歴史物語の最高傑作『史記』!その魅力と作者・司馬遷の生きざま

いまから2000年以上も前に、中国の一役人である司馬遷(しばせん)が書き上げた『史記』は史上最高の歴史物語といわれています。また「完璧」「怒髪天を衝く」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」「四面楚歌」「鳴かず飛ばず」「臥薪嘗胆」「満を持す」などのことばも、『史記』の記述に由来します。ここではそんな『史記』の魅力と、作者・司馬遷の生涯に迫ります。

司馬遷ってどんな人?『史記』ってなに?

司馬遷ってどんな人?『史記』ってなに?

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司馬遷ってどんな人?

紀元前1、2世紀ごろ、ユーラシア大陸では東西に2つの大帝国が誕生しました。
地中海のローマ帝国と、中国の漢です。
中国では紀元前221年に秦が中国を統一したのち、漢がそれにとって代わり、紀元前141年からは武帝という皇帝のもと、最盛期をむかえていました。

この武帝時代の漢において、名もないひとりの役人だったのが司馬遷(しばせん)です。
司馬遷は彼自身の伝記によると、父から太史令(たいしれい)という役職を受け継いでいました。
この太史令というのは、漢の官僚組織のなかで、天文や暦、国の文書起草などを司る役職です。
司馬遷は父の死にともない、30代半ばでこの太史令の役人、つまり「太史公」となりました。

そして司馬遷は60歳手前で亡くなるまで、たったひとりで中国の歴史書を書き上げたのです。
歴史書を書くということが、太史公の仕事のひとつだったのか、それとも司馬遷個人の意志だったのかはわかりません。
伝記によると、司馬遷の父が遺言で、わたしの成しえなかった歴史の記録をおまえに託すと言っていますので、おそらく司馬遷と父の意志だったのでしょう。

こうして書き上げられたのが名著『史記』でした。
当初は司馬遷の役職名をとって『太史公書』と呼ばれていましたが、時代がくだるにつれて『史記』と呼ばれるようになりました。

『史記』ってなに?

『史記』とは130巻、526500字からなる中国の歴史書です。
歴史上のさまざまな人物と出来事が、司馬遷の生き生きとした筆致によって描かれています。
『史記』はジャンル別に5つに区分けされていて、「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻となります。

「本紀」とは歴代皇帝の事績を紹介したジャンルです。
伝説上の5帝からはじまり、夏・殷・周・秦・漢という歴代王朝の皇帝たちの性格や事業、生い立ちから死までを描いています。
また「表」とは皇帝たちの活動を年表にしてまとめたものです。
また「書」とは制度史で、政治や経済などの制度の変遷を記述しています。

「世家」とは、諸侯たちの活躍を描いたジャンルです。
周時代の太公望(たいこうぼう)からはじまり、春秋・戦国時代の諸王や、秦に反乱をおこした陳勝と呉広、また孔子もこのジャンルに区分けされています。
そして最大巻数をほこる「列伝」では、皇帝でも諸侯でもないけれど、歴史に名を残すべきさまざまな人々が取り上げられています。

『史記』はその膨大な資料と、歴史的価値と、そしてすばらしい筆致から、時代をこえて読み継がれました。
そのため中国ではのちに正式な歴史書のひとつとされ、『史記』の5ジャンルという形式も「紀伝体」とよばれて引き継がれました。
いまでも中国や日本をはじめ、世界中の読者をとりこにしています。

『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その1

『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その1

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「完璧」の語源は藺相如のことばから

『史記』の魅力を実感するには、なにはともあれ読んでみるのがいちばんです。
そこでここからは、ほんのいくつか、『史記』の内容を紹介しましょう。
まずは「列伝」より、戦国時代の七国のひとつ趙にあって、ともに国を支えた廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)のお話です。

紀元前3世紀の戦国時代、中国は七国に分かれて争っていました。
西では秦が昭王のもとで強大化し、中央に位置する趙は、名将廉頗のおかげでなんとか均衡をたもっていました。
そんなとき、趙の王が璧(へき)という宝玉を手に入れます。
璧とは円盤状のたいらな石のまんなかに穴をあけた、当時としては非常に高価な宝物でした。
そのうわさを聞きつけた秦の昭王が、「15の城と璧とを交換したい」と申し出てきます。

対応に困った趙の宮廷のなかで、ひとりの家臣が藺相如という部下を推薦します。
宮廷にあらわれた藺相如は王にたいして言います、「もし璧を与えて秦が城をよこさねば、非は秦にあることになります。
ここは秦の要求をききいれて、非を秦に負わせるのがよろしいでしょう」。

そこで趙王は、誰を使者とすべきかと尋ねます。
藺相如はみずから行くと申し出て、「城入らずば、臣請う、璧を完う(まっとう)して趙に帰らん」(もし城が手に入らなかったら、璧を無事に趙に持ち帰りましょう)と告げました。
ここから、大事な仕事を完全にやり遂げることを「完璧」と言うようになりました。







