クロワッサンの旗印?アジアとヨーロッパにまたがるオスマン帝国の歴史

クロワッサンを食べたことはありますか。フランス語で「三日月」という意味ですが、このパンの由来がオスマン帝国にあることは、きっと御存じないでしょうね。オスマン帝国の国旗は、三日月と星。ではなぜ、オスマン帝国の象徴である三日月が、があの有名なパンの名前になったのでしょうか。オスマン帝国の全盛期には、かつての東ローマ帝国をしのぐほどの領土があったのですよ。それに、科学技術もヨーロッパより進んでいたのです。さあ、アジアとヨーロッパにまたがるこの大帝国の歴史をひもといていきましょう。
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オスマン帝国のルーツはアジアから来た遊牧民

オスマン帝国のルーツはアジアから来た遊牧民

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1299年がオスマン帝国建国の年とされています

オスマン帝国は、オスマン・トルコの名前でも知られていますね。
小アジア半島とも呼ばれるアナトリアの遊牧民が、オスマンのルーツとされています。
アナトリアは、かなりの期間、ビザンツ帝国の支配下にありましたね。
ビザンツ帝国はもともと、395年にローマ帝国が東西に分裂したあとの東ローマ帝国ですね。
東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国は、西ローマ帝国がゲルマン民族によって滅ぼされたあとも、ヨーロッパのバルカン半島と、アジアのアナトリアからアラビア半島の西側、さらにアフリカ北部までを版図として存続します。

この地域には、さまざまな民族が住んでいますが、イスラム教という共通の宗教をもっていますね。
第1回十字軍からほぼ200年たった1299年が、オスマン帝国の建国の年ということになっているのですよ。
オスマンのルーツは、13世紀後半から、アナトリア西部に根拠地をおく遊牧民。
十字軍というと、キリスト教徒とイスラム教徒との戦いというイメージですが、オスマンの一族は、キリスト教徒たちと比較的うまく付き合っていた、とも言われています。

スレイマン・シャーの伝説とアナトリア

1290年代から、オスマンの一族は、戦士の集団となって、ビザンツ帝国とも争うようになったのですね。
そして、いくつかの小都市を占領し、ひとつの「国家」となったというわけです。
それが1299年。
まだ「帝国」と呼べるような大きな国ではありませんでしたが、戦士集団となった一族を率いるオスマン・ベイが、オスマン1世になったのですね。
この国が、周辺地域を次々と支配していき、ついに1453年にビザンツ帝国を滅ぼすことになるのですが、それはまだまだ先の話。
この時点では、アナトリアにあったいくつもの小さな「侯国」のひとつにすぎません。

オスマン・トルコの歴史については、1400年以降に作られた叙事詩『イスカンダル・ナーメ』に語られているのですが、伝説の域を超えるものではないようですね。
それ以外にも、いろいろな歴史書が書かれていますが、そのなかで、スレイマン・シャーの伝説が興味深いので、ここで紹介しておきましょう。
オスマンのルーツが遊牧民ということは、そもそもモンゴルから来た可能性がありますね。
スレイマン・シャーこそ、まさにその遊牧民のリーダーで、アナトリアまで来たものの、やはり東に帰ろうとして、崖から転落死し、そのため、彼に率いられた一族は、ここに定住したというのです。

オスマン帝国の国旗が三日月と星になった理由

オスマン帝国の国旗が三日月と星になった理由

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オスマン帝国の始祖オスマン・ベイが見た夢

オスマン帝国の始祖は、1299年に「スルターン」になったオスマン・ベイ。
もっとも、この時点でスルターンを名乗っていたかどうか、不明な点もありますが、彼が、自分の名前をそのまま王朝の名前にしたのは確かです。
そのルーツにしても、また建国にまつわるいくつかの物語にしても、どこまでが現実でどこまでが伝説なのか、よくわかりませんね。
オスマンがまだ若いころ、ある女性に恋をして求婚するのですが、長老であるその父親は断固としてこれを拒否。
それはなんと2年間も続いたのでしたが、ある日、オスマン・ベイはその長老の家に宿泊して、夢を見たのでした。

