観光する前に知りたい!沖縄の世界遺産「首里城」の歴史と見どころ

「首里城」。沖縄を450年間に渡って統治していた琉球王国の中心でした。沖縄を訪れる際は、必ず観光するであろう沖縄のシンボルです。この首里城跡は、2000年に日本で11番目の世界遺産と認定されました。首里城は、沖縄県の歴史や文化を象徴するものであり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものといっても過言ではありません。今回は、この首里城の歴史や謎に迫っていきたいと思います。

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首里城(しゅりじょう)の歴史

琉球王国の王城として

琉球王国の王城として

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首里城は、現在の沖縄県那覇市首里にある城趾です。
標高は、約120メートルで石灰岩丘陵に立地しており、城の規模は東西約350メートル・南北に約200メートルの楕円形をしています。
琉球王国の政治・外交・文化の中心地として栄えた首里城。
この地は海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあり、琉球王朝の王城の中で最大規模のグスク(沖縄地方で城のこと)でした。

首里城の創建年代は残念ながら明らかになっていません。
最近の発掘調査から、最古と考えられる遺構は14世紀末のものと推定されるます。
この時代の沖縄は、三山時代と言われており、三つの国にまとまっていました。
南部の南山(山南)・中部の中山・北部の北山(山北)です。
この三つの王統が約100年の間は並立していました。
その間、首里城は中山の城として用いられていたことが確認されています。

その後、 尚巴志が中山王武寧を攻め滅ぼして、北山・南山を相次いで滅ぼして三山を統一し、琉球王国を建てます。
そしてこの首里城を王家の居城として用いるようになるのです。
同時に首里は首府(国の統治機関が置かれている都市)として栄えます。
第二尚氏においても王家の居城として使用され、およそ450年間変えられることはなく栄えた城でした。
そして、1879年(明治12年)に日本の明治維新により成立した日本政府により、琉球王国の最期の王である尚泰(しょうたい)が追放され「沖縄県」となり、琉球王国の滅亡と共に首里城も一度「城」としての幕を閉じます。

首里城は、琉球王国の国王とその家族が居住する「王家の居城」であったと同時に、王国統治の行政機関であった「首里王府」の本部でもありました。
それだけでなく、琉球各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国の祭祀を運営する宗教上でも重要な拠点でもありました。
さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽・美術・工芸の専門家が数多く活躍しており、首里城は琉球王国の文化芸術の中心でもありました。

沖縄県となった後は

琉球王国の滅亡後の首里城は、1879年(明治12年)から1896年(明治29年)まで沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として使用され、1897年から1945年までの間は、首里市立女子工芸学校・沖縄県立工業徒弟学校・首里第一尋常小学校などの校舎として利用されました。
その期間中に首里城は老朽化が進み、1923年(大正12年)、当時の首里市は財政難から正殿の維持管理を断念し取り壊しを決定します。
しかし、型絵染作家の人間国宝・鎌倉芳太郎や日本建築史学の祖と言われる伊藤忠太氏らの尽力によって取り壊しを免れ、1925年(大正14年)には特別保護建造物・1929年(昭和4年)には国宝に指定されます。
太平洋戦争の際には、日本軍の駐屯地・各種の学校等として使用されましたが、1945年、アメリカ軍の攻撃を受けて全焼してしまいます。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとして使用されましたが、大学が移転され、首里城の復元事業がすすめられて現在に及んでいます。
現在に復元された首里城は、18世紀以降をモデルとされています。
2000年12月には、日本で11番目の世界遺産 として首里城(琉球王国のグスク及び関連遺産群)は、文化遺産に認定され登録されました。

首里城は、内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に分かれています。
内郭は15世紀はじめに、外郭は16世紀中頃に完成しています。
城内の正殿をはじめとする施設は、配置は東西の軸線に沿ってされていいます。
そして、西を正面としており、西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つとされています。
中国や日本との長い交流の歴史があり、独自の文化を築き上げた琉球王国の首里城は、至る所に中国や日本の建築文化の影響を受けていることがわかります。

4度の焼失

4度の焼失

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首里城は、史書に記録されている限りでも4度にわたり焼失しています。
一度目の焼失は、1453年(享徳2年)、第一尚氏の尚金福王の崩御後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)の時、首里城内は、完全に破壊されてしまったと記されています。
2度目の焼失は、1660年に第10代尚質(しようしつ)王の時代、失火によるとされ、再建には11年もの歳月を要したと言われています。
3度目の焼失は、1709年に起きた火災が原因、正殿・ 北殿・南殿などが焼失しました。
この時は琉球王国の財政が逼迫していたため、隣国の薩摩藩から2万本近い原木を提供されたと伝えられています。
私たちが、現在見ることのできる首里城は、この3度目の火災の後に再建された1715年から1945年までの姿を基にしているものです。

