「青蓮院門跡」の歴代門主を務めた錚々たるメンバーをご紹介

東山に位置する青蓮院は、京都でも有数の観光地として知られています。周りには知恩院、平安神宮がある人気のエリアです。国宝の青不動を始め、小堀遠州作、相阿弥作の庭園などなど数えられないほどの文化財があり、ここはまるで美術館のようです。数千年という時の流れとともに息づいた門跡寺院。幾度の大火で焼き尽くされながらも、今なおこの地に残る青蓮院の歴史を歴代の名だたる門主とともにご紹介します。

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天台宗の寺院と深く関わる青蓮院

天台宗の寺院と深く関わる青蓮院

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青蓮院は最澄を起源とした天台宗のお寺です。
平安時代より天皇の皇族と摂関家により受け継がれてきた門跡寺院。
門跡寺院の多くは京都に存在し、寺院の中でも格式の高い寺院として知られています。
さらに青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つという格式の高さも他の寺院と一線を画します。

比叡山延暦寺には最盛期、三千あまりの寺院が並んでいました。
山の東を「東塔(とうどう)」、西に「西塔」、北には「横川(よかわ)」という三塔それぞれに本堂があり、この三塔のうち東塔が最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂となっていました。

のちに青蓮院と名前を変えることになる寺院の発祥が、この延暦寺東塔にあった「青蓮坊」です。
青蓮坊の僧侶を行玄(ぎょうげん)と言いました。
行玄は比叡山の山から京都の町に降り、洛中に里坊を作ったのが青蓮院の始まりと言われています。

治世は、平安時代末期の鳥羽天皇の第一皇子・崇徳天皇(すとくてんのう)の時代のことです。

青蓮院の始まりは行玄から

青蓮院の始まりは行玄から

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初代門主になったのは青蓮坊の行玄という僧侶ですが、行玄は関白・藤原師実(ふじわらもろざね)の子供で、藤原一族という名家に生まれました。
誰からも慕われた行玄は、鳥羽天皇にも一目置かれ、行玄に帰依して鳥羽天皇は仏門に入りました。

鳥羽天皇の授戒の戒師を務めたのもこの行玄です。
のちの時代で名を馳せる法然もまた、この行玄が授戒の戒師を務めていました。

授戒とはお釈迦様の教えを説き、仏教の守るべき戒法を授けることです。
その授ける人を戒師と言いました。

行玄は鳥羽天皇の信頼厚く、天皇の第七王子も行玄の弟子となりました。
鳥羽天皇の皇后が青蓮院を祈願所としたことから青蓮院の寺格が上がり、門跡寺院と呼ばれる格式高い寺院にまで登りつめたのです。

行玄は2年間青蓮院の門主を務めますが、その後亡くなります。
鳥羽法皇の第七王子に跡を継がせ、第二代門主・覚快法親王(かくかいほっしんのう)に青蓮院を委ねるのでした。

青蓮院を有名にした第三門主・慈円

青蓮院を有名にした第三門主・慈円

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鳥羽法皇が行玄に帰依し、その皇子が第二門主になったわけですが、その第二門主である覚快法親王の弟子となったのが慈円(じえん)です。
慈円もまた関白を父に持ち、頭も良く、仏教界の最高位「大僧正」まで登りつめた人物でした。

また慈円は古今和歌集に多くの和歌が収めらている歌人でもあります。
慈円は、天台座主を4度も務めるほどの人物で、日本初の歴史書「愚管抄」の作者としても有名です。
愚菅抄は、古事記や日本書紀のような日本の歴史書で、神武天皇から第84代崇徳天皇までの歴史を、貴族社会から武家社会へと移り変わる鎌倉時代に執筆しています。

慈円が生きた時代は仏教界では、「末法の世」と言われた時代。
平安時代から鎌倉時代へと時代が変わり、貴族社会から武家社会へと転換していく重要な時代を、末法思想と道理に基づいて天台座主の目線で記された歴史書です。