「怒髪天を衝く」

藺相如はみずから璧を持って、秦の昭王のもとへ赴きました。
しかし昭王が藺相如そっちのけで、璧を周囲に見せびらかしてはよろこんでいるので、昭王に城をゆずる気はないと見ぬきます。
そこで藺相如は「その璧にはキズがあります、どこにあるかお教えしましょう」と言って壁を取りかえし、そのまますこしずつ後ずさりして、柱に寄りかかります。

ここからの場面は『史記』の本文にゆずりましょう。
「相如、(中略)怒髪上りて冠(天のこと)を衝く、秦王に言いて曰く、大王、壁を得んと欲し、人を使わし、書を発して趙王に至らしむ(中略)臣、大王の趙王に城邑を償うに意無きを観(み)、ゆえに臣また壁を取る、大王必ず臣を急にせん(秦王がわたしを追いつめる)と欲せば、臣の頭、今、璧とともに柱に砕けん、と」。

そして藺相如は璧とみずからの頭を、柱に打ちつけようとします。
秦の昭王はあわてて制止して、藺相如にあやまります。
それから役人を呼んで地図をひろげ、この15の城をゆずろうと言いました。
しかし藺相如は、やはりこれも口先だけの約束であることを見ぬいていました。
そこで昭王に、5日経ってからでないと壁は渡せないと告げます。
昭王がそれにしたがって5日間休んでいるあいだに、藺相如は部下に壁を持たせて、趙へと持ち帰らせました。

こうして藺相如は璧をまっとうしました。
藺相如の怒りを表現した「怒髪天を衝く」もまた、ことわざのひとつとして現代に残っています。

『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その2

『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その2

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趙と秦の和睦会談

その後、趙と秦は戦争になり、やがて和睦が結ばれることになりました。
両国の王が直接会談することになりましたが、趙王はおそれて、なかなか腰をあげません。
そこで廉頗と藺相如が説得して、ようやく趙王は会談場所へと旅立ちました。

途中まで見送った廉頗は王に言います。
「王よ、行きなされ。
道のりを計算すると、会談が終わって帰るまでに30日はかかりますまい。
もし30日経ってご帰還なきときは、わしが太子を王位につけて、秦の野望を打ち砕いてみせましょう」。
趙王はこれを良しとして、藺相如とともに会談場所に向かいました。

ふたりの王の会見はすぐに宴会となりました。
酒宴の最中、秦の昭王は趙王にたいして、あなたは音楽が好きと聞いている、ひとつ弦楽器を弾いてくださらんかと言います。
趙王が弾いてみせると、秦の記録係が「何年何月何日、秦王は趙王に弦を弾かす」と書きとめました。
すると今度は藺相如が昭王にたいして「秦王は歌がお上手とのこと」と言って、たたいてリズムをとるための酒の土器を差し出しました。

昭王がだまっていると、藺相如は「わたしと大王とは、5歩と離れておりません。
わたしの首の血を大王に注ぎかけてみせましょうか」と告げます。
昭王の側近が斬りかかろうとしますが、藺相如がカッと目をひらき恫喝したため、皆すくんでしまいました。
そこで昭王はしかたなく一度だけ土器を打ちました。
藺相如はすかさず記録係を呼んで、「何年何月何日、趙王のために秦王が土器を打つ」と書きとめさせました。

「刎頸の交わり」となった二人

こうした功績によって、藺相如の名声はますます高まりました。
趙第一の武将である廉頗にはこれがおもしろくありません。
「わしは数々の武功を上げた、しかし藺相如は口先だけの働きでわしより上の位におる、がまんできん、やつと会ったら必ず恥をかかせてやる」と吹聴しました。

これを伝え聞いた藺相如はそれから廉頗を避けるようになりました。
とおくに廉頗を見かけると横道に隠れたりしました。
藺相如の部下たちは君主の姿をみて情けなく思い、とがめます。
すると藺相如は言いました、「あの強大なる秦が趙を攻めないのは、廉頗将軍とわたしの二人を恐れてのことだ、もし二人が争えばどちらかが倒れるだろう、わたしの行動はわたし自身の意地よりも、国家の大事を大切に思うからなのだ」と。

廉頗はこれを聞いて、すぐに藺相如のもとまで行きます。
そして、あなたのここまでの寛大さを知らなかったと言って謝罪しました。
こうしてこれ以降、二人は「刎頸(ふんけい)の交わり」となりました。
刎頸とは首をはねることで、たとえ相手のために首をはねられてもかまわないほどの深い友情をいいます。

「廉頗・藺相如列伝」の最後で、司馬遷はみずからの考えを述べています、「人は死を覚悟すれば必ず勇者となる、死ぬこと自体が難しいのではない、どのように死ぬかが難しいのだ」と。
そして藺相如こそ、勇気と知恵と兼ね備えた人物だったと評しました。

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