江戸時代屈指の政治家「田沼意次」の歴史

田沼意次(たぬまおきつぐ)は、十代将軍徳川家治(とくがわいえはる)の時代の老中で、財政再建を目指し「田沼時代」と呼ばれる素晴らしい政治をした人です。

今までの幕府のやり方を根底から変えて、優秀な人を取り立てていこうとした人でした。しかし天災などが続き、今なら画期的と思われる事業も失敗に終わるという不遇な政治家でもあります。この人がどれだけの人物だったか追っていきましょう。

田沼家はどうやって幕臣になったのでしょう

田沼家はどうやって幕臣になったのでしょう

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田沼家は、徳川家の「御三家」のひとつ「紀州(和歌山)徳川家」の家臣でした。
それが藩主の「徳川吉宗」が将軍になったことから、吉宗について江戸へ行き旗本となります。

元々藩主になるはずのなかった吉宗が藩主になり将軍になった奇跡のような話でした。
それについていった経過をくわしく調べてみましょう。

まず御三家ってなに?

昔から男性のアイドルなどに御三家と呼ぶことがありますが、本家本元は「徳川家康」の息子たちから始まります。

正式名は「徳川御三家(とくがわごさんけ)」といい、江戸時代の徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家で「尾張(現在の愛知)」「紀州(現在の和歌山)」「水戸(現在の茨城)」のことをいいます。
「尾張徳川家」は家康九男の「徳川義直(とくがわよしなお)」、「紀州徳川家」は家康十男の「徳川頼宣(とくがわよりのぶ)」、「水戸徳川家」は家康十一男の「徳川頼房(とくがわよりふさ)」が始祖となっています。

尾張藩は「東海道」「東山道」の通る道、紀州藩は江戸と上方を通る海路「紀淡海峡」に面する位置、水戸藩は陸奥方面の「水戸街道」「岩城街道」の通る道というように要所に配置されています。

御三家は一門の中で最高位にあって、吉宗が設置する「御三卿」と一緒で「徳川姓」を名乗ることができました(他は「松平家」)。
将軍家を補佐するという制度でできたものの、その実は宗家の後継が絶えた時に後継にできるようにと宗家存続のために、家康が作ったといわれています。
これはオリジナルではなく「室町時代」の「足利将軍家」が後継が絶えた時に「吉良氏」「石橋氏」「渋川氏」を「御一家」と称して継承する家を作ったのを参考にしたのではないかとも言われています。

時代劇の『水戸黄門』などでは「水戸は天下の副将軍」と言っていますが、成立の時に水戸藩は他の徳川一門との関係で、尾張や紀州よりも一段低い地位にあります。
「副将軍」というのは常時江戸屋敷におり国許に帰ることがありませんでしたので、そう言っているだけのことだそうです。
五代将軍綱吉の時代にようやく「御三家」として認められたといわれています。

吉宗が将軍になった事情

吉宗が将軍になった事情

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吉宗は1684年10月21日、徳川御三家の紀州藩二代藩主・徳川光貞の四男として生まれました。
母親の身分が低かったために子供時代は家老の家で育てられたものの、次兄が幼くして亡くなったために江戸の紀州藩邸に住むようになりました。
かなりの「暴れん坊」だったといわれています。

1697年の14歳の時に、五代将軍「徳川綱吉」にお目見えして「葛野藩主」になりました。
1705年に紀州藩三代藩主の長兄「綱教」と、四代藩主になった三兄「頼職」と、二代藩主だった父の「光貞」が相次いで半年の間に亡くなってしまい、22歳の時に思いもよらなかった五代藩主となりました。
その時に将軍の綱吉から「吉」の字をもらい「吉宗」と改名しました。

将軍綱吉が亡くなり、綱吉と同じく三代将軍家光の血を引く「徳川家宣(とくがわいえのぶ)」が六代将軍になるものの3年で亡くなり「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」ということから、尾張藩主「徳川綱誠(とくがわつなのぶが)」が家光の外孫ということで次の将軍という話もありながら反対にあい、幼い「徳川家継(とくがわいえつぐ)」が七代将軍になるものの8歳で亡くなってしまったので、八代将軍に吉宗が迎えられたのでした。

