「醍醐天皇」の歴史。古今和歌集に半生を賭けた天皇

古今和歌集は平安時代の醍醐天皇が日本文化の礎を作るため、4人の撰者と奮闘した一大事業でした。それまでの時代は漢詩文が一般的な読み物とされており、和歌は少し見下された存在でした。それゆえこの時初めて天皇から和歌の本を作ろうと命じられたのです。それが醍醐天皇です。春夏秋冬の美しさとやわらかな言葉をかけあわせ、漢詩では伝わらなかった日本人のこころを後世に伝えるとともに、日本文化の発展を願ったのです。天皇とその編纂者たちの思いに、しばし耳を傾けてみましょう。


日本を変えようと動いた醍醐天皇

日本を変えようと動いた醍醐天皇

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古今和歌集が編纂されたのは今から1200年ほど前の905年です。
時の帝は醍醐天皇。
摂関家と天皇家の争いはいったん終息し、ようやく日本の政局も落ち着きを取り戻しました。
日本の歴史的大事業だった遣唐使も廃止され、唐の文化から日本独自の文化が生まれ始めようとしていた時代です。
唐に頼っていた日本は自国の文化を定着させられるかどうかという転換期を迎えていました。

その大切な時期に天皇となったのが醍醐天皇です。
父の宇多法皇や醍醐天皇は摂関家と言われた藤原一族が政治を動かしていた時代にあって、自らが政治を執り行った能力のある天皇でした。
宇多法皇は今回の古今和歌集の撰者の選定に力を貸していました。

平安時代は藤原鎌足から派生した藤原氏が大臣となり世の中を動かし、天皇といえど何も言えず失脚させられることもあった時代。

その時代に醍醐天皇は周囲に何も言わせないほどの権力と天皇という最高の威厳を兼ね備えた、この時代に即位するべくして即位した天皇なのです。

日本文化の第一歩を築け

日本の政局も安定を迎え、醍醐天皇は日本文化の基盤を作ることに着目しました。
古くから日本にある和歌や埋もれてしまった歌人を後世に伝えようと、歌集の編纂に乗り出したのです。
編纂にあたり、大臣・藤原時平の「まずは良い和歌を選ぶ撰者を選定しましょう」との進言に、醍醐天皇は父の宇多法皇にも相談をして古今和歌集の撰者を決めていくことになりました。
こうして自国の文化を定着させる第一歩が醍醐天皇のもと始まりました。

ところで、かの有名な学問の神様・菅原道真も少しだけ醍醐天皇と接点があります。
醍醐天皇の元で右大臣という天皇から数えて3番手の役職に抜擢されています。
さらに藤原時平に至っては官位をめぐるライバル関係でもありました。
菅原道真はひとつ前の醍醐天皇の父・宇多天皇の時代に活躍した人物で、宇多天皇の譲位とともに、その後、太宰府に左遷されてしまいます。
しかし、今でも天満宮として崇められるこの菅原道真がいなければ、古今和歌集はこの時代に編纂されていなかったかもしれません。
日本の礎を築き、古今和歌集が誕生したきっかけは菅原道真にあったのです。

時代を動かした菅原道真

時代を動かした菅原道真

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平安時代といえば、遣唐使が唐(現在の中国)の文化を日本に持ち帰り、文学も文化も全て唐から渡って来たものでした。
平安初頭まではそれが当たり前で、唐から来たものこそが優れていると考えられていた時代でしたが、その考えに終止符を打つきっかけとなったのが菅原道真です。
いったいどんなきっかけがあったのか。

菅原道真は醍醐天皇父・宇多天皇の側近中の側近として働いていました。
そして畏れ多くも天皇にこう進言します。

「日本もいまや独自の文化を築けるまでに成長しています。
ここで遣唐使を廃止しても良いのではないでしょうか」

道真が考えた遣唐使の廃止の一番の理由は、日本の宝を失いたくないということでした。

日本にはまだ大きく丈夫な船がなかったため、海を越えて唐に行くことは容易なことではなく、唐に行くまでには海が荒れ、船が難破すれば命を落とすかもしれない危険と隣り合わせの大事業。
多くの才能ある人々の命をみすみす失うわけにはいかなかったのです。

