幕末のターニングポイント「池田屋事件」が起きた原因と残したもの

「池田屋事件」は、江戸時代末期(以後は「幕末」)で現在の京都にあった旅館である「池田屋(現在は居酒屋・池田屋)において、元治元年6月5日(西暦1864年7月8日)に起きた、京都の治安を幕府より命じられていた「会津藩」の下部組織である「新選組」が、クーデターの相談をしていた長州藩や土佐藩などの「尊皇攘夷派」「倒幕派」と呼ばれる組織を一網打尽した事件をいいます。

歴史が好きな人でも「幕末はよくわからない」と言われる人がいます。それぞれが「自分の正義」のために「国のために」と命をかけて若者達がかけめぐった時代なので「誰が正しいのか、誰が悪いのかわからない」ということのようですね。幕末に詳しい人達も「幕府側」と「尊王攘夷派」と好みが真っ二つに分かれます。このふたつの勢力が迎えたターニングポイントともいえる「池田屋事件」。

時代劇などでは華やかな殺陣によって有名ですよね。この事件のために「明治維新が5年遅れた」という人も反対に「5年早くなった」という人もいるくらい幕末を知るためには押さえておかなければならないものといえます。しかし「なぜ起ったのか」という時代背景も知らないと、ただの襲撃事件で終わってしまいます。そこから掘り下げていきましょう!

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幕末ってなに?

幕末ってなに?

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まず「幕末」といわれる時期を知らないとなりません。

記録として残る「平安時代」に次ぐ2番目に長い「江戸時代」。
平安時代は「貴族の時代」が終り「武士の時代」が始まります。

その武士の時代が終わる江戸の末期の時期が幕末です。

そして「明治時代」が始まり「第二次世界大戦」が終わるまで「帝国主義」が続きます。

なぜ江戸時代は終わってしまったのでしょうか?

幕末の時期はいつ?

幕末の時期はいつかという定義は、学者さんによって色々です。

江戸時代の初めに「鎖国」が始まって西洋との窓口はオランダだけでした。
そこへアジアへの貿易船や、「捕鯨(鯨の脂を搾って燃料にするために捕鯨をしていた)」の船の燃料・水・食料の補給基地として日本に目を付けたアメリカが「黒船」と呼ばれる「マシュー・ペリー」を提督としたアメリカ海軍艦隊が「開国(外交しよう)」と迫った時期が始まりというのが一般的だといわれています。

終りは十五代将軍の徳川慶喜の、朝廷に江戸幕府から政権を返上した「大政奉還」や「王政復古の大号令」だという人もあり、徳川幕府が江戸城を明け渡した「江戸城開城」だという人もあり、行き場のなくした旧幕府の武士や明治政府に不満を持つ人達が「箱館(現・函館)」に新しく政府を作りましたが、明治政府が認めず戦争になって降参した「箱館戦争」だという人もいます。

 

黒船来航!

黒船来航!

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西洋の産業革命以来、ヨーロッパ各国はアジアに進出して植民地を広げていきました。
その中で、インドや東南アジアなどに拠点を持たないため完全に出遅れたアメリカは焦っていました。

欧米は産業革命より夜も働くことができるようになったために、灯油と機械を動かす潤滑油にマッコウクジラを搾った「鯨油」を得るために捕鯨を盛んにしていました。

鯨油を搾る作業は船で行われていて薪などが必要となってきます。
そうなると拠点を持たないアメリカは、どうしても食料や燃料の補給のための中継基地が必要となりました。

当時の日本は、隣の「清国(中国)」がアヘン戦争で負けて以来「外国船が来たら打ち払う」という政策から「難破した場合は食料と燃料を渡してもかまわない」という柔軟な政策になってきていました。
それでも窓口は唯一オランダ人たちが住むことを許されている「長崎」のみでした。

しかし日本の「太平洋」に面した港を中継基地として欲しくなり、自分たちに都合の良い条件での開国を迫ってきたのです。

オランダからの情報

1852年7月21日にオランダ商館長(出島の一番偉い人)の「ヤン・ドンケル・クルティウス」が、長崎奉行に「アメリカが日本との通商条約を求めていて、ちかいうちに艦隊を率いてやってくる」という情報を教えました。
オランダは加えて「長崎にオランダ同様の商館を認めて、江戸や大坂などの港で交易したらどうだろうか」という提案もしてきました。