目まぐるしく変わり始める世の中に適応できる道理そのものが、時代によって変わっていくものだと慈円は記しています。
移り変わる世の中の道理の中にあっても変わらないものが、神代の時代から続く天皇制です。

日本の天皇制というのは、時とともに道理が変わっても変わらず生き続ける。
道理が時代によって変わろうとも、天皇制は変わることがないと、唯一変わらないものとして慈円は愚管抄で述べています。

末法の世に生きる衆生を憂うこころ

末法の世に生きる衆生を憂うこころ

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慈円が生きた時代は、「像法(ぞうほう)」と言われる時代から「末法」と言われる時代に突入していました。

末法とは、仏の教えだけがあり、行や悟りに入る人がいなくなるという、その頃までにない最悪の時代でした。
釈迦が亡くなってから1500年目にこの末法が訪れると言われていた通り、釈迦没後1500年目に末法の時代に突入。

平安初期から中期にかけて栄えた慈円の家系の藤原家も平安後期に入ると次第に衰え始め、変わって武士が台頭し始めます。
それゆえ京都の治安が激しく乱れ、民が不安を抱えながら生きた時代です。
慈円はそんな世の中を変えていくという使命に燃えました。
慈円はこんな和歌を詠んでいます。

「おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」

身の程もわきまえないと言われるが、憂き世の民をこの比叡山から私の墨染めの袖で包み込んで救済していきたい。

末法の世を、仏道を志す自分が民を救っていこうと決意した和歌です。

慈円が和歌を志すきっかけとなったのは西行でした。

西行に仏門について教えを乞うたところ、歌の道に通じていない者には何を教えても伝わらないと言われ、和歌の習得に励みました。
修練に修練を重ね、再び西行の元を訪れます。

仏法に対する熱意が慈円を歌人へと導いたのです。
古今和歌集でも西行の九十四首に次いで九十二首もの和歌が収められている慈円。
愚管抄に続き、歌人としての才能も花開いた僧侶だったのです。

次期門主は歴史的大事件・承久の乱にて先送り

次期門主は歴史的大事件・承久の乱にて先送り

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愚管抄でその名を知らしめた慈円も門主の座を譲る時が来ました。
後鳥羽天皇の皇子である道覚親王(どうかくしんのう)を次の門主にしようと考えていました。
ところが、奇しくも同じ時期に承久の乱が起こり、道覚親王の次期門主は実現出来ませんでした。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に討伐の兵を挙げ、敗れ、初めて朝廷が武家に負けた歴史的大事件が起こりました。
多くの人を巻き込み、衝撃を与えた事件だったのです。

承久の乱の立役者・後鳥羽上皇の皇子・道覚親王は、慈円の死後、二十年目にして、やっと第六世門主となりました。
青蓮院はその後も明治時代に至るまで代々、皇族と五摂家が門主を務める由緒正しい門跡寺院になっていったのです。

親鸞(しんらつ)が九才で出家した時にはこの慈円の得度を受けたように、慈円という人物は、自身が会得した天台宗だけではなく当時新興宗教だった法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗にも寛容な態度で受け入れました。

浄土真宗の親鸞聖人が慈円のもとで得度したため青蓮院は今も浄土真宗の聖地になっています。
それほど慈円は宗教の隔たりなく人々との対話を大切にしていた人物だったのです。

青蓮院流という書風を確立した第十七門主・尊円

青蓮院流という書風を確立した第十七門主・尊円

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伏見天皇の皇子として生まれ、親王宣下の後、髪を切り落とし仏門に入たのは、青蓮院第十七門主・尊円です。
尊円も慈円同様、天台座主を4度務めた仏教界では伝説のエリート。