その夢のなかで、彼は、ある谷間の都市に来たのですが、そこには、黄金の円屋根の家が建ち並び、三日月の印がつけられていたのですね。
木立に風が吹きつけて、木の枝がコンスタンティノープルの方向を指したのでした。
その風景はちょうど、2個のサファイアと2個のエメラルドで飾られたダイヤモンドに見えたのでした。
これこそまさに、黒海とエーゲ海、アジアとヨーロッパとを支配するオスマン帝国の姿の象徴。
この夢を長老に話すことで、彼は長老の娘マル・ハトンとの結婚を許されたというのですね。

はじめてビザンツ帝国に勝利した記念日

この夢の話もたぶん作り話ではありますが、ただ、オスマンと、西部アナトリアの有力者エデバリとの結びつきが語られている点では、真実かもしれませんね。
こうして、オスマンは、ビザンツ帝国のキリスト教の諸侯が支配する国々を、自分の領土にしていったのですね。
その最初が、1291年のカラジャ・ヒサルという都市の獲得で、この年をオスマン建国の年とする説もあるようですね。
その後の10年間で、オスマンは、最初はごくわずかだった領土を、次々と拡大していったのでした。

1302年7月27日、ビザンツ帝国軍との戦いに勝利。
この日はオスマン帝国の記念日になっています。
1258年に生まれたとされるオスマン1世は、このとき40代半ば。
支配者としての風格も備わってきた頃でしょうね。
イスラム教徒対キリスト教徒という構図で、これらの戦いをとらえてしまいがちですが、実際には、オスマンはキリスト教の騎士なども取り込んでいます。
また、キリスト教では異端にされてしまう神秘主義の教団員たちも加わったのですね。
それが、この時点ではまだ小さな「侯国」でしかなかったオスマンの国が、やがて多くの民族を支配下に置く「帝国」になった理由のひとつと考えていいでしょう。
なぜなら、神秘主義は、天文学や物理・化学をベースにした科学技術の側面も持っているからです。

オスマン1世とその後継者たちはバルカン半島に進出

オスマン1世とその後継者たちはバルカン半島に進出

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「緑のブルサ」攻略の最中にオスマン1世は戦死

1308年、オスマン1世は、アク・ヒサルの城を陥落させることに成功。
これで、ビザンツ帝国への道を確保したのでした。
そして次は、「緑のブルサ」と呼ばれるブルサで、ここは豊かな自然だけではなく、手工業の中心地でもあったのですね。
しかし、それだけにここを陥落させることは、容易ではありません。
オスマン1世は、用意周到にブルサの攻撃の準備をしたのでした。
そして、1326年、満を持してブルサを攻撃。
しかし、ブルサを陥落する直前に、オスマン1世は戦死していまったのですよ。

オスマン1世を継いだ息子のオルハンは、ブルサを手に入れ、ここを国の首都にしたのですね。
この第二代スルタンであるオルハン1世の時代に、オスマン侯国は、法を整備したり、軍制を改革したり、新しい貨幣を鋳造したりして、国家としての基礎を築いたのでした。
世界史の教科書にも載っている、この時代の有名な旅行者イブン・バトゥータは、トルコ系遊牧民の君主のなかで、オルハン1世がもっとも優れていると書き残しているのですよ。

ビザンツ帝国の後継者争いに介入

皇帝はただひとり、ということなので、とかく後継者争いが起こりますね。
ビザンツ帝国でも、ヨハネス5世とヨハネス6世との間で争いが起こりましたが、オルハン1世はヨハネス6世の娘と結婚して、ヨハネス6世と同盟。
そのため、ヨハネス5世の同盟者であるセルビア人やブルガリア人と戦うことになったのでした。
セルビアもブルガリアも、現在はバルカン半島にあるヨーロッパの国家ですね。
その結果、オスマン侯国はアナトリアを越えて、バルカン半島に進出する大義名分を得た、ということになりますね。

