飛鳥時代の外交官・小野妹子はすごい人

聖徳太子が、当時の中国だった「隋」の国に「日が出る国の天子より日が没っする国の天子へ」という隋の国の皇帝「煬帝(ようだい、ようてい)」を激怒させたという有名な手紙を「遣隋使(けんずいし)」として持って行ったのが「小野妹子(おののいもこ)」です。彼はどういう人だったのでしょうか?

当時の外交官の条件として「美男子」であることが重要視されていたという話からイケメンだった可能性が高いですね。

歴史上の人物や有名人を主人公になっている、テレビアニメにもなったギャグマンガ『増田こうすけ劇場  ギャグマンガ日和』というのがあります。内容は三国志や邪馬台国からはじまって幕末までの歴史シリーズ、世界の偉人やおとぎ話のシリーズと多岐にわたってます。小野妹子はその中の「飛鳥文化偉人シリーズ」で聖徳太子に振り回される人の良い人と描かれていて、全作品の中でも人気投票三位という大人気キャラクターです。

有名だけに謎な人ですよね。本当の姿を知りたいと思いませんか?

小野妹子とはどんな人?

小野妹子とはどんな人?

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遣隋使というのは、日本から隋の国への使いの役目。
今でいう外交官です。
そして臣下の中では「冠位十二階」の最高位である「大徳」の位をもっています。
どうやってその役目を命じられたのでしょうか。
まずは出自から調べてみましょう。

小野妹子は男性? 女性?

その前に「妹子」という名前から、よく知らない人は女性だと思っている人がいるようですね。
「子」がついているのは女性というのは奈良時代からのことで、古代では女性でも男女変わらずつけられていることは珍しくなかったといわれています。
しかし確かに「妹」という字が使われているのは謎ですね。
当時「妹」は「いも」とも読んで、男性からみて同じ母親から生まれた女性(当時は母親が違っていると結婚できたという風習があります)のことや、恋人や奥さんなどの好意をもったり親しい人に使う言葉でもあります。
一説では妹子の母親の兄である伯父さんが、妹の子だから「妹子」とつけたという嘘が本当かわからない話もあったりします。

しかし残された画像などでも容姿が男性なので、男性だったのだろうととりあえずは決着しています。
推古天皇も女性だったこともあり、もし女性だったとしたらすごい話になりますね。
たぶん違うと思いますが。

小野氏の家系

「近江国滋賀郡(今の滋賀県)の小野村(大津市)」の豪族で、「天足彦国押人命((あめたらしひこくにおしひとのみこと)」という、五代目天皇である「孝昭天皇(こうしょうてんのう)」の皇子が祖の「小野氏」の出身といわれています。
天足彦国押人命は、なぜか第一皇子にもかかわらず六代天皇には同母弟の「孝安天皇」がなっています。
そして孝安天皇の后に娘が嫁いで七代天皇「孝霊天皇」を産んでいます。

この皇子の子孫は小野氏の他に『古事記』では「春日」「大宅」「粟田」「柿本」「壱比韋」「大坂」「阿那」「多紀」「羽栗」「知多」「牟邪」「都怒山」「伊勢飯高」「壱師」「近淡海」、『新撰姓氏録』ではもっと細かく「大春日」「吉田」「丈部」「粟田」「山下」「真野」「和邇」「安那」「野中」「物部」「網部」「中臣」「久米」などがあげられています。

このように並べていくとわかるかと思いますが、当時の豪族とは皇族のことです。
住む場所を冠して「○○氏」と称しているだけで「名字」ではありません。
天皇と結婚もできるという地位をもっていました。

小野妹子の出自は謎ばかり

一般的には「敏達天皇」の皇子である「春日皇子」の子供で、近江の小野村に住んだために「小野氏」になったという説があります。
しかし『日本書紀』雄略紀には「春日小野臣大樹」の子孫でで「春日仲君(仲若子)」の子とする系図もあります。
春日仲君の娘の「老女子」が敏達天皇の后となって春日皇子を産んだので、それをくっつけたという説もあります。

いくら皇族といっても時代がたつにつれ、その数がどんどん増えていき、婚姻関係などの政治的な手段もとったりで、その地位や力も差が出てきます。
妹子の時代になると小野氏は「二流豪族」としての力しかなかったといわれています。
しかし妹子の能力によって抜擢されて出世をしていくのにつれて出身も、誰が見てもサラブレッドだと認めるように脚色していったのではないかという疑問もでてきたようです。
これは江戸時代などの大名なども同じで「徳川家康」なども「源氏の末裔」というよくわからない家系図を作ったという噂もあるといわれています。