光厳天皇、崇光天皇の護持僧(ごじそう)にもなっていました。
護持は平安時代の桓武朝の時代に始まり、初代天皇護持僧が、かの最澄です。
天皇の御殿に出向き、夜中(よるじゅう)天皇を護持するため夜居の僧(よいのそう)とも呼ばれました。
平安初期から尊円が門主を務めた鎌倉時代まで、変わらず天皇護持は続きました。

そして、尊円といえば和歌を愛し書道にすこぶる長けた僧侶です。
書道に関して言えば父の伏見天皇が名だたる能書家の一人、兄弟である後伏見天皇、花園天皇もみな能書家として高く評価されていました。

尊円は、世尊寺流の書法を学ぶに足らず、三筆の一人でもある藤原行成の書法や中国の唐風の要素も取り入れ、青蓮院の歴代僧侶に受け継がれていきました。
そうして青蓮院流が確立し、ここに新たな能書の流派が誕生したのです。

青蓮院流は、江戸時代に入ると御家流(おいえりゅう)といわれ、あの徳川幕府の公文書にも尊円が確立した御家流が取り入れられました。

また和歌にも精通していた尊円。
情緒豊かに表現できる和歌の世界そのものを愛していたのかもしれません。

足利家に生まれた門主・義円

足利家に生まれた門主・義円

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皇位継承争いが続いた南北朝時代も終わりを告げ、日本は室町時代へと突入していきます。

混乱の南北朝時代を終わらせたといわれる足利義満の五男として生まれたのが青蓮院門主・義円です。
義円はのちに名を足利義教(あしかがよしのり)と改めることになります。
いったんは仏門に入りますが、還俗し将軍になるという運命だったのです。

幼くして仏門に入り、わずか26歳で天台座主に就任。
天台開闢(てんだいかいびゃく)以来の逸材と将来を嘱望された僧侶でした。

ところが、当時政治的実権を握っていた兄の義持が危篤に陥り、将軍不在になる前に次期将軍を誰にするか群臣たちの間で話し合われました。
そして何人かの候補の中で義円に白羽の矢が立ったのです。

義円は仏門に入った身、何度も将軍就任を辞退しますが、大名たちは義円に懇願しました。
こうして義円は青蓮院を出て、還俗(げんぞく)し、将軍に就任することになったのです。

将軍となった義教に、皮肉にも比叡山の僧侶たちと争う事件が起こります。
この時、兵を率いて延暦寺を包囲したのです。
いったんは仏門に入り天台座主として務め、延暦寺の僧侶とも深く関わっていたにもかかわらず、このような事件が起こってしまったのでした。

義教は、将軍家に生まれながら後継者争いからは外され、元服前に義円として仏門に入りました。
しかしその後、将軍に就任しました。
混乱した世に生き、最期は幕臣に殺されるという結末で幕を閉じた波乱万丈の人生だったのです。

歴史が大きく動いた幕末の門主・尊融

歴史が大きく動いた幕末の門主・尊融

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江戸時代末期、日本が大きく揺れた維新の時代には孝明天皇の弟・尊融親王(そんゆうしんのう)が第四十七門主に就任しました。
安政5年に結ばれた日本とアメリカとの日米修好通商条約に反対し、第十三代将軍・家定の後継者に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推したことがきっかけで井伊直弼に目を付けられます。
尊融は多くの人々が犠牲になったあの安政の大獄で永蟄居(えいちっきょ)を命ぜられています。

永蟄居とは終生、出仕や外出が禁じられた身になるという事です。
尊融はこのときに青蓮院を離れます。
ところが桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、尊融は赦免されました。
その後は孝明天皇の強い要請もあり、還俗し、尊融改め、中川宮(なかがわのみや)と名乗りました。

尊融は孝明天皇とともに日本の歴史でも取り上げられることになる「八月十八日の政変」を行うのです。
薩摩藩や京都守護職を務める会津藩主・松平容保と手を結び、長州藩を京都から排除することに成功しました。
しかしこれにより長州藩からは大きな恨みを買うことになったのです。