遣唐使に選ばれた最も有名な人物といえば、最澄や阿倍仲麻呂という日本でもトップクラスの才芸に秀でた人材。
これからは優秀な人材を唐に向かわせるのではなく、日本文化の基盤を築くため日本で働いてもらおうと宇多天皇も考えたのでしょう、長きに渡る遣唐使制度がこの時代に廃止されました。

遣唐使廃止で日本が変わる

この時代を境に唐の文化から日本独自の文化に移り変わり、文学も勅撰漢詩文から勅撰歌集へと変わっていくのです。
勅撰というのは天皇に命じられて撰者が歌を選定し編集したもの。
古今和歌集は国を挙げての大事業。
携わる者は歴史に名を刻み、後世にその名を残すことが出来るのです。

ところで、菅原道真が優れていたのは、唐の文化に頼らなくとも日本は充分やっていけるだけの国に成長しているということに気づき、当たり前となった政策に疑問を持ち、当たり前になっていた政策を終わらせるというその勇気。
それが日本を大きく変えていくきっかけとなったのです。

遣唐使の始まりといえば聖徳太子が生きていた飛鳥時代まで遡り、道真が生きた平安時代初頭まで続く国策でした。
この政策に終止符を打つにはどれほどの勇気が必要だったか想像も出来ませんが、道真は的確な決断力と、その後の日本を見据えるだけの先見の明が備わっていたということです。

これをきっかけに日本の文化が花開き、日本文学初となる勅撰歌集・古今和歌集が醍醐天皇のもと誕生していきました。

身分にこだわらなかった醍醐天皇

身分にこだわらなかった醍醐天皇

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天皇の命で初めて歌集を編纂することになり、選ばれた撰者は、紀友則(きの とものり)、紀貫之(きの つらゆき)、大河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の4人です。

後世に名を残し、多くの歌集に和歌が紹介されている4人ですが、実はこのころ4人の身分はまだとても低く、地下人(じげにん)と呼ばれる身分でした。

地下人とは官位を持てない庶民です。
家柄、官位が求められたこの時代に、主に地下人を選んだ醍醐天皇の人事は、父の宇多天皇を彷彿とさせるものがありました。
4人の中で一番身分が高い紀友則ですら従六位(じゅうろくい)という官位で、貴族ではありません。
この時代、貴族と呼ばれた官位は従五位(じゅごい)から。
従五位の貴族になって初めて天皇に会う事が許されるのです。

ところが古今和歌集編纂にあたり、天皇に選ばれた4名は全て、天皇と話しをすることはおろか、会うことすら許されない官位の低いものたちばかり。
しかし庶民や地下人と言われる身分にして、天皇と渡り合えるだけの教養を、すでに持ち合わせていた4人の能力の高さには驚かされます。

醍醐天皇という人もまた、宇多天皇同様、身分重視の世にあって、身分よりも実力を優先した、この時代には珍しい天皇だったのです。

こうして日本初となる古今和歌集の撰者には、身分は低いけれども才能溢れる4人が選ばれました。

隠しきれない4人の溢れる才能

現代では当たり前に名前が知られている文学者ばかりですが、どれほどの才能があったのかということが気になります。
そこで能力の高さが窺えるエピソードがありました。

編集を従事していたある日、紀貫之は醍醐天皇の書庫に呼び出され、天皇に、ほととぎすに因んだ和歌を奏上しました。

「こと夏は いかが鳴きけむ ほととぎす この宵ばかり あやしきぞなき」

(これまでの夏はどう鳴いたのか思い出せないが、ほととぎすよ。
お前の忍び音(ね)に今夜ほど不思議なくらい心惹かれたことはないよ。)