1354年にヨハネス6世が死んで、この同盟が解消したあとも、オルハン1世のバルカン半島侵攻は継続し、1357年にはトラキアに進出。
ビザンツ帝国も、「帝国」という名称は維持していたものの、もはや実体は「帝国」ではなかったのですね。
オルハン1世の後継者は、その長男で、すでにオスマン軍の長であったスレイマン・パシャと決まっていたのに、なんと1359年に、狩猟中に落馬して死亡。
期せずしてオスマン侯国の三代目は、ムラト1世ということになったのですね。
「強者三代続かず」などと言われることもありますが、オスマン侯国は、ムラト1世の慎重な政策によって、その後ますます発展したのですよ。

アジアとヨーロッパにまたがる帝国の基礎ができました

アジアとヨーロッパにまたがる帝国の基礎ができました

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ビザンツ帝国第二の都市アドリアノープルの陥落

バルカン半島には、ギリシャ人やセルビア人やブルガリア人などが住んでいましたが、これらの諸民族は互いに反目していたのでした。
トルコ人は、この亀裂をうまく利用して、この地域に勢力を拡大したと言っていいでしょう。
「バルカン」とはもともと「火山」の意味ですから、いつ爆発するかわからない、ということになりますね。
ムラト1世は、オスマン侯国の内政を充実させるとともに、バルカン半島攻略に、力を注いだのでした。
1361年には、トラキア東部を征服。
ここは、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルから、150km程度の近さにあるのですよ。

オスマン軍の別働隊は、ビザンツ帝国の第二の都市アドリアノープルを目指したのです。
この都市は、トルコ語ではエディルネと呼ばれていて、1362年に、このエディルネは陥落。
オスマン侯国の支配下になったのでした。
これによって、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、ほぼ孤立無援に。
そしてムラト1世は、1366年にエディルネを首都にしたのですよ。
これで、オスマン侯国は、「帝国」と呼んでもいいだけのものを手に入れたことになりますね。

オスマン帝国の首都がエディルネになりました

しかし、その前に、セルビア人は、ブルガリア人やワラキア人とハンガリー人などと連合して、1363年にオスマン軍に対して戦いを仕掛けました。
これを第一次マリツアの戦いと呼んでいますが、数のうえでは攻勢の連合軍に、オスマン軍は圧勝。
ローマ教皇ウルバヌス5世は、イスラム教徒のトルコに対して、十字軍を呼びかけたのでした。
しかし、この十字軍は、何を考えたのか、進軍の方向が違っていたのですよ。
1363年に、ヨーロッパの全キリスト教国がバルカン半島でオスマン軍と戦う予定だったのが、聖地エルサレムへの通路を確保するという口実で、エジプトのアレキサンドリアを攻撃したのですよ。

たまたま、この十字軍に参加するのが遅れたサヴォア伯アマデウス6世だけが、オスマン軍と戦ったのですが、もちろん結果は目に見えていますね。
聖地エルサレムを奪うことに成功した第1回十字軍の時代は、もうはるか遠い昔になったということですね。
こうして無事に、オスマン帝国は、首都をブルサからエディルネに移すことができたのでした。
オスマン帝国は、いよいよヨーロッパ諸国のひとつになった、と言えますね。
アジアとヨーロッパにまたがる大国の誕生です。

雷帝と呼ばれたバヤズィト1世は十字軍を蹴散らしました

雷帝と呼ばれたバヤズィト1世は十字軍を蹴散らしました

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バルカン半島の戦いでブルガリア王国を滅ぼしました

1389年にムラト1世の跡を継いだバヤズット1世は、「雷帝」とも呼ばれる人物でした。
この年に、セルビアの南東部にあるコソヴォで、オスマン軍とセルビア連合軍との決戦が行われたのでしたが、その戦いのさなか、ムラト1世は暗殺されてしまったのですよ。
ふつうなら、総大将が死んだら軍は壊滅して、敗走するところですが、オスマン軍は勝利。
ついにセルビアを手に入れたのですよ。
雷帝と呼ばれるバヤズット1世は、バルカン半島とアナトリアで、拡大政策をより過激に展開。