ここで二代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」から続いた、徳川宗家は絶えたのでした。
そして十四代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」まで紀州徳川家の将軍が続きます。

田沼家が旗本になるまで

意次の出自は、祖父の「田沼義房(たぬまよしふさ)」の話にさかのぼります。
祖父は「紀州(和歌山)徳川家」の足軽でした。
病気になった義房は和歌山城下で静養することになりました。
そのために意次の父親の「田沼意行(たぬまおきゆき)」は、そのために紀州藩家臣の「田代七右衛門高近」に養われることとなります。
そして娘婿となり紀州藩に仕官しました。

その頃の吉宗は「部屋住み」と呼ばれる藩主になれるわけでもない、藩主に何かがあった時や後継がいなかった時のための補欠という地位のまま暮らしているという身分でした。
意行その吉宗に仕えることになります。
そして吉宗の父や兄たちが亡くなり紀州藩主になった時に、意行は「奥小姓」という側近になりました。

1716年に吉宗が将軍になった時に、200人以上の紀州藩士を従えていき、すべてを幕臣に組み入れました。
意行もそれにともない将軍小姓となり「旗本」になったのでした。
意次が生まれたのは1719年で、1734年に47歳で亡くなる頃は「小納戸頭取」という、将軍の側近で奥向きの取り締まりと表役人との応接に当たる、側近たちの責任者になっていました。

意次の老中までの道

吉宗は紀州から連れて来た家臣達を、勘定方(現在の大蔵省)と、将軍とその子供たちの側近に配置して、幕府での政治を掌握しました。
意次は江戸に来てから生まれましたので、2世担当となり、後の九代将軍になる「徳川家重(とくがわいえしげ)」の西丸小姓にと抜擢されて、1735年に父親の後を継ぎました。

1737年に父と同じ「従五位下主殿頭」になり、1745年の家重が将軍職に就いた時には、一緒に西丸より本丸に移転。
1748年と1755年に父から継いだ600石に4400石加増されます。
1758年、美濃国(岐阜県)郡上藩(郡上市八幡町)で起きた「百姓一揆(郡上一揆)」の「詮議(裁判)」を担当させるために「御側御用取次」から1万石の大名に取り立てられました。
その後の十代将軍「徳川家治(とくがわいえはる)」になっても信頼は厚く、スピード出世と現代ならば言いたくなるほどの早さで老中まで駆け上がります。
最盛期の石高は5万7,000石。
相良(静岡県牧之原市)藩主となり、築城を許され「相良城」を建てています。
このように側用人から老中にまで出世したのは、初めての人といわれています。

田沼時代

田沼時代

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吉宗の行った幕府の財政を立て直そうとした「享保の改革」というのは「倹約政治」でした。
確かに倹約のために一時的に幕府の財政は持ち直しました。
しかし上方(大阪)の商人たちが握っている「米相場(米の先物取引。
現在まで続いている先物取引のはじまり)」の経済力には太刀打ちができなくなり、米の価格を抑えたり、貨幣の質を下げたしたもののどうにもできなくなり、徐々に幕府の力は衰えていきました。
そこで吉宗は隠居してしまい、息子の九代将軍に「家重(いえしげ)」に譲ってしまいました。
この将軍は言葉に障害があったといわれて、子供の時から小姓として仕えていた意次などしか、言葉が通じなかったといわれています。

そして家重亡き後、家重の息子の「家治(いえはる)」が十代将軍に就きます。
その頃に、意次は大奥が味方について老中にのぼりつめました。
しかし、吉宗以来の幕政のツケが一気にやってきたという大変な時期でもあった大変な時だったのです。

米から通貨へ

江戸時代の経済の地盤は「米」でした。
大名の格式も米の重さである「石高」という状態でした。
しかし米は毎年豊作の年もあれば不作の年もあります。
そうなると「米問屋」の1人勝ちとなり経済が回っていかなくなって、幕府の財政もひっぱくしてきたのでした。

まずは通貨が不安定だったために枚数によって小判一両に交換できる「五匁銀」や「南鐐二朱銀」という新しい硬貨を作りました。
しかし金と銀の変動相場で商売をしていた両替商にとっては死活問題となるために大反対にあい、南鐐二朱銀は使う商人を優遇するという方法で西日本では定着してものの、五匁銀は今現在の2000円札のような状態となりました。
形が似ているということから「硯箱」と言われていることからデザイン的にも人気がなかったんでしょうか。