そして4度目は、太平洋戦争中の沖縄戦。
日本軍が首里城に地下壕を掘って陸軍総司令部を置いていたことから、1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピ等から砲撃を受け続け、27日に焼失したと言われています。
現在でも首里城にある龍潭池には、この太平洋戦争の地下壕の入り口や弾痕などが確認できます。
首里城が焼失した5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能となった重傷兵士約5000名が首里城の地下陣地で自決したという悲しい出来事もありました。
また、日米両軍の激しい戦闘によって、首里城だけでなくその城下の町並み、琉球王国の宝物や文書を含む多くの重要な文化財が破壊されてしまいました。
宝物庫のみが奇跡的に戦災を免れることができましたが、中にあった琉球王国の財宝は全て米軍に略奪されてしまいます。
戦後、一部は返還されましたが、返還に向け交渉中のものも未だ多くあります。

太平洋戦争後は、焼失した首里城跡には琉球大学が置かれました。
多くの尊い遺構が撤去、埋められてしまいましたが、首里城の再建は多くの人々の悲願でした。
1958年(昭和33年)に守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築から再建が始まります。
1972年(昭和47年)には、首里城跡は国の史跡に指定され、城の入り口に当たる歓会門や周囲の城郭が再建されました。
1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転が確実となり、首里城再建計画により本格的な復元がはじまりました。
1992年(平成4年)、正殿を中心とした建築物群やそこへ至るまでの門の数々と城郭が再建され、首里城公園が開園しました。
現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園とされ、正殿の裏側の城郭やその他の建築物群の再建事業も引き続き行われています。
2000年(平成12年)には「首里城跡」として他のグスク(沖縄の城)などと「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてで世界遺産に登録されました。
2006年(平成18年)日本100名城(100番目)に選定され、沖縄県のシンボルとして輝いています。

首里城の構造

其の一 無料区域

其の一 無料区域

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首里城は、他の日本の城とは大きく異なっており、日本の城よりも中国の城の影響を大きく受けた構造となっています。
沢山ある門や各種の建築物は、漆を使用して朱塗りとなっており、屋根瓦には高麗瓦・琉球瓦(赤瓦)が使用されています。
また、首里城至る所の装飾には、国王の象徴とされる龍が多用されています。
また、他に敵が少なく戦乱のない琉球王朝時代に首里城は、再建されているため、軍事目的というよりも政治の中心地や宗教的な役割を中心にして設計されています。
城郭は、他のグスク(沖縄県のお城)と同様に琉球石灰岩で積み上げられて造られています。

首里城は、第一尚氏王朝時代である15世紀前半頃に造られた内郭と第二尚氏王朝時代である15世紀後半から16世紀前半頃に造られた外郭とに分かれており、2重の城壁に囲まれています。
そして、御庭(うなー)と呼ばれる広場を面にして正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物が内郭に集中して建っています。
また、内郭には瑞泉門・漏刻門など9つの門があり、外郭には歓会門・久慶門など4つのアーチ門がありました。
城の正門である歓会門や通用門とされる久慶門を通ると外郭内部となり、内郭の入り口である瑞泉門に通じます。
瑞泉門には「龍樋」(りゅうひ)と呼ばれる湧水があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出ています。
ここには当時の中国皇帝の使者である冊封使が、龍樋を“中山(琉球)第一の甘露”賞賛したとされる「中山第一甘露」の石碑があります。

瑞泉門を通り、更に石段を上ると「瑞泉門」と似た門があり、この門の櫓に漏刻(水時計)設置されていたことから「漏刻門」(ろうこくもん)という名が付いた門が見えてきます。
その門を抜けると司法・寺社宗廟関係の機関があった楼閣・広福門へと通じます。
ここまでが現在では無料で拝観できるエリアとなっています。