推古天皇の時代

小野妹子の春日皇子の息子説をとると、祖父は三十代天皇「敏達天皇」となります。
その敏達天皇の后であったのが「推古天皇」です。
『古事記』は、この天皇までの時代が書かれています。

伝説では「天皇号を初めて使った日本の君主」という説がありますが、今は1998年の「飛鳥池工房遺跡」で「天皇」と書かれた木簡が発見された後は、天武天皇が最初の天皇号使用者ともいわれているそうです。

推古天皇誕生

推古天皇誕生

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推古天皇は、二十九代天皇「欽明天皇」の皇女で、三十一代天皇「用明天皇」は同母兄、三十二代天皇「崇峻天皇」は同母弟、「蘇我馬子」は母方の叔父という家系に生まれました。

敏達天皇の崩御の後に、聖徳太子の父である用明天皇が即位したものの2年で崩御していまい、用明天皇のあとの天皇にと「物部守屋」の推す「穴穂部皇子」より関係を強要されたりしたものの、蘇我馬子の推す崇峻天皇との政権争いになり、蘇我馬子が勝利しました。
しかし崇峻天皇も5年後に馬子によって暗殺されてしまいました。
反馬子の勢力を押さえるために、推古天皇は女性最初の女帝として誕生しました。

最初は息子の「竹田皇子」が成長して天皇となるまでの中継ぎの予定だという説がありますが、その竹田皇子もまもなく亡くなってしまいました。
そこで推古天皇は甥である「聖徳太子」を皇太子として任命しました。

推古天皇は聡明な人で、馬子と聖徳太子の勢力の偏りがないように譲歩することもなく均衡させ、他の豪族たちからも反感を買わないようにと絶妙の政治を行いました。

皇太子・聖徳太子

昔は1万円と5000円札の肖像画にも使われていた、皆さんご存知の「聖徳太子」の本名は「厩戸(うまやど・うまやと)」といいます。
キリストと同じく馬小屋で生まれたとも、母親の実家の蘇我馬子の家で出産したから「馬子屋敷→厩戸」となったという説も、生まれたところの近所に厩戸という地名があったからつけられたとか色々な説があります。

厩戸皇子といわれていますが、当時はまだ天皇号ではなく大王号だったという話もあり「厩戸王」と呼ばれていたという説もあります。
また「豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)」とも呼ばれていて、有名な竹籠を編みながら10人の人が一斉に話をするのを聞けたという伝説があります。

敏達天皇が亡くなった後に、父親の用明天皇が即位した頃に、当時日本に渡ってきた仏教を信仰していた蘇我馬子と、それを反対する物部守屋が対立し始めます。

用明天皇が崩御した587年、次の天皇を巡っての対立で馬子と守屋は戦いを始めました。
馬子の影響で聖徳太子は仏教を尊んでいましたので、守屋討伐の軍に参加します。
しかし守屋軍は強く撃破され続きます。
その時に聖徳太子は、白膠の木で四天王の像をつくり「勝利すれば仏塔(寺)をつくって、仏法の弘通に努めます」と誓い戦勝祈願をしました。
そのおかげか劣勢だった馬子軍は大勝利を得て物部氏は没落しました。
その戦いで天皇になった崇峻天皇は、馬子が政治の実権をもっていたために対立して、馬子に暗殺されました。
そして馬子が擁立したのが推古天皇でした。
そして聖徳太子は皇太子になったのです。

聖徳太子が隋を意識します

聖徳太子が隋を意識します

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推古天皇は594年、仏教興隆のための「詔(宣言)」を発しました。

聖徳太子は誓願通りに「摂津国難波(現在の大阪)」に「四天王寺」を建立しました。
そこには庶民を救済するために「施薬院(薬園)」「療病院(病院)」「悲田院(病人や身寄りのない老人などの福祉施設)」「敬田院(お寺)」の四箇院を設置したといわれています。
この施設は現在までも受け継がれて事業展開をしています。

595年「高句麗(現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部。
ツングース系民族による国)}の僧{慧慈(えじ)」が渡来し、仏教の師となりました。
596年「法興寺」が完成すると「百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国)」の僧「慧聡(えそう」と住み、共に「三宝の棟梁」と呼ばれました。
その中で慧慈は聖徳太子に「隋という国は、官制が整った強大な国で、仏法を篤く保護しています」と教えました。

小野妹子との出逢い

600年と602年の「新羅(しらぎ/しんら 古代の朝鮮半島南東部にあった国)」への討伐がありましたが、実は軍事力強化のための戦いだったのではないかともいわれています。