アナトリア出身のオスマン帝国ですが、キリスト教徒を自国の軍団に組み入れる一方、同じトルコの部族との関係は、必ずしも良好なものではなく、いや、それどころか、これまでいろいろ敵対してきたのですよ。
現在のトルコの国土であるアナトリアの統一という課題が、バヤズィト1世の前にあったのですね。
そして、バルカン半島では、1392年に、ブルガリア王国を滅ぼしています。
ここまでくると、ヨーロッパ諸国、とくにハンガリー王国は脅威にさらされることになります。

ハンガリー王ジギスムントによるニコポリス十字軍

ハンガリー王国は、自分たちをマジャール人と呼んでいるハンガリー人の君臨する王国ですが、現在のハンガリーと比べると、現在のクロアチアやスロバキア、それにルーマニア東部のトランシルバニアまでをも領土にする巨大な王国。
当時のハンガリー王は、ラヨシュ1世の娘の夫である、ルクセンブルク家出身の王、ジギスムントでした。
つまり王は、マジャール人ではなくドイツ人ということになりますね。
もともとアジア系の遊牧民の子孫とされているマジャール人ですが、王がドイツ人であることで、ヨーロッパ諸国との関係は密になっていますね。

オスマン軍の侵攻に脅威を感じたジギスムントは、ヨーロッパ諸国に対して、十字軍を呼びかけたのですね。
ジギスムントの出身であるルクセンブルクやドイツ、フランスの貴族や騎士たち、それにヴェネチアやジェノアからも、援軍が期待できますね。
これをニコポリス十字軍と呼んでいますが、ハンガリーの首都ブダに集結し、ドナウ川を下り、ニコポリスを目指したのでした。
しかし1396年、ニコポリスの戦いで、バヤズィト1世はこの十字軍を蹴散らしたのでした。
キリスト教徒の十字軍に勝利したことで、イスラム教圏でのオスマン帝国の地位は向上。
大帝国への道がより大きく開かれたのですね。

オスマン帝国が一時的に断絶しました

オスマン帝国が一時的に断絶しました

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アンカラの戦いで雷帝は敗北しました

コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡したのは、1453年でしたね。
もう風前の灯火だったビザンツ帝国が、まだあと半世紀あまりも生き続けるのは、オスマン帝国にとって、思いがけない敵が現れたからでした。
それは、中央アジア出身の軍人ティムールだったのですよ。
中央アジアを統一したティムールは、西に軍を進め、現在のトルコの首都アンカラに到達したのでした。
1402年、アンカラの戦いで、雷帝と称えられたバヤズィト1世もティムールに敗北。
オスマン帝国そのものも崩壊したのですよ。

歴史とは、奇妙なものですね。
大帝国への道を開いたばかりのオスマン帝国は、アンカラの戦いで敗れ、捕らえられて幽閉された雷帝が死んだあと、あっさりと崩壊してしまうのですから。
オスマン帝国に従属していたアナトリアもバルカンも、もともとバラバラな集団が割拠していた地域ですから、それらを統合する力がなくなったために、もとの状態に戻った、ということですね。
オスマン帝国のスルタンの地位はしばらく空白になりますが、1413年にはメフメト1世がスルタンになり、オスマン帝国は復活したのですよ。

復活したオスマン帝国は中央集権国家に向かいました

ティムールは、言わばあっという間に通り過ぎる台風のようなものだったのですね。
オスマン帝国を滅ぼしたあと、サマルカンドに戻り、今度は、中国の明朝との戦いに行く途中、1405年にティムールは病死してしまったのですね。
一方、バヤズィト1世の子どもたちがスルタンの地位を争って、オスマン帝国にもしばらく空位時代がありましたが、メフメト1世がスルタンになってから、帝国の再建が行われたのですよ。
また、以前はキリスト教徒の騎士たちも軍に加えていた帝国が、イスラム化するとともに、中央集権化・スルタンの絶対君主化へと向かいはじめます。

