国宝の数々を生み出した水墨画の巨匠!雪舟っていったいどんな人物なの?

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は日本が世界に誇る水墨画家「雪舟の歴史」をご紹介します。

世界から高い評価を受けている雪舟

世界から高い評価を受けている雪舟

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現在の山口県には世界に誇る水墨画の巨匠がいました。
この人が雪舟です。
雪舟は周防国分を世襲していた大名大内氏の庇護を受けて、山口を中心に活躍しています。
水墨画の絵師として有名なのはもちろん、作庭家としても一流でした。
雪舟は日本人でたった一人「世界10大文化人」に選ばれているんですよ。
世界10大文化人とは、昭和31年(1956年)にウィーンで開かれた「国連教育科学文化機関(UNESCO)の国際会議」において選ばれた文化功労者の10人です。
凄い!

その錚々たるメンバーは、ベンジャミン・フランクリン(科学者)、モーツァルト(音楽家)、ドストエフスキー(作家)、ハインリッヒ・ハイネ(詩人)、ピエール・キューリー(科学者)、ヘンリク・イプセン(劇作家)、レンブラント(画家)、バーナード・ショウ(作家)、カーリダーサ(古代インドの詩人)です。
実は雪舟という人は、私たちの想像をはるかに超えた人物だったんですね。
これを記念してロシア(旧ソビエト連邦)とルーマニアで切手も発行されているんですよ!

水墨化で有名なものには、「国宝の秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)」や「国宝の天橋立図(あまのはしだてず)」があります。
今回は、実は世界から高い評価を受けている雪舟について少しだけ触れてみたいと思います。

雪舟は武家に生まれたエリート?

雪舟は武家に生まれたエリート?

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雪舟って聞いたらなんて答えますか?ほとんどの人は、あんまり良く知らないけど水墨画を書く人かなぁ?って思うのではないでしょうか。
即答で「室町時代のお坊さんで、有名な水墨画家として活躍した人」って答えられる人は少ないと思います。
雪舟は応永27年(1420年)に備中赤浜(現在の岡山県総社市)で生まれました。
小田氏という武家出身なんだとか。
当時、文芸で身を立てるには仏門に入るのが唯一の道と、幼い頃に生家近くにある、宝福寺(ほうふくでら)に入りしました。

室町時代には学問・文芸の分野を担っていたのは禅僧でした。
絵を描くのも修行の内とお坊さんの修業はそっちのけで絵ばかりを描いていたとの説も残っています。
絵を描く修業を中心にしていた僧を、画僧と呼んでいました。
後に雪舟は画僧の中でも才能がある人物だと認められることとなります。

1431年、雪舟が11歳の時、京都にある臨済宗相国寺派の総本山である相国寺(しょうこくじ)(正式名称・萬年山相国承天禅寺)に移りました。
春林周藤 ( しゅうりんしゅうとう )からは禅の教えを請い、天章周文(てんしょうしゅうぶん)を師と仰ぎ絵を学びました。
この周文は徳のある人で、水墨画でも有名だった人物です。
こんなに凄い人を先生にしちゃう雪舟は11歳にして既にエリートコースを歩んでいたんですね!

涙で描いた鼠

雪舟が子供の頃の伝説には、実に面白いエピソードが残っています。
雪舟が宝福寺に入ってすぐの頃の話です。
禅の修行を全くといってよいほど行わなかった雪舟に対して住職が怒ってしまいました。
ある朝、住職は雪舟を本堂の柱に縛り付け、「そのまま反省しなさい」といって放置しました。

夕方になってやりすぎたなぁと反省した住職が本堂を覗いてみました。
すると、驚くことに雪舟の足元には大きな一匹の鼠がいるではありませんか。
柱にくくりつけられた雪舟がこの大鼠に嚙まれては大変と住職は慌てて鼠を追い払おうとしましたが、大きな鼠は一向に動きません。
折檻が厳しすぎて、雪舟は泣いちゃいました。
その涙を足の親指につけ、床に描いた鼠だったのです。