座から株仲間へ

座から株仲間へ

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意次は今までの政治家とは違い商人に対しての差別意識はなく、かえってそれを利用しようとしました。
みなさんは、金を商う「金座」銀を商う「銀座」自由に商売ができる「楽市楽座」というものを聞いたことがあるでしょう。
そのなごりの東京の「銀座」などは有名ですよね。
日本各地に「〇〇銀座」と呼ばれているところがありますよね。
これは東京の銀座の真似ではなく昔からそういう場所だったからだそうですよ。

そもそも「座」てなに?というところからお話ししましょう。
その歴史は古く「平安時代」からはじまっていて、朝廷・貴族・お寺や神社などに上納金を払う代わりに、お寺や神社だと境内や門前で商売ができるようにしていたという、商工業や芸人などの組合でした。
これが鎌倉・室町時代になると大名達の力が強くなり、座を無視して商売や工芸を作る人達に勝手に税をかけたりして自由に商売ができなくなりました。
それを打開したのが「織田信長」と「豊臣秀吉」が自由に誰もが商売ができるようにと「楽市楽座」を設立して古くからの座は事実上解体という形なったといわれています。

江戸時代になると楽市楽座の路線を継承したものとして、私的な同業者の問屋仲間だったものが、時代の流れで禁止されたりしながりしながら、バラバラであるより上納金を納めることによって商業の組織化が認められました、意次はそれを一歩踏み込んで、今や米の時代ではないと現金収入としての上納金と、商人組織化と統制を図りました。
この頃には問屋などが座に似たものを作っていたものが合体して「株式」となり、その構成員は「株仲間」と呼ばれるようになったのでした。

蝦夷地調査

 蝦夷地というのは、今の北海道です。

 徳川吉宗が行った「諸国物産調べ」によって東北より北になにか特産物となるものがあるのではないかと、吉宗時代より目はつけていました。
しかし蝦夷地は「松前藩」のもの。
しかし松前藩は江差にあって統治はほとんどされておらず、アイヌの人達が自由に生活させていたのでした。

 そこへ登場してきたのが「工藤平助」という人物。
この人は「仙台藩」の藩お抱えのお医者さん(藩医)で、名医として日本中から患者や弟子入り志願が来ることで有名でした。
しかも剣の達人としても知られています。
元々は紀州藩の江戸にいる藩医の息子だったのですが、「工藤安世」という仙台藩の藩主の主治医になるために妻帯しなければならないという条件から養子に入りました。
そこで医学は中川淳庵・野呂元丈、漢学は青木昆陽(薩摩芋栽培をはじめた人)・服部栗斎、蘭学は、杉田玄白・前野良沢等々という当時のそうそうたるメンバーに教わったり、オランダの通詞(通訳)の第一人者などと交流したという知識人でした。
そのような交友関係から蝦夷地に興味を持ち始めたのです。

 工藤平助は1783年に『赤蝦夷風説考』という論文を書き上げます。
赤蝦夷というのはロシア人。
ロシア人が南下して蝦夷地を占領しようとしているという警告と、港を作って交易の場所にし、今のような放任状態ではなく、ちゃんと経営をしたほうがいいというものでもありました。

 意次はさっそく調査団を派遣しました。
これで正確な蝦夷地の大きさがわかり、農業開拓をすると莫大な収入が得られるという試算も出てきました。
その時は工藤平助を蝦夷地奉行にという話が出ましたが、田沼意次の失脚により「松平定信」の手によって計画は潰されました。
この計画は時代を超えて明治時代まで行われることがなかったのでした。

痛恨の印旛沼

痛恨の印旛沼

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 歴史の教科書に田沼意次とセットで出てくるのが「印旛沼」です。

 印旛沼の場所は、千葉県北西部の印西市・佐倉市・成田市・印旛郡栄町・八千代市にまたがっている利根川水系の湖沼。
元々は2万年前に海が引いた時に削られた浸食された土地、縄文時代地盤沈下して再び海になり、奈良時代に海がまた引いて鬼怒川からの洪水が度重なってせき止められて沼になったというものでした。

