なぜ奈良の大仏さまをつくったの?「聖武天皇」の壮絶な人生とは

聖武天皇をご存知ですか?あの有名な「奈良の大仏さま」で知られる東大寺を建立した奈良時代の天皇です。聖武天皇は、なぜあのような巨大な大仏さまをつくったのでしょうか?聖武天皇の生涯と、その御世に起こった出来事と共に、その謎に迫っていきたいと思います。仏のご加護によって世の中に光を見出したいという願いを込めた悲しい聖武天皇の一生を見ていきましょう。

聖武天皇(しょうむてんのう)とは?

本来ならば天皇になる資格がなかった?

本来ならば天皇になる資格がなかった?

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第45代聖武天皇。
生没年701年〜749年。
即位前の名は首皇子(おびとのみこ)と言いました。
父・第42代文武天皇、母・藤原不比等の娘である藤原宮子です。

聖武天皇は、文武天皇の第一皇子として生まれました。
幼少期は孤独な少年でした。
7歳で父である文武天皇と死別、母である宮子(藤原不比等の娘)は、聖武天皇を出産してすぐに精神を病んでしまい、その後聖武天皇が37歳になるまで、親子の対面を果たすことができなかったからです。
そのため、聖武天皇は、外戚である藤原一族・祖父に当たる藤原不比等やその妻である橘三千代により養育されたと言われています。
父である文武天皇が長く存命であれば、聖武天皇の人生はまた違ったものになっていたかもしれません。
父が若くして亡くなってしまったため、外戚の政治介入や反乱・天災・国の飢饉など数多くの問題が聖武天皇一人に降り掛かってきてしまうのです。

ところで、父である第42代文武天皇と第44代聖武天皇には、2代ほど間があいています。
聖武天皇は、父が亡くなった後にスムーズに即位することができませんでした。
それは、母の宮子の血筋に問題があったのと、当時の皇族VS藤原一族の政権争いのためでした。
本来ならば聖武天皇は天皇となる資格がなかったのです。

天皇になるまでの長い道のり!

先に述べたように聖武天皇の即位までには、大変険しい道のりがありました。
母の血筋や当時の皇族VS藤原一族との政権争いなどが深く関係していました。

当時、天皇になる資格は当然ながら父が天皇(もしくは皇太子)であること。
これが大前提でしたが、母の血筋も大変重要でした。
本来ならば、母親も皇族出身でなければいけませんでした。
しかし、聖武天皇の母は、藤原不比等の娘。
皇族出身ではなく、臣下の娘でした。
そのため他の皇族から皇太子としてすんなりと容認されなかったのです。
また、父である文武天皇が亡くなったのは聖武天皇が7歳の時、幼い聖武天皇がすぐに即位はできず、祖母である元明天皇(天智天皇の娘)が中継ぎの女性天皇として即位することになります。

聖武天皇は、皇太子とはなりますが、病弱だったことや外戚である藤原一族が大きな権力を握る恐れがあったため、皇族側から反対もありなかなか即位はできませんでした。
聖武天皇が成人しても、文武天皇の姉で、聖武天皇の叔母にあたる元正天皇がまたも「中継ぎの中継ぎ」の女性天皇として即位することになります。
聖武天皇が即位するのには、父である文武天皇が亡くなってから、実に17年という長い歳月がかかりました。
そして、聖武天皇が24歳のときにやっと元正天皇より皇位を譲られて即位することとなります。

しかし、聖武天皇は実際に政治の中枢に立つことは出来ず、藤原不比等の娘である藤原安宿媛(後に皇族出身でないはじめての光明皇后となります。)を妻に迎え、外戚となった藤原一族が中心となり政治を行なうようになっていきます。
父に似て、生来病弱であり、政治は藤原一族が支配していたため、聖武天皇は、半ば逃げるように深く仏教に帰依し、巨大な東大寺大仏を造営することとなっていくのです。

聖武天皇の偉業







墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

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聖武天皇は、743年に墾田永年私財法を発令します。
この法は、開墾した土地は、定められた面積にかぎって開墾した者が永久に私有することを認めるものでした。

”勅。
如聞。
墾田拠養老七年格。
限満之後、依例収穫。
由是農夫怠倦、開地復荒。
自今以後、任為私財無論三世一身。
悉咸永年莫取。
其国司在任之日。
墾田一依前格。
但人為開田占地者。
先就国有司申請。
然後開之。
不得回並申請百姓有妨之地。
若受地之後至于三年。
本主不開者、聴他人開墾。
天平十五年五月廿七日”(命令。
これまで墾田の取扱いにおいては、三世一身法(養老7年格)に基づき、期限が到来した後は収公していました。
しかし、そのために農民は怠け、開墾した土地が再び荒れることとなっていました。
今後は三世一身とは関係なく、全ての場合で、永年にわたり私財としてよいこととします。
国司の在任中の申請手続きは、三世一身法に準ずるものとします。
ただし、耕地を開墾してその土地を占有を希望する者は、まず国に申請することとします。
その後に開拓を認めます。
また、百姓に妨げのある可能性がある土地の場合は、占有の申請は認めません。
もし許可を受けて後、3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととします。
天平15年5月27日)