602年に百済の僧「観勒(かんろく)」によって仏教だけではなく、道教思想も含めて「暦法を陽胡玉陳」「天文遁甲を大友高聡」「方術(陰陽道)を山背日立」に学ばせて成業したといわれます。
それによってできた暦本は604年に聖徳太子によって採用されたといわれています。
彼によって「僧正・僧都」という僧侶の位を定めて、日本初めての僧正になったといわれています。
住まいは「飛鳥寺」に住んでいたという可能性が高いといわれています。

603年12月5日、天皇の中央集権を強めるために、氏姓制の家柄や身分ではなく「才能を基準」とした人材を集めて「冠位十二階」を定めました。

そこで見いだされたのが「小野妹子」だったのです。

遣隋使

遣隋使

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遣隋使(けんずいし)というのは、先進国の隋の技術や政治制度などを学ぶために隋に派遣した朝廷からつかわされた朝貢使のことをいいます。
18年の間に5回以上派遣されたといわれています。
小野妹子は2回目と3回目に参加しました。

第1回目は日本の記録にはありませんが、隋の『隋書』の中にある「東夷傳倭國傳」に「文帝」の質問に遣使が答えたという記述があります。
そこには「日本の政治のあり方ができていないから改めて出直してくるように」と言ったとあります。

聖徳太子が冠位十二階などを設置したのも、それがあったのかもしれませんね。







遣隋使出航!

遣隋使の記録が日本であるのは『日本書紀』だけといわれています。
それによると妹子が行った1回目は推古天皇の16年・西暦608年7月3日。
約50人の使者でした。

航海は約1カ月、出発したのは現在の大阪中央区とも北区あたりともいわれる港の「難波津(なにわつ)」、東京国立博物館にある「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」に出発の様子が描かれています。
船の長さは40~50メートルと記録されています。

行き先は隋の都の「洛陽(らくよう)」。
遣わせた相手は隋の皇帝「煬帝(ようだい)」。
目的は「隋と倭国(日本)との対等な国交」でした。
通訳は「鞍作福利(くらつくりのふくり)」次の遣隋使の時に亡くなります。
航路は奄美大島を中継地点として行ったと伝わっています。
 

その頃の隋は、朝鮮半島北部の高句麗と戦争をしていました。
同じ朝鮮半島の新羅と戦争をしていた日本は気になる存在ではあったかもしれません。

聖徳太子の手紙

聖徳太子の手紙

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 さて、聖徳太子から預かった「国書(国として正式な手紙)」を、隋皇帝の煬帝に渡した様子が『隋書』の「東夷傳俀國傳」に書かれています。
あの有名な手紙です。

「日出ずる処の天子、書を、日没する処の天子にいたす。
つつが無しや、云々」

 これを見た煬帝は激怒して、外交担当である「鴻臚卿(こうろけい)」に「無礼な蕃夷(野蛮人)の書は、2度と自分に見せるな!」と命じたといわれています。

 一般的に皇帝が怒ったのは「倭が日が昇る国で、隋が日が沈む国」といわれてますが、実はそうではありません。
この書き方は仏教の『摩訶般若波羅蜜多経(とても長いお経で、それを要約したのが般若心経)』の解説本の『大智度論』の中に「日が昇るところは東方、日が沈むところは西方」とあるので単に方角のことだったといわれています。
ということで、仏教用語なので多少は内心面白くなかったかもしれませんが、本当はそこではありませんでした。

皇帝はなぜ怒ったか?

 ではなんで怒ったのかというと、倭国の王が、中国皇帝にしか使用することがない「天子」を名乗ったことで「対等な立場でおつきあいしましょう」ということです。

 ちなみに「天子」というのは、蒙古や清朝も含んだ中国歴代王朝が自任した「天命を受けて自分の国だけではなく、近隣の諸国・諸民族を支配して導く使命をもった君主」という意味だといわれています。

 そこがなぜおかしいのかというと、隋は「冊封体制」という、歴代天子が昔からやっていた「称号・任命書・印章」など、日本でいえば邪馬台国の卑弥呼に渡されたといわれる「倭奴国王」という名前と金印の授受をしたように、中国の「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な「君臣関係」という実質的な外交関係の一種をとってきました。
なので臣下だと思っていた国が突然そんなことを言ったので大激怒だったわけですね。

小野妹子の大事件

小野妹子の大事件

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 次の608年に遣隋使は隋をたち6月15日に難波津に帰ってきました。
その船には日本の使節団だけではなく「鴻臚寺(こうろじ)」の「掌客(しょうきゃく・賓客の接待に当たる人)」である「裴世清(はいせいせい)」を団長とする12人の隋の使節団も一緒にやってきたのでした。

 実はこの時に、妹子は煬帝から国書の返書を渡していたのを紛失したという事件を起こします。
帰りは百済経由での航海ルートで「百済を過ぎる時に、百済人に盗まれました」と証言します。
これには朝廷の重臣たちも驚いて激怒します。
しかし推古天皇が「隋の使節団に知られたらマズイ」と、その場は不問にしたというのです。

事件は闇の中?