 江戸時代に利根川の氾濫で江戸の町が水害からまもろうと施工された「利根川東遷事業」で利根川の下流となったのですが、そのために周辺の土地は水害に度々見舞われることになってしまったのでした。
そこで沼から東京湾へ水を流し運河を作り上げて流通と運輸がしやすくすることと、飢饉などの食糧事情を解決するために新田を作るための干拓工事を意次は行いました。
工事は最初は順調に進み3分の2まで完成したのですが、長雨が続き大洪水が起きて工事は中断してしまったのでした。
そしてこれも松平定信に握りつぶされました。
後にこの事業は江戸後期に「水野忠邦」の「天保の改革」で行われましたが、これも失敗に終わります。

 明治から昭和にかけて干拓と治水が目的だったのが、人口増加や「京葉工業地帯」ができたために利水計画と変わっていき、「印旛放水路(新川・花見川)」が完成するのは、なんと1969年のこととなりました。
 







蘭学のはじまり

蘭学のはじまり

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 蘭というのはオランダのことで、鎖国していた日本にとってはヨーロッパで唯一交易をしていた国です。
なぜオランダだけなのかといえば、「織田信長」の時代からはじまったヨーロッパとの交易の中で、ヨーロッパの国々がアジアや南米などにおいてキリスト教をひろめ交易し、そして植民地にするという常套手段をオランダが教えてくれたからだといわれています。
西洋の医学・天文学・本草(薬)・博物・植物学・化学・地図・暦を中心とした科学の最先端を、当時の日本はオランダを通じて学ぶことができました。
そのために医者や学者は長崎に行き勉強することがステータスになっていました。
そのためにオランダ語を覚えて通訳する人が必要となってきます。
最初はオランダ語を学ぶことが「蘭学」の中心といわれています。

 徳川慶喜の時代。
オランダの本草学や本などを輸入することが推奨されました。
しかし読めないために、どこかの藩では下着カタログが大事に掲げられていたという詐欺のようなこともあったようですね。

 意次の時代になり「殖産興業政策」が行われ、蘭学は花開いていきます。

 オランダ語を通訳する「通詞」は、元々は貿易の交渉役としての仕事が主ですが、医学などにも詳しく日本人に教えたりすることがあり縁の下の力持ちの役割をしています。
中でも吉雄耕牛・本木良永・志筑忠雄・馬場佐十郎という人達は自分たちでもオランダ語の本を翻訳している偉大な人達でした。

蘭学者・前野良沢

 蘭学者の中でも「蘭学の化物」と主君の「中津藩藩主・奥平昌鹿」に賞賛された「前野良沢」を中心に話をしましょう。

 福岡藩藩士の家に生まれながらも子供の時に両親が他界して、大叔父の博学でありながら奇人といわれていた淀藩の医者「宮田全沢」に育てられました。
この人が『蘭学事始』によると「世の中には捨ててしまうと絶えてしまうものがある。
流行りものはどうでもいいから、廃れてしまいそうなものを習い覚えて、後の世に残すよう心がけよ」と教えたそうで、それが生き方の根底にあったようですね。
そして全沢の奥さんの実家である中津藩医師の前野家の養子となりました。

 人生が変わったのは1743年、中津藩の知合いからオランダ語が書かれた紙切れを見せられたことでした。
「国が違っても同じ人間なのだから、理解できないことはないだろう」と蘭学を志したのでした。
そこで晩年の「青木昆陽」というテレビドラマ「大岡越前」の伊織先生のモデルといわれる蘭学者に弟子入りしました。
1769年に参勤交代で藩主が中津(大分県)に帰るのについていき、長崎に留学します。
そこで運命の『ターヘル・アナトミア』という解剖学の本を手に入れたのでした。

蘭学者の決心と苦悩

 江戸に帰った良沢は、知人で同じく『ターヘル・アナトミア』を持っている「杉田玄白」たちと小塚原の刑場で処刑された罪人を「腑分け(解剖)」するのを見学に行きます。
当時の医者の中で腑分けを見にいくというのは流行に近いものがあったという話ですが、たいがいの医者は途中で気分が悪くなり逃げ出してしまうのに良沢と玄白は本を見ながらその正確さに感銘して質問攻めをしたという話があります。