この報告を受けた、老中首座の「阿部正弘(あべまさひろ)」は、関ヶ原以前より徳川家に従っていた「譜代大名(ふだいだいみょう)」達にこれを回覧しましたが「通商条約は結ばない」という結果となり、あげくに「オランダは信用できない」とまでいわれてしまいました。

海岸沿いを見張るために「会津藩(福島)」などに警備をさせましたが、アメリカが来るかもしれないという情報は幕府の中でも上層部にまでしか知らされていませんでした。

その中で異例に「外様大名」と呼ばれる「関ヶ原の合戦」前後に徳川に従った大名である、薩摩藩(鹿児島)の藩主「島津斉彬(しまづなりあきら)」には薩摩藩の支配下に「琉球王国(沖縄)」があったために知らされていたといいます。
後に琉球にペリーが来てからの報告はすぐ阿部正弘にされました。
アメリカの脅威を感じていたのは、この2人だけだったといわれています。

浦賀に来るまでのアメリカ海軍

浦賀に来るまでのアメリカ海軍

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1852年11月24日かの有名な「マシュー・カルブレース・ペリー」司令長官兼遣日大使がアメリカを出発しました。

翌年の5月26日に、ペリーは琉球王国の那覇沖に着いて「首里城」を訪問したいと申し出ます。
断られたにもかかわらずペリーは武装した兵を率いて進軍し城までやってきました。

実は出発当時の大統領「フィルモア」からは「琉球を侵掠してもかまわない」と言われていたからでした。
途中に大統領が「ピアース」に変わって「侵略を目的とした武力行使は禁止」となっていましたが、ペリーの元には届いていませんでした。

しかし、琉球王国が友好的に振る舞った(実は他の国への対応より下な扱いという嫌がらせをしたけれど気がつかれなかった)ために、武力行使はされなかったものの中継基地として使われることになってしまいました。

次に行ったのは「小笠原諸島」。
国際的に領有権があいまいだったために、ペリーは探検して「アメリカの所有」を宣言しました。
それに反発したイギリスとロシアが軍艦を率いてやってきたために、宣言はあいまいなまま消えてしまったのでした。

後に日本が領有権を主張して日本国のものとして、アメリカ・イギリス・ロシアに認めさせました。

たった4ハイで夜も寝られず

1853年7月8日午後5時、旗艦の「サスケハナ」をはじめ、アメリカ出航の時に乗っていた「ミシシッピ」、そして「サラトガ」「プリマス」の4隻が浦賀沖に停泊しました。
この艦隊はそれまで見ていたロシアやイギリスの帆船とは違っていました。
黒塗りの船体の蒸気機関でも帆でもはしる外輪船のサスケハナとミシシッピは、帆船であるサラトガとプリマスを1艦ずつ曳航しているという異様な姿だったために「黒船」と呼ばれるようになりました。

最初は合計で73もある大砲から弾が飛んでくると恐れられたものの、号砲や祝砲などが空砲であることがわかると「大きな花火のようだ」と見物人が集まり、中には小舟を出して商売を始める者などまで出てくる始末で、上へ下への大混乱を起こしている幕府とは裏腹に、庶民はロシアやイギリス艦で慣れているのもあり、ドラマや映画で見るようなパニックではなかったという記述が残っていたりします。

当時読まれた狂歌に「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たつた四杯で夜も眠れず」というのは今も有名ですね。
上喜撰というのは緑茶の種類だそうで、濃くてカフェインが効き過ぎて寝られないというのと、蒸気船と名前をかけて大混乱している様子が描かれているといわれています。

江戸幕府の斜陽がはじまる

江戸幕府の斜陽がはじまる

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浦賀にやってきたペリーは応対してきた浦賀の与力に「身分の高い者にしか大統領の親書を渡さない」と突っぱねました。

ここでミニ知識。

日本や中国などの漢字圏の国々の国々は「大統領」と書きますが、これはこの時に幕府の通訳達が考えた単語です。
王様でもなく皇帝でもない「庶民から選ばれた国の代表」というのは、日本にとっては考えられない立場だったので、どう表現しようかと頭を悩ませたといわれています。
そこで考えついたのが「大工の棟梁」に「大」をつけて「国を統率する人」という意味で「大統領」になったそうです。

さて、この時の幕府は実は大変な事態になっていました。
それは将軍である「徳川家慶(とくがわいえよし)」が病気に伏せっていて、とてもペリーどころの騒ぎではなかったのでした。

