聖地エルサレムだけではなかった!十字軍遠征の歴史

十字軍の「十字」とは、イエスが処刑された十字架のこと。その旗を掲げて「異教徒」と戦った騎士団が十字軍ということになります。1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じて、ヨーロッパ各地からエルサレムを目指した第1回十字軍は、高校の世界史の教科書にも載っていますね。キリスト教の聖地であるエルサレムがイスラム教徒に支配されたため、その聖地を奪還することが、十字軍の本来の目的のはずだったのに、その歴史をみていくと、理想と現実との食い違いがいろいろ見えてきますよ。さあ、十字軍遠征の旅に出かけることにしましょう。

3つの宗教の聖地エルサレム

エルサレムは3つの宗教の聖地なので

エルサレムは3つの宗教の聖地なので

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イエスが生まれた頃、エルサレムにはユダヤ教の神殿がありました。
その時代はちょうどローマ帝国が地中海全体を支配していて、エルサレムを首都とするユダヤ王国はローマ帝国の属国として繁栄していました。
ユダヤ教徒にとって、ダヴィデの神殿のあるエルサレムこそが聖地なのですよ。
ですから現在、ユダヤ人の国家であるイスラエル共和国の首都はエルサレムですね。
イエス自身もユダヤ教の世界で育ったのでしたが、エルサレムで十字架にかけられて処刑されましたね。
その3日後に復活して、弟子たちがイエスの教えを広めてキリスト教が成立したわけです。

その後ローマ帝国内でキリスト教は広まり最初は迫害されていたのでしたが、最終的にはローマ帝国の国教になりました。
その後ローマ帝国は東西に分裂し、475年に西ローマ帝国は滅亡。
東ローマ帝国はゲルマン人の侵入がほとんどなかったため西ローマ帝国のように滅亡することはなかったのですが、そのかわりイスラム教徒との戦いをすることになったのでした。
メッカに生まれたムハンマドが神の啓示を受けて開いたイスラム教は、中近東から北アフリカに急速に広まり、638年にはエルサレムがイスラム教徒の第3の聖地になったのですよ。

『賢者ナータン』の3つの指輪のたとえ話

話は飛んでしまいますが、18世紀啓蒙主義の時代にドイツにレッシングという劇作家がいました。
彼の劇作品に『賢者ナータン』(1779)というのがあります。
舞台は12世紀末、ちょうど第3回十字軍の頃のエルサレム。
イスラム教徒の長であるスルタンのサラディーンが、ユダヤ人であるナータンにユダヤ教とキリスト教とイスラム教のうち、どれが正しいのかと質問する場面があります。
では、ナータンはこの問いにどう答えたでしょうか。

ナータンは、こんなたとえ話をしたのでしたね。
これまでずっと父から息子に受け継がれてきた指輪がありました。
ある時代の父には同じように愛する3人の息子がいたので、父は職人に頼んで同じ指輪を2つ作ってもらい3人の息子に指輪を与えたのですが、この3つの指輪のうちどれが本物か、問題になりました。
そこでナータンは、こういう解釈を示したのですね。
父から同じように愛されていた3人の息子がそれぞれにもらった指輪は、すべて本物である、と。
このたとえ話の深い意味、わかりますか。
キリスト教、とくにローマ=カトリックは、ユダヤ教徒を迫害しただけではなくエルサレムにいるイスラム教徒に対して何度も十字軍を派遣したのですが、この3つの宗教はもともと同じ神を信仰しているのだから、そんな戦いを神がどう思うか、という啓蒙主義の思想になるのです。

第1回十字軍がエルサレムを目指しました

西ローマ帝国は形式的には復活します

637年まではイスラム教徒に占領されていたエルサレムでしたが、その後は1000年頃まで、東ローマ帝国の領土に戻っていましたね。
当時の東ローマ帝国をビザンツ帝国とも呼んでいましたが、イスラム教徒のなかのトルコ人がこのビザンツ帝国と争う状況になりました。
当時のトルコはセルジュク朝。
一方、西ローマ帝国はゲルマン人によって滅ぼされたのですがそのゲルマン民族がいくつかの王国を作り、やがてキリスト教にも改宗。
なかでもフランク王国が今日のヨーロッパの基礎を築いたのですよ。

一方、イスラム教の大国であるサラセン帝国がイベリア半島を占領したあと、ピレネー山脈を越えて攻めてきたのでした。
フランク王国のシャルル・マーニュがツール=ポワチエの戦いでこれを撃破。
これによってヨーロッパを守ったということで、ローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を受けたのでした。
こうして形式上は800年に西ローマ帝国の復活。
シャルル・マーニュの死後フランク王国は分裂するのですが、962年に東フランク王国のオットー大帝が帝冠を獲得。
これが神聖ローマ皇帝の帝冠として、なんと1918年まで受け継がれることになるのですよ。







1095年のクレルモン公会議で決定されました

1095年のクレルモン公会議で決定されました

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ビザンツ帝国から援軍の要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン公会議で十字軍を派遣することを決定。
キリスト教の第一の聖地であるエルサレムを、イスラム教徒から取り戻す、という大義名分がありましたね。
ヨーロッパ各地の諸侯や騎士たちが、この呼びかけに賛同。
1096年にはエルサレムに向けて第1回十字軍が出発することになります。
ところで十字軍は全部で何回派遣されたか。
いろいろ学説があるようですね。
それはなぜかというと、ローマ教皇が神聖ローマ帝国やフランス王国の諸侯に呼びかけて聖地エルサレムを奪還するという大義名分と、十字軍を名乗る騎士団との間に、ズレが生じてくることがあったからでしょう。
そればかりではなく、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝とのあいだに権力闘争もあり、ローマ教皇を頂点とする「西ローマ帝国」がただ名目上の存在になっていったという、歴史過程もありましたね。

そのことについてはあとで述べていきたいと思いますが、ここでは諸侯や騎士たちがエルサレムに向けて旅立つより前に、ローマ教皇の呼びかけに感激した民衆が隠者ピエールに導かれ「民衆十字軍」としてエルサレムに向けて出発したことをあげておくことにしましょう。
それはもちろん、公式の十字軍ではないし、軍隊として統率の取れたものではありませんでしたから、その目的を果たすことなく壊滅したのですね。

エルサレムを奪還してエルサレム王国ができました

エルサレムには聖墳墓教会があります

エルサレムには聖墳墓教会があります

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日本では四国八十八カ所をはじめとして、あちこちに巡礼地がありますね。
キリスト教にも巡礼の習慣があるのですよ。
日本と違うのは何カ所かの巡礼地をめぐるのではなく、巡礼の目標が一カ所だということです。
なかでも最大の巡礼地は、イエスが死んで復活したエルサレム。
それ以外には、ペトロとパウロが殉教したローマがあります。
ローマ教皇のいるサン・ピエトロ大聖堂は、イエスから天国の扉の鍵をもらったペトロの名前からきているのですよ。

もうひとつ有名なのは、イベリア半島にあるサンティアゴ・デ・コンポステラです。
ここはイエスの弟子のヤコブの遺骸が流れ着いた場所。
イベリア半島はイスラム教徒に占領されましたが、聖ヤコブがこの戦いでキリスト教の軍団に力を貸したという伝説があります。
そのほかにもあちこちに巡礼教会がありますが、エルサレムにはイエスが葬られたと伝えれている場所に聖墳墓教会がありました。
もとはローマ皇帝コンスタンティヌスの母親が326年にこの地を訪れて、イエスが架けられた十字架と、手と足に打ち込まれた釘が発見とされているのですよ。

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