其の二 有料エリア

広福門の内側は、下之御庭(しちゃぬうなー)が広がっています。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場とされており、正殿前で行われる様々な儀式の控え場でもありました。
その西側には、士族の家系図を管理していた「系図座」(けいずざ)・首里城内で使用する資材などの管理をした「用物座」(ようもつざ)という役所があった建物がありました。
そして、下之御庭の南側にある石垣の向こう側は「京の内」(きょうのうち)という城内最大の信仰儀式の場があります。
ここは、 首里城発祥の地とも言われており、琉球独自の宗教信仰の最高位に位置する聞得大君(きこえおおきみ)や大アムシラレといった神女(しんじょ)たちが、 王家繁栄・航海安全・五穀豊穣等を神に対して祈っていた祭祀空間だったと言われています。
そして、城壁の手前に「首里森御嶽」(すいむいうたき)という礼拝場があります。
ここは神が造られた聖地と言われており、首里城に10ヵ所あると言われる御嶽のひとつです。
「奉神門」(ほうしんもん)別名で神をうやまう門という意味の「君誇御門」(きみほこりうじょう)という最期の門を抜けると正殿とそれを囲む御庭が広がります。

正殿の前には、御庭(うなー)と呼ばれる家臣らが謁見したり、中国からの使節団でさる冊封使を迎え入れたりするための広場が設けられています。
御庭を取り囲むように北殿(行政施設である)・南殿(儀礼などの施設)があり、さらにそれらを各種の門や城壁が取り囲む形になっています。
これらの構造は、中国にある紫禁城との類似性も指摘されています。
そして、正殿(せいでん)は王の居住する中心部であり、首里城で最も中心的な建物でした。
別名唐破風(からふぁーふー)と呼ばれていました。
正殿内部は、一階と二階ともに御差床(うさすか)という玉座が設けられており、二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額(室内に掲げる横に長い額)が飾られていました。
康熙帝の「中山世土」(ちゅうざんせいど)・雍正帝の「輯瑞球陽」(しゅうずいきゅうよう)・乾隆帝の贈「永祚瀛壖」(えいそえいぜん)などがありましたが、残念ながら全て沖縄戦で焼失してしまいました。
現在は筆跡を再現したものが復元され飾られています。
正殿の一階は、下庫理」(しちゃぐい)という国王が政務をおこなう場所・2階は「大庫理」(うふぐい)と呼ばれる王妃や女官らの使用する場所でした。
二階にある御差床は、重要な儀式のために使用するもので、二階南東隅の部屋「おせんみこちゃ」は国王や女官らが祭祀を行う重要な部屋でした。

南殿の南側には、書院および鎖之間(さすのま)という王が日常的に執務する建物があり、書院・鎖之間庭園は、琉球のグスク内に存在する唯一の庭園でした。
石灰岩の岩盤を生かしソテツなどをあしらい中国の使節からも名園と評価されていたそうです。
現在では、この遺構の保存状態がよかったため2008年復元され公開されています。
2009年には国の名勝に指定されました。

正殿の裏側は、「御内原」(うーちばる)と呼ばれる王族の私的な生活空間。
正殿後方の後之御庭(くしぬうなー)と言われる広場を中心として、いくつかの建物が建っていたとされています。
入り口にあたる淑順門王が住んでいたとされる「二階御殿」(にーけーうどぅん)・「黄金御殿」(くがにうどぅん)という王妃らの寝室・調理をしていた「寄満」(ゆいんち)・「世誇殿」(よほこりでん)という王位継承の儀式を行う建物などがあったとされています。
現在は、これらの再建や復元のための発掘や建設工事がすすんでいます。

現在、木造建築として復元された建物は正殿・書院および鎖之間のみとなっています。
それ以外の他の建物については、コンクリートを用いて外観のみの復元になっています。
現在残っているオリジナルの首里城の遺構は、旧来の城壁の一部だけです。
これらは新しい城壁の建設の際に発掘され再利用されています。
沖縄戦でほぼ全てが焼失してしまったこたが、残念でたまりませんね。

首里城の見どころ 

守礼門(しゅれいもん)

守礼門(しゅれいもん)

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2000円札の絵柄になっているのでご存知の方も多い門なのではないでしょうか。
1958年(昭和33年)に復元された門です。
「守礼」とは、礼節を守るという意味であり、門に掲げられている横に長い額である扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれています。
この意味は、”琉球は礼節を重んずる国である”です。
この「守礼門」は通称名とされ、古くは「首里門」・「上の綾門(ウィーヌアイジョウ)」などと呼ばれていました。