そんなことは知らないペリー。
散々待たされて「3日以内に偉い人を連れてこなければ、江戸湾に入って江戸城に入り、直々に将軍に親書を渡す」と言い出しました。
困った老中の阿部正弘は「受け取るくらいならばしかたあるまい」と許可を出します。
そして「将軍が病気なのでお答えできない」と浦賀奉行に受け取らせた時に言いました。
そこでペリーは「病気ならばしかたがない。
1年後にまたやってきます」と答え、さっさと帰るかと思っていた幕府を横目に、海岸周辺の計測や大砲を撃つなど威嚇して帰って行ったのでした。

幕府の屋台骨が崩れだした

ペリーが去って10日もしないうちに、将軍の家慶がなくなりました。
次に将軍になった「徳川家定(とくがわいえさだ)」は、病弱なために政治を仕切ることなどできない人物だったといわれています。

困った阿部正弘は、幕府の高官達といくら話し合っても良い案が出ないために、今まで政治には一切口を出すことをさせなかった外様大名や、学者や一般の庶民にも意見を聞くことにしました。
これが地震でいえば「余震」のようなものですね。
外様大名達は喜んで「これからの政治は幕府だけでなく、みんなで合議して決めていきましょう」という「公議輿論(こうぎよろん)」という考え方か根付いてしまったのです。

これは幕府大事の考え方の「佐幕派(さばくは)」にとっては幕府を立て直そうとした考え方でしたが、幕府を倒そうとする「倒幕派(とうばくは)」にとっては「新しい世の中の理想の形」として受け取られたのでした。

それで、良い案が出たかというと、何もでなかったという結末だったのでした。

しかし、これが幕府の崩壊の最初の一歩になった事には違いありません。

幕府は手をこまねいていたわけではない

幕府は手をこまねいていたわけではない

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どう対応するのか別として、ペリーが再来した時のために幕府もできるだけのことをします。

7月24日(なんとペリーが去った1週間後)、幕府はアメリカの黒船に対抗するために、オランダに船艦を発注し、大型船を禁止していた「大船建造の禁」も解除して、各藩に軍艦の建造をすることを勧めました。
命令するだけではなく幕府自身も洋式帆船の「鳳凰丸」を10月21日に進水しました。

8月26日、もし戦闘になった場合に備えて、日本で初めてパンを作ったり、鉄製の大砲を造るための反射炉を作った人「江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)」という洋学にも通じている韮山の代官を中心として、品川沿岸に大砲を設置できる場所、今ではフジテレビがあることで有名な「お台場」を作らせました。
彼は西洋砲術にも詳しく、弟子に幕末の騒乱を駆け巡る「佐久間象山」「大鳥圭介」「橋本左内」「桂小五郎」などがいました。
この建築と幕府の会議に呼び出されたりの往復で過労死してしまいますが、彼が生きていたらまた違った幕末が来たかもしれませんね。

12月7日、土佐藩の漁師で難破してアメリカの船に助けられ教育を受けて、2年前に帰国してからは土佐藩の藩校の教授をしていた「ジョン万次郎」を、敵を知るためにと旗本格として採用してアメリカ国内の政治や事情などを聞いています。
これは幕府にとっては背に腹は変えられないとしても大盤振る舞いな採用でした。

ペリーの約束破りの再来

1854年2月13日、将軍が死んだというニュースを香港で聞いたペリーは「この混乱に乗じて決めてやろう」という意気込みで、なんと1年の約束のはずが半年でやってきたのです。
時間差で続々と現れたアメリカの船は、3月19日には9隻にも及ぶという大がかりな艦隊で、並々ならぬ覚悟でやってきたと幕府も動揺しました。
しかし庶民は、前回同様に観光に集まっての大騒ぎになっていたといわれています。

さすがに2回目となるとアメリカも幕府も殺気だったこともなく、お互いにアメリカはフランス料理を振舞い、日本も大金かけてご馳走をしました。

会話や交渉にあたってアメリカ側には難破した日本人から日本語を教えてもらったという漢文担当の通訳「サミュエル・ウィリアムズ(交渉自体には日本語に間違えがあったら困ると辞退している)」と、日本人ができる唯一の外国語であるオランダ語通訳「アントン・ポートマン(後の駐日米国代理公使)」、日本からは2回目はアメリカの捕鯨船から密入国して日本に10ヶ月いたという「ラナルド・マクドナルド」から英語を学んだというオランダ語通訳の「森山栄之助」などがいました。
ジョン万次郎も候補にあがったようですが、幕府の中で「あいつはスパイかもしれない」と言われていたので参加していませんでした。