1421年に、メフメト1世からムラト2世がスルタンを継承するとともに、この政策も継承するのですね。
一方、ビザンツ帝国は相続する際に分割され、皇帝ヨハネス8世の支配するのは、ほぼコンスタンティノープルだけ、という状況にあったのですよ。
ムラト2世にとって、コンスタンティノープル攻略の絶好の機会だったのですが、ハンガリーの英雄フニヤディによって、1443年にオスマン軍は敗北。
翌年ムラト2世は息子のメフメトにスルタンの位を譲ったのでした。

ついに宿願であったコンスタンティノープルを獲得

ついに宿願であったコンスタンティノープルを獲得

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メフメト2世のときにスルタンの絶対君主制が完成

ムラト2世を継いだメフメト2世は、1444年にフニヤディを、ヴァルナの戦いで破ったのでした。
あの吸血鬼ドラキュラのモデルになったとされる、ヴラド侯ドラクルも、この戦いに参加してオスマン軍と戦い、フニヤディとともに戦死することなく逃れることができたのですよ。
しかし、このまま黙っているフニヤディではありませんね。
そこで、ムラト2世は、古戦場のコソヴォにフニヤディを誘い出し、見事にこれを打ち破ったのでした。
1448年のことでした。
1450年にはスルタンとハンガリーとの間の休戦協定が締結され、ハンガリーの勢力はこの地域から遠ざけられたのですよ。

395年にローマ帝国が東西に分裂したときから、ずっと東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープルも、いよいよオスマン帝国の領土になる日が近づいてきていましたね。
1446年から1451年にスルタンの地位に戻ったムラト2世でしたが、その死後ついに、21歳の若いメフメト2世の時代になりました。
このスルタンのときから、スルタンとその家臣たちとの間に明確な身分の差ができてしまい、スルタンの絶対君主制が完成します。
その力をもって、メフメト2世は、1453年に、宿願であったコンスタンティノープルの攻略を成功させたのですね。

コンスタンティノープルがイスタンブールになりました

コンスタンティノープル陥落によって、1000年以上続いた東ローマ帝国は滅亡。
ローマ帝国こそ、世界支配の象徴のような存在だったので、それをオスマン帝国が継承した、ということになりますね。
メフメト2世は、戦いで荒廃したこの世界都市を、オスマン帝国の首都にふさわしいようにする事業に取りかかったのですよ。
ブルサからエディルネへと首都を移してきたオスマン帝国でしたが、ここではじめて首都造営の事業を本気で始めたのでした。
もう、恐れるほどの外敵がいなくなった、ということでもありますね。

6世紀に建築されたギリシャ正教の聖ソフィア寺院は、イスラム教の神殿であるモスクに改築。
アヤソフィア・モスクとなったのでした。
このモスクが完成したとき、メフメト2世は、自分がアレクサンドロス大王を継ぐ者である、と宣言しているのですよ。
そして、オスマン家以外のトルコの貴族を中央政府から追放し、「スルタンの奴隷」と呼ばれる軍人に政府の主要なポストを与えたのですね。
中央集権と絶対君主制がここに実現した、と言えますね。
コンスタンティノープルは、オスマン帝国の首都イスタンブールになり、今日に至っているのですよ。

大帝スレイマン1世のヨーロッパ支配の夢

大帝スレイマン1世のヨーロッパ支配の夢

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第一次ウィーン包囲が行われました

オスマン帝国のスルタンは、その後、1481年のバヤズィト2世、1512年のセリム1世、そして、ヨーロッパ史上忘れられない1520年のスレイマン1世へと継がれていきます。
スレイマン1世は「大帝」とも呼ばれていますが、この時代がオスマン帝国の絶頂期で、それ以後オスマン帝国は衰頽していく、という通説があります。
セリム1世の時代である1514年に、東アナトリアのトルコ系遊牧民がつくったイランのサファヴィー朝との決戦を制し、これでアナトリアは完全に統一。
さらに、1517年には、エジプトのマルムーク朝を滅亡させ、エジプトをオスマン帝国に編入。

