興」なども行っていて、「前半」は善政として「天和の治」と讃えられるほどのものだったのです。

一気に花開いた元禄文化

一気に花開いた元禄文化

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経済が安定していくと、心の余裕ができて文化が発生するとは昔からいいますが、この元禄文化は現在に至るまでの文化の基本が生まれるほどのパワーがありました。
じっくりと書いていくと大変なことになりますので箇条書で紹介させていただきます。

【俳句】俳句といえば「松尾芭蕉(まつおばしょう)」ですよね。
平安時代からある和歌や連歌のお上品なものと違い「わび」「さび」など余分な物は一切排除して短い文章で世界観を伝えるという素晴らしいものが生まれました。

【小説】代表は「井原西鶴(いはらさいかく)」の『好色一代男』『好色一代女』などの色物(恋愛小説)『日本永代蔵』などのサクセスストーリー『世間胸算用』などの町人の悲喜劇、飾らず登場人物が欲望に忠実で生き生きと描かれるという小説の大変革をしました。

【戯曲】今でいえば三谷幸喜みたいな脚本家といえばわかりやすいでしょうか。
とんでもない人が出てきました。
「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」!『曽根崎心中』『心中天網島』『冥土の飛脚』『女殺油地獄』など、歴史上の人物だけでなく当時の庶民が人間らしく生きていく姿を描いています。
他にも歌舞伎で有名な『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の「竹田出雲」などもいます。

【歌舞伎】歌舞伎の最初は「出雲阿国(いずものおくに)」の女性ばかりの演者でしたが風紀に悪いと、若い男の子達の「若衆歌舞伎」が発生して「女形(おやま)」が誕生します。
しかしこれも風紀によろしくないと禁止されたりの中で、成人男性が演じる「野郎歌舞伎」という形で現在まで生き抜いています。

【人形浄瑠璃】中世の時代からあった傀儡(操り人形)の芸に、三味線や義太夫がはいり、近松門左衛門や竹田出雲の脚本家とあわさって隆盛していきました。

【落語】現在は江戸も上方の落語も同じように思われていますが、江戸は座敷や銭湯、上方は京都の日蓮宗の説教師のお説法からはじまったといわれています。

【絵画】美術の本を開くとたいがい載っている「尾形光琳(おがたこうりん)」「俵屋宗達(たわらやそうたつ)」という寺社やお城やお屋敷の屏風や壁絵のパイオニアや狩野派、「見返り美人」で有名な「菱川師宣(ひしかわもろのぶ)」という浮世絵のルーツなどもこの時代です。

これは一部ですので「なんだか面白そう」と思われたら調べてみるのも面白いかもしれませんね。

綱吉人気を一気に落とした「忠臣蔵」の真実

綱吉人気を一気に落とした「忠臣蔵」の真実

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年末になると「またか」と思われる人も多い「忠臣蔵」。
この「赤穂浪士討ち入り事件」は綱吉の時代に起りました。
ドラマや映画や小説だと赤穂浪士をヒーローにして描かれていますが、真実はどうなんでしょうか?

天皇や上皇から幕府に天皇からの使者が来ることがあります。

そこで順番に接待役というのが各藩に割り当てられます。
この時は赤穂藩の「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」。
幕府が恥をかいては困るので朝廷との繋がりが深い「髙家(こうけ)」と呼ばれる人が指導に当たります。
この時は「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」。

最初の出会いが最悪でした。
指導を受けるのだからお礼(レッスン代)を払わなければなりません。
どうやら、普通より少額だったようです。
もうこの時点で「この田舎侍」と思っていたかもしれませんが、なにせ幕府が恥をかかないようにするのが大事なので厳しく指導します。
どうも浅野はイジメだと思っていたそうで、キレてこともあろうか使者が来た日に「松の廊下」で吉良に斬りつけます。

そんな大事な日に恥をかかされて、おまけに刃傷沙汰禁止の江戸城内で指南役の老人を斬りつけたということで、綱吉は怒り浅野を即日処罰します。
しかし赤穂藩士たちは吉良になにも処分がなかったために「喧嘩両成敗じゃないのか!」と怒りだして(これは一方的に斬りつけたので喧嘩じゃないと思いますが)数年後に47人の元藩士たちが吉良邸に討ち入りして吉良を殺害してしまいました。

庶民は「今時珍しい殿様の敵討ちって武士らしくていい!忠臣だ!」と大絶賛したという話です。
世論もあって幕府は武士らしく切腹することを言い渡しましたが、綱吉の人気は一気に落ちたとのことでした。

余談ですが、切腹を申し渡されたものの、実際のところ自ら切腹することができず「扇腹」といって扇をお腹に当てたのを合図に介錯したという話とのことです。

はてさて、この事件、一番悪いのは誰なのでしょうか?

生類憐れみの令は、本当のところなんなのでしょう?

生類憐れみの令は、本当のところなんなのでしょう?

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前半の治世は大絶賛の綱吉ですが、後半の人気大暴落の原因は、この法令だといわれています。

そういうわりには、24年間に135回も出されたという記録が残っています。
そしてその数を総称して「生類憐れみの令」と呼ぶということは、時代劇などで見るように立札とか文章でドーン!と出されているのと違うということで、これは話が変わってきますね。

そして何度もというのも謎で、それは誰も守らなかったから?という疑問も出てきます。

もし、今まで言われてきたことが捏造だったとしたら? 

これは検証していかねばなりませんね。

親孝行も考えよう、お告げってウソ?本当?