日米和親条約が締結

日米和親条約が締結

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3月31日、約1ヶ月の交渉の末に、幕府は開国を認めました。
ようやくペリーは約500名を引き連れて「横浜村(現神奈川県横浜市)」に上陸したのでした。
そして全12箇条からなる「日米和親条約(神奈川条約)」が締結されたのでした。
三代将軍の「徳川家光」以来続いていた「鎖国」の終わりでした。

4月25日、「吉田松陰」が密航しようとして捕縛されます。
この人が長州の倒幕派の中心となる「桂小五郎」「高杉晋作」などを育てあげた「勤王志士」の生みの親なのですが、この時は純粋に「外国を知りたい!」という一心から出た行動でした。

5月22日、伊豆国下田(現静岡県下田市)の「了仙寺」で再び交渉が行われて、和親条約の細かいところを決めた「下田条約」が締結しました。

6月1日、ペリー艦隊はようやく下田を去って琉球王国とも通商条約を締結しています。
抜目がないですね。
この抜目のないペリーさんですが、この4年後に亡くなります。
やはり大役を終えて心身共に限界だったのでしょうか。

アメリカに続けとばかりに、イギリスが1854年10月14日に「日英和親条約」、ロシア帝国が1855年2月7日に「日露和親条約」、鎖国時代も交流していたオランダとも改めて1856年1月30日に「日蘭和親条約調印」を結びました。

これらによって、長崎だけでなく下田と箱館(函館)が寄港できる港として制定されたのでした。

天皇の勅許拒否

1856年にアメリカは「総領事」として「ハリス」を下田に送り込みます。
ハリスは補給できる港というだけでなく「通商条約」を結ぶことを目指してきていました。
阿部正弘死後に老中首座となった「堀田正睦(ほったまさよし)」は、外国嫌いの鎖国を続けたい「攘夷派」のトップである水戸藩主の「徳川斉昭(とくがわなりあき・十五代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の実父)」の猛反発を覚悟して、ハリスを1857年12月7日に将軍・徳川家定と謁見させました。
実は鎖国中もオランダから国際情勢を聞いていた幕府は、これまでの状態はもう無理だと判断し、通商条約を結んだのでした。

ここで幕府は、もうひとつの失敗をします。

それは「天皇の勅許」をもらおうとしたことです。
今までお飾りでなんの権限も与えられたことがない天皇に「国として天皇が認めてください」と言ったのですから、幕府の威信が崩れる大変なことなのでした。

結果は、時の天皇「孝明天皇(こうめいてんのう)」は補給させる港は仕方ないと思っていましたが、外国人など大嫌い!な人でしたので、勅許はおりませんでした。
これで幕府を軽く見ていく人達が増えたといっても過言ではないでしょう。

ところで、この大騒ぎを起こしたアメリカですが、このあと幕末にはほとんど登場しません。

幕府側にはフランスがつき、倒幕派にはイギリスがつきます。

アメリカはなにをしていたのかといいますと…なんと「南北戦争」という国が2つに分かれる戦争をしていたのです。
この後の日本も同じように、国が2つに分かれる「戊辰戦争」が始まるので、歴史というのは皮肉なものだと思わずにはいられません。

ふたつに割れる日本

ふたつに割れる日本

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これで時代背景はわかったと思いますが、これが決定的にふたつに割ってしまう事が起きてしまったのです。

「安政の大獄」と「桜田門外の変」

天皇から勅許をもらえなかった老中の堀田は失脚し「井伊直弼(いいなおすけ)」が「大老」になります。
大老というのは通常の時には設置されず、大変な時が起きた時に老中の中からリーダーとして選ばれる職といわれています。
開国派だった井伊直弼と、攘夷派の徳川斉昭達の対立は、病弱な将軍の家定の後継将軍を決めるのも相まって激化していきます。
そして攘夷派や幕府の方針に反対を唱える人達を処罰していきます。
それが「安政の大獄」です。