とあるように、養老7年(723年)に出された三世一身法により、墾田はその開墾した者から孫までの3代の間は、私財化が認められていました。
しかし、3代経った後は、墾田は国に返さなければならないことが見えていたので、農民の墾田意欲を増大させることができませんでした。
そのため、聖武天皇は、食料の生産を増やす為、この墾田永年私財法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とし、墾田意欲をかき立てようとしました。
しかし、一方で、実際に土地を多く開墾できる貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなり、公地公民の大原則が大きく崩れ,寺院・貴族による大土地所有が活発化し,荘園制成立の要因となりました。

国分寺・国分尼寺の設置

国分寺・国分尼寺の設置

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天平13年(741年)、聖武天皇は「国分寺建立の詔」を発令します。

その内容は、各国に七重塔を建立し、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写経すること。
そして、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ寺院を置き、僧寺の名は「金光明四天王護国之寺」・尼寺の名は「法華滅罪之寺」とすることと決めました。
寺の財源は、僧寺には封戸50戸と水田10町を尼寺には水田10町を施すことし、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことと細かく制定しました。

国分寺の多くは、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた都市である国府の周辺に建立され、国司が政務を執る施設である国庁とともにその国の最大の建築物となりました。
また、大和国にある東大寺は総国分寺・法華寺は総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置付けられました。

この聖武天皇の命令を受け、この後各国では、長い年月をかけて国分寺と国分尼寺が作られることになります。
この時期、後ほど詳しくご紹介しますが、聖武天皇にとって、過酷とも言える出来事が立て続けに起き、仏教の力により国家に降りかかる様々な災いや試練を克服しようと試みた結果でした。

東大寺 大仏の造営

東大寺 大仏の造営

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やはり聖武天皇と言えば、東大寺大仏です。
聖武天皇は、743年に「大仏造立の詔」を発令し、東大寺に大仏を建立します。
全国の人々の力を結集して大仏を建立することで仏の恵みを受け、国家を安定させようと考えたのです。

その当時、都は「紫香楽宮」(現在の滋賀県)にあり、はじめ東大寺大仏さまは、この紫香楽宮で造られ始めました。
しかし、都を変える遷都が多くの民衆から反対され、平城京に都が戻ったことで、現在の東大寺が造営され、そのご本尊とされることになりました。
東大寺の大仏さまは、正式名称を「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)と言い、創建当時の大きさは15m80cm・重さ250トンと大変巨大でした。
現在でも世界最大のブロンズ像と言われています。

この東大寺大仏さまの開眼供養(仏像が出来たときにその仏の目を描き、仏の力を迎える儀式)が752年に盛大に行なわれました。
しかし、開眼供養の時点では、東大寺大仏殿は完成していたようですが、東大寺大仏さまはまだ出来上がっていなかったと言われています。
東大寺大仏さまの金メッキ加工が完了は、その5年後。
東大寺大仏さまの全体が完了するのが、開眼供養から20年近く経ってからでした。
ともあれ、この開眼供養の儀式は、聖武太上天皇(すでに譲位して天皇ではありませんでした。)・光明皇太后・孝謙天皇(聖武天皇の娘)を始め、要人や僧侶など関係者が約1万1千人参列しました。
当時の日本の人口が、数百万人と考えられるので、この儀式がいかに国家にとって重要で盛大であったかが窺い知れます。

大仏さまの眼を書き入れたのは、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)でした。
書き入れるための筆には長い紐が付けられており、参列者たちはその紐の端をそれぞれが握ることにより仏と縁を結ぶことができたそうです。
この時に使用された筆や紐は、現代の東大寺にある宝物が眠る「正倉院」(しょうそういん)に残されています。
”民衆のすべてが、仏に見守られるように。
そして、多くの民衆がその仏の加護を実感できたら、社会は平和になるであろう。
”との考えから、少しでも多くの人々が拝めるようにあのように巨大な大仏を造ったと言われています。

聖武天皇は、仏教の加護によって様々な災いから逃れようとしたのでしょう。
当時は地震などの天災・天然痘などの流行病は、科学的なことが解明されていませんでした。
「災い」から「祈り」で逃れようと聖武天皇は考えたのでしょうね。
もっと詳しく後ほどご紹介します。

次のページでは『聖武天皇の御世 様々な出来事』を掲載!
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