 今まで習ってきた日本の医学の身体の絵図と、オランダの本とのあまりの違いから、これは人に知らしめなければと玄白が言い出して良沢も決心しました。
そこで医者仲間の「中川淳庵」(腑分けに参加したという説もあります)も誘い3人で翻訳しようという話になりました。

 決意したのは良いものの、一番の問題は、言葉がわからない! まさか翻訳することになるとは思っていなかったので、それほどの単語を覚えてきていない良沢。
オランダ語をオランダ語で解説している辞書。
ほとんどわからない2人。
頼みの通詞は長崎で質問ができない。
後に杉田玄白は『蘭学事始』に「カイや舵のない船で大海に乗り出したよう」な気分だったと書かれています。
完全なる「暗号解読」だったといえます。

解体新書

 1773年、苦難の末になんとかめどがついてきた3人は、世間人達の様子を見るために予告編ともいえる『解体約図』というのを発行しました。

 そこに登場したのが、田沼時代に忘れてはならない「平賀源内」。
挿絵が酷すぎると言い、秋田藩士で源内が洋画を教えたという「小田野直武」を紹介しました。
洋画独特の陰影をもちいた挿絵によって格調が高くなったといえます。

 1774年、3年半かかって『解体新書』とうとう刊行しました。
玄白の友人の将軍の主治医(奥医師)の「桂川甫三」が『解体新書』を将軍に献上しました。
ところが、その著者の中に、前野良沢の名前がありません。
なぜでしょうか? 理由といわれているものがいくつかあります。

1.当時の日本語訳としてはとてつもなく高水準にもかかわらず、前野良沢自身が「納得がいかない」と断った

2.幕府からとがめられた時に、前野良沢だけは守りたいと玄白が載せなかった

3.良沢が長崎留学の途中で天満宮に「有名になるために勉強するのではない」からと学業成就を祈念した

 しかし藩主は名前が載っていなくても良沢の功績をしっかり見ていて「蘭学の化物」とほめてくれたんで、良沢は感激して名前を「蘭化」とかえたといいます。

 この『解体新書』は『ターヘル・アナトミア』を下敷にしていますが、実は他の『トンミュス解体書』『ブランカール解体書』『カスパル解体書』『コイテル解体書』『アンブル外科書解体篇』『ヘスリンキース解体書』『パルヘイン解体書』『バルシトス解体書』『ミスケル解体書』などという解剖学の本も編集されていて、表紙の絵は『ワルエルダ解剖書』が刺激が少ないだろうと採用されたということです。

時代より早すぎた人

時代より早すぎた人

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 世の中には時代にそうことができなくて、中には突出してしまう人がいます。

 もし今の代に生まれていれば、レオナルド・ダ・ビンチのように賞賛されて世界に羽ばたけた人がいました。

 その名は「平賀源内」

 本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家など色々な顔を持つ源内は、田沼意次の大のお気に入りであったのでした。

源内がたつ

 現在の香川県さぬき市志度に生まれた源内は、子供の時より天才肌で、天神様の掛け軸にお酒をお供えしたらヒモを引っ張り酔ったように顔が真っ赤になるという細工をした「お神酒天神」を作成したことから才能を買われて、13歳の時から藩医の元で本草学や儒学を学び始めました。
俳諧にも才能を発揮して俳句の名前は「李山(りざん)」といいます。

 1752年頃に1年間長崎へ遊学して、本草学・オランダ語・医学・油絵(画号は鳩渓(きゅうけい))などを学びます。
帰った時に家督を妹婿に押しつけて、親から引き継いだ藩の蔵番という役目を放棄しました。
勝手に自由になった源内は大阪から江戸へ行き、当時の本草学の第一人者「田村元雄」に弟子入りします。
また漢学を修得するために、漢学の宗家ともいえる「林家」に入門して聖堂に寄宿しました。
そして2回目の長崎遊学で鉱山の採掘や精錬の技術を習得して、1761年には伊豆で鉱床を発見して産物のブローカーなども行っています。
その頃にたびたび「物産博物会」を開催し大盛況をおさめて、田沼意次の目にとまりました。