親孝行も考えよう、お告げってウソ?本当?

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通説から見ていきましょう。

綱吉の母である「桂昌院(けいしょういん)」は、お気に入りの真言僧「隆光(りゅうこう)」に、世継ぎの男子が生まれるようにと子授け祈願を頼みます。
しかしなかなかできません。

隆光は「将軍は前世で殺生した罪で男子にめぐまれません。
お世継ぎが欲しければ動物を大事にしなさい。
将軍は戌年生まれだから、特に大事にした方が良いですよ」とアドバイスしたために、桂昌院がビックリして「生類憐れみの令」を出すように綱吉に言います。

綱吉は頭の良い秀才でしたが、子供の頃から学んだ儒学の影響でとても親孝行でした。
泣きながら頼む母親のために法令を出します。

桂昌院は『徳川実紀』という記録では、父親は関白・二条光平の家司の小路太郎兵衛宗正とありますが、実は八百屋の娘で大奥に入るために養女になったとかいう噂が、まことしやかに流れたようですが、この法令のせいで悪女だということから捏造された可能性もあります。

しかし、この話も今の研究からいくと、実はこの時に隆光は江戸にはいなかったという話もあったり、『真言宗年表』という真言宗の記録に1686年10月3日に江戸城黒書院で祈祷をしていたから、生類憐れみの令以前より江戸城に出入りしていたというのもあります。
この法令に関わったかは不明ですが、京都と奈良の寺社の再建を桂昌院と綱吉に勧めたせいで、幕府の財政が傾いた原因といわれているのは事実なので、これも抱合せにされたという可能性もあるかもしれませんね。

生類憐れみの令の真実

生類憐れみの令の真実

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なにか犬ばかり大事にしていた「犬公方」という仇名ばかりが有名ですが、この法律で本当に保護したかったのは「人間」だということがわかってきました。

この当時一番問題になっていたのは「捨て子」。
今のように避妊の知識があるわけでもなく、日が暮れたら寝てしまうような生活をしていたら、次々と子供が生まれてしまうわけです。
そうすると育てられないので捨てる。
「捨て子禁止令」としては何度も発令されて、全国の大名達にも徹底させたといわれています。
続いて問題になっていたのは「病人」。
病人を山に捨てたり、病気で倒れている人がいても放置して死なせることが多かったので、人をいたわる心を大切にしていた綱吉にとっては、どうにかしたい懸案だったのでしょう。

つまり、この法令は、弱者を助けるための「福祉」政策だったわけでした。

戦国以来の「人は死んでも当たり前」だった風潮が、実はこの法令のおかげで「人を殺してはいけない」ということになったというのが皮肉にも思えてなりません。

なぜおかしな法令と言われるようになったのか?

なぜおかしな法令と言われるようになったのか?

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この法令の一番の目玉ともいえる「犬屋敷」こと犬を収容する「御囲(おかこい)」という施設。
これは綱吉が戌年生まれだからではなく、江戸にはびこる野犬が人々を襲う事件がひんぱんに起きていたために、野犬を収容して人々(特に子供)を守るための施設だったのでした。
しかしなぜこんな悪口を言われたのかというと、その一番大きかったという中野は、今の東京ドーム20個という広さで、元々住んでる人を追い出して作り、エサ代も維持費も税金からまかなったので、庶民から「人間より犬が大事か!」と大ブーイングが起きたからだったのですね。

この犬小屋に対して「水戸黄門」で有名な水戸藩主「徳川光圀(とくがわみつくに)」が、犬の毛皮を綱吉に送りつけたという批判をしています。
同じ徳川なのだから処分はされないよね~と思われる方も多いと思いますが、実はこの法令があった24年間で、処罰されたのは72件しかありません。
それもほとんど武士階級なのでした。
とはいえ、この犬の毛皮の話は出典がなく、創作という話もあります。

ドラマとかである、蚊を叩いて殺したからお役御免になったとか犬を殺したから死罪になったとかいうことはなく、病気の馬を捨てたり、鳥を鉄砲で撃ってそれを売って商売していた役人とか、けっこうまともな理由で処罰されています。

綱吉の死、憐れみの令の終焉

綱吉の死、憐れみの令の終焉

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綱吉は1709年1月10日に亡くなりました。

そしてその死と共にこの生類憐れみの令は廃止されました。
しかし、捨て子禁止令と病気の牛馬の遺棄の禁止は継続されました。
枝葉の動物愛護は廃止されて、根底の捨て子禁止令は残り、人を殺すことはとんでもないという考えは残ったのですから、結果的には成功した法令だったのかもしれません。

それなのに、なぜここまで言われるようになってしまったのかというと、綱吉の亡き後に政権をとった「新井白石」が自分の改革を良く見せるために、これみよがしに悪く記録に残したという説があります。

それだけではなく、テレビドラマ「水戸黄門」と「忠臣蔵」にも原因があるといわれています。
特に忠臣蔵を正当化してヒーローとして成立するには、この時代の悪の根源として綱吉は悪人として存在しなければならなかったのでしょう。
これは気の毒としか思えないですね。

江戸時代を変えた徳川綱吉

荒ぶる武力で支配しようとしていた江戸幕府を根底から変えた徳川綱吉。

生前は「犬公方」と茶化されて、後の政権からは「最悪」だと書かれ、誤解されたままその評価は続いてきました。

しかし、本当にしたかったことは続けられて現在まで至っているので、ご本人は満足なのかもしれませんね。

ちなみに、綱吉は、それほど犬が好きではなかったという記録が残っています。







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