侘び茶の完成者「千利休」は、なぜ秀吉に切腹を命じられてしまったのだろう?

死んでも人々の心を掴んで離さない千利休。逸話は色々あれども、そのほとんどが作り話です。千利休は、秀吉により切腹するようにと言い渡されてしまいました。どうして茶人が切腹?と思いませんか?!今回は、千利休の生涯について少しだけ触れてみたいと思います。

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千利休の誕生

千利休の誕生

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千利休は、大永2年(1522年)に堺の商人「千与兵衛(せんのよへえ)」の子として生まれました。
生まれた家は商人でしたが、祖父は田中千阿弥(たなかせんあみ)といい、室町幕府8代将軍足利義政の茶同朋です。
だから利休はお茶と親しみをもって育ちました。
利休の幼名は田中與四郎です。
1540年には武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学ぶことになります。

信長や秀吉から寵愛を受けたのは、堺生まれだったから。
もし、京都や奈良で生まれていたら、違う人生を歩んでいたといわれています。
当時の権力者は茶人より、堺商人の財力が魅力だったからだとか。
ちょっと生々しいですね。
大河ドラマの真田丸で描かれた千利休のように、堺商人の秀でた能力が必要でした。
堺には名物道具を持つ茶人が多く、桃山時代には茶の湯の中心地だったことの証明となっています。

千利休と名乗った成り立ち

千利休と名乗った成り立ち

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堺にある南宗寺で修業し、京都郊外にある南禅寺の本山大徳寺で、「宗易」という法名を授かりました。
この後も大徳寺の僧侶とは茶の上でも深く親交を持ち続けています。
中でも古渓とは最も深く付き合っていたようです。

利休という名前は、1585年の禁中茶会(皇居で行われた茶会)に参加することとなり、町人という身分では出席できなかったことから、正親町(おおぎまち)天皇から授かった居士号。
居士号とは修業を積んで、高い位になったものに与えられる尊称です。
しかし、利休は茶人としての名前は、晩年まで「宗易」で通しており、晩年に短い期間「利休」と名乗りました。
姓である千は、祖父の「千阿弥陀」の千を使っています。

信長と千利休

信長と千利休

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千利休の人生には転機が2回あったといえます。
その1回目が信長との出会いでしょう。
信長との出会いは、天正2年(1574年)の利休が53歳の時。
結構遅かったんだな~と思いました。
この時に信長の茶頭となったことです。
茶頭は数人おり、茶会を開く時に準備や場を取り仕切る役割を果たしていました。

信長は京と堺で「名物狩り」を行い茶人たちの唐物の花入れや茶入れなどを買いとっているのです。
また、天正元年(1573年)の朝倉攻めでは、利休は大量の鉄砲玉と馬を送り、信長は大変喜んだとか。
この後、利休の家業の干魚問屋と貸倉庫業は、武器の商人としても本領を発揮しています。
信長は商いで中国との交易があり、日本一の鉄砲の生産地だった堺との絆を深めたかったようです。
顔役(ほとんどが茶人)たちを手なずけ、美術品や茶道具などを買い集めていました。
それは、諸国大名たちへの贈答品の定番だったようです。
こういった意味でも、堺生まれの千利休は重宝されたことが伺えます。

秀吉と千利休との出会い

秀吉と千利休との出会い

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天正10年(1582年)に信長は、当時堺と並ぶほど大きな豪商の町だった、博多にいた島井宗室に名物の数々を見せるために、安土城からお宝を持ち出し向かっていました。
その途中本能寺で一泊した時に起こったのが本能寺の変。
同年6月2日(現在の6月21日)のことでした。
名物と共に焼死した信長の後に仕えたのが秀吉です。
これが、利休の2回目の転機といえます。
信長の家臣だった秀吉と、信長の今井宗久、津田宗及に次ぐ茶頭3番手だった利休は関係があったのはもちろんのこと。