この守礼門は、エレガントで中国の牌楼(やぐらのある門)の流れをくむ装飾建築。
造りは、三間入母屋重層の琉球赤瓦となっており、本瓦葺きです。
中央柱間約3.42m・両脇柱間約2.26m・高さ約7.05m・初層約5.11m。
4本の柱は礎石の上に建っており、脚部を方形にして安山岩の挟石を基礎より建てて組み固めており、前後にそれぞれ副柱を建てて安定させています。
首里城跡の中でも、有名な観光スポットとなっています。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

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園比屋武御嶽石門は、「そのひゃんうたきいしもん」と詠みます。
ご存知の通り、沖縄県は日本とは異なる独立した国家を形成しており、沖縄独自の文化を築いていきました。
そのため、今でも独自の琉球語が残っており、沖縄出身の方でなければ沖縄の地名などは詠めませんね。

この園比屋武御嶽石門は、守礼門と首里城正門とされる歓会門の間にあります。
一見したところでは首里城の城郭と同じ石材で造られた石門に見えますが、この石門は世界遺産に登録されています。
この石門の創建は、1519年第二尚氏王統の3代目・尚真王(しょうしんおう)の時代とされています。
1933年には、国の旧国宝にしていされていましたが、沖縄戦で大破。
1957年に復元され、後にさらに旧石門の残欠を再利用などして、修復作業され1986年に完成しました。
石材は琉球石灰岩を主に用いており、板葺唐破風屋根(いたぶきからはふうやね)の造りとなっています。
屋根の飾りは、日本と中国の様式を合わせており、沖縄独特の優れた代表的な石造建築となっています。

沖縄では、御嶽(うたき)とは神が降臨し鎮座する聖域のことを言います。
園比屋武御嶽石門は、神が降臨する拝殿を意味しており、琉球国王が首里城を出てここから各地を巡る際に、最初にここを訪れ道中の安泰を祈願したと言われています。
また、琉球の最高位神女とされる聞得大君(きこえおおぎみ)の即位式でも、この石門で祈願して後、儀式を行う斎場御嶽に向かったといされています。







歓会門(かんかいもん)

歓会門(かんかいもん)

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歓会門は、首里城の城郭内へ入る際に通る第一の正門です。
魔除けの意味を持つ「シーサー」が門の両側で出迎えてくれます。
「歓会」とは歓迎するという意味があり、首里城へは中国皇帝からの使者である「冊封使(さっぽうし)」が多く招かれていたので、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられたと言われています。

首里城は城の外側である外郭と城の内側である内郭に分かれており、二重の囲いとなっていますが、この門は外郭の最初の門にあたり、喜ばしいこと」を意味する琉球語の「あまえ」から別名「あまえ御門」(あまえうじょう)」ともいわれています。
この門の創建は、1477~1500年頃ですが、やはり沖縄戦で焼失してしまいました。
1974年(昭和49年)に復元されました。

首里城見どころ 正殿周辺

正殿(せいでん)

正殿(せいでん)

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正殿は、その名の通り首里城の中で最も中心的な建物。
そして、琉球王国最大の木造建造物でもあります。
別名は、国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)と言われており、政治・儀式を取り仕切る最も重要な建物でした。

この正殿は、二層三階建ての造りとなっており、装飾化した龍柱は日本や中国には例がなく、琉球王朝独自の形式となっています。
首里城正殿の壁等には、美しい彩色塗装がされており下地お一部は漆・桐油が塗られています。

正殿は、木造の三階建。
一階は主に国王が政治・儀式を執り行う場所で「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、二階は国王や親族・女官らが儀式を行う場所で「大庫理(うふぐい)」と呼ばれていました。
三階は、通気目的の屋根裏部屋だったと言われています。
1つの建物の中で「表」と「奥」が混在しながらも、壁や階段で仕切られている空間となっています。

創建年は、発掘調査の結果14世紀末頃と見られています。
その後、数度の焼失・再建をくり返していきましたが、建設位置は変わることはなかったと考えられています。
現在、私たちが見ることができる正殿は、18世紀の初めに再建されて、沖縄戦で焼失するまで残っていた建物をモデルとして、1992年(平成4年)に復元されたものです。

この正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本としながらも、琉球独特の建築方法となっています。
正面の石階段の両脇には龍の彫刻がありますが、これを「大龍柱」(だいりゅうちゅう)と言い、手すりの奥あるもう一対を「小龍柱」(しょうりゅうちゅう)と呼びます。
その他の柱・梁等にも多数の龍の彫刻が施されています。
これは、琉球王国では龍は国王の象徴であったため、さまざまな龍が首里城に施されています。
はたして何匹の龍が正殿にはいるでしょう?興味のある方はぜひ、数えてみて下さいね。