天皇がほととぎすに心惹かれた様子を即座に歌ってみせたのです。

撰者選びで一番はじめに名前が挙がった紀友則

撰者選びで一番はじめに名前が挙がった紀友則

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紀貫之の義兄がこの紀友則です。
多くの歌合で歌を詠んでいた4人の中ではそこそこ名の知れた人物でした。
古今和歌集の撰者にと、1番はじめに名前が挙がったのもこの友則で、ちょうど宇多天皇、醍醐天皇の時代に行われた宮中の歌合せで「初雁」という秋のお題で詠んだ和歌が天皇に認められ、出世のきっかけになったのです。

「春霞 かすみて往にし かりがねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に」

(春霞にかすんで見えなくなるように去って行った雁が、ふたたび今、秋の霧の上で鳴いている。
)

友則は、秋のお題であるにもかかわらず、突然「春霞〜」と詠み始めます。
、驚きを隠せぬ者、ヒソヒソと笑い合う者がいる中、下の句へと入るその展開できっちり秋の季節と初雁を織りまぜて詠み上げたのです。
こうした人とは違う感性を持っていました。

この和歌がきっかけで友則はどんどん出世していきました。
古今和歌集の秋野上にもこの出世作が登場します。

紀友則を筆頭に古今和歌集が編纂されていったのですが、残念ながら古今集の完成を見ないまま友則は亡くなってしまったのです。

時が流れても色褪せない壬生忠岑の匠の技

時が流れても色褪せない壬生忠岑の匠の技

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撰者の中でも特に身分が低かったのが壬生忠岑(みぶのただみね)。
平安時代の雅の代名詞、藤原定家も大絶賛したほど雅で切なげな和歌をいとも簡単に詠んだ天才歌人です。

「有明の つれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし」

藤原定家が選んだ百人一首に登場するこの一首は、1日の流れに男女の別れを切なく織りまぜて詠んだ和歌。
切なさの代名詞でもある月の光を「有明」と「暁」という言葉で表現し、ひとつの歌の中にどちらも入れてしまうという技。

くどくなりがちなのに、こんなにもサラッと入れることにより、時の流れと別れの切なさが際立つという技巧に富んだ和歌です。
古今和歌集の中でも忠岑の和歌は特に秀逸と言われていました。

雅びさと胸が痛くなるほどの切なさを感じさせる忠岑の和歌は、この先何千年の時が流れても色褪せないほど現実に即しています。
和歌の背景は墨で描かれた水墨画の世界のように幽玄でありながら、一方で現実味溢れる世界観をも表現できる匠の技です。

さまざまな感性を持ち得たのは忠岑の生まれついての低かった身分のおかげだったのかもしれません。
マイナスをプラスに転換した典型的な歌人。

低い身分にして古今和歌集の撰者に選ばれた忠岑は、自身が一番びっくりしたそうです。
しかし、身分を越えて選んでくれた天皇に、万葉集以来の「和歌を本気で復興させたい」という思いに胸が打たれたのでしょう。

和歌で出世した壬生忠岑は、その後天皇主催の歌合にも呼ばれるようになったのです。

わかりやすく雅びやかな歌を詠む凡河内躬恒

わかりやすく雅びやかな歌を詠む凡河内躬恒

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紀貫之とは和歌友達という凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)。
即興歌が得意でいつだってわかりやすいのに優美さを忘れない、躬恒の和歌には紀貫之も大いに影響を受けていました。

躬恒は、音楽の遊宴(ゆうえん)があった夜、御殿の階段の下に直接、醍醐天皇に呼び出され、天皇は突如、躬恒にこう言いました。

「月を弓張りというのはなぜか、その理由を歌に詠んでみなさい」そう突きつけられた躬恒は、

「照る月を 弓張りとしも いふことは 山辺をさして いればなりけり」

(夜空に照る月を弓張りというわけは、いつも山の辺りに向かって矢を射るように入るからでございます。)

即座に和歌で返したのです。

これには天皇も深く感銘し、凡河内躬恒に、祝儀用の上着の下に着用する大袿(おおうちき)を天皇が贈りました。
天皇の栄誉ある恵みを受けたことにとても感謝し、さらに和歌を奏上します。

「しら雲の このかたにしも おりゐるは 天つ風こそ 吹きてきぬらし」

(白雲が私の方へと降りてたなびいていますのは、天空を吹く風が私に向かってきたからでございます。
)