これを受け継いだスレイマン1世は、ハンガリーに攻め込んで、1528年にモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させたのでした。
これによって、ヤゲロー家と二重結婚していたハプスブルク家は、ラヨシュ2世の持っていたハンガリー王位とボヘミア王位とを獲得するのですが、スレイマン1世は、1529年にハプスブルク家のウィーンを包囲。
これを第一次ウィーン包囲と呼んでいますね。
このときは、ハプスブルク家が毎年、多額の奉納金を出すことで決着。
形式的には、神聖ローマ皇帝のハプスブルク家がオスマン帝国に臣従する形になったのでした。

トランシルバニア遠征のときに大帝は病死しました

ヨーロッパでは、ウィーンまで攻め込んだスレイマン1世ですが、その後は方向転換。
1534年には、北アフリカの海賊だったバルバロス・ハイレッティンを、海軍提督に任命。
地中海での海戦に利用したのですね。
1534年から35年にかけて、チグリス・ユーフラテス川の三角地帯にあるバクダードに遠征し、アゼルバイジャンとイラクを征服。
1538年には、インド洋でポルトガルと香料貿易の利権を争い、イエメンを支配下にしたのでした。

こうして、中近東から北アフリカを領土にしたスレイマン1世は、ふたたびハンガリー方面に侵攻。
とりわけ、当時はハンガリーでしたが現在はルーマニアになっているトランシルバニアに、何度も遠征したのですね。
1551年から53年には、第11回の遠征をしましたが、それから10年間、ハプスブルク家のフェルディナント1世との敵対関係が続いたのでした。
1562年にようやく和平条約が成立したものの、1565年にこの和平条約は破れたのですね。
そして、最後の遠征のとき、すでに72歳になっていたスレイマン1世は病死したのですよ。

オスマン帝国は官僚国家になりました

オスマン帝国は官僚国家になりました

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「オスマンル」がオスマン帝国を支配しました

スレイマン1世の死後、オスマン帝国のスルタンには、もう大人物は生まれませんでしたね。
そのかわり、イスタンブールの官僚組織は確固としたものになっていました。
ちょうど日本の戦国時代と重なる時代で、日本でも、戦国大名が先頭に立って戦う時代は終わりつつありましたね。
オスマン帝国も、スルタンではなく、宮廷出身軍人や常備軍指揮官、あるいは書記のような、「オスマンル」と呼ばれる人たちが政治の実権を握ったのですね。
「オスマンル」というのは、「オスマンに属す者」という意味なのですよ。

なかでも、大宰相がスルタンの代理人として、政治の実権を握ったのですね。
これを、オスマン帝国が中央集権化したことの成果と考えていいでしょう。
1566年にスレイマン1世が死んでからは、敗北が続きます。
1571年のレパントの海戦で、オスマン帝国の海軍は全滅。
1592年から1606年にかけて、ハプスブルク家との長期にわたる消耗戦。
1622年、スルタンのオスマン2世の殺害。
ハーレムの実力者キョセム・スルタンの権勢は、江戸幕府の大奥と似ていますが、1651年にはその彼女も殺害されてしまいます。
混迷をきわめるオスマン帝国ですね。

大宰相カラ・ムスタファによる第二次ウィーン包囲

オスマン帝国の最後の力を見せつけるとともに、最終的な没落のきっかけともなったのが、第二次ウィーン包囲ですね。
1676年に大宰相になったカラ・ムスタファには、スレイマン1世にもできなかったことを成し遂げたいという野望がありました。
ウィーンを陥落させ、さらにライン川まで侵攻して、あのルイ14世と戦うこと。
1687年、カラ・ムスタファはウクライナに軍を進め、ロシア軍とポーランド軍との戦いを1681年まで継続。
1683年、いよいよオスマン帝国軍はウィーンを目指したのでした。