長州藩は松平容保襲撃を計画しましたが、同時に中川宮改め、朝彦親王(あさひこしんのう)の邸宅を放火するという計画も上がっていました。
これがあの池田屋事件。

池田屋でその計画を綿密に話し合っているところに新撰組が現れ逆に襲撃されてしまいます。
それほどまでに朝彦親王も長州藩に恨まれていました。
兄の孝明天皇が亡くなり、急速に力を失った朝彦親王は明治に入り伊勢神宮の祭主に就任。

かつては天台座主を務めた朝彦親王、神の道、仏の道、両方の要職に就いたのは日本ではとても珍しいことだったのでした。
その後、青蓮院門主になった東伏見慈ごう門主に引き継がれ、現在の青蓮院門主・東伏見慈晃門主へとつながっていくのです。

歴代門主はすべて皇族関係者。
門跡寺院の中でもさらに格式が高いという青蓮院の歴代門主の顔ぶれを見ればそれも頷けます。

京都の夜景スポット・将軍塚と日本の歴史

京都の夜景スポット・将軍塚と日本の歴史

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京都の夜景スポットになっている将軍塚。
ここは青蓮院の飛び地境内となっています。

平安遷都の際、桓武天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)とともに今の将軍塚に登り、京都の中心街を眼下に臨み、ここに都を遷すことを決めたのです。

天皇は都の鎮護のため、将軍の像を作り、鎧甲を着せ、弓矢を持たせ将軍塚にそれを埋めるよう命じました。
そこからここを将軍塚と呼ぶようになったのです。

国家の大事にはこの将軍塚へ登ったり、新田義貞が将軍塚に陣を敷いて足利尊氏の軍を敗戦に追い込んだとも言われる自然の要塞。
昭和史に残る太平洋戦争の時にも一役買ったのがこの将軍塚。
日本の歴史の舞台には欠かせない役割を常に果たしていたのです。

そして将軍塚青龍殿には大舞台やガラスの茶室があります。
昔と変わらない京都市内の景色を臨みながら、モダンなガラス張りの中に詫びを意識した茶室がある。
開放された大舞台の茶室で歴史に思いを馳せながら新しい今という歴史を大切に思い、一服を楽しめる贅沢な空間です。

国宝・青不動は代々皇室に受け継がれた日本の宝

青蓮院には皇室と深い関わりのある国宝があります。

青不動明王と言われ青蓮院に訪れたことがなくても名前は聞いたことがあるというほど有名な国宝です。

日本三大不動の一つとされ、制作時期は平安中期と言われています。
御身体が青黒いことから青不動。
不動明王は大日如来の化身です。
曼荼羅の中心にいる不動明王の周りには燃え盛る赤い炎が描かれています。
炎に包まれながらも飄々とした表情で岩の上に座し、剣と絹索を持ち、悪行や煩悩を焼き尽くすというのです。

険しい表情をしているのは時に衆生を激しく叱るため。
「不動」の言葉どおり揺るがない心を持ち、いくつもの難に立ち向かっていく、そして悪い行いを正し、正しい道へと導いてくださるのがこの青不動なのです。

代々、皇室の天台宗の高僧たちが青不動を供養しご祈祷され、平安時代は朝廷の中に祀られており、特に皇室と縁が深かった青蓮院に下賜されました。

歴史を知れば知るほど皇室との関わりが深いことがわかる青蓮院門跡。
青蓮院には今もなお、代々受け継がれた皇室の歴史が語り継がれているのです。







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Writer:

はじめまして! 歴史と名の付くものには目がありません。特に日本の歴史が大好きで、歴史が繰り広げられた場所に行くことが何よりの楽しみです。 先人たちの残したものに触れたり、時には先人たちになりきって日本文化探訪旅行を楽しんでいます。歴史に興味がない人にも、 歴史って面白いんだなと思える感覚を味わってもらいたいです。

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