白雲とは、天皇から賜った大袿のこと、躬恒の肩にかかる大袿、そして天空を吹く風は天皇のことです。
天つ風である天皇が自分のところまで降りて来てくださったと感激しました。

身分が低いものに天皇が褒美をとらせるということは慣例に反することでしたが、醍醐天皇はそれほど躬恒の和歌に心動かされたのでしょう。

醍醐天皇に選ばれし4人は歌人としての才能がすでに自身の身分を越えていたということです。

巻二十に描かれた古今和歌集の世界

巻二十に描かれた古今和歌集の世界

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古今和歌集は全部で二十巻、千首を超える多くの和歌が選ばれました。
古今和歌集・巻一は季節の春から始まっています。

「年のうちに春は来にけり 一年(ひととせ)を こぞとやいはむ 今年とやいはむ」 在原元方

太陽暦に変わった今では考えられませんが、太陰暦の時代には立春が年内に来ることがあったようです。
その時の戸惑いを詠んだ和歌。
まずこの和歌を1番にした理由は分かっていませんが、この時代から太陰暦に疑問を感じていた人々がちらほらいたのは確かです。
太陽暦に変わった現代人にとっては信じられない出来事ではありますが、将来、今のように陰暦が改善されていくのを知っていたかのように選ばれた和歌だったのかもしれません。

そしてこの巻一春には梅の歌を選んでほしいという天皇の強い要望がありました。
「春野上」ではこうして梅や鶯の和歌が並ぶことになったのです。
続く巻二 春野下では、はかなく美しい桜の和歌が並び、散りゆく桜を惜しみつつ春の終わりを迎えます。

巻三では「ほととぎす」の鳴く声を聞く夏が続き、巻四では秋を感じる紅葉と寂しさを感じさせる秋ならではの恋歌も並んでいます。
紀友則の歌は詠み人しらずになっていますが秋に登場します。

巻五 秋野下では秋の終わりが近づき、冬の準備をする時期にさしかかる和歌が選ばれています。
巻六は本格的な冬が訪れ、吉野の山にも雪が降り積もります。
このように春夏秋冬から始まる古今和歌集ですが、和歌の並べ方、どのような和歌を選んでいくかということが古今和歌集の冒頭に記されている仮名序に全て描かれています。

仮名序には天皇の思いや撰者たちの真剣さが記されており、遥か遠くに感じていた『古今和歌集』の世界がぐっと身近に感じることが出来るようになっています。
古今和歌集のおもしろさは仮名序をもって記されているといっても過言ではありません。

仮名序に記された和歌のおもしろさ

仮名序に記された和歌のおもしろさ

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後世に名を残すこととなる4人の撰者によって編纂された古今和歌集は、仮名序の中に記された和歌への想いから始まります。
仮名序には、なぜ和歌を詠むのか、和歌が人々のこころにもたらすものがどれほど大きなものなのかという想いが淡々と記されています。
仮名序は、和歌を論じた初めての歌論と言われています。

「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と始まります。

人の心を種としてその種から蔓が伸び、その言の葉が花のように咲き、歌になるというイメージでしょうか。

「生きとし生けるもの、いづれか歌を読まざりける」「たけき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり」

生きている全てのものに歌が必要で歌を詠まないものがいるだろうか、猛き心を持つ武士の心をも慰める、それが和歌です。
冒頭だけでも天皇や撰者たちがどれほど和歌を愛していたのか、そして和歌とは難しいものではないと伝えてくれています。

古今和歌集の時代も今と同じようにいにしえの歴史があった

神代の時代に和歌を織りまぜ、「スサノオノミコト」が妻と暮らす新居を建てた時に詠まれた和歌を挙げ、神の時代から和歌が存在していることを伝えています。

奈良時代の二大歌聖であった柿本人麻呂、山部赤人の両者を並べ、和歌のセンスを比べたり、平安時代初期の六歌仙に至ってはエスカレートした批評が記され興味深い。

批評といえば、明治時代にも古今和歌集を編纂した紀貫之のことを正岡子規が歌よみに与ふる書で批評したことが有名ですが、人々の反響が大きければ大きいほど批評の対象になるというのは昔から変わらなかったようです。