大人で徳のある住職でさえ生きていると錯覚を起こした鼠の絵ってどれほど生き生きと描かれていたんだろう。
見てみたいものですね。
この事件があってからというもの住職は、雪舟がどれだけ絵を描こうとも文句ひとついわなかったといわれています。
住職は、この時既に雪舟の才能を見抜いていたということでしょう。

山口へと移り住む雪舟

山口へと移り住む雪舟

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実は雪舟の画家人生のほとんどを山口で過ごしているんです。
雪舟は山口県が生んだ画家といっても過言ではないといわれています。
山口に移り住んだのは、享徳3年(1454年)、雪舟が35歳の時でした。
画家としての人生を歩むのは遅かったんだって思いました。
実は先程エリート人生という話をしましたが、逆だったと思われます。
京都時代はあまり語りたい過去ではなく、成功できずに地方にくだった画僧だったのではとの説があるからです。
だから、雪舟の人生には不明の点が多いとか。

大内氏の庇護を受けながら画室雲谷庵を構えます。
先程から雪舟と呼んでいますが、実は雪舟と名乗り始めたのは山口に来てからのことでした。
寛正6年(1465年)、雪舟が46歳の時に、中国の禅者、楚石梵琦(そせきぼんき)により、「雪舟」の二大文字をもらったようです。
雪舟を名乗るまでは、拙宗等楊(せっそうとうよう)という名前でした。







中国へ渡り本格的な水墨画を学ぶ雪舟

中国へ渡り本格的な水墨画を学ぶ雪舟

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応仁2年(1468年)に遣明使に随って明へ渡航したことから雪舟の人生に転機が訪れます。
明の寧波に上陸し、ここから2年間本格的に水墨画を学び、貪欲に水墨化に触れながら研究したようです。
この結果、雪舟は画聖と称されるまでに成長します。

京都時代はとってもおとなしい水墨画を書いていた雪舟ですが、画風が激変しました。
中国で学んでからの絵には、エネルギッシュというべきか躍動感というべきか、力強い雪舟らしい画風に変わったのです。
雪舟は中国時代風景画を主に写生していました。
彼の絵は今でも中国各地に残っているようです。

中国から帰国した雪舟

中国から帰国した雪舟

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文明元年(1469年)、雪舟が50歳の時に帰国し、雪舟は中国で学んだことを武器に精力的に水墨画活動を行うようになりました。
九州遍歴をへて、再び山口の大内氏のもとで過ごすようになり落ち着きました。
1474年の55歳の時に、雪舟の代表作の一つ「山水小巻」を書きました。

他にも豊後(現在の大分県)や石見(現在の島根県)でも活躍しています。
石見の国では、有名な「益田兼尭像(ますだかねたかぞう)」を描いています。
文明13年(1481年)秋から美濃へ旅行しており、天橋立にも赴き国宝となった天橋立図を描いています。
この天橋立図は1501年以降に書かれたという説もあります。

雪舟の水墨画は70歳からさらに独創性を増し魅力的になっているともいわれています。
雪舟が亡くなったことを記した記録はありません。
永正3年(1506年)に87歳で亡くなったとの説が多いようです。

神格化された雪舟

神格化された雪舟

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雪舟が亡くなった江戸時代から雪舟の神格化が始まりました。
当時一世を風靡した狩野派の絵師たちが雪舟を師と仰いだことから始まっているようです。
このことから諸大名たちがこぞって雪舟の作品を求めました。
狩野派の力がどれだけ凄かったかも読み取れますね。
でもこの神格化により、世の中には雪舟作という偽物が世に大量に出回ることになってしまいました。
残念なことです。

でも、雪舟が書いたとされる絵には、国宝になった作品が6点、重要文化財となった作品は19点にも及んでいます。
その数の多さは他を寄せ付けないほどです。
日本はもとより世界中の人が認める水墨画家の、雪舟は名庭園も残しています。
特に島根県益田市の「医光寺」や「萬福寺」、山口県山口市の「常栄寺」、福岡県田川郡の「旧亀石坊庭園」の雪舟庭園は雪舟四大庭園と呼ばれています。

次のページでは『日本が世界に誇る雪舟は今でも日本人の心のどこかに息づいています』を掲載!
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