仕官お構い

 1759年、その才能を手放すのが惜しくなった高松藩から家臣として再び登用されますが「こんな狭いところで一生をおえたくない」と、1761年に江戸に戻るため辞職願いを出しました。
怒った高松藩は源内に「仕官お構い」という沙汰をします。
仕官お構いというのは、これより後どこの藩もしくは幕府にでも就職することができないという厳しいものでした。

 1762年に第5回目物産会の「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催して江戸で大人気となり、『解体新書』メンバーの杉田玄白や中川淳庵たちと友達になりました。
1763年に物産会の集大成ともいえる『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を発行。
本質である学者としてオランダ博物学に興味があるけれどオランダ語ができない源内は、解体新書メンバーを横目で見ながら通詞に訳してもらいながら学ぶという地道なこともしています。

 そして源内は意次に仕えることになりました。
しかし仕官お構いとなっているので幕府の役人になることも、意次の家来になることもできないので、一般人としての派遣のような形になりました。
江戸時代の身分制度の厳しい中では異例なことでした。
源内は日本中を駆け巡り調査をしたり、諸国の様子などを意次に知らせます。
意次は源内の視点や着眼点を大いに気に入り、蝦夷地開拓の調査責任者にしようと思っていたという話があるといわれています。

源内と秩父鉱山

 鉱山開発の中でもとりわけ有名なのが「秩父鉱山」でした。
ここは現在の埼玉県秩父市の中津川上流にあります。
「武田信玄」の時代に発見されて金や砂金を採取されています。
源内はこの山が鉱石の宝庫であると見抜き開発を始めました。
それにともなって荒川の船が通れるようにする工事の指導もしました。

 まずここで「石綿」を発見します。
これは鉱石が繊維のようになっているという不思議なもので、布にして火にくべると汚れだけがとれてきれいになるという性質をもっています。
かぐや姫の求婚者にとってくるようにと言った燃えない布はこれではないかといわれています。
源内はそれにあやかって布にして「火浣布」と名付けて幕府に献上しました。
現在は京都大学の図書館に保管されているそうです。
石綿といってもピンと来ない人も多いと思いますが、アスベストと聞けば「ああ!」と思われるのではないでしょうか。

 しかし本来の期待された金は採掘なかなか成果が出ず、この山は山林の木を切り炭焼きをし(これも源内が指導)出荷されることになりました。
さぞかし口惜しかったことと思います。

 源内の目が正しかったという証明は、明治から昭和になってからされました。
現在も「株式会社ニッチツ資源開発本部」という会社が運営をしています。
1960年代には亜鉛、磁鉄鉱などを最盛期に1年に50万トンという産出をしています。
現在は金属鉱石の採掘はやめて高品質な大理石が中心となっているそうですが、本当に宝の山だったんですね。

 ここだけではなく、日本各地の鉱山開発を手がけますがなかなか成果が出ずに中断されていき「山師(山の発掘者というだけでなく詐欺師という意味もあり)」と言われるようになってしまいました。

秋田蘭画とエレキテル

秋田蘭画とエレキテル

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 秋田藩の鉱山開発に行った時のこと、源内は飢饉や政治のゴタゴタが嫌になり絵を描くことに逃げ狩野派の絵画を習得していた藩主の「佐竹 義敦(さたけ よしあつ)」が、家来の後に「解体新書」の挿絵を描くことになる「小田野直武(おだのなおたけ)」と共に写生をするという不思議な光景を見ます。
2人ともなかなかの腕前で、感心した源内は長崎で習得した西洋絵画の手ほどきします。
それが「秋田蘭画」と呼ばれ日本最初の西洋絵画の誕生でありました。

 山師といわれて本来の学者としての原点に戻ろうとした源内は、3回目の長崎留学をしました。
そこで長崎通詞の家に転がっていた壊れた「エレキテル」と出会ったのでした。
電気を発電するこの機械は絶対に日本のためになると思い立った源内はそれを譲り受けて、まるで仕組みが分からないままに試行錯誤しながら7年かけて作り直しました。
1776年11月、日本で始めて発電するという偉業をなしとけたのでした。
これは人々に驚きと感動を与えて夢中にさせました。

次のページでは『源内が残した物』を掲載!
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