最後に、醍醐天皇が「いにしえのことも忘れじ、旧(ふ)りにしことをも起こし給ふ」と給われ、いにしえの書物の万葉集には選ばれなかった古い和歌をこの古今和歌集に入れ、後の世にも伝えたいと、延喜五年四月十八日に撰者四名によって古びた和歌を復興させるという天皇の想いとともに古今和歌集が編纂されていきました。

古今和歌集に求められた外界の美しさ

古今和歌集に求められた外界の美しさ

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奈良時代の万葉集が日本最古の歌集と言われていますが、醍醐天皇はこの万葉集で扱われなかった古い和歌を古今和歌集に収めて、全部まとめて後世に伝えたいと考えていたのです。
天皇のお考えを受け、撰者たちは万葉集から古い和歌を選び始めます。

中でも天皇のご要望であった「梅」の歌から始まる春の歌、ほととぎすを聞く夏、秋の紅葉を折り、雪を見るに至るまでの四季の和歌をまず先頭に並べました。
続いて人々の長寿や祝いを寿ぐ(ことほぐ)賀の歌が続き、逢坂山に至って旅の途中の無事を祈って詠まれた羇旅歌(きりょか)、秋萩夏草を見て妻を恋しく思う恋歌、そして春夏秋冬に当てはまらない種々(くさぐさ)の雑歌、全部で千首、二十巻を古今和歌集と名付けました。

こうして歌の部立てが決まり、和歌の数、巻、名前が出来上がりました。

古今集最後に綴られた醍醐天皇の思い

古今集最後に綴られた醍醐天皇の思い

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最後に天皇と撰者4名の和歌に対する思いがこのように綴られています。

「この度、編纂がなされた古今集は山下水のように絶えることなく、和歌の永遠の繁栄が約束される喜びと、この時代に生まれ古今集勅撰に巡り合えたことへの喜び。
(柿本) 人麿が亡くなっても歌の道が今に伝わっていること、そして同じように時が移り変わって楽しみや悲しみが通り過ぎようともこの歌の文字はあり続ける。
和歌が絶えることなく久しく残っているのならば、歌のさまを知り、言の葉の本質を理解出来るような後世の人であれば、大空の月を見るように、いにしえを仰ぎ見て、古今集が編纂された今この時代のことを恋い慕わないはずはないでしょう。」

後世に残っていくと確信し、後世の人々へ向けたメッセージで仮名序の最後を結びます。

古今和歌集で伝えられた平安時代のいくつもの思い

古今和歌集とは現実離れした言葉の羅列だと思われがちですが、ユニークに日本の歴史と和歌を織りまぜ、歌の世界へと誘ってくれる歌集の入口にある本です。

和歌が面白いものなんだと教えてくれます。
日本の美しい四季から始まり、昔も、今と何ら変わらない現実があり、楽しかったり切なかったり、時には悲しく寂しいといった現代人と変わらない感情を抱いていたのです。
人の世の常を、撰者たちが人生をかけて選び編纂した集大成がこの古今和歌集。

和歌に込められた美しい言の葉を信じ、後世に残そうと必死になりながら和歌を選び、実直なまでに美しい愛情をこの古今和歌集に注ぎました。

現代人が大切にする日本の四季から始まる古今和歌集は煩わしい人間関係、しかし人との交流がなければ生きていけない人間の人生を、いくつもの和歌で表現した本です。
古今和歌集のおもしろさはそこであり、美しさでもあります。

撰者たちの思いを受け取りながら古今和歌集を読めば、授業で読んだ時とはまた別の次元の世界の広がりを感じられるはずです。

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Writer:

はじめまして! 歴史と名の付くものには目がありません。特に日本の歴史が大好きで、歴史が繰り広げられた場所に行くことが何よりの楽しみです。 先人たちの残したものに触れたり、時には先人たちになりきって日本文化探訪旅行を楽しんでいます。歴史に興味がない人にも、 歴史って面白いんだなと思える感覚を味わってもらいたいです。

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