これによって幕府に不満を持ち天皇を尊んで開国に反対するという「尊皇攘夷運動」が全国に広まっていきます。

とうとう我慢の限界に来た水戸藩士の一部が、藩に迷惑がかからないようにと「脱藩(藩士をやめること)」して、1860年3月3日の雪の日に、江戸城に向かって桜田門の近くまで来た井伊直弼の行列に襲いかかり、暗殺をします。
これが「桜田門外の変」です。

吉田松陰というひと

安政の大獄で、幕府はひとりの人物を処刑しました。
名前は「吉田松陰」。
先に書いた黒船に密航しようとして失敗して逮捕された人ですね。
彼は「長州(山口県)」の学者で、9歳で藩の学校の先生に就任したという秀才です。
好奇心が強く藩発行の通行手形なしに東北行ったりと(その時に会津に行き、将軍の病気平癒の祈願をしたという逸話も)破天荒なところがあります。

逮捕後には長州に送られて幽閉されます。
その時に「松下村塾(しょうかそんじゅく)」という私塾を作り、生徒に「高杉晋作」「久坂玄瑞」「伊藤博文」「山縣有朋」「吉田稔麿」など、尊皇攘夷運動の立役者となる人達がいました。
「日米和親条約」が締結した時に吉田松陰は怒り狂い老中を狙撃して討ち取るなどと言いだし、「日本を正しい道を歩かせるためには、幕府はいらない」という結論に至ります。
ちょうどその時に「安政の大獄」があり処刑されるということになりました。
この弟子達が「倒幕」の中心になっていくのでした。

公武合体派と尊皇攘夷派との対立

開国派の人達は、井伊直弼を中心に運動を重ねて、1858年5月に紀伊藩主を十四代将軍「徳川家茂」とします。
これで攘夷派が推していた「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」を将軍とする計画がなくなります。

そして尊皇攘夷運動を押さえるために「天皇と幕府が手を組んで国難に立ち向かおう」という朝廷との連合を計画します。
これが「公武合体」といわれるものです。
そのために徳川家茂将軍と、孝明天皇の妹である「和宮(かずのみや)」との結婚を計画し、1862年に行われました。
これが逆に尊皇攘夷運動の逆鱗に触れることになってしまったのでした。

1862年、通商条約を破棄して外国との戦争も辞さないという「破約攘夷」を掲げた長州藩が、それまでの朝廷との繋がりもあり、京を中心とした尊王攘夷運動の盟主になりました。
そして同じく朝廷と深い縁のある薩摩藩を追い出してしまいます。

尊皇攘夷を掲げた「天誅」と称するテロが横行して、長州だけでなく薩摩や土佐などの藩内にいる尊王攘夷派が、孝明天皇の外国嫌いを利用して朝廷を動かしはじめます。
そして1863年1月、上洛した徳川家茂に攘夷を実行をするという約束をさせてしまったのでした。

朝廷を掌握しようと、尊皇攘夷派が動きを活発にしだしていくなかで、公武合体派の「京都守護職」の会津藩と薩摩藩が手を結び、尊王攘夷派を排斥する動きが始まりました。
そしてその中心となっていた長州藩と行動を共にしていた公家達を「八月十八日の政変」において京から追い出しました。

池田屋事件

池田屋事件

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それまで勝手気ままにテロ行為を続けていた尊王攘夷派たちは地下にもぐり、起死回生の時期を待っていたのでした。
その中で「京の都に火を放って天皇を長州に連れて行く」という恐ろしい計画が進められていったのです。

それを阻止したのが「新選組」でした。

これより新選組とはなにか、池田屋事件の全容を追っていきましょう。

新選組とは

池田屋事件によって一躍歴史の表舞台に立った新選組は、徳川家茂が京に上る時に「警護をする浪人」という募集された「浪士隊」から生まれました。

その浪士隊というのは「清河八郎(きよかわはちろう)」という尊王攘夷派の志士が幕府を騙して腕の立つ浪人達を集め、表は「将軍警護」といいながら、京に着くと手のひらを返したように「尊皇攘夷の先鋒隊」にしようとしたとんでもないものでした。
その演説を聞いて反発し脱退した「近藤勇(こんどういさみ)」「芹沢鴨(せりざわかも)」たちを、京都守護職である会津藩主「松平容保(まつだいらかたもり)」が、市中警護のための要員として庇護して結成された隊がはじまりです。