御差床(うさすか)

琉球国王が座る玉座を指します。
1階にも2階にも同じ場所に御差床(玉座)があるのは極めてめずらしいと言われています。
特に2階の御差床は絢爛豪華な造りとなっています。
2階の御差床は、種々な儀礼・祝宴が行われたとされています。

1階の御差床背後にある障子戸を開くと、奥に国王専用の階段があらわれます。
国王はその階段を使って2階から御差床にむかったとされています。
御差床左右の柱には龍が置かれ、その周辺には雲が配色されています。
かつては御差床の上には、中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも掛かっていましたが、現在は康熙帝から贈られたと言われている『中山世土』を古記録をもとに復元したものが掛かっています。
2階の国王の椅子は、1477年から1526年まで在位した王である尚真王の肖像画をもとに再現したものと言われています。

御庭(うなー)

御庭(うなー)

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御庭は首里城の中心部。
正面には「正殿」・向かって右側には「南殿・番所」・左側には「北殿」でがあり、これらに囲まれた中庭のような広場を「御庭」と言います。

この御庭は、琉球王国時代は、国王即位式をはじめてして、年間を通じて様々な儀式が行われた広場でした。
真ん中には浮道(うきみち)と言われる道が入口である奉神門に続いています。
この道は、国王や中国皇帝の使節団であった冊封使等限られた人だけが通ることを許された道でした。

この浮道は、不思議なことに正殿からまっすぐ伸びていません。
正殿の正面から立ってみると、道が曲がっているのがはっきり確認できます。
御庭全体もきれいな正方形の広場でなくいびつな台形をしています。
この謎に対する明確な答えは現在もわかりません。
シンメトリーを嫌う琉球文化の美学、玉座と御嶽(沖縄の神が降臨し鎮座する聖域)を結ぶ線とも、悪霊は直線しか進むことが出来ないとの考えから、邪気祓いの意とも言われています。
真実は謎のままです。

観光するのに知っておきたい!

観光するのに知っておきたい!

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アクセス

・住所 

〒903-0815

沖縄県那覇市首里金城町1-2首里城公園管理センター

TEL098-886-2020(対応時間 AM 9:00~PM 17:00)

・車でのアクセス

那覇空港から国道331号線で那覇市内中心部へ。

国道58号線に入り、泊交差点を右折。

県道29号線を直進して首里方面へ。

・ゆいレール(モノレール)

那覇空港駅から「ゆいレール」に乗車後、首里駅にて下車。

徒歩約15分で守礼門に到着。

*首里駅からは路線バス (首里城下町線7番・8番)もあります。
首里城前バス停にて下車して徒歩3分で守礼門到着です。

・路線バス

市内線(1、14、17)番または、市外線(46)番に乗車し、首里城公園入口バス停にて下車。
その後、徒歩約5分で守礼門に到着します。

首里城下町線(7、8)番に乗車して、首里城前にて下車。
その後、徒歩1分で守礼門前に到着します。

市内線(9、13)番または市外線(25、97)番に乗車して、山川バス停にて下車。
徒歩約15分で守礼門に到着します。

営業時間

首里城の営業時間(有料区域)

・4月~6月 8時30分~19時 

・7月~9月 8時30分~20時

・10月~11月 8時30分~19時 

・12月~3月 8時30分~18時 

*入場券の発売締め切りは、閉園時間の30分前までになります。

*定休日は、7月の第1水曜とその翌日となっています。

営業時間(無料区域)

・4月~6月 8:00~19:30

・7月~9月 8:00~20:30

・10月~11月 8:00~19:30

・12月~3月 8:00~18:30

月によって営業時間が異なりますので気をつけて下さい。
また、無料区域と有料区域では営業時間が異なりますし、有料区域は入場できる時間が、閉館30分前までなので時間には余裕を持って観光に行って下さいね。

入場料と所要時間

入場料

対象区域:正殿・奉神門・南殿・番所・書院・鎖之間・黄金御殿・寄満・近習詰所・奥書院・北殿

・大人820円

・中人(高校生)620円 

・小人(小学生・中学生) 310円

*6才未満は無料となっています。

*モノレールのフリー乗車券をご利用中は割引になります。

*身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方は、券売所窓口にて手帳を提示すると無料になります。

首里城の見学所要時間の目安

約1時間~1時間30分ですが、じっくり見たい方は2時間くらいあるといいと思います。
すみずみまでじっくり見ると5時間かかるとも言われています。

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