 古来色々な学者さん達が、この謎に挑んで色々な説を立てています。

1.百済が隋が日本と同盟を結んだらという不安から内容が知りたくて、妹子が持っている返書を盗んだ 2.返書は2種類あり、妹子に託された返書には、日本の国書が無礼だと皇帝からの叱責が書かれた内容なので、これが公になったら天皇の威信がそこなわれると身をていして闇に葬ろうとした 

3.妹子の独断ではなくて聖徳太子と相談して盗まれたことにした

 学界では2と3が有力だといわれているようです。
しかし『日本書紀』自体がかなり後の時代に書かれているのと、盗難したという百済があとなにも行動を起こしていないので、そんな噂話もあったので書いたのではないかという説もあるといわれています。
そうでなくては次の遣隋使にも「返書をなくした人」の妹子が再び責任者として派遣されるというのはがというのはおかしいんじゃないかということなのでしょうね。

隋からの正式な返書

隋からの正式な返書

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 この返書紛失事件は『日本書紀』にはありますが『隋書』には載っていません。
どうやら正式な返書は裴世清がもっていたのか、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の「小墾田宮(おはりだのみや)」という宮殿で催された謁見で、隋からの贈物が庭に並べられて、裴世清が煬帝の返書を読み上げたと『日本書紀』にあります。
 

「皇帝は倭皇に問う。
自分は天命を受け天下を統治して徳を広めてすべてのものに及ぼしたいと思っている。
人々を愛育したいという気持ちに遠いちかいはない。
倭国は海の彼方にあるが、よく民を治めて国内は安楽で風俗はおだやかだと知った。
至誠の心は深く、遠くから朝献してきたねんごろな心を嬉しく思う」(意訳)

 この文章で特筆するのは、今までの臣下扱いだった「倭王」から「倭皇」と書かれていることで、ここから天皇号を使い始めたという説があります。

そして妹子はどうなった?

 その後流刑という話になりますが、なぜか直後に恩赦されます。
随の使者に知られたら体面が持たないから不問ということだったといわれています。
そして隋の使者達一行が帰国する時に、小野妹子を再び送迎の使節大使に任命して、隋の都の「大興城」まで送らせています。

 帰国した妹子は褒美に冠位十二階の5位だった「大礼(たいれい)」から、最上位の「大徳(だいとく)」に昇進したといわれています。
普通でしたら流刑どころか死刑にでもなりそうな事件なのになぜなんでしょうね。
やはりなにかあるのでしょうか。
それともこの事件じたいが後年の「捏造」なんでしょうか(そういう説があるといわれてます)。
これは歴史の謎のまま終ってしまうのでしょうね。

小野妹子のその後

小野妹子のその後

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 遣随使で一躍有名な妹子のその後の話は、あまり残っていません。

 妹子が行った2回目の遣隋使には「倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)」「奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)」「高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)」「新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)」「学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)」「南淵請安(みなぶちのしようあん)」ら8人の留学生や留学僧がおり、その人たちが30年間勉強して日本に帰ってきて「大化の改新(たいかのかいしん)」で活躍するという原動力になりました。

妹子と華道池坊

 大阪府南河内郡太子町にある「科長神社(しながじんじゃ)」に、小野妹子の墓といわれている塚があります。
聖徳太子が亡くなる時に、守り本尊だった「如意輪観音(にょいりんかんのん)」の守護を託された妹子が、朝夕に仏前に花を供えたことが「池坊」の起源だといわれています。
そのために、この塚は池坊が管理しています。
 

 池坊は京都にある「六角堂(ろっかくどう)」が発祥の地といわれています。
正式名は「紫雲山頂法寺(ちょうほうじ)」といいます。
本尊は、守り本尊の如意輪観音です。

 587年に物部氏との戦いで「お寺を建てます」と戦勝祈願したので、寺を建立するためにこの地を訪れたといいます。
伝説では、ここの池で沐浴した聖徳太子は木の枝に守り本尊の如意輪観音を置いたところ、重くて動かなくなり、観音像が光を放って「七生にわたってあなたを守護してきたが、これからは衆生を救済したい」と告げたので寺を建てることにしたといいます。
その時に東からやってきた老いた翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲がたなびいている杉の霊木を教えてくれたので、その木で六角のお堂を建てたのが始まりとあります。

 聖徳太子の死後に出家した妹子が入り始祖となったということです。
その池のほとりにあった僧侶の住むところを「池坊」と呼んだので、代々住職の名前は池坊となったといわれています。

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