このときの神聖ローマ皇帝は、ハプスブルク家のレオポルト一世。
トルコ軍にウィーンを包囲されて、レオポルト一世は即座に逃亡したのでしたが、ウィーン市民は、城壁の一部を破壊されながらも必死で抵抗。
カラ・ムスタファはウィーンの周囲に、トルコ独特のテントを張って宿営。
ウィーン陥落も時間の問題かと思われたとき、ポーランド王ヤン・ソビエスキが、カーレンベルクからトルコの宿営を直撃。
トルコ軍はあわてて逃走するほかありせんでした。
ウィーンのカフェは、このときトルコ軍が置き忘れたコーヒー豆からきているという伝説も生まれたのですよ。
それからもうひとつ、クロワッサン。
ウィーンでは、オスマン・トルコの旗の三日月をもじって、キプフェルというパンを作ったのですね。
これがフランスに渡ってクロワッサンになったという次第。

第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊しました

第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊しました

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「チューリップ時代」から崩壊の危機へ

フランスの宮廷ではその力を認められることのなかったサヴォア公オイゲンは、オーストリア軍に加わって戦功をあげ、現在ウィーンの宮廷前の英雄広場の像になっています。
1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国はとうとう、ハンガリーとトランシルバニアを手放すことになったのでした。
これ以後、オスマン帝国がヨーロッパに脅威を与えることはなくなり、1703年から1730年の期間を、「チューリップ時代」と呼んでいるのですね。
オスマン帝国にとって、ヨーロッパはもう「異教徒の国」ではなくなり、逆にヨーロッパでもオリエントへの関心が高まりました。
そのオリエントのうちで、ヨーロッパに接しているのがトルコということになりますね。

しかし、そんな蜜月がそう長く続くことはなく、イラン遠征の失敗を機に、市民の暴動が起こって、チューリップ時代は幕を閉じたのですね。
一方、ハプスブルク家との戦いでは勝利して、1739年のベオグラード条約で、セルビアとボスニアがオスマン帝国に戻ってきました。
その後はしばらく平和が続いたのですが、オスマン帝国内部が、軍人による政権から、宦官などスルタン側近による政権に移行し、中央集権体制が弱体化し始めたのですね。
オスマン帝国は、その広大な領土を維持し続けるのが困難になったというわけです。

1918年ついにオスマン帝国は崩壊しました

19世紀になると、ヨーロッパでも民族主義が台頭しますが、オスマン帝国でも同じことが起こりますね。
ギリシャ人が、オスマン帝国からの独立のために戦いを起こし、1829年には独立。
そのうえ、ロシア帝国がバルカン半島に進出するようになり、1855年にはクリミア戦争が勃発。
オスマン帝国には、もう戦う力はほとんど失われていたのですね。
そのため、内政改革に着手するのですが、それもなかなかうまくいきません。
1876年には憲法を発布して、立憲君主国になったかと思うと、1878年にはまた専制君主国に逆戻り。

1906年には、ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリー二重帝国の領土となりましたね。
1908年には青年トルコ党による革命が起こり、そのため、ふたたび憲政に戻ったのですね。
1911年には、「未回収のイタリア」を求めるイタリアとの戦争。
さらに、1912年から13年にかけては、第一次バルカン戦争と第二次バルカン戦争。
そしてついに、1914年には、当時は「大戦争」と呼ばれていた第一次世界大戦が、まさにボスニア・ヘルツェゴビナをめぐるサラエボ事件をきっかけに勃発。
オスマン帝国は、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国と同盟して戦ったのでした。
オーストリア=ハンガリーと同様に、その領土に多民族がいるオスマン帝国は、1918年、ついに崩壊したのですね

吸血鬼ドラキュラもクロワッサンもオスマン帝国の「遺産」?

『吸血鬼ドラキュラ』は、プラム・ストーカーというイギリスの作家の創作。
この小説では、ドラキュラはトランシルバニアの貴族ということになっていますが、オスマン帝国とヨーロッパとの争いの歴史を顧みると、トランシルバニアに吸血鬼がいた、というのも納得できますね。
オスマン帝国の文化について述べることができませんでしたが、アジアとヨーロッパにまたがる大帝国は、ヨーロッパよりも進んだ独特の文化の花も咲かせたのですよ。
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piaristen

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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