最初は「壬生浪士組」と称していましたが、「八月十八日の政変」の警備の働きを認められて「新選組」の名前を拝命しました。
そのは名前は朝廷から賜ったというものと、会津藩主本陣の警備部隊名として容保からもらったという2つの説があります。

身分に関係なく実力重視の隊士を集めたために、幕末にもなると武士らしくない武士が多い中で「本物の武士よりも武士らしく」というスローガンのもと厳しい隊の規律を設け、違反した者は「武士らしく責任をとる」ということから「切腹」という罰則を作ります。

池田屋の時期には、初代局長である芹沢鴨と、その仲間達は粛清されていました。

時代劇の影響から、バッサバッサと「勤王志士」と名乗る尊王攘夷の過激派を斬りまくっているイメージがありますが、隊の仕事は市中の巡察と警備・不審者の探索と捕縛・反乱の制圧・VIPの警護などでした。

古高俊太郎

古高俊太郎

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池田屋事件は、この男の捕縛からはじまりました。

父親は「古高周蔵」という大津代官の手代でした。
その後父が山科毘沙門堂門跡に仕えるために京へ一緒にのぼりました。
そして儒学者「梅田雲浜」の弟子になりました。
その人が尊皇攘夷の説を唱えている学者だったために影響を受けました。
そして尊王攘夷派の中でも大物の「宮部鼎蔵(みやべていぞう)」などと交流をはじめます。

その後「福岡藩」御用達の枡屋という店を継ぎ「枡屋喜右衛門」と名乗ることになりました。
古高はその立場を利用して、店の商いの炭や薪や古道具や馬具を扱いながら、武器調達などをはじめ、宮部たちと「有栖川宮」という尊王攘夷派の公家たちとのパイプ役となります。
力をつけてきた古高は、長州のスパイとしての総元締としての重要なポストになっていき、大名や公家屋敷にも出入りして諜報活動もしていました。

元治元年6月5日(1864年7月8日)、5月より探索していた新選組の働きで「枡屋=古高俊太郎」ということが発覚します。
そして京都守護職に報告されて店を家宅捜索。
そしてたくさんの武器や長州との手紙が見つかり捕縛されました。

元治元年6月5日の長い日

古高が捕縛されて新選組屯所の前川家に連行されました。
局長の近藤勇らが詰問しますが黙秘。
副長の「土方歳三(ひじかたとしぞう)」らが蔵の中で、逆さにつるして足の甲に五寸釘を打ち、そこへロウソクをつけるという拷問をしました。
強情に黙秘をしていた古高も、とうとう耐えかねて自白をします。

自白内容は「祇園祭り前の風の強い日に御所に放火をして、そのパニックに便乗して公武合体派の中川宮を幽閉する。
そして一橋慶喜や松平容保たちを暗殺して、孝明天皇を長州に連れて行く」というとてつもないものでした。
これはすぐに京都守護職に報告されました。

新選組の監察が、長州・土佐・肥後藩の尊皇過激派が「池田屋か四国屋で、古高俊太郎を奪回するために新選組を襲撃するか否か」という会合を開くという情報をもってきました。
(場所はわからなかったが、会合は開かれるというという情報だけという説あり)

新選組は各々集合場所に集まり、会津や桑名の応援を待つが、会議などで遅れているので機を逸すると出動する。
(手柄を焦って約束の時間前に出動したという説あり)

新選組は二手に分かれて、近藤組は池田屋、土方組は四国屋に向う。

近藤隊は鴨川の西側に行き、四条から三条に木屋町通りを北上して一軒ずつ探索を始めます。
(実際には池田屋とも四国屋ともわかっていなかったためにしらみつぶしに探したという説あり)

長州の尊王攘夷派の大物の「桂小五郎(かつらこごろう)後の木戸孝允(きどたかよし)」は「池田屋に行くが、まだ誰もいなかったので対馬藩邸に行った。
対馬藩邸で騒ぎを知り池田屋に駆けつけようとしたが引き留められた」と本人は書き残していますが、京の長州藩留守役「乃美織江(のみおりえ)」の手記には「池田屋から屋根伝いに逃げて対馬藩邸に入った」と書かれています。
なんだか後者の方が信憑性はありますね。

次のページでは『池田屋!』を掲載!
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3度のご飯より歴史が好きです。歴女というのが今メジャーなようですが、どちらかというと私は歴史ヲタクという泥臭い感じがします。

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