先ほどお話しした、1585年の禁中茶会は、秀吉が関白に任命された返礼として茶会を催したものです。
秀吉は、正親町天皇や親王に自らが茶をたて、利休は別室で公卿らに茶をたてました。
もちろん、この茶会は秀吉の力を世の中に知らしめるためです。
この茶会は翌年にも行われており、この時の茶頭はもちろん利休でした。
御所には組み立て式の黄金の茶室が運び込まれています。
さすが、秀吉。
キンピカが似合う男ですね!茶室だけでなく、茶道具なども全部金で揃えられました。
もちろん、茶頭の利休が準備したものです。
秀吉と利休の絆は深かったのかもしれませんね。







秀吉に仕え活躍する利休

秀吉に仕え活躍する利休

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利休は秀吉を引き立てる術を知っていた人物です。
利休は奇想天外な茶会を行っており、当時の常識や通年をひっくり返しました。
現代美術といった具合でしょうか?利休の名前を賜ったことにより、名実ともに天下一となったのです。
何をしても認められる存在になっていたことも相互効果だったのでしょう。
この頃の利休は、「秀吉に意見できるのは利休しかいない」といわれており、1586年に大友宗麟が大阪城で謁見した時、秀吉から「公儀のことは自分に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされたとか。

1587年には秀吉は島津征伐を行います。
実質的に天下統一を果たした秀吉は、北野天満宮で「北野大茶湯」を開きました。
茶碗一つ持って来れば何もいらない。
公家や武士はもちろん、百姓や町民など身分に関係なく参加を許可したのです。
当時としては驚きの事でした。
これをやってのけたのも利休です。
利休は茶において怖いものなしだったのでしょう。
この北野大茶会は、国民的な行事となりました。
素晴らしい!この頃になると全国の大名が利休に弟子入りするようになっていました。

茶においての利休の功績

茶においての利休の功績

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利休は、現存する日本最古で国宝に指定される茶室を、山崎城近くの妙喜庵という寺院に造りました。
実は、利休が手掛けた茶室はこれ一軒のみといわれています。
たくさんの図面は引いたようですが、利休が亡くなってから建てられたようです。
千利休は茶室をはじめ、茶に関するさまざまなものを発明しています。
有名なのは、小間の茶室への入り口で、「にじり口」という小さな引き戸の入り口です。
入り口が狭いと武士も刀を置き、頭を下げざるを得ず、茶室では立場の上下をなくすという意味合いがありました。

また、茶室に窓を設けたのも利休だったとか。
窓は照明の役割を果たし、茶室を舞台に照明で演出を加えたかったようです。
他にも、落とし掛けや中柱なども利休による工夫でした。
実は、お好み焼の原型も利休が作っているとか。
利休のお茶会に登場した食べ物で、「麩の焼き」といいます。
小麦やくず粉などを水で溶いて焼き味噌を塗ったものです。
他にも、雪の日の茶席に向かう客人たちが履いていた草履を見て寒かろうと、皮などを草履の裏に張り防水機能を持たせた雪駄も作ったとか。
これも江戸時代には庶民の間で大流行しています。

秀吉に切腹を言い渡される利休

秀吉に切腹を言い渡される利休

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小田原征伐の頃には、能楽者や連歌師らと同じく利休ら茶湯者も同行するようになり、政治に大きく影響する存在となりました。
秀吉の弟の秀長が亡くなると、利休弾圧の声が高まったのです。
1591年、秀吉の逆鱗に触れ、堺への下向を突然言い渡されました。
利休は小さな茶器と茶半袋だけを持って逃げるように京を去りました。
この状態に驚いた弟子らは書状をよこし、利休の大名弟子だった前田利家や細川忠興らが助命するよう尽力しますが叶いませんでした。

堺で10日ほど謹慎した後、再び京に戻され切腹を命じられました。
2月28日に利休は湯が沸く音を聞きながら切腹したといわれています。
利休の首は秀吉に届けられましたが見ようともせず、そのまま一城戻橋にさらされました。
1年前に完成した大徳寺の山門に草履を履いた利休の像を設置したことが起因だったとか、利休の娘を秀吉が所望したが断ったためとか諸説ありますが本当のことは分かっていません。

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